蜘蛛網に白羽の矢【木土19時更新】


 台石(だいいし)の砕けた鳥居、蜘蛛の網が張った古ぼけた社。その背後に鬱蒼とした木々。廃神社と言われても不思議には思わない。
 薄気味悪さを感じながらも、凛代はどこへともなく呼びかけた。

「ねえ、衣織。いる? 衣織ー」

 顔を隠すための頬かむりを取っていると、社のかたわらにちんまりあった社務所の扉がぱたんと勢いよく開いた。あぁ良かったとほっとするけれど、その顔を見て、また少し不安になった。

「あんた、何て姿してんのさ。髪はぼさぼさだし、くまもすごいし。前会った時より酷くなってない?」
「凛代さん、大丈夫だった!? ばれて折檻(せっかん)受けたりしてない!?」

 感心よりも、呆れが来た。

「何、私のことを心配してその体たらくなの? 心配なら、むしろ自分が元気でいなさいよ。首の痕は? 残ってない?」

 首に巻かれた、どこかから拾ってきたような小汚い布切れのせいで分からない。全体的に酷い身なりなのに、何を首だけは念入りに隠しているのだか。
 衣織は人の話をあんまり聞いていなさそうに、おろおろと謝っている。自分より他人を優先するのはこの子の長所であり、欠点だ。生贄にまでなったらさすがに変わるかと思ったが、相変わらず。
 ここで一つ一つ説明するのは面倒なので、勝手に衣織の出てきた社務所に上がり込む。こちらもぼろいけれど、神社ほどではなさそう。台所もあるようだ。
 入ってすぐのところに生活感のある広間があった。勝手に座って、持ってきた風呂敷を机に広げる。
 同僚たちから預かってきた、服や、塩などの調味料、その他生活に必要そうなもの。食べ物はあまり入れられなかった。
 思っていたよりはましな暮らしをしていそうに見えたけれど、衣織は叫ぶように「ありがとう!」と喜んだ。
 けれど、すぐに。

「いいの? みんな大丈夫? ご飯、全然ないんじゃ」
「……生贄にされたくせに、よくそのままでいられるね」

 他人を優先する割に、その勘所が少しずれているのも、相変わらず。まあこればっかりは仕方がないのかも知れないけれど。
 自分を生贄にした奴らの、生贄にした後の感情なんて、想像する義理もない。
 衣織がいなくなってからの屋敷は、酷い空気だった。
 日々の食事が少なくなるのと比例するように、空気の重たさも増していった。
 衣織を犠牲にしたのに、何も変わらない。
 衣織がいなくなってから、奥様のいびりが自分にも向くようになった。
 衣織が知らないうちにしてくれていた仕事をする人がいなくなって、手間が増えた。
 私たちは、人を見殺しにした。
 凛代が見たところ半分以上が自分勝手な理由ではあるけれど、衣織に謝りたいという気持ちは、皆に共通していた。
 凛代自身、深く後悔していた。

「受け取っておいてよ。お詫びなんだから」

 衣織は不思議そうな顔をする。恨んでもおかしくないのにこいつは、と先日のことを思い出して、苦笑いした。畑仕事をしている最中、急に耳元で死んだはずの衣織の声が聞こえた時、こっちはてっきり、衣織が呪い殺しに来たのだと思ったのに。

「見殺しにしたんだなってさ、皆、落ち込んで、あんたがいなくなってからずっと謝ってた。届きもしないのに。私もさぁ……ああ、やだやだ。あの空気」
「え、でも、凛代さんは逃げろって言ってくれたじゃない。他のみんなだって、次は自分の番かもって思ったら、何も言えないのは仕方ない」
「理屈じゃないの」
「それに、私が生贄にならなかったせいで、みんな痩せて……」

 生贄を辞めたと言うから、やっと人並みに自分を大切にするようになったのかと思ったのに、まだくよくよしている。

「その理由であんたを責められるのは、自分が生贄になってもいいって奴だけ。大体、そんな儀式がこの村にあったなんて聞いたことない。あんたのせいじゃない」

 暗い表情で、衣織は肯定も否定もしなかった。今のこの痩せた輪郭で励ましても強がりにしか聞こえないだろうと、頬を抑えて顔をしかめる。

「と言うかあんた、自分の食べ物はどうしてるの?」

 話題を変えたけれど、それにも衣織は微妙な顔をした。

「山の、野草とかを食べてる」
「へえー! あんたにそんな知識あったんだ」
「いや、なかったけど、教えて……もらって」
「誰に?」

 どう言おうか考えている顔。疑いはあるものの、一つ候補は思い浮かぶ。

「もしかして、神様? あんた、あれって本気で言ってたの?」
「神様っていうのは、ちょっと違うけど」
「じゃあ何だっての。やっぱり物の怪? 旦那様が、衣織が物の怪に(たぶら)かされたって騒いでたよ。山狩りも考えてるらしいけど」
「山狩り?」

