境内を掃除するかたわら遠雷に顔を上げると、鳥居の下に、雲を引き連れるように、人の姿があった。
記憶もないような頃からの馴染み。腰に刀を差してはいるけれど、その刀よりも目つきの方が鋭い男。
名前を呼びかけようとした。
「衣織、この、大馬鹿者め」
その前に言われた。久しぶりなのに挨拶もなしとは、相変わらずの粗雑さ。他の人に対しては生真面目と言っていいくらいに丁寧なくせに、衣織にだけこうだ。
そう来るなら遠慮はしない。
「千雀に馬鹿と言われる筋合いはない。皆が飢えて苦しんでるのに、士人様はどこで油売ってるの」
「ぐっ」
「生贄のことで心配してくれたんでしょうけど、別にありがたがったりしないから。名主様や士人様が緊急時のために充分な用意をしてくれていたら、私だって生贄にならずに済んだのよ」
申し訳なさそうな色が浮かぶけれど、すっとはしない。そもそも、千雀に対して怒ってだっていない。これだけ長く、広く病害が続けば、領家であっても打てる手が少ないことくらい分かっている。ただ苛立ちをぶつけただけだ。
このところずっと、何をしていても、胸の辺りが愚図つく。そのせいだ。
「……いや、ごめん。言い過ぎた。心配して来てくれたのでしょう。ありがとう」
謝ると、千雀は襟を正した。
「こちらこそすまない。出来る限り被害を減らそうと働いていたにも関わらず、他でもないお前が口減らしのために殺されたと知って、動揺していた」
ひとまず手打ち、と思ったけれど、千雀は鋭い目をさらに険しくした。思い切り顔をしかめると、舌鋒が飛んできた。今日の千雀は一際厳しい。
「ただし。抗いもせず俺に知らせもせずに殺されたことと、その後も廃神社なんぞで胡乱な暮らしをしていることについては、容認する気はない。何をやっているんだ貴様は。前々からぼんやりした女だとは思っていたが、まさか命までもぼんやり手放すとは思わなかったぞ。今の暮らしも、ほとんど命を捨てているも同然ではないか。何だその襤褸着は」
とてもうるさい。しかも、正しい指摘ばかりだから、こちらは「ごめんなさい」しか言えることがない。
どうして生贄になったか、今の暮らしを続けているかくらい聞きなさいよと思いつつ、口を挟む隙がないので、竹箒を握る手に力をこめる。
そんな、人として正しい生き方の指南を聞いている場合ではないのに。
遠ざかる蜘蛛様の背中を思い返す。
「逆だから。ここで命を拾ってもらったの」
口を挟む隙を待つのが面倒になって、いまだ続く説教を無理くり遮った。
「物の怪だ何だという話か」
「聞いているなら話が早い。助けてもらった。ここに居ていいって言ってもらった。私はもう、投げやりだからここに居る訳じゃない」
「そうは言っても、世捨て人の暮らしだろう。投げやりも同然だ。生贄の件については名主も含め是正させるが、人の感情までは動かせん。風当たりは強いだろう。真っ当な働き口があるか分からないし、嫁ぎ先はまずない」
嫁ぎ先と言われた瞬間、自分の中の迷いが、きっぱりとなくなった。自分が誰かに嫁ぐ未来が全く頭に浮かばなかった。
自分の胸につかえていた重いものを取り出して、腕に抱え込むような感覚があった。
「嫁がない。私、巫女になる。この神社をこのまま朽ちさせない。復興させる」
「何?」
彼らの知識を残すために、生贄を辞めて、生きることを決めた。蜘蜘蛛様のそばにいられなくても、気持ちに変わりはない――蜘蛛様の存在が大きくて、そう簡単には割り切れず、少し日々の暮らしに身が入らないけれど。
それでも、この地を守っていく。蜘蛛様が自分を墓石だと言うのなら、その前で祈り続ける。
唖然とした顔がしばらく続き、思わず少し笑ってしまう。その笑いをきっかけに千雀の顔の下で、めぐるましく思考が動き出すのが分かる。
どう説教されるか、言われる前から分かる。だから先に言う。
「稼ぎ口は確かに悩みの種ではある。他にも千雀が考えてる問題、たぶん一つも解決策は思いついてない。けど、神様に迷惑がられたって辞めない。決めました」
