役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

アルトが部屋を出てから、しばらくしてノックの音がした。
「失礼します」
リーゼが昼食を運んできた。
「サクラ様、お食事をお持ちしました」
「ありがとうございます」

テーブルに並べられた食事は、いつもと変わらないはずなのに、どこか現実感が薄い。
桜は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと食事を口に運んだ。

けれど、味を感じているのかどうか、自分でもよく分からない。
胸の奥が、まだ少しだけ落ち着かない。

食事を終え、リーゼが下げていくのを見送ると、部屋に一人残された。

ふと、窓の方へ視線を向ける。
王宮の庭が、いつもと同じように広がっていた。

――戻ったら、話をしないと。

お母さんと、お姉ちゃんと。
それに、凜ちゃんたちにも。

クロトの傍で生きていこうと決めた。
その気持ちは、もう揺らがない。

けれど。

――年に1回か……

今までは、週に1回は会えていた。
それが、年に1回になる。

その差は、思っていた以上に大きい。

寂しい、とは思う。
でも、それでも。

きっと、お母さんも、お姉ちゃんも喜んでくれる。

でも。

――何かあったときに、すぐ会えないのって……

それって、家族としてどうなんだろう。

ふと、そんなことを思って苦笑する。

……こんなこと言ったら、逆に怒られるかもしれない。
「何言ってるの」とか、「自分で決めたんでしょう」って。

二人の顔が、自然と浮かんだ。
それを見ているだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。

そんなふうに、ぼんやりと窓の外を眺めていたときだった。

コン、コン。

扉がノックされる。

「失礼します」

聞き慣れた声に、桜ははっと振り向いた。

「クロトさん」

名前を呼んだ瞬間、自分でも分かるくらい、顔が熱くなる。
まだ慣れない。

ふと、頭の中に告白の場面がよぎりそうになって、慌てて首を振る。

「大丈夫ですか」

その様子に、クロトがわずかに笑みを浮かべた。

その余裕のある表情に、少しだけ引っかかる。

――なんでそんなに落ち着いてるんだろう、私だけが動揺してて、何か不公平……。

理不尽でほぼ八つ当たりな考えが、頭に浮かぶ。

「クロトさんは余裕そうで、なんか、ずるいです」

思わず口に出してしまう。

クロトは一歩近づき、桜の目の前まで来ると、少し困ったような表情を浮かべた。

「別に、余裕ではないんですけどね」

距離が近い。
普段よりも、明らかに近くて、それだけでまた心臓が跳ねる。

「あ、あの……ち、近くないですか」

「そうでしょうか」

さらりとかわされる。

桜は何とか落ち着こうと、小さく呼吸を整えた。

「兄が、来ましたか?」

その言葉で、少しだけ意識が切り替わる。

「はい。あの、挨拶に来てくださって」

「きちんとお話ししたことがなかったんですけど、優しい方ですね」
「私のことも、気遣ってくださって」

「えぇ」

クロトは、少しだけ嬉しそうに表情を和らげた。

「戻ってきたら、兄の家に滞在するという話は?」

「あ、はい。聞きました」

「本当に、何から何まで申し訳なくて……でも、こちらの生活、まだよく分からないので、すごく助かります」

クロトは、わずかに表情を曇らせる。

「サクラ様が気にすることではありません」
「もとは、私があなたを引き留めたのですから」

その言葉に、桜はすぐに首を振る。

「それ、さっきも……」

少し言い淀みながら続ける。

「最初に、こ、告白したのは私ですし……」
「ここに残るって決めたのも、私なので……」

「だから、その……」

そこまで言って、自分の言葉に一気に顔が熱くなる。
何を言いたかったのか分からなくなり、言葉が続かない。

クロトはその様子を見て、わずかに目を見開いた。
それから、ゆっくりと口を開く。

「サクラ様」

「もし、許していただけるのであれば……抱きしめても、よろしいでしょうか」

桜は驚いて、思わず視線を上げた。
経験がなさすぎて、そういう時、どうしていいのか分からない。

けれど、クロトの目が、どこか必死に見えて。

小さく、こくりとうなずいた。

次の瞬間、ぐい、と腕を引かれる。
気づいたときには、もう胸の中だった。

思ったよりも強い力で抱き寄せられて、息がとまるのではないかと思った。
服越しに伝わる体温があまりにも近くて、心臓が痛いくらい鳴る。

それでも、安心できると、思っている自分に、いちばん驚く。

頭の上から、低い声が落ちてくる。

「……待っています」

少しだけ間を置いて続いた。

「ただ、もし――どうしてもご家族の元に残りたいと思われることがあれば、それも仕方のないことだと、思っています」

――待つと言いながら、まだ私に選ばせようとしている。
――本当に、私の気持ちを、どこまでも大切にしてくれている。

クロトさんは、最初からそうだ。
自分のことはあまり気にせずに、人の方を優先してしまう人だ。

「あの……」

クロトの腕の中で、小さく声を出す。

「寂しいとは、思います」
「きっと、向こうに行ったら、少し悩んでしまうかもしれません」

一度、言葉を区切る。

「でも」

「クロトさんといられない方が、絶対に私、後悔しますから」

ゆっくりと、言葉を選ぶ。

「だから、ちゃんと戻ってきますね」
「この場所に」

クロトの腕に、わずかに力がこもった。

「……ありがとうございます」

そのまま、ぎゅっと抱きしめられる。

少しして、ゆっくりと腕がほどかれた。

離れた瞬間、何とも気恥ずかしい空気が流れて、さっきよりもさらに顔が熱い。

桜は無意識に首元の紐に触れ、そこにある淡い薄紅色の守り石の感触に、ふと気づいた。

「あの、クロトさん」

「これ、預かっていてもらえませんか」

紐を外し、石を差し出す。

クロトはそれを見て、小さくうなずいた。

「そういえば、魔力を込めていましたね」
「あちらには、持ち込めませんでしたか」

「はい。なので……戻ってくるまで、お願いします」

「えぇ、分かりました」

クロトは石を受け取る。
その仕草は、すでにいつもの落ち着いたものに戻っていた。

それを見て、桜も少しだけ安心する。

クロトは一歩距離を取り、穏やかに言った。

「では、行きましょうか」

桜は小さくうなずく。

向かう先は、異世界へと繋がる結界の部屋。

桜は一度だけ振り返り、それから前を向いた。