役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

■突然の出勤依頼

土曜日の夕方。

申し送りが終わりかけた頃、科長がナースステーションの端から声をかけた。

「桜さん、ちょっといい?」

「はい」

画面から目を上げ、桜は歩み寄る。マスク越しでも、科長の疲れは隠せていなかった。

「ごめんね。スタッフが何人かインフルで出勤停止でね」

科長は肩を落とす。

「急で悪いんだけど、日曜から火曜まで勤務お願いできないかな。日勤、日勤、夜勤って形になるんだけど」

押しつける響きはない。ただ、現実を並べているだけだ。

桜は一瞬だけ考える。

「帰って予定を確認して、ご連絡します」

「うん、無理なら無理でいいから」

「分かりました」

科長はすぐに別の指示へ向かった。ナースコールの音が重なり、会話はそこで途切れた。

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■鏡越しの確認

帰宅してバッグを置くと、そのまま鏡の前に立つ。

呼びかけると、ほどなくしてリエットの姿が映る。

「こんばんは、サクラ様」

「こんばんは、リエット様。少しご相談があって」

桜は簡潔に伝える。

「職場内で流行り風邪が広がっていて、人手が足りないらしくて。日曜から火曜まで急に勤務を頼まれてしまいました。水曜の昼前には戻れればと……結界の状態は、大丈夫でしょうか」

リエットはすぐにうなずく。

「結界は安定しております。急な揺らぎもありません」

落ち着いた声が続く。

「水曜までであれば問題ないと思います。そちらのお仕事を優先なさってください」

桜は小さく息を吐く。

「ありがとうございます。水曜の昼前には戻ります」

「お待ちしております、サクラ様」

鏡は沈黙した。

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■発熱外来

「田中さん、発熱外来お願いします」

「はい」

そう呼ばれて振り向く。

救急に配属された頃は、同じ苗字の先輩がいた。その名残で、名前で呼ばれることも多かった。先輩が異動してからは、いつの間にか苗字で呼ばれることのほうが増えている。

発熱外来は途切れない。ひっきりなしに患者が来る。

「桜さん、検査キット足りてます?」

「大丈夫、あと10キットあります」

ガウンを整え、フェイスシールドを下ろす。

「熱はいつからですか?」

「水分はとれてますか?」

検体を受け取り、次の患者へ向かう。

廊下の向こうから別の声が飛ぶ。

「右下腹部痛、虫垂炎疑い入ります」

「肺炎、SpO₂92です」

発熱外来とは別の動線で、処置室が慌ただしく動いている。

発熱外来を一緒に回している後輩が、小声で言った。

「田中さん、本当に助かります。私、6日勤覚悟してました」

桜はマスク越しに目を細める。

「私も今、土曜だけで入らせてもらってるし。お互い様だよ」

「それでも助かります」

「次、あと何人?」

「三人です」

「じゃあ、順番に回していきましょう」

体は迷わない。

指示も、動きも、自然に出る。

違和感はない。

ここで積み重ねてきた時間が、確かにある。

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■眠れない夜

月曜の夜。

三日連続の、久々の日本での日勤。

大きなトラブルはなかった。

それでも、足の奥にじわりと疲労が残っている。

明日は久しぶりの当直。

大丈夫かな、と思いながらベッドに入る。

目を閉じても、すぐには眠れない。

昼間の発熱外来の光景が、まだ頭の奥に残っている。

――私は、ここの人間なんだ。

そう思う。

数日働くと、その思いは少しずつ強くなる。

もし、あの世界に戻らなければ。

ここで働き続けるのだろう。

それはきっと、普通の人生。

悪くない。たぶん。

けれど。

あちらの世界も、私の日常になりつつある。

診療所で働き始めてからの日々は、思っていた以上に充実している。

人間関係も、むしろこちらより好きになっているかもしれない。

護衛騎士の人たちに読み書きを教えてもらったり、料理を作ってみたり。

関わる人は、思った以上に増えていった。

それに、何より、クロトさんと顔を合わせる時間が増えた。

特別なことをしているわけではない。

それでも、思い出は確実に積み重なっている。

渡された守り石は、私にとって宝物になった。

職務の一環だと分かってはいても、嬉しい気持ちは消せなかった。

けれど、その石はこの世界には持ち込めない。

結界に触れた瞬間、守り石はやわらかく弾かれる。
この世界には持ち込めないのだと、はっきり分かる。

だからといって、あちらの世界を選べるはずもない。

あちらを選べば、もうここには戻れない。

それは、最初から分かっている。

今はまだ、巫女である限り、クロトさんと顔を合わせる理由があるし、言葉を交わすきっかけもある。

けれど、役目を終えたら、きっと動線は交わらなくなる。

遠くなるというより、ただ会わなくなる。

それに――

家族と二度と会えなくなるのは、無理だ。

それだけは、はっきりしている。

分かっている。

それでも。

もう、きっと忘れられない。

何も言わないまま終わるのだろうか。

暗闇の中で、エリアナの声がよみがえる。

――言葉にできなかった後悔は、長く残るかもしれません。

後悔。

その言葉が、胸の奥に沈む。

桜は寝返りを打つ。

明日も仕事だ。

そう自分に言い聞かせながら、目を閉じる。

眠りは、すぐには訪れなかった。

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久しぶりの夜勤は、見事に引いた。

救急搬送が立て続けに入り、発熱外来も夜になっても途切れない。

気づけば、明け方の空が白んでいる。

仮眠はほとんど取れなかった。

体の芯が重い。

それでも、時間は来る。

水曜の朝。

仕事を終えて帰宅する。

ここで寝ないで、向こうで寝ればいいか。

そんな軽い気持ちで、眠気と戦いながら鏡に手を伸ばす。

慣れているはずの移動が、今日はやけに長く感じた。

着地した瞬間、視界がわずかに揺れる。

倒れるほどではない。

けれど、移動で体力を奪われたのか、立っていないと眠ってしまいそうだった。

やはり、少し寝てから来ればよかった。

そんな当たり前のことを、今になって思う。