「やっぱり大馬鹿者じゃないか!」
「うん、そうね。けど、お屋敷にいた時よりも、真面目に生きてるつもり」
投げやりと言うなら、生贄にされた時が一番、そうだった。
それどころか、物心ついてからずっと自棄だったのかも知れない。意識したことはなかったけれど、いつも手の届く場所に、全てを投げ出す用意がしてあった気がする。
あの頃の心持ちと比べれば、全く違う。
「自暴自棄じゃなくて、一生懸命と言って」
「かける言葉がない……」
実際のところ自分でも無茶だとは思うけれど、気持ちは変わらなかった。開き直って笑っていると、ふと千雀は真面目な顔になった。
「蜘蛛は何と言っているんだ」
意表を突かれて、まじまじと見てしまう。凛代から聞いたのかと遅れて気づくものの、やはり不思議な心地だった。
「居る前提なんだ。目に見えないものは信じない方かと思ってた」
「事と次第による」
衣織よりも後ろ、恐らくは崩れかけた社に視線が向けた。衣織の話で信じるか信じないか変わりそうな、微妙な返事だ。
ひとまず答えようとするものの、言い淀む。しかし、凛代が来たあの日以降は、会えていない。
「蜘蛛様は、千雀を頼ったらどうだって――憐れなものだ、って」
その響きが聞いた瞬間と全く同じように耳によみがえり、瞬間的に怒りで頬が熱くなった。
「千雀が助けてくれるなら嬉しいけど、さっきも言った通り、辞めはしないから。憐れまれても、蜘蛛様と会うことがもうなくても、一人でやるから」
「……確かに、衣織がそう意地になるのは珍しいが。だが、恩返しなら、相手が求めてもいないことをしても、意味がないだろう」
「恩返しだけじゃない」
反射的に返した言葉に、自分自身で深く納得した。あの日以来、落ち込んではいたけれど、答えは揺らいでいない。
「――自分の恋のため。蜘蛛様に憧れたの。私は両親のことをほとんど忘れたけれど、蜘蛛様は今でも同胞を悼んでいる。美しくて尊くて――でも、一人で背負うにはあんまりにも苦しい道だと思う。だから私は蜘蛛様のそばで、信仰を守りたい。もし蜘蛛様が耐えられなくなる日が来るなら、私が受け継いでいきたい」
本心には違いないけれど、今抱えている怒りを表すのに、勢いが物足りない気がして、付け足した。
「つまり、私の都合。だから蜘蛛様の意志なんて関係ないの。大体、裏切られたんだから――歓迎するって言ったのに。この神社も私の好きにしてやろうかな! 像か何か作るとかさ!」
「身の程知らずが。食ろうてやろうか」
すると、ほぼ同時に二つのことが起きた。
低い囁きと共に、衣織の体は背後から腕の中に抱き込まれた。
鋼に光る刀の切っ先が、衣織の頭上に向かって突き出された。
「俺の面前では手は出させんぞ、蜘蛛。そいつは俺の預かりだ」
「雀風情が大きな顔をする。預かりをむざむざと他所の贄にされたのに、よくその面目保っていられるものだ」
一歩遅れて、衣織の手から離れた箒が、間抜けな音を立てて地面を叩く。
ぐいと両肩をつかまれて後ろに引っ張られた。刀と、悔しげな顔をした千雀が遠ざかる。
怒りを横に押しのけて、頭の中を、一つ、二つでは片付かない疑問符が舞っている。
だけれど、肩に置かれた手の力が強くなって、吐息が近づき、その疑問符すらも脇に追いやられた。
「猪の性に、犬の情を持った女だな。猪も犬も、己を食う者を慕う程に愚かではないが」
背後にいるせいで顔は見えない。ただ、声から強い感情が伝わってくる。言葉では貶されているようだけれど、それだけではないと感じる。少なくともきっとこの前のように立ち去られることはない。
苛立ちを吐き出してほんの少し軽くなった口から、ふっと言葉が転び出た。
「また会えて良かった」
安心したら改めて、怒りからまず心の中央に戻って来た。
「まだ気にしていらっしゃる。どうせ元生贄です。貴方に食われるのなら構いません。それより、私と生きる場合の話をしましょう」
「己は死者だ」
「いいえ。私が貴方の命です」
