可能性は売ってない

入学式って、もっとこう――人生の新章が始まるぞ!みたいなイベントだと思ってた。
体育館の床はきちんとワックスで光ってて、壇上の校長先生はマイク越しに「可能性」という単語を二十回くらい言って、親はスマホで写真を撮って、同級生はすでにクラスのLINEを作っていた。

で、当の俺――青山朔(あおやま・さく)、高校一年生はというと。

(……可能性って、どこに売ってんだろ)

中学の卒業文集に「将来の夢」を書けって言われたときも、俺は最後まで空欄だった。
なりたい職業もない。熱中できるものも、夢中になれるものも、今のところ見当たらない。
だから、入学式の「これからだ!」って空気が、俺には眩しすぎた。

制服の襟がまだ硬い。ネクタイの結び目も、鏡の前で練習したほどきれいじゃない。
桜の花びらが、練馬の風に吹かれて歩道を滑っていくのを見ながら、俺は校門を出た。

練馬。住み慣れた街。
西武線の高架、商店街の八百屋の呼び込み、交差点の信号待ち。全部いつも通りで、だからこそ胸の奥がじわっと冷えた。

(このまま、高校も「いつも通り」で終わるのかな)

(部活?友だち?恋?……なんか、どれも他人事)

入学式の帰り道なのに、なぜか卒業式みたいな気分だ。
俺の青春、まだ始まってもいないのに、もう「平凡でした」って締めのナレーションが流れそう。

家へ向かういつもの道は、今日は使わない。
新しい通学路。入学式の日だけの、ちょっとした冒険。
俺は目白通りの一本裏を曲がって、住宅街のほうへ足を向けた。

春の午後の住宅街は、妙に明るい。
玄関先の花壇のパンジー、干したばかりの洗濯物の匂い、犬の散歩の足音。
平和。平和すぎて、逆に怖い。

(平和って、退屈と紙一重だな……)

そう思った瞬間――

カン、という乾いた金属音が、路地の奥からした。

カン。カン。
何かを叩く音。硬いものがぶつかる音。
俺は思わず足を止めて、音のするほうを見た。

古い三階建てのビルの一階。ガラス戸の向こうに、白い床と、細長い影がいくつも揺れている。
ビルの外壁には昔のテナントの跡が残っていて、「学習塾」とか「クリーニング」とか、消えかけた文字の上に新しい看板が貼り付けられていた。

『NERIMA FENCING CLUB』

「……フェンシング?」

テレビでしか見たことないやつ。
白い服着て、顔に網みたいなマスクして、ピッ、って刺したら光るやつ。たぶん。

(ルール、知らない。剣道みたいに「面!」とか言うの?)

(いや、言わないか。フェンシングで「面!」は無理がある)

(ていうかフェンシングって、刺すの?突くの?どっちも怖いんだけど)

ガラス越しに覗こうとすると、室内の照明が金属に反射してきらっと光った。
その瞬間だけ、俺の中の「退屈」が、針でつつかれたみたいに動いた。

――興味。

俺がその言葉を自分に認める前に。

ガチャ、と扉が開いて、熱気が外へ漏れた。
同時に、汗と柔軟剤とゴムマットの匂いが混ざった空気が顔に当たる。

「おっ、見学?」

出てきたのは、同い年くらいの男子だった。
髪は短めで、目がやけに真っすぐ。ジャージの袖を肘までまくって、手には細長い剣――いや、剣っていうより、金属の棒を持ってる。

その棒の先端が、俺の心臓のあたりを指した。

「……え、俺?」

「そう。君。今、うちの看板見たでしょ」

「いや、見たっていうか、音がして……」

「音に釣られて来た。つまり、興味ある」

結論が早い。
俺が口を開く前に、彼はもう満面の笑みを作っていた。

「俺、赤羽慎太郎(あかばね・しんたろう)。今日から高校一年。君は?」

「……青山朔、俺も今日から高校一年」

「よし。同い年。運命。はい、握手」

握手を求められて、反射で手を出してしまった。
手のひらが熱い。汗ばんでるのに、妙に気持ちいい。

(なんだこのテンション。……太陽系の人だ)

「朔っていい名前。新月の朔でしょ。始まりって感じする」

「……始まり、ね」

「始まりだよ。君のフェンシング人生の」

「いや、まだ俺の人生に採用してないんだけど」

「採用しよう。今、ここで」

勝手に採用を決めるなよ……。

「ていうかさ、朔って練馬?」

「練馬。ずっと」

「俺も。あ、でも苗字は赤羽だけど北区じゃないからね。よく言われるんだ。『赤羽って、赤羽駅?』って」

「……言われそう」

「言われる。駅前で『家、北区?』って聞かれて『練馬です』って答えるたびに、俺の心が一回刺さる」

「……そうなんだ」

「でも、フェンシングやってるから耐性ある」

「耐性の使い道、違うだろ」

俺が初めてちゃんとツッコむと、赤羽は嬉しそうに笑った。
なんだよ、ツッコミ歓迎タイプかよ。厄介だな。

「で、朔。入学式帰り?制服きれいだもん」

「そう。帰り……の途中」

「最高の途中だよ。ちょうどいい。今、うち、体験やってる。入って!」

赤羽の手が、俺の背中に軽く触れた。
軽いのに、押しが強い。まるで手のひらが「断る」の選択肢を消してくる。

「いや、でも、俺――」

「大丈夫。フェンシングって、思ってるより怖くない。刺さないから」

「刺さないの?」

「突く」

「そこ、言い換えても怖いんだけど」

「突くのも、先っぽはボタンみたいになってるから。ほら、触ってみ」

赤羽は俺の指先に、金属の先端をちょん、と当てた。
冷たい。軽い。……思ったより、怖くない。

(……あれ。ちょっと、かっこいい)

