王宮から少し離れたアルトの私邸には、穏やかな灯りがともっていた。
外から見れば、ただ夜の屋敷に灯りがあるだけに見える。
だが居間では、三人が向かい合って座っていた。
外務大臣アルト・ヴァルハルト。
特別師団長ヴァルター。
そして巫女リエット。
公的な会議ではない。記録も残らない場だった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
アルトが丁寧に頭を下げる。
リエットも同じように礼を返した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
ヴァルターは椅子に深く腰掛けたまま腕を組み、二人を見た。
「で、何の話だ。外務の件ではないな」
アルトは一瞬だけ視線を落とす。
「……私事です」
わずかな沈黙のあと、続けた。
「弟のことです」
ヴァルターの目がわずかに細くなる。
「壊れる兆候はない」
即答だった。
「クロトは制御を失わん。あれはそういう人間だ」
アルトは小さく頷く。
それは疑っていない。
「ですが」
その言葉をリエットが穏やかに引き継ぐ。
「前回の交代の折、クロト様の魔力は振幅を極端に抑えておられました」
ヴァルターが低く言う。
「余力を消していたな」
「はい」
リエットは静かに頷いた。
「均衡は保たれておりました。ただ、常に最大制御に近い状態でございました」
アルトの指先がゆっくりと組まれる。
「それが続けば」
ヴァルターは短く答える。
「壊れはしない」
少し間を置き、続けた。
「だが、削れる」
淡々とした言葉だったが、その意味は重い。
リエットも静かに続ける。
「可能性は極めて低いですが、負荷は確実に増します」
言葉が途切れると、部屋には沈黙が落ちた。
庭の方から、夜風に揺れる木の葉の音がかすかに聞こえる。
やがてアルトがゆっくりと口を開いた。
「私は、国家の話をしているのではありません」
視線は揺れていない。
「弟は、生まれた時から管理対象でした」
異常値。危険因子。監視対象。
その言葉の意味は、ここにいる三人ともよく知っている。
「ようやく」
アルトは続けた。
「誰かと並んで立っている姿を見たのです」
ヴァルターは何も言わない。
代わりにリエットが静かに言う。
「私には、サクラ様もクロト様も、長く結界を通して関わってきた大切な方々です」
穏やかな声音だった。
「クロト様は壊れません。あの方は未熟ではございません」
迷いはない。
「ですが、サクラ様がこの世界にいらっしゃる時、クロト様には自然な余裕がございます」
アルトが問い返す。
「構造の問題ですか」
リエットはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
少しだけ間を置き、答える。
「お気持ちの問題でしょう」
ヴァルターが小さく息を吐く。
「……あいつも人間か」
リエットはわずかに微笑んだ。
「はい」
アルトは一度目を伏せ、それから再び顔を上げた。
「仮に、サクラ殿が再びいなくなれば」
ヴァルターが答える。
「耐えるだろう」
「ええ」
アルトも頷く。
「弟は耐えます」
「ですが、前回と同じく余力を削る」
リエットも頷いた。
「その可能性は否定できません」
再び沈黙が落ちる。
やがてヴァルターが言った。
「選択肢はあるのか」
リエットは静かに息を整え、答える。
「巫女交代は原則、強制でございます」
アルトとヴァルターは頷いた。
それは三人とも理解している前提だった。
「ですが、交代後、魂にはわずかな余韻が残ります」
リエットは続ける。
「その期間内であれば、巫女ではない立場であっても、理論上は再召喚が可能です」
アルトの視線が上がる。
「……戻れるのですね」
「はい。ただし期限がございます」
リエットは落ち着いた声で続けた。
「再定着後も、条件付きではございますが、日本への一時帰還は不可能ではございません」
ヴァルターが問う。
「どの程度だ」
「限定的でございます。安全を取るなら、ごく短い期間のみ」
詳しい数字は出さなかった。
それで十分だった。
少しの沈黙のあと、アルトが静かに言う。
「残るかどうかは、サクラ殿が決めることです」
リエットは頷く。
「はい。私どもが決めることではございません」
ヴァルターも同意した。
「決めるのは当人だ」
アルトは深く息を吐く。
「弟の未来も」
一瞬言葉を置き、続けた。
「サクラ殿の未来も、狭めたくないのです」
それは兄としての願いであり、同時に一人の人間としての言葉だった。
ヴァルターが立ち上がる。
「壊れさせはしない」
短い言葉だった。
リエットも静かに頷く。
「私も、理論の精度をもう一段上げておきます」
アルトはわずかに微笑んだ。
結論が出たわけではない。
だが三人は理解していた。
弟は壊れない。
だが、削らせたくはない。
そして――
サクラがこの世界にいることは、決して偶然ではない。
