日曜日の夕刻。
日本から戻った桜は、王宮の回廊を歩いていた。
石床は静かで、夜番への交代前の落ち着いた時間帯。
数歩後ろに、クロト。
そのとき。
目の前の空間が、わずかに歪んだ。
音はない。
光もない。
ただ、空気が裂けるような違和感。
「下がってください」
鋭いが、敬語。
桜の腕が引かれ、身体が後方へ引き寄せられる。
同時に、クロトの前面に魔力結界が展開される。
次の瞬間。
轟音。
床石が砕け、衝撃が身体を震わせる。
桜には魔力は見えない。
だが、目の前に現れた“それ”が異常だということは分かる。
人の背丈を優に超える黒い巨体。
王宮内という距離。
あり得ない。
クロトは一瞬だけ周囲を測り、体の向きを変える。
片手を王宮外側へ向ける。
魔力弾を、外壁を越える角度で打ち上げる。
夜空へ閃光が走る。
緊急信号。
通信石を起動する。
「第2班、王宮内。高魔力型一体。即応」
そして桜へ。
「申し訳ありませんが、抱えます」
「首にしがみついて、振り落とされないようにしてください」
「はい」
以前、ただ一度。
巫女交代が突然起きる、その直前にも――似たことがあった。
あのときほどの混乱はない。
桜はクロトにしがみつく。
次の瞬間、身体が浮いた。
クロトは桜を抱えたまま、庭園へと全力で走る。
背後で二撃目が結界に叩きつけられる。
庭園へ出た瞬間。
第2班の内、五名が到着する。
魔物を視認した瞬間、全員が息をのむ。
報告通り。
高魔力型。
ノイン。
ヴァルド。
リーゼ。
そして結界担当の二名。
「副師団長!」
「外周固定。建物側は二重で押さえろ」
リーゼが桜へ駆け寄る。
「サクラ様、こちらへ!」
「安全域まで下がれ。建物内へ」
「承知しました」
リーゼが桜を連れ、庭園を離れる。
それでも、桜は振り返る。
クロトの背中を、一瞬だけ目で追う。
桜の気配が建物の内側へ入り、結界の層を越えたのを確認する。
――十分な距離。
視線が魔物へ戻る。
空気が変わる。
「短時間で終わらせる」
クロトの視線が動く。
「ノイン、左側面。意識を逸らせろ。三秒でいい」
「了解!」
ノインが魔物の左側面へ走る。
魔力弾を連続で放つ。
外皮を破る力はない。
だが、それでいい。
巨体の向きがわずかにずれる。
魔物の圧が、正面から外れる。
「余波は抑え込め。こちらの分も含めてだ」
「建物側、補強します」
ヴァルドは建物寄りへ展開する。
結界担当が外周を重ねる。
「今です!」
ノインの声。
その瞬間。
クロトの魔力が変質する。
圧縮。
通常の運用ではない。
明らかに無理をしている密度。
魔物が三度目の魔力波を放つ。
防がない。
前へ出る。
一瞬、結界を薄くする。
代わりに、魔力を一点へ集約。
中心核へ向け、純粋な魔力を込めた剣を叩き込む。
衝突。
爆ぜる光。
空気が裂ける音。
庭園の芝が一斉に倒伏する。
外周の結界が軋む。
だが、抑え込まれる。
数秒。
沈黙。
黒い塊が崩れる。
中心核が砕け、外皮が崩壊。
圧が消える。
残ったのは、抉れた地面と、焦げた芝。
クロトはその場に立ったまま、ゆっくり息を吐く。
周囲の結界が解除される。
ヴァルドが、その背中を見ながら、誰にも聞こえない声でつぶやく。
「……相変わらず、無茶を」
誰も見ていない一瞬。
右手を下ろす。
指先が、わずかに震える。
手袋越しにも残る鈍い痺れ。
一度だけ、指が思うように閉じない。
一点集中の反動。
過密な魔力運用。
すぐに拳を握る。
震えを止める。
呼吸を整える。
振り返ったときには、もう揺らぎはない。
「二次出現なし」
ノインの報告。
「王宮の損傷、軽微」
結界担当の一名が続ける。
ヴァルドが通信石を起動する。
「師団長へ報告。王宮内にて高魔力型一体出現。副師団長が対応、消滅確認」
短い沈黙。
『了解。王宮全域に警戒レベルを引き上げる。
既に各班を展開中だ。
他師団へ状況共有、外周封鎖を強化する』
低く、揺るがぬ声。
「承知しました」
クロトは通信のやり取りを聞き終え、静かに言う。