思い切って振り返ると、厳しい顔が見えた。内心、喉から心臓が出そうなくらいに緊張しながらも、蜘蛛様の両手をまとめてつかむ。形も感触も人のものであるのに、皮膚の下から人とは異なる気配がある。それが、寂しく、心を惹きつける。
「記憶と共に在るのでしょう。私が貴方を生かします」
舌打ちでもしたそうな顔が、触れそうな距離まで近づいて来た。固まっていると、頭に軽く頭突きをされた。
「……人の気も知らず、せっかく抜けた白羽の矢を、自らに突き立てるような真似を」
文句を言いかけた。けれど。
「己が失った友も明日も、その手にあると言うのに。何故捨てる」
己が失った、という言葉に、顔を横殴りにされるような思いがした。その視点から自分を見たことはなかった。凛代や千雀がいる場所に戻らず、立場のあやふやな廃神社で暮らそうとする衣織は、蜘蛛様には、酷く贅沢に見えているのかも知れない。
けれど、残念ながら屋敷にいる時には、衣織が生きたいと思うことはなかった。千雀とも付き合いは長いが、友人とは言い難い距離感がある。衣織の気持ちが変わることはない。
「ごめんなさい。けれど、私の幸せは、ここにしかないのです」
「ここにあるのは、墓と死者だけだ。墓に限りある命を費やすことが幸せだと、本当に思うか?」
「はい!」
沈黙の後、頭が離れたかと思えば、鼻をむぎゅっと抓まれた。
背後からも呆れた声がする。
「しばらく見ない間に貴様、父母の欠点を足して二で割ったような人物になったな」
何故、千雀が両親のことを知っているのか。よく聞かせてほしいと思ったが、今は後回し。
頭を振って鼻をつまむ指を外し、蜘蛛様を見上げた。
出会ったばかりの頃の蜘蛛様は無表情なことが多かったように思うけれど、今は憎々しげな様子を隠さない。
「実に憐れだ。輝かしい未来も其方を突き放す慈愛もない、裏切り者の墓守に」
「最後のは本当にひど」
話している途中に、手のひらで口を覆われた。
「すまない。もう喪いたくなかった」
手のひらはそのまま、蜘蛛様の視線は衣織の背後に向いた。
「雀。衣織は己の紫草として遇せよ。他は良きに計らえ」
「俺は貴様の遣いではない! しかもそいつを説得しに来たのだが?」
唐突に紫とは何だろう。不思議に思いながらも、自分に分からないようにわざと難しい言葉を使っている気配を感じたので、あえて聞かない。
振り返れば、刀は仕舞われて、苦虫を噛み潰したような顔だけがある。
「説得すればいい。徒花であれば手折るまでだ」
その言葉を最後に、蜘蛛様はひらっと消えた。
千雀は、これ以上険しくなったら鷹になってしまうというくらい、眉間の皺を深くした。
「一応言っておくと、説得されないよ」
「安心しろ。諦めた。俺の格で貴様を無事に取り戻すには、騒早か膝丸が必要だ」
「何? 何かの名前?」
くたびれたように首裏を揉みながら、千雀はため息をつく。
「まあ、実際、覇気のある顔をするようになった。そこまで言うのなら俺としては構わないのだが、しかし事情がある。放置という訳にもいかないんだ。便宜を図ってやるから、俺の仕事に協力しろ」
「事情? ……蜘蛛様が見えることとか、私の両親について知ってることと関係ある?」
千雀は地面に落ちた箒を拾い上げて、こちらへ手渡す。少し言いづらそうに見えるのは気のせいだろうか。
「俺は人間ではない。高天原に坐す御方に命じられ、貴様の母である胡蝶の守護の任に就いていた、遣いの者だ」
高天原――は知っている。神様が住んでいるところだ。
「胡蝶亡き今は御上意と胡蝶の遺言に従い、貴様の守護をしている」
「元々はお母さんの守り神で、今は私の守り神をしている? ってこと?」
「大体その理解でもいいだろう」
「私、生贄にされたけど」
幼馴染が人間ではないことよりも、気になったのはそこだった。守り神がついているにも関わらず、神様の生贄にされることは、よくあることなのだろうか。
千雀は気まずそうに目を逸らした。
