まばたきをした次の瞬間、凛代が下りていく階段の途中に、蜘蛛様は立っていた。笹の群れがそよぐような自然さ。思わず「あ」と声を上げかけたけれど、口の前に立てた人差し指に黙らせられた。
凛代は蜘蛛様のすぐ隣を、顔を向けることもなく下りていく。凛代を見送りながら、何故、と目で蜘蛛様に問いかけるけれど、蜘蛛様は当然という顔をした。よし怒ろうと、少しだけ決意が強くなった。
階段なんて使わなくても上れるだろうに、わざわざ一段一段、地面を確かめるように上がってくる。
近づいてくるに連れて、動悸がしてきた。
心臓を抑え込むように腕を組む。それでも落ち着かなくて、目が泳ぐ。
「何だ、恋煩いか?」
口からではなく、喉から声が出た。
凛代との会話を聞いていたのだろう。それ自体は不思議でも何でもないし、置いた覚えのない干し肉が凛代に渡す荷物に混じっていた時点で、分かっていたことではある。だが、だからって何もかも承知出来るかと言えばそれは否。
「その話はともかく」
強制的に打ち切ると、横から忍び笑いが聞こえた。
下界を睥睨する仙人のような横顔をちらっとだけにらんでから、気を取り直して問いかけた。
「凛代さんには……見えていないんですか? もしかして」
今この時、この神社の階段に人がいたら、目を向けずにはいられない。それがなかった。考えられる理由は一つだ。そもそも、見えていない。幽霊のように。
蜘蛛様の答えは肯定だった。
「己の姿が誰にも見えるものならば、其方が現れるより前に騒ぎになるだろう」
言われてみればその通り。我ながら間抜けだ。だけれど、いくらか仕方がないところはあると弁解させてほしい。自分は単なる下女であって、今までに神や霊感などには一切縁がなかったのだ。自分に見えるものは他人にも見えるのが当然だと、誰だって思うだろう。
「何故、私には見えるのでしょう」
「誰にも見えぬということもない。獣には見える。修験者や神官にはたまに、見えていそうな素振りをする者がいる。其方も一応、儀式を経た身だ。通ずるところがあるのではないか」
「じゃあ、みんなが儀式を受ければ、蜘蛛様の言葉がみんなに届くようになるのでは」
「罰当たりな。止めておけ。神はいないと決まった訳でもない」
もっともだったのでうなずく。そもそも実現不可能だろう。
何となく、会話が途切れた。
ぐっと肩に重圧を感じる。
帰ってきた直後は、自分が蜘蛛様を取って、村を捨てたという決断が改めてのしかかり、酷い気分だったが、それは凛代と話したことで少し良くなった。ただ、全体として上手くいったとは言い切れず、その負い目はまだある。
しかも、ここ数日は平たく言えば、蜘蛛様に無視されていた。理由は正確には分からないけれど、ただでさえ落ち込んでいたところだったから、心に来た。
それでも、伝えなければ。頑張って背を伸ばして蜘蛛様を見る。一人で見るには惜しいその姿。
「帰り、ました。報告が遅れて申し訳ございません。生贄を辞めることを伝えて来ました。ただ、お聞きの通り、完全にけりを付けたとは言い難くて……大手を振って村を歩くのは、まだ難しい状況です。また、恐らくですがその騒ぎの関係で、ここに千雀という私の幼馴染が来るそうです」
「前に親しい者を聞いた時、挙げていた人物か」
「はい。何の話をしに来るんだか、分かりませんが……」
しばらくは疎遠だったし、今は正直、会いたくはない。この村の現状は、千雀の属する一族も含めた上の人々が、充分な備蓄や病害を想定した作付けが出来ていなかったことも原因の一つだと衣織は思っている。親しい知り合いだからこそ、どういう顔をしたらいいか分からない。
「千雀のことは、蜘蛛様の障りにならないようにします。それで、これからのことですが」
ひとまず、生きていることを示すことは出来た。凛代が言っていた山狩りなどの不安要素はあるが、生き続けるしかない。生活の活計を立てていく方法を模索しながら。
そして、生贄でなくなったからには、生贄以外で蜘蛛様たちのために出来ることも探さなければ。少しだけやりたいことはあるけれど、やりますと言い切れる程の自信はまだない。
考えていたところに、水を差された。
「千雀という者に頼ったらどうだ。あの口ぶりからして、今よりは良い生活が望めるのではないか」
「……何をしに来るか、まだ分かりませんから。直接関わってはいないだろうけど、立場としては私を生贄にした側ですし。村の揉め事は、弱い方をとっちめた方が話が早いですし」
「あの気骨のある娘の見立てなら、そう外れもしまい」
「でも……。千雀は、私一人じゃなくて、村全員を助けるべき立場の人間です。良くないと思います」
「それを考えるのは、その立場にいる当人だ。慈悲に預かる側が気にすることではない」
誤魔化されているし、自分も誤魔化している。
心臓がうるさく鳴る。
あると伝えなければ、なかったことにされてしまう。応えて欲しいとまでは言わない。せめて、誠意のない言葉で、願いを挫かれたくない。
「千雀に頼るのだとしても……住む場所はここがいいです。蜘蛛様のおそばにいたいです」
隣にあったはずの姿が、ふっと消えていた。
「蜘蛛様、に、逃げないでください!」
ざり、と石畳を擦る足音がした。
振り返ると、土から這い出た日からずっと心で追いかけ続けていた背中があった。近づこうとすると、木の葉が風に吹かれたように、ちょうど手が届かない距離分遠ざかる。
「逃げないでと言っているのに」
「言葉で済ませろ。また傷つけられたいか?」
「やっぱりあれが理由ですか」
屋敷に戻る前に蜘蛛様は、自分が偶然に衣織の手につけてしまった傷から出た血を啜り、その傷を広げようとした。
小さな小さな傷だったけれど、そういう問題ではないと蜘蛛様は言うだろう。あの時は衣織も確かに、食われると感じた。
けれど些細なことだ。
「今までだって月に一度は血を流していましたけど、どこからか持って来た布を寄越すだけ寄越して、他は何もなさらなかったじゃないですか。たった一度のことより、私は普段を信じます」
「その一度で命を落とせば二度目はない」
「貴方は命を取る前に止めました」
「次は分からん」
埒が明かない。もどかしさでつい、口が滑った。
「次は分からないなんてそんなの、誰でも同じことです。私、村に行った時、旦那様に首を絞められました。ただの人間でも、貴方より危険なことはあります」
離れていたはずの手が距離を無視してすうっと伸びてきて、首に巻いていた布切れを解いた。かなり薄れてきたが、まだ少し内出血の黄色みが残っている。心配させるから隠しておいたのだけれど、言ってしまった。蜘蛛様が分からず屋なせいだ。
無言のまま、頭に手が置かれた。顔を上げられないせいで、表情が分からない。手のひらは頭を押さえつけるように重く、褒めるでも慈しむでもない感情を伝えてくる。
「……憐れなものだ」
「何がです」
問いへの答えはなかった。手が離れそうになって、慌ててつかみ取った。
これ程までに頑ななのは、小さな引っかき傷一つが理由ではない。卒然として悟った。明かされない理由もまた、泡のようにふっと口に上った。
「恋をしてはいけないのですか」
つかんでいた手はかき消えた。その姿もまた、陽射しに追いつかれた影のように失われた。
「墓石に何を馬鹿なことを」
声だけを残して。

