役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

誰も動かなかった。

剣は下ろされたまま。だが緊張だけは空気に張りつき、まだ一瞬も緩んでいない。

王は一歩、前へ出た。誰の支えも受けず、自らの足で。

回廊に横たわる兵たちを見下ろす。呻き声はある。血も流れている。だが、奪われた命はない。

その事実が、まず王の胸に刺さった。

甥は、剣を抜かなかった。

総司令官が前へ出ようとする。

「陛下、いまなら――」

「控えよ」

低い声だった。怒りはない。ただ、迷いを断つ決意だけがあった。

参謀総長は視線を落とす。ここで押し返せば、流れるのは同じ国の兵の血だ。勝ち負けは、すでに決している。

王も理解していた。甥の背後には、軍中枢の一部がある。それでも、まだ引き返せる余地は残っている。

「止めに来た、と申したな」

問いに、アレクシオスは静かに頷く。

王はゆっくりと言葉を紡いだ。

「余は、守ろうとした」

誰に向けたものでもない独白。

「兄と比べられようとも。重臣が離れようとも――余の思う通りに進めれば、この国は崩れぬと信じていた」

回廊の空気が、わずかに変わる。

「異論は迷いを生むだけだと。揺らぎは断ち切ればよいと。余が正しければ、国も正しくあると――そう思っていた」

前王であり、兄でもある。名君と呼ばれ、民に愛された男。そして、アレクシオスの父。

王は、その影の中で即位した。

“先王ならば”。

違いを示さねばならぬと焦った。強くあらねばならぬと。揺らがぬ王であらねばならぬと。

だが、強さを示すことに傾きすぎた。

疑いを許さず、反論を削ぎ、秩序を保とうとした。その果てに、いつしか恐れで縛る形になっていた。

王は甥を見る。

「お前は、余が間違っていたと言うのか」

「申しません」

即答だった。

「陛下は、陛下のやり方で守ろうとされた。ただ――」

アレクシオスは目を伏せる。

「お一人で背負いすぎておられました」

沈黙が落ちる。

王は初めて視線を下げた。止める者がいなかったのではない。止める声を遠ざけたのは、自分だったのかもしれぬ。

「……そなたは、余を退けるか」

「退いていただきたいと思っております」

迷いのない答え。

だが、アレクシオスは続けた。

「排するつもりはありません」

顔を上げる。

「私は未熟です。叔父上のお力も、総司令官、参謀総長のお力も必要です」

総司令官が息を呑み、参謀総長の目がわずかに揺れる。

「処罰は望みません。いまは誰かを断罪する時ではない。皆で立て直す時です」

王は甥を見つめる。

奪うのではない。壊すのでもない。渡そうとしている。

若さゆえの甘さか。それとも、自分にはなかった強さか。

王は、ゆっくりと告げた。

「……余は退く」

空気がわずかに震える。

「軍制は再編する。総司令官、参謀総長は職を解かれる」

二人の表情が固まる。

「だが、責を問うつもりはない。余もまた退くのだ。責は等しくある」

総司令官は膝をつき、参謀総長も深く頭を下げた。

王は最後に言う。

「だが、そなたの手を拒むことはせぬ」

確定の声だった。

アレクシオスは深く頭を下げる。

若い兵。古参の近衛。血に濡れた床。

まだ、戻せる。

夜はまだ明けぬ。だが、この夜は終わる。

「皆の傷の手当てを頼む」

最後の指示を出し、王は踵を返す。

その背は、最後まで王であった。