■誕生日の夜
アルト・ヴァルハルトの自宅では、今夜、娘リナの誕生日会が行われていた。
大きな祝宴ではない。
家族だけの、ささやかな食事会だ。
テーブルの中央には、エリスが焼いた小さなケーキが置かれている。
「クロトおじちゃん、これ見て!」
リナが両手いっぱいに絵を広げる。
拙い線で描かれた騎士の姿。金色の髪だけが、やけに丁寧に塗られている。
クロトは一瞬、その絵を見つめた。
それから、わずかに口元を緩める。
「うまいな」
「ほんと?」
「ああ。ちゃんと剣も描けてる」
リナは満足そうに笑った。
クロトは持参した小さな包みを差し出す。
「気に入るかどうかわからないが」
「わあ!」
包みの中には、小ぶりな髪留め。小さな青い石が埋め込まれている。
「きれい!」
リナの嬉しそうな表情に、クロトは目を細めた。
「派手すぎないものを選んだ。なくすなよ」
「はーい!」
アルトが笑う。
「相変わらず実用重視だな」
「壊れにくいほうがいいだろ」
エリスが穏やかに微笑む。
「本当に、忙しいのに毎年来てくれてありがとう」
「いえ、リナに会うのは楽しみですから」
そのリナは、眠そうに目をこすっていた。
「そろそろ寝ましょうか」
エリスが抱き上げる。
「クロトさん、今度は泊まっていってくださいね」
「ええ」
「クロトおじちゃん、またね!」
「またな」
寝室の扉が閉まる。
――――――――――
■選択肢
アルトはゆっくりと椅子に座りなおした。
「……今、少し話してもいいか」
クロトはうなずく。
「構わない」
「長くは取らないよ」
アルトはグラスを置いた。
「リエット殿から、ひとつ共有があった。お前にも知っておいてもらった方が良いと思ってな」
「サクラ殿の話だ」
クロトの手が、ほんのわずかに止まる。
表情は変わらない。
だが空気がわずかに張る。
「原則、巫女の交代は強制。そこは今まで通り変わらない」
「だが、交代後、魂にはわずかにこの世界の余韻が残るらしい」
クロトの視線が、わずかに鋭くなる。
「その期間内であれば、巫女ではない立場でも理論上は再召喚が可能だと」
「さらに、こちらの世界に定着しても、サクラ殿の世界への一時帰還は不可能ではないらしい」
クロトの喉がわずかに動く。
「……期間は」
「もちろんある。かなり限定的だ。安全を取るなら、ごく短い期間のみ」
「リエット殿がいずれ安全な期間を割り出すだろう」
クロトは低く言う。
「理論上の話だ」
アルトは静かに返す。
「リエット殿の理論だ。大きく外れてはいないと思っている」
クロトの指先に力が入る。
「限定的な一時帰還だろう」
アルトはうなずく。
クロトの声はさらに低くなる。
「ならば、サクラ様が選ぶはずがない」
低く、抑えた声だった。
だが、言葉はそこで終わらなかった。
「彼女は家族を大切にしている。自由に家族に会えない選択など、取るはずがない」
「この世界に多少思い入れがあったとしても、短い帰還しか許されないなら、現実的ではない」
「そんな現実的でない選択肢を示す意味が、どこにある」
家の中は静まり返っている。
「意味はある」
アルトは否定しない。
弟を見据えたまま、続ける。
「選ばないと分かっている選択肢でも、示さなければならないことがある」
間を置く。
「知らせないままにしておくのは、誠実とは言えない」
「選ぶはずがない、とお前は言う」
「だが、それを決めるのはお前ではない」
「戻ると決めるのか。残ると決めるのか。決めるのは彼女だ」
クロトは目を伏せる。
理屈で自分を納得させようとする。
だが、その理屈がわずかに揺らぐ。
「……分かっている」
それだけが、答えだった。
アルトはそれ以上追わない。
弟の揺れは、もう十分に見えていた。
――――――――――
■桜の帰還
水曜日の昼前。
桜が着地した瞬間、視界がわずかに揺れた。
倒れるほどではない。
だが、足に力が入らない。
「サクラ様、かなりお疲れなようです」
リエットの心配そうな声。
「……大丈夫、です。夜勤明けなだけで」
言葉が少し遅れる。
リエットが一歩近づく。
「クロト様」
背後で控えていたクロトが、すぐに歩み寄る。
何も言わず、腕を差し出す。
桜は一瞬だけ視線を上げる。
わずかに頬が熱い。
けれど、眠気には勝てなかった。
その手を取る。
思ったより、しっかりとした温度。
「……すみません。やっぱり、少し寝てから来ればよかったです」
声がかすれる。
クロトは短く答える。
「無理をなさる必要はありません」
それだけ。
支えられながら、桜は歩き出す。
まだ何も知らないまま。
