音大の悪魔

 高校の練習室を飛び出し、真夜中の海を眺めていたら、ヴァイオリンの音が聴こえた。
(オレを誘ってる?)
 始めは地平線の向こうから聴こえてくるのかと思った。
 でも、ヴァイオリニストは意外と近くにいた。緩やかな弧を描く波打ち際を、こちらに向かって歩いてくる。
 背が高く痩身の男だ。
 潮風が彼の黒髪を嬲り、顔を隠している。黒いシャツに灰色のベスト。春の手前で肌寒いのに胸元を大きく開け、ジャケットも着ていない。おかげですらりと長い脚が際立つ。なんと裸足で、裾を少し捲ったスラックスから覗く踝がなまめかしい。
 音色も悩ましげで、あやうかった。
(モーツァルトの「涙の日(ラクリモーサ)」……)
 風向きが変わる。男の顔が月光に浮かび上がる。
 凛々しい眉。伏せた目は切れ長だ。楽器を支えるために傾けた横顔のラインは凹凸が深い。
 あまりの美しさに、一歩も動けなかった。
 彼のほうは数歩の距離まで近づいてやっとオレに気づいたのか、瞼を持ち上げる。
 目が合う。男の歩みが止まる。
 刹那の静寂を、強く荒々しい音が切り裂いた。
(「怒りの日(ディエス・イレ)」!)
 ぼんやりした今のオレの耳でもわかる。
 この男、ただものじゃない。
 「涙の日」も「怒りの日」も、大人数のオーケストラ用につくられた曲だ。それを音の厚みを失うことなくソロにアレンジしてのけている。
 おそろしく正確な早弾き。
 風の音も、寄せては返す波音さえも男の指捌きにひれ伏し、曲の一部になったかのように錯覚する。
 彼の音は、オレの心の生傷を容赦なく抉った。
 傷口から捩じ入ってきて暴れ回る。まるで犯されているも同然なのに、恍惚としてしまう。
「っ!」
 男の激しい演奏のせいか、弦が一本切れた。
 四弦のうちの一本はでかい。でも、男は動じることなく弾き続ける。
(パガニーニみてえ)
 ある名前が思い浮かんだ。
 演奏中弦が次々切れ、G線一本きりになっても平然と弾いてみせたという、十九世紀の天才ヴァイオリニスト。
 またの名を、悪魔。
 目の前の彼もそうに違いない。
(オレに魂を売らせにきたんだ)
 左手を握り込む。この演奏と引換えなら悪くない。
 男が弓を下ろす。途端、海が凪いだ。ますます人ならざるものという印象が強くなる。
「この曲は」
 オレへの手向けですか。
 そう続ける前に、男が呟いた。
「……俺が葬ってきた才能へのレクイエムだ」
 それきりオレに見向きもせず、国道のほうへザッザッと上っていってしまう。
 夢。いや、幻か? でも足跡は確かに残っている。
 十七年足らずの人生最悪の日、オレは黒崎鞠夜(くろさきまりや)の音を知った。



「行ってきます!」
「ついでにゴミ出しして。可燃の日」
「かーちゃん、オレの人生最高の日をゴミの日にしないでくれる?」
 オレ、天満星那(てんませな)はこの春、名門の音楽大学器楽科に主席合格を果たした。
 専攻はもちろんヴァイオリン。
 シャンパンゴールドのハードケースを背負い、合わせて金にブリーチしたマッシュヘアを電車の窓に映して整える。
(ついにこの日が来た)
 団地から大学まで電車で三十分。
 都内とは思えない緑深い構内を、早足で歩く。
 この学舎に、二年前海で遭遇した悪魔——黒崎鞠夜がいる。
(ずっと、会いたかった)
 あの後、予定変更してダッシュ帰宅した。
 寝ないでSNSを調べ、彼がこの音大の付属高三年だと突きとめた。
 コンクールより仲の良い同級生とのセクステット(六重奏)に耽っているとか。
 それもあって彼ほどの存在を知らなかった。
 もちろんこれまでも、大学の定期コンサートに押しかけて話そうと思えば話せた。
