坂を上り、洞窟の外に手を伸ばす。雨はほとんどかからない。辺りを見回しても、雨が跳ね返る気配はない。濡れた草木が生き生きと葉を広げていた。
後ろから近づいて来る足音が聞こえた。
「蓑はまだ着ていたらどうだ。乾き切ってはいないだろう」
「顔を合わせてお話を聞きたいです。蜘蛛様のご友人方の話、これで全てではありませんよね?」
「あると言えばあるが。あと思い出せるのは、他愛もない話だけだ」
「そういう何気ない話こそ聞いてみたいです。次はどこに寄りますか? ちょうど休憩にもなったから、まだ歩けますよ」
ぐっと胸の前で握りこぶしを作ると、小脇に抱えていた蓑がずるりと滑って落ちそうになった。
「もう寄る程の場所はない。下りながらで構わん。……山を下りるまでは預かってやろう」
軽いため息と共に、蓑を引かれた。元気ではあるけれど、ここまでの山道での危なっかしさを鑑みると、預かってもらった方がかえって迷惑にならないだろう。
手渡そうとして、蓑で見えなくなっていた部分でうっかり、蜘蛛様の爪に触れた。
「痛っ」
「――ッ」
反射的に引っ込めた手には、一筋の赤があった。ぷくりと血が膨らんでいく。猫に引っかかれたくらいの些細な傷だけれど、服を汚しそうだ。
舐めておけばじきに止まるだろう。手を持ち上げると、横から手を取られた。
「あぁ、すみません、どじで。お構いなく」
目を上げると、血と同じ色の舌が、手に触れるところだった。
一瞬で跳ね上がった心臓の鼓動を聞きながら思うのは、昔話だけでしか知らない鬼の姿だった。角もない、棍棒も持っていない、彼自身の最初の名乗りだけで、鬼らしさを感じたことは今までなかった。けれど。
切り傷に再び爪がかかる。痛みが深くまで沈む。
「蜘蛛様」
咄嗟に呼びかけると、払い除けるような勢いで手が離れた。
一瞬の後、手どころか体ごと距離が開く。
雲間から差し込んだ陽射しに、元々血の気のない顔が、透けるように青ざめている様が照らされていた。
はっと思わず体が突き動かされた。離れた手を、今度はこちらから取る。勢い余って抱き着く形になったけれど、それどころではない。
蓑を脱いでおいて良かった。恐れが滲む顔に、笑いかけた。
「帰ったら、私、生贄以外の仕事をしますね」
もし、蜘蛛様に食われるのなら、それも本望だ。
けれど今の反応を見たら、とてもそんなことは言えない。蜘蛛様は望んでいない。人を食べてしまうことを恐れている。
それなら、衣織はそれを尊重する以外にない。蜘蛛様に自分を「食べさせない」。衣織自身、食べられたい訳ではない。濡れた姿から漂う哀切が思い返される。蜘蛛様をまた独りにしてしまうのは嫌だ。
その方法として咄嗟に考えたのが、食べる気の起こらない人間になること。
「私が本来、村のために成すはずだった役割と同じくらいのことを、貴方がたのために出来ればと思います。貴方に惜しんでもらえるような、他に代えのない人間になりますよ」
かけがえのない人間になれば、きっと少しは抑制になるだろう。今は、掃除くらいしか思いつかないけれど――この洞窟が今以上に山賊や獣に荒らされないよう、見回りくらいは出来るだろうか。
蜘蛛様の凍ったような表情は変わらない。今の頼りなさでは宜なるかな。苦笑いするしかない。
けれど、惨めさは感じなかった。
きっと他に出来ることはある。そう思える。
つかんでいる手に力を込めた。頑張ります、と蜘蛛様に向かって宣言しながら、自分に言い聞かせる。
「行きましょう、蜘蛛様」
抵抗のない手を引いて洞窟の外に出た。濡れた草木の匂いが立ち上る。空気は涼しいけれど、その匂いには夏が満ちていた。
深呼吸をした後、ちらっとだけ蜘蛛様を見ると、ばっちり目が合ってしまった。
「――すまない」
「……はい」
謝られなくたって全く構わなかったけれど、その方が楽になる場合もあることは、重々承知している。だから謝罪を受け取ってみたけれど、蜘蛛様の表情には悔恨が滲んだ。
どうすれば気にしないでいてもらえるだろうか。ひとまず時間に任せてみようと、もやもやしながらも歩き始め。
「あ。少しだけ待っていてください」
振り返って、洞窟に向かって手を合わせた。
蜘蛛様自身であり、蜘蛛様に奉じられる誰かであり、蜘蛛様を奉じる誰かである人々。
私が、貴方がたのために祈ることに、どうかお許しを。
