役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

■診療所にて

朝の診療所は、いつも通りの慌ただしさだった。

特別な日であることを、あえて誰も口にしない。

「エリナ、少しいい?」

マルタが声をかける。

作業机の前で書類を束ねていたエリアナは、顔を上げた。

「はい」

桜とイルゼ、クラウスがそばに立っている。

小さな木箱が差し出された。

「たいしたものじゃないけどね」

マルタが笑う。

「一緒に働いてくれたお礼も込めてね」

クラウスが頷く。

「文書整理、助かったよ。本当に」

イルゼが穏やかに続ける。

「就寝前に少量、です。無理はなさらないでくださいね」

エリアナは箱を両手で受け取った。

中には、薄い和紙に挟まれた薬草の押し花の栞と、小さなハーブティーの包み。

簡素な紙片に短く記されている。

診療所ブレンド
就寝前に少量

飾りはない。

王族への贈答ではない。

診療所から、エリナへ。

「……ありがとうございます」

その声は、わずかに揺れていた。

「本当に助かりました」

桜も言葉を添える。

「こちらでの時間は、忘れません」

エリアナは静かに言う。

マルタが肩をすくめる。

「忘れなくていいけど、無理はしないこと」

「困ったら、ここに来なさい。いつでも診るからな」

クラウスの言葉に、エリアナは小さく笑った。

エリアナが笑っていることに、桜はホッとした。

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■夜の訪問

夜。

出立前の最終確認のため、桜はエリアナの部屋を訪れた。

「呼吸音、安定しています。今夜も発作の兆候はありません」

最後の体調確認を終える。

「明日の移動に支障はないと思います」

「ありがとうございます。本当に、貴方にはお世話になりました」

静かな部屋。

灯りは落とされ、窓の外は夜の庭。

エリアナが、ゆっくりと口を開く。

「役目が終われば、いなくなってしまうのでしょう?」

桜の指先が止まる。

「……え?」

「貴方の役目が終われば、この国からいなくなるのですよね?」

否定できない。

曖昧に、うなずく。

エリアナは、まっすぐに桜を見る。

「クロトさまのこと、お好きなのでしょう」

顔が一気に熱くなる。

言葉が出ない。

「気持ちを、お伝えにはならないのですか?」

逃げ場のない問い。

桜はようやく息を吸う。

「そんな……生きる世界が違いますし、何より私のことなんて、なんとも思ってないですし」

少し早口になる。

「うまくいくとは思えませんし……」

自分を守る言葉が、重なる。

エリアナは静かに聞いている。

「うまくいかないと分かっているから、口にしないのですか?」

穏やかに。

「それで、本当によろしいのでしょうか?」

「告白して……嫌な想いをさせたらと思うと」

一度、言葉を切る。

「……クロトさんは、きっと表情、変わらないと思います」

小さく笑う。

「優しいですから。それに、きちんと断ると思います」

「私を傷つけないように、言葉も選んで」

ほんの少しだけ、声が弱くなる。

「そのあとも、今まで通り接してくれると思います」

一息ついてから、続ける。

「でも……内心は、きっと困ると思うんです」

「私が、こんな気持ちを抱えていたって知ったら」

喉が詰まる。

「迷惑だって、きっと思います」

小さく苦笑する。

「それに……」

一瞬だけ迷う。

「振られるって分かっているのに言うのは、正直、かなり恥ずかしいです」

視線を落とす。

「そんなふうに見てたんだって、思われるのが怖いです」

かすかに息を吐く。

「だから、何も言わないほうが、まだ平気でいられるかなって……」

「最後の印象は、できるだけ良いままで終わりたいから……」

言い切れない。

エリアナは、ほんの少し目を細める。

「私とは違って」

静かな間。

「貴方は、選ぶことができます」

桜が顔を上げる。

「それが、望んだ形にならなかったとしても」

「思い通りにならなかったとしても」

やわらかな声。

「選ばなかったことの後悔のほうが、長く残るかもしれません」

静かに置かれる言葉。

「貴方の時間は、永遠ではありません」

その声は、優しい。

「戻って来られなくなる前に」

ほんの少しだけ、強さが滲む。

「一度、お考えになってはいかがですか」

桜は、苦く笑う。

「……これでは、どちらが年上か分かりませんね」

「ええ。姫としての経験が長いですから」

わずかに、いたずらめいた光。

だがすぐに、穏やかな顔へ戻る。

「本当に、お世話になりました」

「こちらこそ」

短い言葉。

それで十分だった。

桜が立ち上がる。

扉の前で振り返る。

エリアナは、木箱を胸元に抱いている。

エリナとして受け取った贈り物。

王族ではない時間の証。

「どうか、お元気でいてください」

「貴方も」

扉が静かに閉まる。

その向こうで、エリアナは小さく呟いた。

「選べる人は、選ぶべきです」

それは、もう桜には届かない。

だが、確かに残った。

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■出立前

朝。

荷はすでに整えられていた。

窓の外には、護衛の騎士たちが静かに待機している。

控えめなノックの音。

「特別師団副師団長、クロト・ヴァルハルトです」

「どうぞ」

扉が開く。

クロトは一礼する。

「アグライア帝国まで、責任をもってお送りいたします」

変わらぬ、落ち着いた声。

「よろしくお願いいたします、副師団長」

エリアナは穏やかに応じる。

形式的な確認がいくつか交わされる。

出立の時刻、経路、警護体制。

不足はない。

沈黙が落ちる。

エリアナが、ふとクロトを見た。

「クロト様」

「はい」

「ひとつだけ、お聞きしてもよろしいですか」

クロトは視線を逸らさない。

「何なりと」

「サクラ様に、ご好意をお持ちなのでしょう」

空気が、わずかに張り詰める。

クロトは顔色を変えない。

だが、両手をわずかに握りしめた。

答えはない。

沈黙が、数拍続く。

「ご安心ください。これ以上推察するつもりはありません」

「ただ」

わずかに間を置く。

「言葉にできなかった後悔は、長く残るものです」

クロトの呼吸が、ほんのわずかに深くなる。

「時間は、永遠ではありません」

「理性だけで終わらせてしまうには、惜しいと感じただけです」

やがて、低く答える。

「……承知しております」

肯定でも否定でもない。

ただ、それだけ。

エリアナは小さく微笑む。

「では、参りましょう」

王族の顔に戻る。

クロトは一礼する。

「お足元にご注意を」

扉が開かれる。

廊下の先には、出立の朝の光が差し込んでいた。

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■馬車の中

馬車がゆっくりと王宮を離れる。

石畳を打つ車輪の音が、一定のリズムで続いている。

エリアナは、膝の上の木箱に指を添えた。

言葉にできなかった後悔。

それが、誰のものだったのか。

考えるまでもない。

小さく息を吐く。

立場は、時に正しい。

だが、正しさがすべてを守るわけではないことも、彼女は知っている。

ほんの少しだけ。

あの二人が、同じ方向を向いて立っている未来があるのなら。

それを、見てみたかった。

ただ、それだけだ。

馬車は速度を上げる。

王が代わり、粛清は止まった。

兄から届いた手紙には、短くこう記されていた。

「これ以上、誰も失わないようにする」

それが最初の約束だった。

だが、国はまだ落ち着いてはいない。

急に変わった玉座に、人々は戸惑いを隠している。

声の大きさを測りながら話す癖は、すぐには消えない。

再編は進んでいる。

だが、信頼はゆっくりとしか戻らない。

それでも、前へ進むしかないのだろう。

エリアナは静かに目を開けた。

アグライア帝国が、待っている。