(でも、やっぱオレの音を知ってほしいもん)
 ただし黒崎鞠夜はコンクールに興味がなくとも天才には変わりない。クラシックの本場はヨーロッパ。いつ留学を思い立ってもおかしくない。
 どうかオレを待っててと願いながら、最難関の入試をくぐり抜けたってわけだ。
 かーちゃんには「奇跡」って言われた。
(奇跡でも何でも、やっと会える)
 ずらりと並ぶ練習室の前で足を止めた。
 柔らかな陽射しが射す室内には、まだ誰もいない。窓際の椅子に腰掛け、ヴァイオリンを抱き締めて待つ。
(音を聴いてもらえる)
 教官に頼み込んで黒崎鞠夜の学内メールアドレスを教えてもらい、[会いたいです]と連絡したのだ。
 すぐに[大学の練習室でいいか?]と返事が来た。
 慌てて部屋を予約した。今日の講義はサボり。
(まだかな)
 約束の時間を五分過ぎた頃。
 ぐ、と防音仕様の重たい扉が開いた。
「ご指名ありがと、星那ちゃん♪」
 黒崎鞠夜だ。ゆったりした黒ニットの中で痩身を泳がせ、笑うと犬歯が覗いて親しみが増す。楽器は持っていない。
「会いたかったです」
 オレが弾かれたように立ち上がるのと、黒崎鞠夜の顏から笑みが消えるのは、同時だった。
「は? 男じゃん」
 そう言い捨て、くるりと踵を返してしまう。
 オレは音符がひとつもない曲「4分33秒」を弾け、と言われたみたいに凍りついた。
 最悪だ——!


「めちゃくちゃムカつく! 天才クソ野郎、オレの憧れ返せよ」
 翌日の昼休み、学食で呪詛を吐く。
 向かいに座る佳典(よしふみ)が見兼ねて、定食のトンカツをひと切れ差し出してきた。
 なんていいやつなんだ。
 彼は作曲科の新入生である。
 音大の入試は専攻の実技だけじゃなく、ソルフェージュとかいろいろある。そのうちの副科ピアノを習った先生が同じで、意気投合した。
「黒崎先輩がモテるって話は聞いてたけど、ああいう感じだったんだね」
 佳典がオレの斜め後ろを見て苦笑する。
 振り返らなくとも何が起きているかわかった。
「はい♡」「やだ犬歯かわいい」
 キャーキャーうるさい。天才クソ野郎が女を侍らせ、昼メシをあーんさせてやっているんだろう。
 うちの大学の女全員抱いた、って噂も昨日聞いた。あまりに蠱惑的でみんなこいつに堕ちるので、こう呼ばれているという——「器楽科の悪魔」。
(女子全員て。六百人くらいいるぞ)
 要は名前で女と間違えられた上、「ヤれねえじゃん」とがっかりされたわけだ。
 他人のこと言える? 自分も「マリヤ」のくせに。
 トンカツを仇みたいに咀嚼する。
「そーいや、今日の新歓来る子いる?」
 その間に天才ヤリチン野郎が発した問いに、
「私!」「あたしあたし!」「わたしも〜!」
 と大合唱が起きた。
 新入生じゃない、うちの学生ですらない子も混ざってるけどいいのかよ。って、オレには関係ないか。
「星那も行くでしょ? 今日の新歓」
 啜った麺を吹き出しそうになった。てか吹き出した。佳典のトレイまで飛んだけど、謝りもせず、むしろ睨みつける。
「あ゙? なんで天才ヤリチン野郎のいる飲み会なんか」
「だって、(じん)先輩とかセクステットの人たちも来るらしいし。写真撮って妹に見せてあげたいけど、僕ひとりじゃ近づけもしないから、一緒にいてよ」
 佳典の声がみるみる小さくなる。
 言われてみれば、今夜のは各科の有名人が集まる大規模なやつだっけ。
 天才クソヤリチン野郎がいるからって行かないのはもったいないかもしれない。あと、佳典の尊い兄妹愛は末永く続いてほしい。
「……天才クソヤリチン野郎から一番遠いテーブルで飲むなら、行ってもいい」
 私情より友情を取って了承すると、佳典が頬をゆるめた。何だ?