 衣織は青ざめる。探られたくない腹はあるらしい。

「ま、山狩りどころか衣織のことを探す余裕もないし、言ってるだけだと思うけど。一応気をつけて」

 実際、居るかも分からないもののために山狩りは無理だろう。そんな余裕があったら生贄の儀式などしない。けれどこの子は、自分のことをどうでもいいと思う分だけ警戒心が薄いから、注意を煽っておくに越したことはない。
 ただ、神様だか物の怪だかだって、本当に大丈夫なものなのかと、凛代も心配ではあるのだけれど。

「はぁ……」

 反応を窺っていると、衣織は怒気のこもったため息をついた。
 新鮮な反応だった。
 自分が生贄にされると分かった時も怒らなかったくせに。

「……嫌だなぁ」

 机に肘を置いて、衣織は思い切り眉を寄せた。それもあの屋敷では見たことのない顔だった。

「ひとまず、当面の危険はないんじゃない?」
「そこはいいの。いや良くないけど、そっちじゃなくて。大切な人たちが見くびられて、訂正も出来ないのが……。あの人、自分たちに都合が良ければ神様で、都合が悪ければ物の怪って言うんだろうね。お父さんのことも物の怪扱いだった。何なのかしら」

 さっきまで相変わらずだと呆れてばかりいたけれど、横顔を見ながら、変化を感じていた。

「あんたが怒るなんて珍しい。その、人? 大事なのね」
「大事よ。土の中から私を助けてくれたのは、本当」

 あのおかしな蓑といい、いよいよ何者だという気がしてくるけれど、衣織の表情を見ると、疑いを差し挟むのは難しかった。

「他にもたくさん助けてくれた……それだけじゃなくて。私にも出来ることがあるかも知れないって、希望もくれた。神様ではなくても、私にとっては、神様よりも大切な人」

 ――人と衣織の悪口を言う時にはよく、衣織には大切なものがないから、という落ちで締めていた。
 実際のところは分からない。彼女なりに何かあったのかも知れない。けれど、振る舞いがそう見える。
 例えば仕事では、真面目にこなしはするけれど、やり甲斐も給料も、下手すれば衣食住すらも大切だとは思っていないから、どこか熱が入らない。本人は意識していないけれど、その浮ついた雰囲気が、周囲の反感を買ってしまう。
 普段の生活でだってそう。罰を与えられても苦痛に順応し、嫌われても好かれようとせず、奪われても少し落ち込むだけ。嫌がらせのしがいがない――裏返せば、喜ばせがいもない。褒められても必要以上の努力はせず、好かれても特別扱いはせず、与えられても困るだけ。当然、自分や大切なもののために怒る熱意なんか持たない。
 役立たず愚鈍無駄飯食らい。周囲から散々な言葉をかけられてばかりで、本人もそう思い込んでいるようだけれど、実はそれは核心ではない。いくら役に立っても駄目。衣織の一番の欠点であり、悪印象を与える原因は、大切なもののなさ。

「そもそも、私のことがなくたって、尊重されるべき方なんだけどね……。どうしても神様じゃなきゃいけないんなら、西の菅原様みたいな感じで駄目かしら。あの方、人から神様になったでしょう」
「……はあ、なるほど」

 それがこの通り。何言ってんの。
 呆気に取られながらも、その様子に既視感を覚えて記憶を探り、思い出した。衣織ではないけれど、この浮かれ具合と饒舌さは、女同士でいると、時々見かけることがある。

「好きなのね、その人のこと」
「もちろん」

 気の抜けた返事にじっと衣織を見つめるけれど、凛代の言った意味を正確には理解していなさそうだった。
 実際のところ、単なる好意とも言い切れないのかも知れない。けれど……。はあ、と内心ため息をつきながら顔をしかめる。出来事と相手が特殊過ぎて判断がつかない。

「うーん……その人、会ってみたいんだけど。会えないの?」
「え」

 悩ましげにしばらく腕を組んでいたけれど、結局衣織は小さく、誰かに呼びかけるような声を上げた。相手は「くも様」という名らしい。神様よりは物の怪っぽい名前だ。
 しかし、誰も現れない。衣織は不安そうに眉を寄せながらも納得してもいるような、奇妙な顔で腕を組んだ。