下り道、蜘蛛様の口数は少なかった。常にどこかで、傷を広げようとしたあの瞬間を、思い返していそうな顔をしていた。
後ろから近づいて来る足音が聞こえた。
「蓑はまだ着ていたらどうだ。乾き切ってはいないだろう」
「顔を合わせてお話を聞きたいです。蜘蛛様のご友人方の話、これで全てではありませんよね?」
「あると言えばあるが。あと思い出せるのは、他愛もない話だけだ」
「そういう何気ない話こそ聞いてみたいです。次はどこに寄りますか? ちょうど休憩にもなったから、まだ歩けますよ」
ぐっと胸の前で握りこぶしを作ると、小脇に抱えていた蓑がずるりと滑って落ちそうになった。
「もう寄る程の場所はない。下りながらで構わん。……山を下りるまでは預かってやろう」
軽いため息と共に、蓑を引かれた。元気ではあるけれど、ここまでの山道での危なっかしさを鑑みると、預かってもらった方がかえって迷惑にならないだろう。
手渡そうとして、蓑で見えなくなっていた部分でうっかり、蜘蛛様の爪に触れた。
「痛っ」
「――ッ」
反射的に引っ込めた手には、一筋の赤があった。ぷくりと血が膨らんでいく。猫に引っかかれたくらいの些細な傷だけれど、服を汚しそうだ。
舐めておけばじきに止まるだろう。手を持ち上げると、横から手を取られた。
「あぁ、すみません、どじで。お構いなく」
目を上げると、血と同じ色の舌が、手に触れるところだった。
一瞬で跳ね上がった心臓の鼓動を聞きながら思うのは、昔話だけでしか知らない鬼の姿だった。角もない、棍棒も持っていない、彼自身の最初の名乗りだけで、鬼らしさを感じたことは今までなかった。けれど。
切り傷に再び爪がかかる。痛みが深くまで沈む。
「蜘蛛様」
咄嗟に呼びかけると、払い除けるような勢いで手が離れた。
一瞬の後、手どころか体ごと距離が開く。
雲間から差し込んだ陽射しに、元々血の気のない顔が、透けるように青ざめている様が照らされていた。
はっと思わず体が突き動かされた。離れた手を、今度はこちらから取る。勢い余って抱き着く形になったけれど、それどころではない。
蓑を脱いでおいて良かった。恐れが滲む顔に、笑いかけた。
「帰ったら、私、生贄以外の仕事をしますね」
もし、蜘蛛様に食われるのなら、それも本望だ。
けれど今の反応を見たら、とてもそんなことは言えない。蜘蛛様は望んでいない。人を食べてしまうことを恐れている。
それなら、衣織はそれを尊重する以外にない。蜘蛛様に自分を「食べさせない」。衣織自身、食べられたい訳ではない。濡れた姿から漂う哀切が思い返される。蜘蛛様をまた独りにしてしまうのは嫌だ。
その方法として咄嗟に考えたのが、食べる気の起こらない人間になること。
「私が本来、村のために成すはずだった役割と同じくらいのことを、貴方がたのために出来ればと思います。貴方に惜しんでもらえるような、他に代えのない人間になりますよ」
かけがえのない人間になれば、きっと少しは抑制になるだろう。今は、掃除くらいしか思いつかないけれど――この洞窟が今以上に山賊や獣に荒らされないよう、見回りくらいは出来るだろうか。
蜘蛛様の凍ったような表情は変わらない。今の頼りなさでは宜なるかな。苦笑いするしかない。
けれど、惨めさは感じなかった。
きっと他に出来ることはある。そう思える。
つかんでいる手に力を込めた。頑張ります、と蜘蛛様に向かって宣言しながら、自分に言い聞かせる。
「行きましょう、蜘蛛様」
抵抗のない手を引いて洞窟の外に出た。濡れた草木の匂いが立ち上る。空気は涼しいけれど、その匂いには夏が満ちていた。
深呼吸をした後、ちらっとだけ蜘蛛様を見ると、ばっちり目が合ってしまった。
「――すまない」
「……はい」
謝られなくたって全く構わなかったけれど、その方が楽になる場合もあることは、重々承知している。だから謝罪を受け取ってみたけれど、蜘蛛様の表情には悔恨が滲んだ。
どうすれば気にしないでいてもらえるだろうか。ひとまず時間に任せてみようと、もやもやしながらも歩き始め。
「あ。少しだけ待っていてください」
振り返って、洞窟に向かって手を合わせた。
蜘蛛様自身であり、蜘蛛様に奉じられる誰かであり、蜘蛛様を奉じる誰かである人々。
私が、貴方がたのために祈ることに、どうかお許しを。
下り道、蜘蛛様の口数は少なかった。常にどこかで、傷を広げようとしたあの瞬間を、思い返していそうな顔をしていた。