「天才は天才って思ってるんだね、先輩のこと」
 天才クソヤリチン野郎のこと? ……あ。
 指摘されるまで気づかなくて、頬が熱くなる。
(しょうがねえだろ。あんな気持ちのときにあんな演奏聴かされてみろ)
 黒崎鞠夜は人間としてはクソだけど、ヴァイオリニストとしては唯一無二だ。

 二十時。新歓会場である西麻布のクラブの入口で、佳典と顔を見合わせる。
「ここ、だよな」
 こんな雰囲気の店には入ったことがない。
 ナイロンブルゾンに黒スキニーの普段着で来ちまった。お子様お断りって摘まみ出されるかもしれない。ただでさえ背丈は成長期で、童顔だ。
 こわごわ階段を降りていくと、エレクトロ・スウィングが爆音で流れていた。
「あの、大学の……」
 スーツ姿の強面お兄さんに、じろりと一瞥される。無言で手の甲にスタンプを押された。ふう。
「何かすげえな」
 店内は八割女子。人混みを掻き分け、カウンターでジンジャーエールをもらう。
(ストローはなしか)
 手のスタンプを見せるだけでよかった。新歓参加者は飲み放題らしい。
 とりあえず隅っこに陣取り、軽く身体を揺らしながら、オールスタンディングのフロアを眺める。
「僕、居酒屋を想像してた」
「オレも。これだと天才クソ野郎から一番遠い場所キープしづらいな」
 そう懸念したものの、あの男が視界に入らないよう注意する必要はなかった。
 セクステット——付属高上がりの六人の天才はVIPルームに籠もりきりで、女の子が入れかわり立ちかわり出入りするばかり。
(セクステットの即興聴けたりしねえかなって、ちょっとだけ期待してたのに)
 それも叶わなそうだ。
 まあせっかく来たし? 弦楽専攻の先輩に挨拶したり、他科の新入生と自己紹介し合ったり、歩き回る。
 ただ、BGMが大きいせいで声は半分も聞き取れない。ごまかすために飲み物が進む。このジンジャーエール、ファミレスとかのより苦いな。
「ちょっとトイ()
 一時間くらい経ったとき、尿意を催して佳典から離れた。トイレは確かこの細い通路を曲がった奥に……
「いてっ」
 誰かにぶつかった。
 道が交差する場所にいるものといえば——悪魔と相場が決まっている。
 よろけた足を踏ん張り、悪魔を見据えた。
 ブラックライトに照らされた長い脚。無造作なオールバックの黒髪。左の首筋にキスマークみたいな痣。
 やっぱり、黒崎鞠夜の形をしていた。
「気ィつけろ」
「なん()
 横をすり抜けようとする黒崎鞠夜のシャツを、きゅっと掴む。
「なんれ、海で会ったとき、連れてってくんなかったんらよ」
「……はァ?」
 黒崎鞠夜が足を止めた。鬱陶しそうに見下ろしてくる。
 なんだよ。悪魔ならちゃんと魂を持っていけ。
「あんな音色聴かせといてっ、責任取れよ」
「いや何の話。つか何飲んだ?」
「あんたの音らけ追いかけてきたのに。会いたいの我慢してさ、ずっと……。オレの音、聴けよなばか!」
 もう今日は会えないと思っていたのに、会えた。
 転がり込んだ機会に、不満が溢れ出す。黒崎鞠夜の胸をぼすぼす叩いて捲し立てる。
「その子より、オれを連れてけよぉ……ぐすっ」
 気持ちが昂り、涙まで出てきた。うっうっとしゃくり上げながら、黒崎鞠夜が肩を抱く脚のきれいな女の子を押し退けようとする。
「なに鞠夜、男まで泣かせてんの」
 そこに、もうひとつ影が現れた。
 襟足を伸ばした髪にメッシュを入れ、耳には十個くらいずつピアスを嵌めている。目が大きいが、光を反射するんじゃなく吸収してる。整い過ぎて逆に鳥肌の立つような顔立ちの男だ。こいつも悪魔っぽい。
「笑ってねーで、このちんちくりんの連れ見っけてこいよ、阿久津(あくつ)
 あく……やっぱり悪魔?
