役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

水曜日は、桜の公休日だった。

読み書きの勉強は、日常的には部屋担当の騎士たちに教わっている。

クロトに付き合ってもらうのは、月に1度あるかどうか。

それも、彼自身の休みの日に限られていた。

何度か、こうして机を挟んで向かい合っているが、この時間には、いつまでたっても慣れずにいる。

文字を追いながら、桜は何度も心臓の鼓動を意識していた。

緊張している自覚はある。

けれど、それをどうにかしようと考える間もなく、時間は進んでいく。

「ここは、少し音が変わります」

「……あ、はい」

短い説明と、確認。

それだけのやり取りなのに、胸のあたりが落ち着かない。

集中していないわけではない。

むしろ、その逆だった。

クロトの声が近くにあることや、視線の向き、机の上で重なる紙の位置まで、全部が意識に入ってしまう。

だから、この時間は毎回短い。

1時間という期限が、あっという間に来る。

「今日はここまでにしましょうか」

その一言で、現実に引き戻される。

ドキドキしているのに、気づけばもう、終わってしまっている。

もう少し。

ほんの少しだけ、一緒にいられたらよかったのに。

そう思ったところで、クロトが口を開いた。

「サクラ様。お伝えしておくことがあります」

桜は、顔を上げる。

「明日から、しばらく王宮を離れます」

「……え?」

「他の任務に就くためです。護衛からも、しばらく外れます」

言葉は淡々としていた。

すぐには、意味が追いつかなかった。

「……どのくらい、ですか?」

「正確な期間は、分かりません」

それ以上、聞いてはいけないことは分かっている。

行き先も、内容も。

けれど、最近見かけなくなった騎士たちの顔が、頭に浮かぶ。

その中に、ノインの姿も自然と重なった。

考えるより先に、桜は鞄に手を伸ばしていた。

「あの……」

取り出したのは、小さな布のお守りだった。

日本から持ってきた神社のお守り。

母と姉が、いくつも持たせてくれた中の1つ。

「ご迷惑だと思うんですけど」

一度、言葉を切る。

「これ、持っていてもらえませんか。私の世界のお守りで」

「異世界のお守りだから、役に立たないと思うんですけど」

「それに、家族がたくさん持たせてくれた中の1つで……私の分は、まだ何個かあるので」

言いながら、自分でも無理やり渡すための言い訳が多いと思った。

クロトは一瞬、目を瞬かせてから、差し出されたお守りを見た。

それから、両手で受け取る。

「ありがとうございます」

「では、大切にします」

その返事を聞いて、桜は受け取ってもらえたことに、ほっとする。

「……サクラ様」

今度は、クロトの方からだった。

彼は首元に手を伸ばし、衣服の内側から、小さな石を取り出す。

紐に通された、水色の守り石。

普段、首にかけているものだと分かる。

「こちらを」

短く言って、差し出す。

「私が、普段身につけているお守り石です」

「え……?」

「特別なものではありません」

「魔力を高めるものでもありませんし、任務に支障が出ることもありません」

そう言いながら、外す動作に迷いはなかった。

「しばらく王宮を離れますので」

「こちらを、お預かりいただけますか」

“預かる”という言葉に、桜は一瞬だけ考えてから、頷いた。

「……分かりました」

「ちゃんと、預かります」

小さな石を受け取る。

「だから、必ず、帰ってきてくださいね」

「預かりもの、返せないと困るので」

「ここで、待っていますから」

それは、祈るような願いだった。

クロトの無事と、少なくとも、それを自分の目で確かめるまでは、この世界からいなくなりたくないという思い。

「では、くれぐれも、私が不在の間は無理をしないでください」

クロトらしい言葉を残して、扉を開ける。

扉が閉まる直前、桜は思わず一歩踏み出していた。

けれど、呼び止めることはできず、振り返らない背中を、そのまま見送ることしかできなかった。