「手を抜いていた訳ではないぞ。葦原の騒ぎで手を塞がれているところに儀式で隠されてしまっては、俺如きでは察知出来ないんだ」
「守り神って言っても、あんまり頼りにはならない感じなのね」
「不敬だぞ貴様。忘れさせていたが、父親亡き後、人買いに売られかけたところを引き取り、七つになるまで面倒を見てやったのは俺だ。ありがたく思え」
「そうだったんだ。それはありがとうだけど、実感はないな。守り神って感じもしないし」
「はぁ……」
呆れ切ったため息の後、千雀は懐かしむように笑った。
「面倒の少ない娘だと思っていたが、さすが胡蝶と李作の忘れ形見だ。特大の面倒事を引っ提げて来たな」
焦がれながらもどこか恐れていた過去が、千雀の中には生き生きと在るのを感じた。
「千雀は二人のこと、知ってるのね」
「ああ……。付き合いは長い。知りたいことでもあるか?」
叶うなら知りたいとは、はっきり願ったことはなくとも、心のどこかで思っていたはずだった。何か特定のことでなく、出来る限りの全てを。どんなものが好きだったか、どんな風に出会ったのか、何者であったのか。
「お母さんとお父さん、は」
すぐには言葉が続かない。
何にも興味を持てない人生の起点。自分の中にあった空洞の形。
もし、何か良くないことを知ってしまったら、自分の基準、拠り所、道徳観、守るべきもの、そういった、空っぽな自分を辛うじて人らしく見せていた輪郭がなくなってしまう気がする。
けれど、柔らかく頬を撫でる風が吹いた。大丈夫だと宥めるように。
「二人とも、こんな娘で泣かないかしら」
「泣くものか。天晴だと喜ぶ姿が目に浮かぶ」
他にも聞きたいことはあるけれど、今はこれで充分だと思った。
「覚えていてくれてありがとう、千雀」
落ち着いたらお墓参りに行こうと思う。無縁仏に近いような小さなお墓。手を合わせたって何にもない気がして、ほとんど行くことはなかったけれど、今なら話すことがある。
そこまで思い、自分の物忘れに気がついて、少し笑った。
そろそろ、迎え火を焚く頃だ。
記憶もないような頃からの馴染み。腰に刀を差してはいるけれど、その刀よりも目つきの方が鋭い男。
名前を呼びかけようとした。
「衣織、この、大馬鹿者め」
その前に言われた。久しぶりなのに挨拶もなしとは、相変わらずの粗雑さ。他の人に対しては生真面目と言っていいくらいに丁寧なくせに、衣織にだけこうだ。
そう来るなら遠慮はしない。
「千雀に馬鹿と言われる筋合いはない。皆が飢えて苦しんでるのに、士人様はどこで油売ってるの」
「ぐっ」
「生贄のことで心配してくれたんでしょうけど、別にありがたがったりしないから。名主様や士人様が緊急時のために充分な用意をしてくれていたら、私だって生贄にならずに済んだのよ」
申し訳なさそうな色が浮かぶけれど、すっとはしない。そもそも、千雀に対して怒ってだっていない。これだけ長く、広く病害が続けば、領家であっても打てる手が少ないことくらい分かっている。ただ苛立ちをぶつけただけだ。
このところずっと、何をしていても、胸の辺りが愚図つく。そのせいだ。
「……いや、ごめん。言い過ぎた。心配して来てくれたのでしょう。ありがとう」
謝ると、千雀は襟を正した。
「こちらこそすまない。出来る限り被害を減らそうと働いていたにも関わらず、他でもないお前が口減らしのために殺されたと知って、動揺していた」
ひとまず手打ち、と思ったけれど、千雀は鋭い目をさらに険しくした。思い切り顔をしかめると、舌鋒が飛んできた。今日の千雀は一際厳しい。
「ただし。抗いもせず俺に知らせもせずに殺されたことと、その後も廃神社なんぞで胡乱な暮らしをしていることについては、容認する気はない。何をやっているんだ貴様は。前々からぼんやりした女だとは思っていたが、まさか命までもぼんやり手放すとは思わなかったぞ。今の暮らしも、ほとんど命を捨てているも同然ではないか。何だその襤褸着は」