 てか、ちんちくりんって誰だよ。
「ああ、たぶん——が、——で」
 オレの頭の上で、黒崎鞠夜ともうひとりの悪魔が何やら話し出す。悪魔語なのかうまく聞き取れない。
(魂の買収を他の悪魔に任せようってんじゃないだろうな)
 オレは、黒崎鞠夜がオレのために弾いてくれるなら、引換えに魂を売ってもいいと思ったんだ。
 他の悪魔はお呼びじゃない。黒崎鞠夜の腕にぎゅうぎゅうしがみつく。
「あっおまえ! 俺のシャツで洟水拭くな。マルジェラだぞこれ」
「他の悪魔に押しつけようとしたら、許さねえ……。オレは、あんたじゃなきゃ……」
 なおも粘っていたら、黒崎鞠夜が深い深い溜め息を吐いた。
 オレを腕に纏わりつけたまま歩き出す。
「そんなに聴けっつんなら聴ーてやるよ、おまえの音」

 タクシーに乗せられた。たぶん。
 黒魔術でもかけられたか、頭がぼうっとする。
 数分で降ろされた。人工的な緑に囲まれたタワーマンションに入っていく。
「ほら歩け」
 辿り着いたのは高層階の角部屋で、ライトアップされた東京タワーもレインボーブリッジもよく見える。窓の手前には、どでかいベッド。
「わ」
 ぞんざいに転がされた。何すん……え?
(ふっっかふかぁ)
 みるみる睡魔に襲われる。三秒で寝た。
「おい?」
 寝たのに、左の首筋の痣を執拗に撫でられる。
 オレの場合、キスマークじゃない。楽器を構えたときちょうど当たるだけ。ヴァイオリニストの印だ。
 今度はパキリと、ペットボトルの蓋が開く音。
「っ」
 冷たい水を無理やり口に流し込まれる。ペットボトルの飲み口にしてはやわらかい。何これ?
「ん、ぅ」
 仕方なく目を瞬かせた。
「酔い醒めたか」
 至近距離で、真っ黒い目と目が合う。オレの眉間に黒い髪がひと束落ちてくる。こいつ——!