「リエット様の元へ向かう。後は頼む」
ヴァルドが一礼する。
「了解しました」
クロトは踵を返し、結界調整の部屋へと向かった。
庭園に、夜の静けさが戻る。
――――――――――
■リエットの見解
結界制御室。
リエットは結界に直接触れ、意識を巡らせている。
層の震えはすでに均され、空間は安定していた。
外では数名の巫女が監視を続け、入口には増員された騎士が控えている。
扉が開き、クロトが入室する。
「状況はいかがですか」
「揺らぎは一瞬でした。すでに収束しています」
リエットは目を閉じたまま答える。
「発生が王宮の結界の内層だったというだけです」
「想定内でしょうか」
「えぇ。以前お話しした通り、構造上仕方のないことです」
短い沈黙の後、クロトが低く告げる。
「前回は高魔力型ではありませんでしたが、今回は高魔力型でした」
リエットはわずかに指先の力を強める。
「サクラ様の修正作業が、まだ終わっていません」
結界の層が、ほんの一瞬だけ波打つ。
「揺らぎの質は、前回より不安定です」
「他の地点で同様の現象が確認されていることは、貴方もご存じのはずです」
クロトは視線を落とし、短く息を吐く。
「再発の可能性は」
「否定はできません」
わずかな沈黙が落ちる。
「ですが、今まで通り対応すれば十分です」
リエットはゆっくりと指先を離し、再び結界へ触れる。
「今回は私の制御で足りました」
「サクラ様のお力も不要でした」
室内の空気は、すでに落ち着いている。
わずかに間を置いて、リエットが続ける。
「……クロト様」
クロトが視線を向ける。
「内層での魔力圧縮は、結界越しにも明確に検知できました」
「倒せるのは貴方しかいません」
リエットは事実を受け止めたまま、言葉を継ぐ。
「ですが、あそこまで無理をなさる必要はありませんでした」
「他の選択も、取れたはずです」
リエットは初めて結界から意識を外し、クロトへ視線を向ける。
「守るべきは結界だけではありません」
「貴方の消耗も、結界は感知しています」
その視線は、ほんのわずかに心配を滲ませていた。
「どうか無茶を重ねないでください」
クロトは短く息を吐く。
「……承知しています」
「本当に?」
問い詰める声ではない。
クロトの視線が、ほんのわずかに揺れる。
「王宮内であっても、特別な事案ではありません」
リエットは再び意識を結界へ戻す。
室内に、静かな緊張が残った。
――――――――――
■桜の視点
部屋に戻ると、ようやく足の力が抜けた。
庭園の衝撃はもう届かない。
けれど、さきほど見た黒い巨体だけが、目の奥に残っている。
前回よりも、異様だった。
姿も。
まとっている空気も。
クロトさんたちは、あんな魔物と普段から戦っている。
それを、あらためて思い知らされる。
リーゼは室内の一角に立ち、警戒を解かない。
けれど、その視線はどこか柔らかい。
「……怪我をした方はいませんでしたか」
リーゼは、わずかに表情を緩める。
「大丈夫です。皆、無事です」
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
「よかった……」
息を吐いたあと、ふと、思い出す。
これで魔物を見たのは二回目。
しかも、王宮の中で。
一度目のあと、日本で叔母と話したとき、
何気ない調子で言われた。
――私の時代には、なかったわね。
王宮の中に魔物が出ることなんて。
あのときは、ただ怖かった記憶のほうが強くて、
言葉の意味までは考えなかった。
けれど。
桜は顔を上げる。
「リーゼさん」
「はい」
「王宮の中って……結界で守られているんですよね」
「はい」
「じゃあ、今日みたいに中に出るのって……普通のことなんですか」
リーゼはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙のあと、静かに言う。
「……明日、リエット様にお尋ねになってはいかがでしょうか」
それ以上は、聞いても教えてもらえないと分かる。
桜は小さく頷いた。