とてもうるさい。しかも、正しい指摘ばかりだから、こちらは「ごめんなさい」しか言えることがない。
どうして生贄になったか、今の暮らしを続けているかくらい聞きなさいよと思いつつ、口を挟む隙がないので、竹箒を握る手に力をこめる。
そんな、人として正しい生き方の指南を聞いている場合ではないのに。
遠ざかる蜘蛛様の背中を思い返す。
「逆だから。ここで命を拾ってもらったの」
口を挟む隙を待つのが面倒になって、いまだ続く説教を無理くり遮った。
「物の怪だ何だという話か」
「聞いているなら話が早い。助けてもらった。ここに居ていいって言ってもらった。私はもう、投げやりだからここに居る訳じゃない」
「そうは言っても、世捨て人の暮らしだろう。投げやりも同然だ。生贄の件については名主も含め是正させるが、人の感情までは動かせん。風当たりは強いだろう。真っ当な働き口があるか分からないし、嫁ぎ先はまずない」
嫁ぎ先と言われた瞬間、自分の中の迷いが、きっぱりとなくなった。自分が誰かに嫁ぐ未来が全く頭に浮かばなかった。
自分の胸につかえていた重いものを取り出して、腕に抱え込むような感覚があった。
「嫁がない。私、巫女になる。この神社をこのまま朽ちさせない。復興させる」
「何?」
彼らの知識を残すために、生贄を辞めて、生きることを決めた。蜘蜘蛛様のそばにいられなくても、気持ちに変わりはない――蜘蛛様の存在が大きくて、そう簡単には割り切れず、少し日々の暮らしに身が入らないけれど。
それでも、この地を守っていく。蜘蛛様が自分を墓石だと言うのなら、その前で祈り続ける。
唖然とした顔がしばらく続き、思わず少し笑ってしまう。その笑いをきっかけに千雀の顔の下で、めぐるましく思考が動き出すのが分かる。
どう説教されるか、言われる前から分かる。だから先に言う。
「稼ぎ口は確かに悩みの種ではある。他にも千雀が考えてる問題、たぶん一つも解決策は思いついてない。けど、神様に迷惑がられたって辞めない。決めました」
「やっぱり大馬鹿者じゃないか!」
「うん、そうね。けど、お屋敷にいた時よりも、真面目に生きてるつもり」
投げやりと言うなら、生贄にされた時が一番、そうだった。
それどころか、物心ついてからずっと自棄だったのかも知れない。意識したことはなかったけれど、いつも手の届く場所に、全てを投げ出す用意がしてあった気がする。
あの頃の心持ちと比べれば、全く違う。
「自暴自棄じゃなくて、一生懸命と言って」
「かける言葉がない……」
実際のところ自分でも無茶だとは思うけれど、気持ちは変わらなかった。開き直って笑っていると、ふと千雀は真面目な顔になった。
「蜘蛛は何と言っているんだ」
意表を突かれて、まじまじと見てしまう。凛代から聞いたのかと遅れて気づくものの、やはり不思議な心地だった。
「居る前提なんだ。目に見えないものは信じない方かと思ってた」
「事と次第による」
衣織よりも後ろ、恐らくは崩れかけた社に視線が向けた。衣織の話で信じるか信じないか変わりそうな、微妙な返事だ。
ひとまず答えようとするものの、言い淀む。しかし、凛代が来たあの日以降は、会えていない。
「蜘蛛様は、千雀を頼ったらどうだって――憐れなものだ、って」
その響きが聞いた瞬間と全く同じように耳によみがえり、瞬間的に怒りで頬が熱くなった。
「千雀が助けてくれるなら嬉しいけど、さっきも言った通り、辞めはしないから。憐れまれても、蜘蛛様と会うことがもうなくても、一人でやるから」
「……確かに、衣織がそう意地になるのは珍しいが。だが、恩返しなら、相手が求めてもいないことをしても、意味がないだろう」
「恩返しだけじゃない」
反射的に返した言葉に、自分自身で深く納得した。あの日以来、落ち込んではいたけれど、答えは揺らいでいない。
「――自分の恋のため。蜘蛛様に憧れたの。私は両親のことをほとんど忘れたけれど、蜘蛛様は今でも同胞を悼んでいる。美しくて尊くて――でも、一人で背負うにはあんまりにも苦しい道だと思う。だから私は蜘蛛様のそばで、信仰を守りたい。もし蜘蛛様が耐えられなくなる日が来るなら、私が受け継いでいきたい」