「あ……、悪魔っ!」
「醒めてねえな。俺、黒崎鞠夜っつう人間なんだけど」
 そう、黒崎鞠夜だ。いつの間にか腰を跨がれてる。
 枕を盾代わりに前に回し、ゔーッと威嚇した。
「状況わかってんの。ここ、俺んち」
「あ?」
 そう言えば、なんで黒崎鞠夜とふたりきりなんだ。
「おまえの連れは(カミ)が気に入って離さねーし」
「かみさま?」
 悪魔なのに神様と友だちなのか。
「おまえは酔っぱらって家の住所言えねーし」
「オれは酔ってねえ」
 黒崎鞠夜はこれ見よがしに舌打ちした。すごく苛々してる。
 これは——女の子お持ち帰りしそびれたって顔。
(そうはいくか)
 あんたは、オレの悪魔だ。
「どっちでもいいけど。音聴けっつったよな。俺がおまえを鳴らしてやるよ」
「上等ら、っ?」
 かと思うと、首の痣にしゃぶりつかれる。強く吸われた。音出してみろ、とばかりに。
「〜、んああっ」
 魂を売る儀式かと、思いきり叫ぶ。
 途端、黒崎鞠夜が意外そうにした。なんでだよ。オレも聞いたことない声が出たけどさ。
「もう一度聴かせろ」
 次は、カットソーの裾に手がもぐり込んでくる。平たい腹を撫で回された。
「ひゃう!?」
 くすぐったくて脚をばたつかせる。
 何が面白いのか、黒崎鞠夜が口角を上げた。上半身をまさぐる手はゆるめず尋ねてくる。
「名前何だっけ」
「せ、な」
「あー、こないだ俺にお誘いメールしてきたやつか」
 やっと思い出したのか。
 ていうか儀式、手順が多いな。
「ま、どこをどんなふうに触ればいい音が鳴るかは、女でも男でもだいたい同じだろ。俺なら初見でも弾きこなせる」
 黒崎鞠夜が自信たっぷりに呟く。
 その後は、目を開けていられなくなった。
 音と声の洪水だ。
 スキニーのファスナーを下ろす音。
「星那ちゃんの可愛いとこ見ーせて」って声。
 レザーパンツが肌を滑る音。
「さて。弓に塗る松脂は逆効果だし、蜜蝋もな。あ、ハンドクリームあるわ」とか。
 ハンドクリームはビブラートを掛けるのに欠かせないけど……
(演奏中、だっけ?)
 実際、黒崎鞠夜は弦のポジションを変えるみたいに指を滑らせていく。
「ふあっ」
 オレが声を上げれば、その箇所をきっちり覚えて繰り返し触ってきた。
 ギターのようにフレットがなく、押さえる場所を感覚で覚えるしかないヴァイオリンを弾いてるんだから、造作もないか。
「……っ、〜ッ!」
 弓を押し引きするごとく、黒崎鞠夜の腰が蠢く。
 互いの声に、スプリングの軋む音や濡れた何かが擦れ合う音も重なって、世界にひとつの曲になる。
 音程もリズムも響きも、天国みたいだった。



 頭の中に音楽が流れている。肌を合わせてるときはいつもそうだ。
 湧いてくる音楽は、抱く相手によって違う。
 その音楽に身を委ねていると、ヴァイオリンを弾きたくて堪らなくなる。
 でも、絶頂に達した瞬間、音は消えていく。
 二度目以降はなぜかインスピレーションが湧かない。だから次の女、次の女って相手を変えてきた。
 星那から聴こえる音楽はかなり気に入った。放り出して帰らないでよかったとか思うくらい。
 なのにもう二度と聴くことはできないんだろうか。
(ある意味、俺は悪魔みたいな男だ)
 男の音も女の音も、喰らいつくすから。
「……まりやさん、やめないで」
 クラブにいたときと種類の違う涙でぐちゃぐちゃな星那に、懇願される。
「頼まれてもやめねえわ」
 俺らしくない寂寥を見抜きやがったか。
 弦が切れても止める気はない。容赦なく律動し、ひときわいい声で啼かせてやった。
 緩慢に身体を離す。これだけ気持ちよくしてやればもう文句も言ってこないだろう。
(あれ?)
 不思議なことに、俺の頭の中ではまだ音楽が鳴っていた。
 今までの女と何が違うのかと星那を観察する間も、シャワーを浴びてみる間も。
 こうしてはいられない。生乾きの髪のまま、愛用のヴァイオリンを顎に挟んだ。
 頭の中に鳴り続ける曲を奏で出す。
 ずいぶん跳ねっ返りな曲だ。なのにすがすがしい。
 俺はついにミューズを見つけたかもしれない。



 ヴァイオリンの音が聴こえた気がした。
 瞬きする。見慣れない天井が目に入る。やたらでかい窓の向こうは、朝を迎えている。
(ここどこ? オレ、ホテル泊まったっけ?)
