生贄を辞めると言っても、話はそう単純ではない。食糧や生活必需品を手に入れるため、大っぴらに村を歩くためには、生贄を辞めたことを、認めさせる必要がある。
誰に。名主様や神主様にもゆくゆくは認めさせなければならないけれど、衣織では、隠れ蓑があったとて、直接顔を合わせるところまで近づけるか分からない。姿を現した時点で斬られてもおかしくない。
まずは、話を聞いてもらえる可能性の高い関係者。
それでも、単にいつも通りに話すだけではきっと足りない。
だから、神の言葉を騙る。
「本当に……衣織、なのか……」
「はい。衣織です」
お屋敷の座敷で、旦那様と奥様と向き合う。出来る限り背を伸ばして、目に力を込めて。この屋敷にいた頃と同じ、怒られてばかりの役立たずな衣織だとは思われないように。そのために、白膠木や山ぶどうなどから出した色で、化粧もした。
その効果かどうかは定かではないが、旦那様は見たことがないくらいに怯えている。
「しかし、しかし……どうやって戻った。お前は神の元に、確かに、あの日……」
「凛代さんから聞いていないのですか」
「神からの言葉を伝えに戻った、などという馬鹿げた話を信じろと言うか。獣が掘り返しでもしたのでしょう」
旦那様では話にならないとでも言うように、青ざめながらも奥様が話を引き継ぐ。
「衣織。お前はのろまでも、人を謀るようなことはしなかったのに。散々世話もしてやったろう」
「もちろん感謝しています。だからこそ、お伝えしなければと思ったのです。
生贄の儀式は無意味どころか、害悪です。神様は生贄を喜びません。……まして、不要なものを生贄として寄越すなど大変不敬であると、お怒りでした」
言いながら心のどこかでほんの少しだけ期待していた。不要なものではない、違う理由で生贄に選んだのだと、そんな言葉を。
「まさか、そんなはずがない。あれは村に伝わる由緒正しき儀式です。……生贄が駄目なら、この病害はどうすればいいと言うの、衣織。昨年の苦しみを覚えているでしょう? 今年の収穫は、このままでは、昨年よりもっと少なくなる……」
ただ目を伏せる。過ぎた期待だった。
「神の言葉を聞いたとして、そいつは他に何も言わなかったのかい。生贄の代わりに望むものはないのか」
「……あの御方に、もし、望むことがあるとしたら」
失望の中で、彼の声を思う。
それはきっと、死者への祈り。私たちが過去を思い出すこと。けれど。
「それは、今の私たちには不可能なことです。たった一度の儀式や物品で満たされることはありません」
座敷に憎々しげな沈黙が満ちる。
ひとまず伝えたかったことは伝えた。肩の荷が下りるどころか、ずっしりとした重荷を抱えてしまったような気分だけれど、衣織が村のために出来るのはここまでだろう。
あと、衣織にとって重要なのは、今後どうやって生きるかだ。山での暮らしには慣れつつあるが、塩や服などはどうしても容易には手に入らない。
この後どうやって話を持っていこうか考えていると、旦那様が奥様に向かって言った。
「なあ。衣織と少しの間、二人にしてくれないかい」
一体何をしようというのか。
「あなた……。まさか、またあの女のことを」
「いいから」
奥様も衣織と同様に戸惑ったようだった。けれど、奥様はひと睨みだけ残して、出て行ってしまう。
旦那様と二人になるのは珍しい。基本的に下女の躾は奥様の仕事だった。
「……何か、ありましたか」
恐る恐る問いかけると、旦那様はにっこりと笑った。
「なあ、衣織。お前は、自分の母親のことを覚えているかい」
「母――のことは、覚えては、いませんが……」
何故ここで母の話が出て来るのか。訝しむ衣織をよそに、旦那様は笑みを浮かべたまま話した。
「とても美しい人だったが、不思議な人でもあった。元は旅芸人の一座にいて笛を扱っていたが、彼女が吹くと、草木も鳥も喜ぶように騒いだ。わしらはあの人を、影で天女と呼んでいた。
だが、お前の母親が選んだのは、山で怪しげな業を行ってばかりの、村一番の痴れ者であった。わしらが信じがたく思っている内に、あの人はお前を産んで死んでしまった。
長年わしは、何故あんなことになってしまったのかと思っておったが、此度のことで合点がいった。
きっと、天女であったあの人は、その美しさのせいで、物の怪に取り込まれたのだ」
唖然としている衣織を気にせず、旦那様は優しげに言った。
「衣織。お前が会ったのは、神ではなく、物の怪だ。騙されているのだよ。このままでは、母の二の舞に終わってしまう」
すぐに逃げるべきだったと、後に悔いる。けれど思いもよらない話に、この時の衣織は、聞き返してしまった。
「父、が、物の怪だと……? そ、いや、それより、神が物の怪だとして……どうするのですか」
「私が助けてあげよう」
「だからどうやって」
「私の妾になりなさい」
「はあ?」と言いそうになった。