本心には違いないけれど、今抱えている怒りを表すのに、勢いが物足りない気がして、付け足した。
「つまり、私の都合。だから蜘蛛様の意志なんて関係ないの。大体、裏切られたんだから――歓迎するって言ったのに。この神社も私の好きにしてやろうかな! 像か何か作るとかさ!」
「身の程知らずが。食ろうてやろうか」
すると、ほぼ同時に二つのことが起きた。
低い囁きと共に、衣織の体は背後から腕の中に抱き込まれた。
鋼に光る刀の切っ先が、衣織の頭上に向かって突き出された。
「俺の面前では手は出させんぞ、蜘蛛。そいつは俺の預かりだ」
「雀風情が大きな顔をする。預かりをむざむざと他所の贄にされたのに、よくその面目保っていられるものだ」
一歩遅れて、衣織の手から離れた箒が、間抜けな音を立てて地面を叩く。
ぐいと両肩をつかまれて後ろに引っ張られた。刀と、悔しげな顔をした千雀が遠ざかる。
怒りを横に押しのけて、頭の中を、一つ、二つでは片付かない疑問符が舞っている。
だけれど、肩に置かれた手の力が強くなって、吐息が近づき、その疑問符すらも脇に追いやられた。
「猪の性に、犬の情を持った女だな。猪も犬も、己を食う者を慕う程に愚かではないが」
背後にいるせいで顔は見えない。ただ、声から強い感情が伝わってくる。言葉では貶されているようだけれど、それだけではないと感じる。少なくともきっとこの前のように立ち去られることはない。
苛立ちを吐き出してほんの少し軽くなった口から、ふっと言葉が転び出た。
「また会えて良かった」
安心したら改めて、怒りからまず心の中央に戻って来た。
「まだ気にしていらっしゃる。どうせ元生贄です。貴方に食われるのなら構いません。それより、私と生きる場合の話をしましょう」
「己は死者だ」
「いいえ。私が貴方の命です」
思い切って振り返ると、厳しい顔が見えた。内心、喉から心臓が出そうなくらいに緊張しながらも、蜘蛛様の両手をまとめてつかむ。形も感触も人のものであるのに、皮膚の下から人とは異なる気配がある。それが、寂しく、心を惹きつける。
「記憶と共に在るのでしょう。私が貴方を生かします」
舌打ちでもしたそうな顔が、触れそうな距離まで近づいて来た。固まっていると、頭に軽く頭突きをされた。
「……人の気も知らず、せっかく抜けた白羽の矢を、自らに突き立てるような真似を」
文句を言いかけた。けれど。
「己が失った友も明日も、その手にあると言うのに。何故捨てる」
己が失った、という言葉に、顔を横殴りにされるような思いがした。その視点から自分を見たことはなかった。凛代や千雀がいる場所に戻らず、立場のあやふやな廃神社で暮らそうとする衣織は、蜘蛛様には、酷く贅沢に見えているのかも知れない。
けれど、残念ながら屋敷にいる時には、衣織が生きたいと思うことはなかった。千雀とも付き合いは長いが、友人とは言い難い距離感がある。衣織の気持ちが変わることはない。
「ごめんなさい。けれど、私の幸せは、ここにしかないのです」
「ここにあるのは、墓と死者だけだ。墓に限りある命を費やすことが幸せだと、本当に思うか?」
「はい!」
沈黙の後、頭が離れたかと思えば、鼻をむぎゅっと抓まれた。
背後からも呆れた声がする。
「しばらく見ない間に貴様、父母の欠点を足して二で割ったような人物になったな」
何故、千雀が両親のことを知っているのか。よく聞かせてほしいと思ったが、今は後回し。
頭を振って鼻をつまむ指を外し、蜘蛛様を見上げた。
出会ったばかりの頃の蜘蛛様は無表情なことが多かったように思うけれど、今は憎々しげな様子を隠さない。
「実に憐れだ。輝かしい未来も其方を突き放す慈愛もない、裏切り者の墓守に」
「最後のは本当にひど」
話している途中に、手のひらで口を覆われた。
「すまない。もう喪いたくなかった」
