役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

結界の修正は、いつも通りだった。

魔力の流れに乱れはない。縫い目も安定している。今のところ、私の目に映る範囲に異常はない。

制御室の数値も問題なし。リエットが静かに頷いた。

「問題ありません」

その言葉に、ようやく肩の力を抜いた。

3日前、神殿長に呼ばれた。

大国の情勢が不安定になっていること。ゼフィーリアも、間接的に関わらざるを得ない状況にあること。近いうちに動きがある可能性が高いこと。

細かい事情は知らされていない。ただ、修正中はいつも以上に結界の変化を注視してほしい、とだけ言われた。

私が結界に直接触れられる時間は、1時間が限界だ。それ以上は負担が大きい。

だから、やることは変わらない。ただ、より注意深く見るだけだ。

それだけのはずなのに、城内の空気はどこか落ち着かない。

……気のせい、かな。

政治の中心にいるわけじゃない。何が起きるのか、正確に知る立場でもない。

私は、結界を整える人間だ。それだけだ。

制御室を出て診療所へ向かうと、エミールが小さくため息をついた。

「最近、軽傷の騎士が多くないですか」

確かにそうだ。

重傷ではない。命に関わるものでもない。

だが、妙に数が重なる。

処置室で包帯を巻きながら、私は傷口を見た。

細い切り傷。深くはない。防具の隙間に入ったような、浅い線状の傷だ。

「訓練中です」

そう説明されれば、納得はできる。訓練で刃がかすめることもある。

けれど、魔物の爪では、こうはならない。

そう思って、口には出さなかった。

偶然が重なっているだけかもしれない。考えすぎだ。

包帯を巻き終えると、騎士は礼をして出ていく。

その背中を見送りながら、胸の奥に小さなざわめきが残った。

クロトから任務があると聞いたときから、そのざわめきは消えていない。

3日前、神殿長の話を聞いて、大国が絡んでいるのだと察した。

最近顔を見なくなった護衛騎士たちも、きっとその件だ。

どうか、クロトさんたちが無事に戻ってきますように。

そっと守り石を握りしめ、私は小さく息を吐いた。

少なくとも、いま目に見える変化はない。結界も、静かなままだ。

それなら、私は自分の役目を続けるしかない。

診療所の業務が終わり、部屋へ戻ろうとしたときだった。

ちょうど向かいの回廊から、エーファが歩いてくる。エリアナの部屋の方角だ。

「あ……サクラ様」

少しだけ驚いたように立ち止まる。

「お疲れさまです」

「エーファさんも」

これまで顔を合わせることはあっても、きちんと話したことはない。

それでも、ノインが怪我をした日のことは覚えている。血のついた騎士服を見て、顔色を失っていた姿。

私は少し迷ってから声をかけた。

「……もしよければ、少しだけお時間ありますか」

エーファは目を瞬かせたが、すぐに頷いた。

「ええ、もちろんです」

部屋へ案内し、向かい合って座る。

何から話せばいいのか分からない。

本当は、ただ少し、不安を誰かと共有したかっただけなのだと思う。

「この前……ノインさんが怪我をされたとき、ハーブティーを渡されたんですよね」

エーファが、わずかに目を見開く。

「ええ……」

「そのあと、ノインさんから、お返しをどうしたらいいかと相談を受けまして」

私は小さく笑った。

「甘いものはどうですか、とお伝えしました」

一瞬の沈黙のあと、エーファの頬がほんのり赤くなる。

「そう、だったのですか……」

「こんなことを話したと分かったら、ノインさんに怒られそうですね」

口にしてから、少し言い過ぎたかと胸がざわつく。

「いえ。あの方は優しい方ですから」

声は小さいが、はっきりしている。

その言葉に、エーファの気持ちが滲んでいるように感じた。

「最近、ノインさん、見ませんよね」

改めて口にすると、エーファは静かに頷いた。

「何も分かりませんが、きっとお仕事だと……」

それ以上は言わない。

けれど、その声音には、薄い緊張が混じっていた。

「……最近あまり良い噂のない大国の件でしょうか」

ぽつりと、エーファが言う。

私は一瞬、言葉を失う。

巻き込まれていることは知っているが、詳しいことは知らない。

クロトさんにしても、ノインさんにしても、どんな任務に就いているのか分かるはずもなかった。

「分かりません」

正直に答える。

「ただ、無事に戻ってきてほしいですね」

「はい」

エーファは、真っすぐに頷いた。

その表情は強い。ただ待つしかない立場でも、目を逸らさない人の顔だった。

私は胸元の守り石を握る。

どうか、このまま平穏が続きますように――そう願わずにはいられなかった。