「神主などは何か言うだろうが、心配はいらない。生娘でなくなってしまえばこちらのものだ。本当のことを言えば、君を生贄にするのは私は反対だったんだが、妻がうるさくてね……」
耳から毒を流し込まれているかのような不快感だった。あまりの気味悪さに、視界がくらむ。
顔が引きつって口がきけない。だが、目と目が合った時、旦那様は何か悟ったように、目を微かに開いた。
近づく時のぬるりとした印象とは裏腹に、首に巻きついた手は、かさついていた。
「大丈夫だ。よくしてあげるから。ほら、頷きなさい」
ぐっと喉笛が圧迫されて、本能的に腕が前に出た。狙いも定めず、ただ振り回す。旦那様の腕や顔に当たるが、振り払うには力が足りない。
視界が、周辺から赤く染まっていく。
さすがにこの流れは予想外だけれど、屋敷に戻ったらこんなこともあるかもなぁ、とは正直思っていた。生かしておいたって、食い扶持は増えるし、儀式の内容は漏れるし、いつ復讐されるか分からない。逆に、生かしておくことで得られる利点は何もない。役立たずだから。
ただ、あるかもなぁ、くらいで。ある意味ではそれも楽だから。本気で対処する気はなかった。
帰る場所が定まるまでは。
「――嫌ッ」
どれだけあの人のためになれるか、具体的なことはまだほとんど考えられちゃいないけれど、少なくともこの命は、こんな人間にくれてやるためにはない。
この命には、役目がある。
ぐっと意識を引き寄せたのと同時に、障子が勢いよく開いた。
そこには誰の姿もない。旦那様がうろたえた隙に、姿を隠したその人は、思い切り体当たりをしたようだった。衣織の喉から手が離れ、旦那様の体は座敷の端まで吹き飛んだ。ごろりと床に漬物石が転がるような重い音。
咳き込みながらも、気配のするところへ手をのばすと、力強くつかまれる感触があった。
ぐい、と引っ張られて、廊下に出る。驚いた面持ちの奥様が立っていたけれど、構わず、縁側から地面へ飛び降りた。
周囲に人がいなくなったところで、目の前を走る人は口を開いた。
「あんたの靴、納屋の脇んところに隠してある。この変な蓑もそこで返すわ」
「ありがとう!」
納屋はすぐに見えてくる。周囲を広く見れば、見知った同僚たちがちらほらと立っていた。話しかけられる距離ではなかったが、その中には、幼馴染の姿もある。しかし、衣織の姿があっても、騒ぎになる様子はない。
凛代が話を通してくれたのだ。
「みんな……よく信じてくれたね」
「さっさとしなさい」
「ご、ごめん」
靴を履き替えるとすぐに隠れ蓑を渡された。凛代は、ぐっと眉を寄せていた。
「別に、信じた訳じゃないんじゃない。信じたかったんでしょ」
その目には光るものがあった。彼女が泣いたところなんて今まで見たことがない。しかも、衣織のことで泣くなんて。驚きの混じった、とらえどころのない感情が胸に湧く。
「あの社にいるなら、そのうち遊びに行くわ。どうせ困ってるんでしょうから。何か持っていった方がいいものとかある?」
「そんな。助けてくれただけで充分。この後、私の立場がどうなるかも分からないし」
「いいから。ま、適当に持ってく」
「ありがとう……」
急かされて蓑を着ると、すぐに納屋の外に向かって押された。顔を見ると、日陰だからか、さっきよりも痩せて見えた。
「じゃ、またね」
生贄にはならない。その決断は変えない。
けれど、一時、自分でも正しさが分からなくなった。
「――凛代さん、ごめん、生きてね」
姿を隠したのだから、もうその必要はないのに、走り出していた。体に馴染んだ景色が、まるで知らない場所のように目に映った。
今は誰にも会いたくない。社務所に寝転がりながらそう思う。その気持ちを察してか、それとも単に衣織に呼びかけられないからか、蜘蛛様は出て来なかった。
頭が、混乱している。
殺されかけたこと、両親の過去や、生贄の役目を果たさない自分を助けてくれた同僚たちのこと、彼らの酷く痩せた顔。
目的は、結局のところ、達成出来たのだろうか。薄暗い天井を見ながら自問自答する。大手を振って村を歩けるようになった、とは言い難い。むしろ以前よりも危険になったとも考えられる。
生贄は無意味だと、村の希望を摘んだだけ、かも知れない。
今はとにかく寝てしまおうと、布団も被らず身を縮めて頭を抱えて、目をつむった。
眼裏に、赤い光が透けた。
蜘蛛様に助けられた日に見た空の色と同じ。
――目的が達成出来ていなくても、希望を摘んだのだとしても。
自由に手足が動かせる。今すぐにでも立って、外に出ていくことが出来る。ただ死を待つだけではなく、自ら行動することが出来る。
蜘蛛様に助けられるばかりでなく、助けになることが出来る。
とても今の気分を変えることは出来ないけれど、この決断は間違っていたとは言わない。
一つ息をついて体を起こし、ぼんやりと明るい部屋を見る。壁の隙間から、夕日が差し込んでいた。

