役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

夕方。

廊下の灯りが一つずつともり始める頃、クロトは予定通り桜の部屋を訪れた。軽く扉を叩く。

「どうぞ」

中に入ると、桜はソファに腰かけていた。背筋は伸ばしているものの、頬にはまだうっすらと熱が残っている。動きもどこかゆるやかだった。

クロトは一礼する。

「サクラ様」

「クロトさん」

返ってきた声は、いつもより少しやわらかい。

「体調はいかがですか」

「もう大丈夫です」

桜はふわりと笑う。

「熱もほとんど下がりましたし、少しだるいだけです」

軽く手を振るが、すぐに膝の上へ戻した。

クロトはその様子を静かに見つめる。

「無理はなさらないでください」

「してません」

小さく言い返すが、勢いはない。

少し沈黙が落ちたあと、桜がぽつりと口にした。

「……怒ってますか?」

クロトはわずかに首を傾げる。

「なぜ、そのように思われたのですか」

「だって、無理しましたし」

桜の視線が落ちる。

いつもより、少しだけ素直だった。

クロトは静かに息を吐く。

「分かっているのでしたら、それで十分です」

そして続けた。

「結界の揺らぎは最小限でした。貴方の判断は誤っていません」

はっきりとした評価だった。

桜の顔がぱっと明るくなる。

「本当ですか?」

「ええ」

声がわずかにやわらぐ。

「ですが、それとこれとは別です。無理を許したわけではありません」

穏やかな声音だが、明確な釘だった。

「……はい」

桜は素直に頷く。

「でも」

小さく続ける。

「怒られなくて、よかったです」

「怒ってはいません」

わずかな間があった。

「ただ、心配しただけです」

桜の顔がほんのり赤くなる。

「そういうの、さらっと言うの、ずるいです」

「何がですか」

「なんでもないです」

クロトは時々、こういうことを無自覚に言う。

職務上の言葉だと分かっている。それでも胸の奥が、わずかに揺れてしまう。

――だから、ずるい。

少しの沈黙のあと、桜が視線を逸らしたまま言った。

「前から思っていたんですけど」

「何ですか」

「私、クロトさんと話していると、自分が三歳年上だという感覚が危うくなります。もう今年で三十二歳ですし」

熱のせいか、珍しく拗ねたような口調だった。

クロトは一度桜を見つめ、それから静かに息をつく。

「でしたら、ご自身の体力と精神力を常に考えて行動してください」

「いや、でも……今回は」

桜はぶつぶつと小声で反論する。

「結界の揺らぎが続いていましたし、その……」

クロトはそれを遮らない。最後まで言わせる。

そして静かに言った。

「ですが、倒れてしまっては意味がありません」

穏やかな声音だが、譲らない。

「貴方の代わりはいないのですから」

胸が、もう一度だけ揺れる。

それもきっと、職務上の言葉。

そう分かっているのに。

「……はい」

桜は素直に頷いた。

ふと、桜は胸元に手をやる。首にかけていた水色の守り石を外した。

「これ」

両手で差し出す。

「お預かりしていたものです」

クロトは静かに受け取る。

「守ってくれました」

「無事で何よりです」

短く返す。

そして今度は、日本のお守りを差し出した。

「こちらも、お返しします」

桜は慌てて首を振る。

「それは差し上げたものです。迷惑でなければ、持っていてください」

少し早口になる。

「私、まだ五個くらい持たされたんで」

小さく苦笑する。

クロトは一瞬目を伏せ、それからうなずいた。

「……承知しました」

お守りを胸元へ戻す。

「では、代わりにこちらを」

胸ポケットから取り出されたのは、淡い薄紅色の守り石だった。

水色とは違う、やわらかな色。

桜はそれを見つめる。

どうして、この色なのだろう。

胸の奥がふわりと浮く。

言葉にならない、現実にはあり得ない期待が、かすかに揺れた。

クロトが続ける。

「先ほどの守り石とは違い、こちらには守護魔力をかけてあります」

淡々と。

そして、はっきりと。

「職務上の判断です」

浮きかけたものが、静かに落ちる。

これは巫女を守るための守り石。

それ以上の意味はない。

――クロトさんが、私をそんなふうに思うなんて。

あるはずがない。

自覚はある。

何もかもが、つり合っていない。

そう考えるほうが、自然だった。

桜は内心小さく息をつき、石を受け取る。

「……ありがとうございます」

紐を通し、首にかける。

胸元に落ちる、やわらかな薄紅色。

クロトの視線が一瞬、そこへ落ちた。

「よくお似合いです」

淀みのない、整った声音。

心臓が跳ねる。

なぜ、このタイミングで。

少しだけ、恨めしい。

あの感謝祭を思い出す。

クロトは貴族の女性たちとも、こうして自然に言葉を交わしていた。

これは礼儀。

社交。

きっと、誰にでも言える言葉。

「いえ……でも、ありがとうございます」

顔が熱くなり、視線がさまよう。

視線の合わなくなった桜を見つめるクロトの目は、やわらかい。

だが、何も続けない。

――――――――――

――本当は。

昨年の誕生日に、渡すはずだった。

言葉を探し、機を失い、そのまま懐に戻した。

立場を越える意図を、持ってはならなかった。

これは守り石だ。

巫女を守るためのもの。

そう言い聞かせてきた。

だが。

薄紅色の石がサクラの胸元で揺れているのを見て、

本当に、よく似合っていると思った。

それ以上の言葉を口にすることはできない。

夕暮れは、ゆっくりと夜へ移り変わっていった。