「……色々と事情があって」
「何、無理? まあ仕方ないか。向こうからしたら、旦那様の手先じゃないとも限らないんだしね」
「え、あ、そっか。その可能性もあるのかな。そこは大丈夫ですからね、蜘蛛様。と言うか紹介もしてなかった。以前話した同僚の、凛代さんです」

 くも様がどういう人物か知らないけれど、衣織の言葉だけでは信用しないのではないか。実際、今は良くても、後々手先にならないとは言い切れない。仕事や食事を交換条件にされたり、神主や名主様に命じられたりすれば、さすがに凛代も逆らえない。
 会えないのは残念だけれど、ひとまず、衣織を殺されかねない場に出しておきながら、自分は出て来ないという人物であることは分かった。

「ねえ、さっき呼びかけてたけど、話は聞いてるの?」
「たぶん」
「微妙な返事ね。まあ、いいか。もし聞いてなかったら、伝言しておいて」

 当面の危険はない、とは言ったものの、いつまでこの状況が続くかは誰にも分からない。明日不意に、薄氷が割れるように呆気なく、衣織は今度こそ失われるのかも知れない。それはきっと前以上に寝覚めが悪いだろう。
 せっかく、生贄になるのに否も言わなかった子が、恋をしたのに。

「くも様。この娘は、身寄りなく、明日も不安定な子です。抜けたところもありますけれど、死ぬ程の欠点ではありませんから、どうか良き計らいを」
「伝言し辛いよ」
「ただ……」

 後半には、少し、声に力がこもってしまう。

「もしお邪魔であるなら、今度、千雀(ちどり)という者が参りますので、そちらにご相談ください。領家からの信頼も厚い士人の次男で、衣織の幼馴染。信頼のおける人物です。よろしくお願い申し上げます」
「え、千雀が? 何で? そう言えば、前も見かけたけど」
「あれは偶然いらしてたから声をかけたけど。ここに来る理由は知らないわ。本人に聞いて」

 彼と関わりがあるのは衣織であって、凛代は千雀様をよく知らない。下女に過ぎないはずの衣織が、一体どういうきっかけで士人と幼馴染となり、何故これだけ目をかけてもらえるのかも、いまだに不明だ。
 ただ、身分の確かさは、くも様とは比べようがない。人柄に関しても申し分ない。次男というある種の自由さも相まって、衣織の危うい立ち位置を支えるには、これ以上ない人物だ。
 だと言うのに、衣織は不安げに目をまたたかせる。

「何、千雀様、嫌なの? 旦那様と違っていい方じゃない」
「嫌ではないけど。昔から知り合いな分だけ、何か、ね」

 凛代の知る限りでも、多少はその不安の理由が分かる。千雀様は良くも悪くもきっぱりとした方だから、今の状況を放っては置かないだろう。そして後ろ盾のない衣織はその手助けに何も対抗出来ない。千雀様の預りになれば安泰だろうから、別に対抗しなくてもいいのだけど、その場合、恐らく恋は終わる。
 恋を失ったらまた、命を軽く打ち捨てる衣織に戻ってしまわないか。そういう不安があるけれど、相手も分からない現状では凛代も、両手を上げては応援できない。
 考えているうちに、腹が立ってきた。

「煮え切らない態度。嫌なら嫌って言わないと、同じことの繰り返しじゃない?」

 衣織の目が細められた。
 弱々しい声が、社務所にぽとんと、頼りなく落ちた。

「もしかしたら、嫌でも何でも、千雀のところに行った方がいいのかも。……蜘蛛様としばらく、会えてなくて。前は呼びかけたらいらしてくださったんだけど」

 いやでも私も合わせる顔がなくて、そんなに呼んではないのだけど。言い訳がましく付け足して、衣織は腕を組んだ。

「何そいつ。あんた、大変な目に遭ったのに」
「蜘蛛様には伝えてないから」
「屋敷に行ったことくらい知ってるでしょ。どうだったか聞きもしないような人なの?」
「いや……でも、私の気持ちを汲んでくれてるのかも。正直、何もかも上手くいったとは言えない成り行きだったし、私も報告し辛いとは思ってたから」
「だとしても、会いたいと思ったんじゃないの。話なんかしなくたって、顔くらい見せてもいいじゃない」
「他にも、思い当たる節が」
「あんたはそれで納得してるの?」
「納得は……してない」

 うつむく仕草がもどかしい。以前からの変化はきっと、生贄にされたことで、色々と考えた結果のはず。凛代たちがした後悔よりも、嫌な物思いだっただろう。
 そこまで頑張ったのに、幸せになるためにはあと一押しが欠けている。

