■結界修正の今後
今日は、わりと順調だったと思う。
触れればちゃんと整うし、継ぎ目もきれいに馴染む。
修正するところはまだあるから、今は、まだ私の仕事だと思う。
でも。
触れたときに、なんとなく分かる。
いくら丁寧に縫っても、この部分はもう変わらないのかもしれない、という箇所が出てきている。
前みたいに、触れるたびに少しずつ良くなっていく感じは、あまりない。
だからといって、まだ交代の時期ではないのも分かっている。
手を入れるべきところは、まだいくつも残っているし、それをきちんと整えきるまでは、私の役目だと思う。
それでも。
最初に自分で区切った二年という時間は、そんなにずれていなかったのかもしれない。
あと、数か月くらいだと思う。
凜には、まだ何も話していない。交代のことも、その理由も。
巫女交代の話題を、凜が意図的に避けていることにも気づいている。
私といる時に、この世界の話をあまりしなくなっていることも。
もしかしたら、理由に思い当たるところがあるのかもしれない。
私よりも何倍も勘のいい子だし。
でも、いつかはきちんと話し合わなきゃいけない。
そろそろ、その時期が近づいている。
――――――――
■日本の職場の来年度の予定
土曜日の救急外来は、朝から慌ただしかった。
軽症の切創もあれば、発熱でぐったりした高齢者もいる。救急車のサイレンが近づくたびに、空気が一段張りつめる。
患者の状態を確認し、点滴の準備をして、処置の補助に入る。患者の家族への説明、記録の入力、バイタルの再確認。
気づけば夕方だった。
申し送りを終え、ナースステーションの時計を見たとき、ようやく一息ついた気がした。
スクラブの袖を整えながら更衣室へ向かおうとしたところで、科長に声をかけられる。
「ちょっといい?」
振り返ると、いつも通りの落ち着いた表情だった。
「来年度のことなんだけど」
「はい」
小さく頷く。
「正社員、戻れそう?」
言い方は柔らかいが、内容は現実的だ。
「もうそろそろ、人員配置を考え直さないといけないから」
責める口調ではない。
ただ、病院としての当然の確認。
私は少しだけ考えてから答える。
「正直に言うと、まだ分からなくて」
科長は黙って続きを待つ。
「いつまでに返事をすれば、大丈夫ですか?」
「そうね、最低でも1か月前までには欲しいわね」
1か月前。
返事が比較的直前で良いことに科長の心遣いを感じる。
「あなたが迷っているのは分かっているから。まぁ、ゆっくり考えて」
「ありがとうございます、直前まで待って頂いて」
「だけど、三月までには、お願いね」
「はい、必ず」
それで話は終わった。
いつも通りの会話。
特別なことは何もない。
それでも、「来年度」という言葉だけが、妙に残る。
更衣室でスクラブを脱ぎながら、ふと立ち止まる。
二年。
どちらの世界でも、期限は近づいている。
正直に言えば、まだはっきりとしためどは立てきれていない。
来年度は、私の都合を待ってはくれない。
自分で決めた区切りのはずなのに、その数字だけが先に現実になっていく。
ロッカーの扉を閉める。
金属の音が、小さく響いた。
――――――――
■王宮診療所の来年度の予定
午後の診療が落ち着いたころ、桜はロッテ、エミール、そしてエリナと机を囲んでいた。
早期の動作訓練に関する勉強会の資料は、ほぼ形になっている。
「理論の部分は、これで通せそうですね」
桜が言うと、ロッテは資料を閉じて頷いた。
「はい。安静を長引かせない理由も、廃用の説明も、きちんと整理できました」
エミールも続ける。
「段階的な負荷の目安も明文化できていますので、現場でも迷いにくくなると思います」
ロッテはふとエリナを見る。
「ここまで整えられたのは、エリナさんのおかげです。文章をまとめていただけたから、全体がすっきりしました」
エミールも頷く。
「比較表も、とても分かりやすかったです。ありがとうございます」
エリナは静かに首を振った。
「私は、まとめただけですから」
「でも、本当に助かりました」
桜は素直にそう言う。
そのまま資料を揃えながら、何気なく続けた。
「来年度、外向けにもやっと広げられるかもしれませんね」
ほんの自然な一言だった。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、机の上の空気がわずかに変わる。
エリナの帰国まで、あと二週間。
桜の巫女交代も、遠くはない。
来年度。
その時間の中に、桜がいない可能性があることを、この場にいる全員が知っている。
エミールが視線を落とす。
ロッテも、ほんの一瞬だけ黙る。
そのわずかな間で、桜は自分の言葉が持っていた意味を、遅れて受け取る。
何気なく言ったはずだった。
けれど、“来年度”は、ここにいない自分を含んだ言葉だったのだと、皆の沈黙が教えてくれる。
何か言わなければと思う。
けれど、うまい言葉は見つからない。
「……まずは、最後まで頑張りましょう」
「えぇ」
ロッテが頷き、エミールも静かに同意する。
エリナは何も言わない。
ただ、その場に流れた“言葉にしない間”を、受け止めている。