手のひらはそのまま、蜘蛛様の視線は衣織の背後に向いた。
「雀。衣織は己の紫草として遇せよ。他は良きに計らえ」
「俺は貴様の遣いではない! しかもそいつを説得しに来たのだが?」
唐突に紫とは何だろう。不思議に思いながらも、自分に分からないようにわざと難しい言葉を使っている気配を感じたので、あえて聞かない。
振り返れば、刀は仕舞われて、苦虫を噛み潰したような顔だけがある。
「説得すればいい。徒花であれば手折るまでだ」
その言葉を最後に、蜘蛛様はひらっと消えた。
千雀は、これ以上険しくなったら鷹になってしまうというくらい、眉間の皺を深くした。
「一応言っておくと、説得されないよ」
「安心しろ。諦めた。俺の格で貴様を無事に取り戻すには、騒早か膝丸が必要だ」
「何? 何かの名前?」
くたびれたように首裏を揉みながら、千雀はため息をつく。
「まあ、実際、覇気のある顔をするようになった。そこまで言うのなら俺としては構わないのだが、しかし事情がある。放置という訳にもいかないんだ。便宜を図ってやるから、俺の仕事に協力しろ」
「事情? ……蜘蛛様が見えることとか、私の両親について知ってることと関係ある?」
千雀は地面に落ちた箒を拾い上げて、こちらへ手渡す。少し言いづらそうに見えるのは気のせいだろうか。
「俺は人間ではない。高天原に坐す御方に命じられ、貴様の母である胡蝶の守護の任に就いていた、遣いの者だ」
高天原――は知っている。神様が住んでいるところだ。
「胡蝶亡き今は御上意と胡蝶の遺言に従い、貴様の守護をしている」
「元々はお母さんの守り神で、今は私の守り神をしている? ってこと?」
「大体その理解でもいいだろう」
「私、生贄にされたけど」
幼馴染が人間ではないことよりも、気になったのはそこだった。守り神がついているにも関わらず、神様の生贄にされることは、よくあることなのだろうか。
千雀は気まずそうに目を逸らした。
「手を抜いていた訳ではないぞ。葦原の騒ぎで手を塞がれているところに儀式で隠されてしまっては、俺如きでは察知出来ないんだ」
「守り神って言っても、あんまり頼りにはならない感じなのね」
「不敬だぞ貴様。忘れさせていたが、父親亡き後、人買いに売られかけたところを引き取り、七つになるまで面倒を見てやったのは俺だ。ありがたく思え」
「そうだったんだ。それはありがとうだけど、実感はないな。守り神って感じもしないし」
「はぁ……」
呆れ切ったため息の後、千雀は懐かしむように笑った。
「面倒の少ない娘だと思っていたが、さすが胡蝶と李作の忘れ形見だ。特大の面倒事を引っ提げて来たな」
焦がれながらもどこか恐れていた過去が、千雀の中には生き生きと在るのを感じた。
「千雀は二人のこと、知ってるのね」
「ああ……。付き合いは長い。知りたいことでもあるか?」
叶うなら知りたいとは、はっきり願ったことはなくとも、心のどこかで思っていたはずだった。何か特定のことでなく、出来る限りの全てを。どんなものが好きだったか、どんな風に出会ったのか、何者であったのか。
「お母さんとお父さん、は」
すぐには言葉が続かない。
何にも興味を持てない人生の起点。自分の中にあった空洞の形。
もし、何か良くないことを知ってしまったら、自分の基準、拠り所、道徳観、守るべきもの、そういった、空っぽな自分を辛うじて人らしく見せていた輪郭がなくなってしまう気がする。
けれど、柔らかく頬を撫でる風が吹いた。大丈夫だと宥めるように。
「二人とも、こんな娘で泣かないかしら」
「泣くものか。天晴だと喜ぶ姿が目に浮かぶ」
他にも聞きたいことはあるけれど、今はこれで充分だと思った。
「覚えていてくれてありがとう、千雀」
落ち着いたらお墓参りに行こうと思う。無縁仏に近いような小さなお墓。手を合わせたって何にもない気がして、ほとんど行くことはなかったけれど、今なら話すことがある。
そこまで思い、自分の物忘れに気がついて、少し笑った。
そろそろ、迎え火を焚く頃だ。