その夜、アルトの私邸では、遅くまで灯りが消えることはなかった。
外から見れば、ただ夜の屋敷に灯りがあるだけに見える。
だが居間では、三人が向かい合って座っていた。
外務大臣アルト・ヴァルハルト。
特別師団長ヴァルター。
そして巫女リエット。
公的な会議ではない。記録も残らない場だった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
アルトが丁寧に頭を下げる。
リエットも同じように礼を返した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
ヴァルターは椅子に深く腰掛けたまま腕を組み、二人を見た。
「で、何の話だ。外務の件ではないな」
アルトは一瞬だけ視線を落とす。
「……私事です」
わずかな沈黙のあと、続けた。
「弟のことです」
ヴァルターの目がわずかに細くなる。
「壊れる兆候はない」
即答だった。
「クロトは制御を失わん。あれはそういう人間だ」
アルトは小さく頷く。
それは疑っていない。
「ですが」
その言葉をリエットが穏やかに引き継ぐ。
「前回の交代の折、クロト様の魔力は振幅を極端に抑えておられました」
ヴァルターが低く言う。
「余力を消していたな」
「はい」
リエットは静かに頷いた。
「均衡は保たれておりました。ただ、常に最大制御に近い状態でございました」
アルトの指先がゆっくりと組まれる。
「それが続けば」
ヴァルターは短く答える。
「壊れはしない」
少し間を置き、続けた。
「だが、削れる」
淡々とした言葉だったが、その意味は重い。
リエットも静かに続ける。
「可能性は極めて低いですが、負荷は確実に増します」
言葉が途切れると、部屋には沈黙が落ちた。
庭の方から、夜風に揺れる木の葉の音がかすかに聞こえる。
やがてアルトがゆっくりと口を開いた。
「私は、国家の話をしているのではありません」
視線は揺れていない。
「弟は、生まれた時から管理対象でした」
異常値。危険因子。監視対象。
その言葉の意味は、ここにいる三人ともよく知っている。
「ようやく」
アルトは続けた。
「誰かと並んで立っている姿を見たのです」
ヴァルターは何も言わない。
代わりにリエットが静かに言う。
「私には、サクラ様もクロト様も、長く結界を通して関わってきた大切な方々です」
穏やかな声音だった。
「クロト様は壊れません。あの方は未熟ではございません」
迷いはない。
「ですが、サクラ様がこの世界にいらっしゃる時、クロト様には自然な余裕がございます」
アルトが問い返す。
「構造の問題ですか」
リエットはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
少しだけ間を置き、答える。
「お気持ちの問題でしょう」
ヴァルターが小さく息を吐く。
「……あいつも人間か」
リエットはわずかに微笑んだ。
「はい」
アルトは一度目を伏せ、それから再び顔を上げた。
「仮に、サクラ殿が再びいなくなれば」
ヴァルターが答える。
「耐えるだろう」
「ええ」
アルトも頷く。
「弟は耐えます」
「ですが、前回と同じく余力を削る」
リエットも頷いた。
「その可能性は否定できません」
再び沈黙が落ちる。
やがてヴァルターが言った。
「選択肢はあるのか」
リエットは静かに息を整え、答える。
「巫女交代は原則、強制でございます」
アルトとヴァルターは頷いた。
それは三人とも理解している前提だった。
「ですが、交代後、魂にはわずかな余韻が残ります」
リエットは続ける。
「その期間内であれば、巫女ではない立場であっても、理論上は再召喚が可能です」
アルトの視線が上がる。
「……戻れるのですね」
「はい。ただし期限がございます」
リエットは落ち着いた声で続けた。
「再定着後も、条件付きではございますが、日本への一時帰還は不可能ではございません」
ヴァルターが問う。
「どの程度だ」
「限定的でございます。安全を取るなら、ごく短い期間のみ」
詳しい数字は出さなかった。
それで十分だった。
少しの沈黙のあと、アルトが静かに言う。
「残るかどうかは、サクラ殿が決めることです」
リエットは頷く。
「はい。私どもが決めることではございません」
ヴァルターも同意した。
「決めるのは当人だ」
アルトは深く息を吐く。
「弟の未来も」
一瞬言葉を置き、続けた。
「サクラ殿の未来も、狭めたくないのです」
それは兄としての願いであり、同時に一人の人間としての言葉だった。
ヴァルターが立ち上がる。
「壊れさせはしない」
短い言葉だった。
リエットも静かに頷く。
「私も、理論の精度をもう一段上げておきます」
アルトはわずかに微笑んだ。
結論が出たわけではない。
だが三人は理解していた。
弟は壊れない。
だが、削らせたくはない。
そして――
サクラがこの世界にいることは、決して偶然ではない。
その夜、アルトの私邸では、遅くまで灯りが消えることはなかった。