早期の動作訓練が、この診療所に残っていくことは嬉しい。
それでも。
来年度、自分がここにいないかもしれないことを、どこか現実味のないまま、寂しいと思っている。
日本の職場よりも、この場所のほうが、いつのまにか居心地がよくなっていたのかもしれない。
――――――――
■寂しさ
結界の部屋を出て、いつもの廊下を歩く。
桜は部屋の前に近づいたところで、ふっと息を吐いた。
小さなため息だった。
「どうかされましたか」
すぐ後ろから、クロトの声がする。
桜は振り返る。
「いえ、なんでも――」
そう言いかけて、止めた。
なんでも、ではない。
少しだけ迷ってから、正直に言う。
「予定が立てられなくて、色々」
クロトは何も言わない。
急かさず、ただ、待っている。
「来年度のこともありますし……まだ、どうなるか分からないですから」
結界のこと。
診療所のこと。
日本の職場のこと。
期限は近づいているはずなのに、何も決まっていない。
「ただ」
そこで、桜は言葉を切る。
少しだけ視線を落とす。
「思った以上に、こちらの生活にも慣れてしまって」
小さく笑う。
「なんていうか……寂しい、というか」
少しだけ間を置いて、続ける。
「色々、全部まとめて、です」
クロトは黙っている。
「関わる人数が前の時よりずっと増えて。診療所勤務も、わがままで始めたことなのに」
そこで、また言葉が途切れる。
それ以上、うまく言えない。
クロトは、わずかに視線を伏せてから言う。
「それだけ、ここで積み重ねてこられたということです」
桜は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうですね」
何とも言えない笑みを浮かべる。
扉が開く。
中へ入る前、もう一度だけ振り返る。
「すみません。朝から変な話をして」
「いいえ」
短い返答。
それだけで十分だった。
桜が中へ入る。
扉が静かに閉まる。
廊下には、朝の光だけが残る。
クロトはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
「寂しい」
その一言が、思いのほか残る。
あの言葉は、きっとこの世界のことだ。
この世界を惜しんでいる。
それだけの意味だと分かっている。
それでも。
――残る可能性も、あるのではないか。
一瞬、よぎる。
すぐに、打ち消す。
それを望む資格はない。
彼女の未来は、彼女のものだ。
自分の願いを、そこに混ぜてはいけない。
クロトは静かに息を整え、踵を返した。
今日は、わりと順調だったと思う。
触れればちゃんと整うし、継ぎ目もきれいに馴染む。
修正するところはまだあるから、今は、まだ私の仕事だと思う。
でも。
触れたときに、なんとなく分かる。
いくら丁寧に縫っても、この部分はもう変わらないのかもしれない、という箇所が出てきている。
前みたいに、触れるたびに少しずつ良くなっていく感じは、あまりない。
だからといって、まだ交代の時期ではないのも分かっている。
手を入れるべきところは、まだいくつも残っているし、それをきちんと整えきるまでは、私の役目だと思う。
それでも。
最初に自分で区切った二年という時間は、そんなにずれていなかったのかもしれない。
あと、数か月くらいだと思う。
凜には、まだ何も話していない。交代のことも、その理由も。
巫女交代の話題を、凜が意図的に避けていることにも気づいている。
私といる時に、この世界の話をあまりしなくなっていることも。
もしかしたら、理由に思い当たるところがあるのかもしれない。
私よりも何倍も勘のいい子だし。
でも、いつかはきちんと話し合わなきゃいけない。
そろそろ、その時期が近づいている。
――――――――
■日本の職場の来年度の予定
土曜日の救急外来は、朝から慌ただしかった。
軽症の切創もあれば、発熱でぐったりした高齢者もいる。救急車のサイレンが近づくたびに、空気が一段張りつめる。
患者の状態を確認し、点滴の準備をして、処置の補助に入る。患者の家族への説明、記録の入力、バイタルの再確認。
気づけば夕方だった。
申し送りを終え、ナースステーションの時計を見たとき、ようやく一息ついた気がした。
スクラブの袖を整えながら更衣室へ向かおうとしたところで、科長に声をかけられる。
「ちょっといい?」
振り返ると、いつも通りの落ち着いた表情だった。
「来年度のことなんだけど」
「はい」
小さく頷く。
「正社員、戻れそう?」
言い方は柔らかいが、内容は現実的だ。
「もうそろそろ、人員配置を考え直さないといけないから」
責める口調ではない。
ただ、病院としての当然の確認。
私は少しだけ考えてから答える。
「正直に言うと、まだ分からなくて」
科長は黙って続きを待つ。
「いつまでに返事をすれば、大丈夫ですか?」
「そうね、最低でも1か月前までには欲しいわね」
1か月前。
返事が比較的直前で良いことに科長の心遣いを感じる。
「あなたが迷っているのは分かっているから。まぁ、ゆっくり考えて」
「ありがとうございます、直前まで待って頂いて」