日本から戻った桜は、王宮の回廊を歩いていた。
石床は静かで、夜番への交代前の落ち着いた時間帯。
数歩後ろに、クロト。
そのとき。
目の前の空間が、わずかに歪んだ。
音はない。
光もない。
ただ、空気が裂けるような違和感。
「下がってください」
鋭いが、敬語。
桜の腕が引かれ、身体が後方へ引き寄せられる。
同時に、クロトの前面に魔力結界が展開される。
次の瞬間。
轟音。
床石が砕け、衝撃が身体を震わせる。
桜には魔力は見えない。
だが、目の前に現れた“それ”が異常だということは分かる。
人の背丈を優に超える黒い巨体。
王宮内という距離。
あり得ない。
クロトは一瞬だけ周囲を測り、体の向きを変える。
片手を王宮外側へ向ける。
魔力弾を、外壁を越える角度で打ち上げる。
夜空へ閃光が走る。
緊急信号。
通信石を起動する。
「第2班、王宮内。高魔力型一体。即応」
そして桜へ。
「申し訳ありませんが、抱えます」
「首にしがみついて、振り落とされないようにしてください」
「はい」
以前、ただ一度。
巫女交代が突然起きる、その直前にも――似たことがあった。
あのときほどの混乱はない。
桜はクロトにしがみつく。
次の瞬間、身体が浮いた。
クロトは桜を抱えたまま、庭園へと全力で走る。
背後で二撃目が結界に叩きつけられる。
庭園へ出た瞬間。
第2班の内、五名が到着する。
魔物を視認した瞬間、全員が息をのむ。
報告通り。
高魔力型。
ノイン。
ヴァルド。
リーゼ。
そして結界担当の二名。
「副師団長!」
「外周固定。建物側は二重で押さえろ」
リーゼが桜へ駆け寄る。
「サクラ様、こちらへ!」
「安全域まで下がれ。建物内へ」
「承知しました」
リーゼが桜を連れ、庭園を離れる。
それでも、桜は振り返る。
クロトの背中を、一瞬だけ目で追う。
桜の気配が建物の内側へ入り、結界の層を越えたのを確認する。
――十分な距離。
視線が魔物へ戻る。
空気が変わる。
「短時間で終わらせる」
クロトの視線が動く。
「ノイン、左側面。意識を逸らせろ。三秒でいい」
「了解!」
ノインが魔物の左側面へ走る。
魔力弾を連続で放つ。
外皮を破る力はない。
だが、それでいい。
巨体の向きがわずかにずれる。
魔物の圧が、正面から外れる。
「余波は抑え込め。こちらの分も含めてだ」
「建物側、補強します」
ヴァルドは建物寄りへ展開する。
結界担当が外周を重ねる。
「今です!」
ノインの声。
その瞬間。
クロトの魔力が変質する。
圧縮。
通常の運用ではない。
明らかに無理をしている密度。
魔物が三度目の魔力波を放つ。
防がない。
前へ出る。
一瞬、結界を薄くする。
代わりに、魔力を一点へ集約。
中心核へ向け、純粋な魔力を込めた剣を叩き込む。
衝突。
爆ぜる光。
空気が裂ける音。
庭園の芝が一斉に倒伏する。
外周の結界が軋む。
だが、抑え込まれる。
数秒。
沈黙。
黒い塊が崩れる。
中心核が砕け、外皮が崩壊。
圧が消える。
残ったのは、抉れた地面と、焦げた芝。
クロトはその場に立ったまま、ゆっくり息を吐く。
周囲の結界が解除される。
ヴァルドが、その背中を見ながら、誰にも聞こえない声でつぶやく。
「……相変わらず、無茶を」
誰も見ていない一瞬。
右手を下ろす。
指先が、わずかに震える。
手袋越しにも残る鈍い痺れ。
一度だけ、指が思うように閉じない。
一点集中の反動。
過密な魔力運用。
すぐに拳を握る。
震えを止める。
呼吸を整える。
振り返ったときには、もう揺らぎはない。
「二次出現なし」
ノインの報告。
「王宮の損傷、軽微」
結界担当の一名が続ける。
ヴァルドが通信石を起動する。
「師団長へ報告。王宮内にて高魔力型一体出現。副師団長が対応、消滅確認」
短い沈黙。
『了解。王宮全域に警戒レベルを引き上げる。
既に各班を展開中だ。
他師団へ状況共有、外周封鎖を強化する』
低く、揺るがぬ声。
「承知しました」
クロトは通信のやり取りを聞き終え、静かに言う。