「他人のことで怒ってないで、先に自分のために怒ってよ」

 意外なことを聞いたように、衣織は顔を上げた。

「怒るって、蜘蛛様に?」
「相手が誰だって関係なく。くも様にも、千雀にも。旦那様には出来たでしょう?」

 考えてはみたようだけれど少しして、ううん、と難しそうに口元に手を当てる。
 くも様は神様や物の怪とも紛う相手だ。親しそうに見えるけれど、案外恐ろしいところもあって、怒り辛いのかも知れない。千雀様には権力がある。逆らえばどうなるか分からない。
 なんて、情状酌量は出来ない。お屋敷で見て来た現実、自分自身の狡さを思えば。

「あんたのこと一番いじめてた子が、私たちのために犠牲になってくれたんだって泣いてた。私だって我が身可愛さで、あんたが戻るまで、旦那様たちに面と向かって何か言えたことはなかった。
 あんたが自分で怒らなければ、そうやって、あんたの無念も不満も、何もなかったことにされるんだよ」

 衣織の目に、ふっと強い光が浮かんだ。

「それは確かに、不愉快ね。美談にされるのは特に!」

 何か、逆鱗に触れるところがあったのか。空気が変わる。無邪気そうな笑みの中に、はっきりとした強い意志があった。
 旦那様に少し嫌味を言って清算した気分になっていたけれど、その笑みを見て、やっぱり謝らなければいけないと感じる。

「ごめん。私だって、もっと怒らなきゃいけないんだけど」
「ううん。こうやって来てくれたから。……私にとっての祠。ありがとう」
「祠?」
「ふふ、こっちの話。まあでも、他の人のことも仕方ないと思う。生きるのって大変だから……どれだけ大切な記憶も、災厄も、日々には勝てないんだから」

 呪い殺しに来たのではないかと一時衣織を恐れた凛代も軽々と飛び越えて、彼女はしたたかに背をのばした。

「だからって、諦めるんじゃなくて、伝えていかなきゃね」

 役立たずと言われていた同僚とは思えない、衣織は良い人に会ったのだと、心の底から理解出来る、澄んだ声だった。

「蜘蛛様とも改めて話してみる。……呼ぶ以外に会う方法、知らないんだけど」
「……。蜘蛛拾ってきて、その辺に巣でもかけさせたら? 蜘蛛の振る舞いって言うでしょ。蜘蛛が巣をかけたら、恋人が来る前兆だって」

 前兆であるという占いを逆手に取って、恋人を呼ぶ。そんなやり方があるかは知らないけれど、まじないなんてそんなものでしょう。
 あとは神様ならお祈りでもするしかないんじゃない、とぼんやり思っていると、衣織が梅干しみたいな顔をしているのに気がついた。

「……恋人では、ないよ」

 何かと思えば。

「あー、たぶん恋人に限らないでしょ、こういうの。想い人が来るってことでいいんじゃない?」
「神様を想い人とは言わないでしょう。まじないをやるなら、恋の方じゃなくて、雨乞いみたいな」
「雨呼んでどうすんのよ」
「一例だって。つまり地鎮祭とか松迎えとかそういう」

 そう言えば生贄の儀式は、きちんと何かを呼ぶだけの効果はあったということになる。案外馬鹿に出来ない。もう一度生贄になってみたら来るんじゃない、はさすがに冗談でも言い辛いけれど。
 自分の思考に少し違和感を感じ、いや、と違和感のある場所まで遡った。そう、衣織は生贄を辞めると言ったけれど、「呼んだ」のなら、既に衣織は生贄になっていると言えるのでは。けれど、衣織はまだ生きている。命は捧げられていない。呼ばれたのが神様ではないから? それとも、くも様はただ偶然来ただけで、儀式はやはり失敗している?
 「生贄になる」とは、何を指すのだろう。

「いやだって、恋では、さぁ……」

 衣織はでろんと机に体を載せた。顔も伏せているけれど、耳の赤みが見える。
 面白いからこのままにしよう。生贄の件も、今明らかにする必要はない。
 もし何かあったら、また、会える。

「あと、話し足りないことはある? 街までのおつかいって体で出てるから、なければそろそろ行くわ」
「あ、待って。じゃあ滑り莧(スベリヒユ)桑の実(くわずみ)と……。多くないけど足しにして。滑り莧は毒もあるから、茹でて食べてね」
「あぁこの実。小さい頃は食べてたけど」

 ぱたぱたと行ったり来たりする衣織を横目に見ながら、大きな葉の上に置かれた、黒っぽいつぶつぶとした実を、一つ摘む。中々美味しいわね、と味わっていると、目の前にそっと、樹皮のような塊が置かれた。

「何これ? これも食べられるもの?」
「どれ? あぁそれ、干し肉……」

 何故だか衣織は首を傾げて、周囲をきょろきょろと見回した。