 昨夜の記憶が曖昧だ。ていうかパンツ履いてねえ。
 カットソーは着てる。変な脱ぎ方をしたらしい。ごそごそ探し回る。どこにもないんですが……。
「やっと起きたか」
 低い声がして、咄嗟にシーツで下半身を隠した。
(この声)
 おそるおそる振り向く。なぜか黒崎鞠夜が部屋に入ってくる。
「なんであんたが」
 香ばしい匂いを漂わせるマグカップを持ってるのはまあ、いいとしよう。
 すげえ柄のシルクローブを羽織っただけなのは何なんだ。胸筋とか腹筋とか、臍からローライズの下着までまっすぐ生えた体毛とかを惜しげもなく晒している。
(まさか。いや男同士だ。でもヤリチン野郎ならやり兼ねねえか?)
 頭がぐるぐるする。
 そのうちに、黒崎鞠夜が目の前に立った。
「新歓でシャンディガフ飲んだろ」
「しゃんでぃ?」
「酒」
 もしや、苦かったのって酒が混ざってたせい?
「そんで大胆になって、悦過ぎて意識飛ばしてたな、星那ちゃん」
「よ……、え゙!?」
 そんな。嘘だと言ってくれ。
 願いと裏腹に、腰が軋む。経験したことのない痛み。
 よりによってこの男にいただかれちまったのかよ。つか、間違って酔って無防備になった後輩を食うな。
「ざっけんな、オレはこんなの望んでねえ」
 せめて拳を一発お見舞いしてやろうとしたものの、腰の捻りが効かず、あっさり手首を捕らえられてしまう。
 黒崎鞠夜がおそろしく端正な顔でオレを射抜いた。
「星那、俺のもんになれ。俺が誰よりも悦く弾きこなしてやる」
 …………は?
 誰が、誰があんたなんかのもんになるかよ!
「お断りだ!」
「っはは、やっぱおまえいい音してんなァ」
 尊大な命令は全力で拒否する。
 なのに、黒崎鞠夜は満悦そうに目を細めた。
(人を何だと思ってんだ)
 ヤリチン野郎の思いどおりにはさせない。
 造形美の暴力に負けないよう、腹に力を込める。
「それより一限行きたいんで、パンツ返してもらえますかね」
「そうだな」
「うわわ」
 意外にあっさり聞き入れられた。
 と思ったら横抱きにされた。脚をばたつかせてもびくともしない。バカ広いウォークインクローゼットに連行される。
 情けなく股間を隠すオレに、やっとパンツのお恵みがあった。箱入りで「Hermes」のタグ付き。
(いやオレのパンツは)
 悪魔は対価にパンツを持ってくのか?
「これとこれ合わせて、靴はこれな」
 オレの気も知らず、黒崎鞠夜はブランド物の山から服を抜き出しては宛がってきた。ずいぶん上機嫌だ。
「貸してくれなくていいです」
「着てみろって、似合うから。昨日着てたつまんねえ服よりずっと」
 ユ○ク○に謝れ。全国の男子大学生の味方だぞ。
 パリコレならぬ鞠コレのどれかを選ばないと登校できそうにない。仕方なく、なるべく普段着に近いのを試着する。
「っ」
 どでかい鏡の前で、黒崎鞠夜が吹き出した。リーバイスの裾が盛大に余っている。
「笑うなっ、あんたが脚長過ぎなだけだろ」
「かわいーって思っただけ。つか『鞠夜さん』な? ベッドでそう呼んでくれたじゃん」
 厭味リーバイスを脱ぐ手が止まる。
 マジのマジで、どうマンションに連れ込まれたのかさえ憶えてない。
 一億歩譲って、ベッドでそう呼ばされたとしても。
「ぜっってえ呼ばねえ」
「そ? 俺は星那が名前呼んでくれるまでミューズって呼ぶわ」
「鞠夜さん、やめろください」
 完全に黒崎鞠夜のペースだ。
 でもミューズって、痒過ぎるだろ。
 むしゃくしゃと時計を見れば、もう八時を過ぎている。一限は必修。急がねえと。