「リエット様の元へ向かう。後は頼む」
ヴァルドが一礼する。
「了解しました」
クロトは踵を返し、結界調整の部屋へと向かった。
庭園に、夜の静けさが戻る。
――――――――――
■リエットの見解
結界制御室。
リエットは結界に直接触れ、意識を巡らせている。
層の震えはすでに均され、空間は安定していた。
外では数名の巫女が監視を続け、入口には増員された騎士が控えている。
扉が開き、クロトが入室する。
「状況はいかがですか」
「揺らぎは一瞬でした。すでに収束しています」
リエットは目を閉じたまま答える。
「発生が王宮の結界の内層だったというだけです」
「想定内でしょうか」
「えぇ。以前お話しした通り、構造上仕方のないことです」
短い沈黙の後、クロトが低く告げる。
「前回は高魔力型ではありませんでしたが、今回は高魔力型でした」
リエットはわずかに指先の力を強める。
「サクラ様の修正作業が、まだ終わっていません」
結界の層が、ほんの一瞬だけ波打つ。
「揺らぎの質は、前回より不安定です」
「他の地点で同様の現象が確認されていることは、貴方もご存じのはずです」
クロトは視線を落とし、短く息を吐く。
「再発の可能性は」
「否定はできません」
わずかな沈黙が落ちる。
「ですが、今まで通り対応すれば十分です」
リエットはゆっくりと指先を離し、再び結界へ触れる。
「今回は私の制御で足りました」
「サクラ様のお力も不要でした」
室内の空気は、すでに落ち着いている。
わずかに間を置いて、リエットが続ける。
「……クロト様」
クロトが視線を向ける。
「内層での魔力圧縮は、結界越しにも明確に検知できました」
「倒せるのは貴方しかいません」
リエットは事実を受け止めたまま、言葉を継ぐ。
「ですが、あそこまで無理をなさる必要はありませんでした」
「他の選択も、取れたはずです」
リエットは初めて結界から意識を外し、クロトへ視線を向ける。
「守るべきは結界だけではありません」
「貴方の消耗も、結界は感知しています」
その視線は、ほんのわずかに心配を滲ませていた。
「どうか無茶を重ねないでください」
クロトは短く息を吐く。
「……承知しています」
「本当に?」
問い詰める声ではない。
クロトの視線が、ほんのわずかに揺れる。
「王宮内であっても、特別な事案ではありません」
リエットは再び意識を結界へ戻す。
室内に、静かな緊張が残った。
――――――――――
■桜の視点
部屋に戻ると、ようやく足の力が抜けた。
庭園の衝撃はもう届かない。
けれど、さきほど見た黒い巨体だけが、目の奥に残っている。
前回よりも、異様だった。
姿も。
まとっている空気も。
クロトさんたちは、あんな魔物と普段から戦っている。
それを、あらためて思い知らされる。
リーゼは室内の一角に立ち、警戒を解かない。
けれど、その視線はどこか柔らかい。
「……怪我をした方はいませんでしたか」
リーゼは、わずかに表情を緩める。
「大丈夫です。皆、無事です」
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
「よかった……」
息を吐いたあと、ふと、思い出す。
これで魔物を見たのは二回目。
しかも、王宮の中で。
一度目のあと、日本で叔母と話したとき、
何気ない調子で言われた。
――私の時代には、なかったわね。
王宮の中に魔物が出ることなんて。
あのときは、ただ怖かった記憶のほうが強くて、
言葉の意味までは考えなかった。
けれど。
桜は顔を上げる。
「リーゼさん」
「はい」
「王宮の中って……結界で守られているんですよね」
「はい」
「じゃあ、今日みたいに中に出るのって……普通のことなんですか」
リーゼはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙のあと、静かに言う。
「……明日、リエット様にお尋ねになってはいかがでしょうか」
それ以上は、聞いても教えてもらえないと分かる。
桜は小さく頷いた。