アルト・ヴァルハルトの自宅では、今夜、娘リナの誕生日会が行われていた。
大きな祝宴ではない。
家族だけの、ささやかな食事会だ。
テーブルの中央には、エリスが焼いた小さなケーキが置かれている。
「クロトおじちゃん、これ見て!」
リナが両手いっぱいに絵を広げる。
拙い線で描かれた騎士の姿。金色の髪だけが、やけに丁寧に塗られている。
クロトは一瞬、その絵を見つめた。
それから、わずかに口元を緩める。
「うまいな」
「ほんと?」
「ああ。ちゃんと剣も描けてる」
リナは満足そうに笑った。
クロトは持参した小さな包みを差し出す。
「気に入るかどうかわからないが」
「わあ!」
包みの中には、小ぶりな髪留め。小さな青い石が埋め込まれている。
「きれい!」
リナの嬉しそうな表情に、クロトは目を細めた。
「派手すぎないものを選んだ。なくすなよ」
「はーい!」
アルトが笑う。
「相変わらず実用重視だな」
「壊れにくいほうがいいだろ」
エリスが穏やかに微笑む。
「本当に、忙しいのに毎年来てくれてありがとう」
「いえ、リナに会うのは楽しみですから」
そのリナは、眠そうに目をこすっていた。
「そろそろ寝ましょうか」
エリスが抱き上げる。
「クロトさん、今度は泊まっていってくださいね」
「ええ」
「クロトおじちゃん、またね!」
「またな」
寝室の扉が閉まる。
――――――――――
■選択肢
アルトはゆっくりと椅子に座りなおした。
「……今、少し話してもいいか」
クロトはうなずく。
「構わない」
「長くは取らないよ」
アルトはグラスを置いた。
「リエット殿から、ひとつ共有があった。お前にも知っておいてもらった方が良いと思ってな」
「サクラ殿の話だ」
クロトの手が、ほんのわずかに止まる。
表情は変わらない。
だが空気がわずかに張る。
「原則、巫女の交代は強制。そこは今まで通り変わらない」
「だが、交代後、魂にはわずかにこの世界の余韻が残るらしい」
クロトの視線が、わずかに鋭くなる。
「その期間内であれば、巫女ではない立場でも理論上は再召喚が可能だと」
「さらに、こちらの世界に定着しても、サクラ殿の世界への一時帰還は不可能ではないらしい」
クロトの喉がわずかに動く。
「……期間は」
「もちろんある。かなり限定的だ。安全を取るなら、ごく短い期間のみ」
「リエット殿がいずれ安全な期間を割り出すだろう」
クロトは低く言う。
「理論上の話だ」
アルトは静かに返す。
「リエット殿の理論だ。大きく外れてはいないと思っている」
クロトの指先に力が入る。
「限定的な一時帰還だろう」
アルトはうなずく。
クロトの声はさらに低くなる。
「ならば、サクラ様が選ぶはずがない」
低く、抑えた声だった。
だが、言葉はそこで終わらなかった。
「彼女は家族を大切にしている。自由に家族に会えない選択など、取るはずがない」
「この世界に多少思い入れがあったとしても、短い帰還しか許されないなら、現実的ではない」
「そんな現実的でない選択肢を示す意味が、どこにある」
家の中は静まり返っている。
「意味はある」
アルトは否定しない。
弟を見据えたまま、続ける。
「選ばないと分かっている選択肢でも、示さなければならないことがある」
間を置く。
「知らせないままにしておくのは、誠実とは言えない」
「選ぶはずがない、とお前は言う」
「だが、それを決めるのはお前ではない」
「戻ると決めるのか。残ると決めるのか。決めるのは彼女だ」
クロトは目を伏せる。
理屈で自分を納得させようとする。
だが、その理屈がわずかに揺らぐ。
「……分かっている」
それだけが、答えだった。
アルトはそれ以上追わない。
弟の揺れは、もう十分に見えていた。
――――――――――
■桜の帰還
水曜日の昼前。
桜が着地した瞬間、視界がわずかに揺れた。
倒れるほどではない。
だが、足に力が入らない。
「サクラ様、かなりお疲れなようです」
リエットの心配そうな声。
「……大丈夫、です。夜勤明けなだけで」
言葉が少し遅れる。
リエットが一歩近づく。
「クロト様」
背後で控えていたクロトが、すぐに歩み寄る。
何も言わず、腕を差し出す。
桜は一瞬だけ視線を上げる。
わずかに頬が熱い。
けれど、眠気には勝てなかった。
その手を取る。
思ったより、しっかりとした温度。
「……すみません。やっぱり、少し寝てから来ればよかったです」
声がかすれる。
クロトは短く答える。
「無理をなさる必要はありません」
それだけ。
支えられながら、桜は歩き出す。
まだ何も知らないまま。