 シャワーを借りたいと言ったら、黒崎鞠夜もボディスポンジを持ってついてきた。丁重に追い出す。
「ちぇ。じゃあ、朝は米派? パン派?」
「パン派だけど」
 バスルームを去り際、さり気なく訊かれた。
 もしかして朝メシつくってくれる流れか? 服を選ぶのも背中を流そうとするのも、彼なりのアプローチなのかもしれない。
 さすがに手づくりを無下にはできない。急いで身体を流して戻った。
 でも、リビングのガラステーブルには何もない。
「ぼちぼち行くか」
 それどころか、グレーのコットンセットアップに着替えた黒崎鞠夜は、鞄すら持っていない。
 首を傾げながら、エレベーターで地下まで降りる。耳がキーンとした。
 地下は駐車場で、イカつい高級車が並ぶ。黒崎鞠夜が国産セダンに歩み寄っていくので、ホッとしたのも束の間。
 運転席に、女が乗っていた。
 大学の子か? 黒崎鞠夜がコツコツとサイドウィンドウを叩く。
「おはよ。頼んどいたのは?」
「後ろに置いてるよお」
 窓越しに、ヴァイオリンケースと有名パン店の包みが見えた。黒崎鞠夜が満足げに頷く。
(おいおい)
 さっき、甲斐甲斐しいとこあるじゃんなんて思ったけど、目が覚めた。
「乗れよ、星那」
「乗るわけないでしょ」
「なんで?」
「なに女の人パシってんだよ」
「だって俺、弓より重いもん持たない主義だから」
 大層なヴァイオリニスト様だな。さっきオレを抱えただろうが。
 付き合ってられない。乗換を調べようとスマホをタップする。
「乗んないの? 星那が乗んないなら俺もいーわ」
 ……はい?
 黒崎鞠夜が後部座席からヴァイオリンケースを取り出した。女の子は泣きそうな顏だ。
「また今度な」
 でも頬にちゅっとキスされるや、うっとり笑う。いいのかそれで。
 黒崎鞠夜は掻き上げた前髪をなびかせ、「おいで」とオレを呼んだ。跳ね馬のエンブレムがついた真っ赤なスポーツカーに乗り込む。
 よりによってバルケッタ(オープンモデル)
「パシってなきゃいんだろ? 電車だと乗り継ぎ悪ィから遅刻する」
 結局こうなるのか。
 大学に着くまでの辛抱だと観念し、助手席に収まった。

 春風を切る黒崎鞠夜の運転は慣れたものだ。
「あんたって、親石油王とかなんすか」
「いや? クルマもマンションもパトロンヌが買ってくれた」
「うへ……」
 パトロンヌ。金銭的支援者。
 たちまち、万札を散らしたベッドで女に奉仕する黒崎鞠夜の図が頭に浮かんだ。
「マダムは抱けとは言わない。たまに裸でヴァイオリン弾けって言うくらい」
 オレの脳内を見透かしたのか、サングラスをかけた黒崎鞠夜はにやっと笑う。
「弾いたの」
「弾いたよ」
 そりゃそうだろ、ってトーンで返される。何が常識かわからなくなってきた。
「でも俺の手もとばっか見んの。見甲斐あるもんついてんのに。なあ?」
「オレに同意求めるな。あと、この辺でいいです」
 確かにクルマだと早い。十分くらいで校門が見えてきた。ここから歩いても間に合う。
「駐車場ちょっと離れてっから」
「いや止まってって頼んでんですが?」
 減速する気配なし。
 桜並木を歩く学生たちが、派手なバルケッタを二度見する。これ以上、黒崎鞠夜の服着て黒崎鞠夜のクルマで登校するとこ見られたら、死ぬ。
「いいから止まれよおお!」
「ん、着いた」
 オレの悲鳴は正門ロータリーまで続いた。
 どの校舎にも近い場所につけてくれるお気遣いどうも。逆に言えば全学生が通る場所です。
 この男、やっぱり悪魔だ。