役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

クロトは庭園の奥を見渡した。

少し離れたところに、石造りのベンチがある。

桜はまだ腕の中で真っ赤な顔をしている。呼吸もどこか落ち着かない。

クロトは小さく息をつき、ベンチの方へ歩いた。

ベンチの前で足を止める。

一瞬だけ、桜を見下ろす。

このままでも構わない気もしたが――

これでは、まともな会話になりそうもない。

クロトはゆっくりと桜を座らせた。

桜はベンチに座ったまま、しばらく俯いていた。

顔の熱はまだ全然引いていない。

さっきのことが、頭の中で何度も繰り返されている。

告白して。

クロトさんが、愛していますって。

結婚してほしいって。

……結婚。

桜は思わず両手で顔を覆った。

「……少し、落ち着きましたか」

すぐ近くから声がする。

桜は小さく首を振る。

「……全然、落ち着きません……」

クロトはそのままベンチの前に立っている。

桜は少しだけ顔を上げた。

視線が合う。

その瞬間、また顔が熱くなった。

「……さっきの、あれ、本当のことですか」

思わずそんな言葉が出る。

クロトは少し口元を綻ばせて首を傾けた。

「どれでしょう」

桜はさらに赤くなる。

「え、あの……」

言葉が出てこない。

クロトは少しだけ口元を緩めた。

「すべて本当です」

桜はまた俯いた。

やっぱり夢じゃない。

そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなるくらい嬉しい。

そして、ふと現実のことが頭をよぎる。

桜は少し息を整えてから言った。

「でも……」

クロトを見る。

「私、明日仕事なので、今日向こうに帰らないといけなくて」

クロトは静かに頷いた。

「そうですね」

桜はベンチの端を見つめた。

「帰ったら、その時点で……凜に巫女が交代しますよね」

「そうなります」

「そうしたら、私はもう巫女じゃない」

「はい」

クロトの答えは落ち着いていた。

まるで、その先のことも全部分かっているように。

桜は小さく息をつく。

「じゃあ……戻ってくるには」

クロトは少しだけ視線を柔らかくした。

「再召喚が必要になります」

桜はゆっくり頷く。

「魂の余韻期間の間に」

「はい」

「……一か月ですね」

「その通りです」

桜は少しだけ笑った。

「なんだか、急に現実ですね」

さっきまで、

告白とか、

プロポーズとか、

そんなことばかりで頭がいっぱいだった。

現実の話をしているうちに、少しだけ落ち着いてくる。

クロトは少し間を置いてから言う。

「帰還後、あちらではやることが多いでしょう」

桜は苦笑した。

「はい」

すぐに色々思い浮かぶ。

けど、最初は職場かなと少し気が重くなる。

「明日、出勤したら、まず勤務先に辞めますって言わないと」

それに、何より家族に話さなきゃ。

「自由には会えないから、家族とゆっくりしたいです」

桜は少し遠くを見る。

それから、少しだけクロトの方を見る。

「あの……」

「一か月、ギリギリまで日本にいてもいいですか」

クロトは少し申し訳なさそうに頷いた。

「もちろんです」

そして少し視線を落とす。

「……貴方をこの世界に引き留めた私が言えることではないですが」

「できるだけ、ご家族の傍にいてあげてください」

桜はすぐに首を振った。

「違います」

少し慌てたように続ける。

「私がここに居たいって思ったからです」

クロトを見る。

「それに」

桜は少し照れくさそうに笑う。

「私、クロトさんが拾ってくれなかったら、絶対結婚できてないですから」

母の顔がふっと頭に浮かぶ。

桜は苦笑した。

「母なんて、きっと感謝して送り出してくれます」

クロトは桜を見たまま、小さく頷いた。

ほんの一瞬だけ、目が細くなる。

「……そうですか」

そして静かに言う。

「ご家族の方には、くれぐれもよろしくとお伝えください」

桜はもう一度、小さく頷いた。

少しの沈黙のあと、クロトが言う。

「それから」

「再召喚の件も、各所への報告が必要になります」

桜は顔を上げた。

クロトは続ける。

「サクラ様も、診療所の方へご挨拶に行かれた方がよろしいかと」

桜は「あ……」と小さく声を漏らし、少し考えてから口を開いた。

「そうですよね。来年度も勤めるって言わないと」

それから続く声は、自然と小さくなる。

「……そうなると……」

「け、結婚とか言わないと駄目ですよね」

桜は思わず顔を伏せた。

「すっごい、恥ずかしいです」

クロトはその様子を見て、思わず少し笑った。

それから言う。

「まず、リエット様への報告が必要です」

そう言って桜を見る。

「……もう、立てそうですか」

そう言って手を差し出す。

桜は少し迷ってから、そっとその手をつかんだ。

クロトはそのまま桜を立たせる。

桜がきちんと立てたのを確かめてから、ふと握った手を見る。

「このままでも、いいですが……」

桜の顔がまた一気に赤くなる。

クロトはその様子を見て、小さく息をついた。

「……無理そうですね」

そう言って、そっと手を離す。

桜は慌てて視線を逸らした。

クロトは少しだけ口元を緩める。

「では、行きましょうか」

二人は並んで、結界修正の部屋の方へ向かった。