「だけど、三月までには、お願いね」
「はい、必ず」
それで話は終わった。
いつも通りの会話。
特別なことは何もない。
それでも、「来年度」という言葉だけが、妙に残る。
更衣室でスクラブを脱ぎながら、ふと立ち止まる。
二年。
どちらの世界でも、期限は近づいている。
正直に言えば、まだはっきりとしためどは立てきれていない。
来年度は、私の都合を待ってはくれない。
自分で決めた区切りのはずなのに、その数字だけが先に現実になっていく。
ロッカーの扉を閉める。
金属の音が、小さく響いた。
――――――――
■王宮診療所の来年度の予定
午後の診療が落ち着いたころ、桜はロッテ、エミール、そしてエリナと机を囲んでいた。
早期の動作訓練に関する勉強会の資料は、ほぼ形になっている。
「理論の部分は、これで通せそうですね」
桜が言うと、ロッテは資料を閉じて頷いた。
「はい。安静を長引かせない理由も、廃用の説明も、きちんと整理できました」
エミールも続ける。
「段階的な負荷の目安も明文化できていますので、現場でも迷いにくくなると思います」
ロッテはふとエリナを見る。
「ここまで整えられたのは、エリナさんのおかげです。文章をまとめていただけたから、全体がすっきりしました」
エミールも頷く。
「比較表も、とても分かりやすかったです。ありがとうございます」
エリナは静かに首を振った。
「私は、まとめただけですから」
「でも、本当に助かりました」
桜は素直にそう言う。
そのまま資料を揃えながら、何気なく続けた。
「来年度、外向けにもやっと広げられるかもしれませんね」
ほんの自然な一言だった。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、机の上の空気がわずかに変わる。
エリナの帰国まで、あと二週間。
桜の巫女交代も、遠くはない。
来年度。
その時間の中に、桜がいない可能性があることを、この場にいる全員が知っている。
エミールが視線を落とす。
ロッテも、ほんの一瞬だけ黙る。
そのわずかな間で、桜は自分の言葉が持っていた意味を、遅れて受け取る。
何気なく言ったはずだった。
けれど、“来年度”は、ここにいない自分を含んだ言葉だったのだと、皆の沈黙が教えてくれる。
何か言わなければと思う。
けれど、うまい言葉は見つからない。
「……まずは、最後まで頑張りましょう」
「えぇ」
ロッテが頷き、エミールも静かに同意する。
エリナは何も言わない。
ただ、その場に流れた“言葉にしない間”を、受け止めている。
早期の動作訓練が、この診療所に残っていくことは嬉しい。
それでも。
来年度、自分がここにいないかもしれないことを、どこか現実味のないまま、寂しいと思っている。
日本の職場よりも、この場所のほうが、いつのまにか居心地がよくなっていたのかもしれない。
――――――――
■寂しさ
結界の部屋を出て、いつもの廊下を歩く。
桜は部屋の前に近づいたところで、ふっと息を吐いた。
小さなため息だった。
「どうかされましたか」
すぐ後ろから、クロトの声がする。
桜は振り返る。
「いえ、なんでも――」
そう言いかけて、止めた。
なんでも、ではない。
少しだけ迷ってから、正直に言う。
「予定が立てられなくて、色々」
クロトは何も言わない。
急かさず、ただ、待っている。
「来年度のこともありますし……まだ、どうなるか分からないですから」
結界のこと。
診療所のこと。
日本の職場のこと。
期限は近づいているはずなのに、何も決まっていない。
「ただ」
そこで、桜は言葉を切る。
少しだけ視線を落とす。
「思った以上に、こちらの生活にも慣れてしまって」
小さく笑う。
「なんていうか……寂しい、というか」
少しだけ間を置いて、続ける。
「色々、全部まとめて、です」
クロトは黙っている。
「関わる人数が前の時よりずっと増えて。診療所勤務も、わがままで始めたことなのに」
そこで、また言葉が途切れる。
それ以上、うまく言えない。
クロトは、わずかに視線を伏せてから言う。
「それだけ、ここで積み重ねてこられたということです」
桜は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうですね」
何とも言えない笑みを浮かべる。
扉が開く。
中へ入る前、もう一度だけ振り返る。
「すみません。朝から変な話をして」
「いいえ」
短い返答。
それだけで十分だった。
桜が中へ入る。
扉が静かに閉まる。
廊下には、朝の光だけが残る。
クロトはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
「寂しい」
その一言が、思いのほか残る。
あの言葉は、きっとこの世界のことだ。
この世界を惜しんでいる。
それだけの意味だと分かっている。
それでも。
――残る可能性も、あるのではないか。
一瞬、よぎる。
すぐに、打ち消す。
それを望む資格はない。
彼女の未来は、彼女のものだ。
自分の願いを、そこに混ぜてはいけない。
クロトは静かに息を整え、踵を返した。