(いや、かっこよさで人生は変わらない。はず)

(でも今、変わりかけてない?俺の進路)

「一回だけ!一回だけやって、合わなかったら帰っていい。約束」

「約束って、信用していいやつ?」

「俺、赤羽慎太郎。約束は守る男」

「さっき『運命』って言った人の約束、重いな……」

俺が小さくため息をついた瞬間、赤羽は勝利を確信したみたいに親指を立てた。

「よし、決まり!ようこそ練馬フェンシングクラブへ!」

「まだ入ってない!」

「入ってる入ってる。心がもう半分入ってる」

「俺の心、勝手に分割しないで」

「じゃ、残り半分も今から入れよう」

そんなやり取りをしているうちに、俺はビルの中へ押し込まれていた。

中は、思ったより広い。
白いマットの上に、細長いレーンが何本か引かれている。壁には大会のポスター。『東京都ジュニア選手権』。『全国高校総体予選』。
天井の蛍光灯が少しだけ唸っていて、床のゴムマットが足裏に柔らかく沈む。
そして、何より――金属の音が、胸の骨まで響いてくる。

カン!カン!
ぶつかる音が、会話みたいにテンポよく続く。

(……なんだこれ。音だけで、ちょっとワクワクする)

(俺の中に、こんなスイッチ残ってたんだ)

「おーい、慎太郎!新入生、また連れてきたのか!」

奥から声がした。
顔を出したのは、二十代後半くらいの男性。黒いポロシャツに、ホイッスル。目が鋭いのに、口元は笑ってる。

「コーチ!入学式帰りの新星です!」

「新星って勝手に言うな。こんにちは。体験?」

「……はい。たぶん」

「たぶんって何。まあいい。私はコーチの三枝(さえぐさ)。君は?」

「青山朔です」

「朔くんね。制服のままでもいいけど、汗かくよ」

「汗は、たぶん、すでに……」

赤羽に絡まれて、俺の手のひらはもう汗ばんでいる。

「ほら朔、こっち!まずは着替え!」

「え、着替え?」

「これ。体験用ジャージ。サイズ、たぶんいける」

「さっきから『たぶん』多くない?」

「人生はたぶんでできてる。俺たちの未来も、たぶん明るい」

「明るさの根拠が薄い」

赤羽が差し出したのは、青いジャージだった。チーム名のロゴが入ってる。
俺はそれを受け取って、ロッカーのほうへ歩いた。

(……俺、なんで着替えようとしてるんだ)

(入学式の帰り道に、知らないクラブでジャージに着替える高校一年。情報量が多い)

(でも、ちょっとだけ、楽しいって思ってる自分がいるのが一番怖い)

ロッカーの鏡の前で、俺は自分の顔を見た。
いつもと同じ顔。なのに、目が少しだけ、いつもより生きている気がした。

(これが青春ってやつ?いや、まだ。たぶん違う)

(でも、制服よりは似合ってる気がする。ジャージが)

戻ると、赤羽が待ちきれない犬みたいに足踏みしていた。

「朔!準備OK?じゃ、まずは武器紹介!」

「武器って言うな」

「えっとね、フェンシングには三種類あって――フルーレ、エペ、サーブル。うちは主にフルーレ」

「フルーレ……」

「ルール簡単。ここ、胴体だけが有効面。先に突いたほうがポイント。ピコーンって光ったら勝ち」

「ゲームみたいだな」

「そう!しかもヒット判定が機械で出る。言い訳できない」

「言い訳するつもりだったの?」

「する。負けたら『回線が』って言う」

「そんなこと言うの!?」

例えが雑なのに、わかりやすいのが腹立つ。

「で、これがフルーレ。軽いよ。ほら、持ってみ」

「……軽っ」

受け取った瞬間、手首がふわっと浮く感じがした。
金属なのに、重さがない。剣というより、筆みたいだ。

「どう?かっこよくない?」

「……かっこいいかも」

「よし!出た!『かっこいい』!これで君はもう逃げられない!」

「逃げたらどうなるの」

「追いかける」

「ストーカー宣言やめろ」

「剣を持つ者は執念も持つ」

「その台詞、少年漫画の悪役っぽい」

赤羽は「褒めてる?」って顔をした。褒めてない。

すると、レーンの端から、無表情の男子が一人近づいてきた。
俺より背が高くて、髪が少し長い。目が眠そう。ジャージの胸に、赤羽と同じロゴ。

「慎太郎、また勧誘成功?」

「成功っていうか、運命が連れてきた」

「運命って便利だね」

「便利だよ。これ、朔。で、こっちは白石(しらいし)先輩。二年」

「……どうも」

「どうも。初心者?」

「初心者です」

「よかった。慎太郎は初心者にだけ優しいから」

「ちょっと待て先輩!俺は全人類に優しい!」

「全人類に話しかける、の間違い」

「会話は愛だろ!」

白石先輩はため息をついて、俺の剣先をちょい、と指で押した。

「持ち方、力入りすぎ。親指と人差し指で挟んで、他は添える」

「……こうですか」

「そう。剣は軽い。軽いものほど、力むと重くなる」

「……哲学?」

「ただの物理」

なんだ、ここ。思ったより居心地がいい。

「次はマスク。顔、守るやつ。はい」

網目のマスクを被ると、視界が一気に「格子」になる。
世界が細かい四角に区切られたみたいで、ちょっと不思議だ。

(……あ、音が近い)

(カン、っていう音が、さっきより鮮明になってる)

(俺の耳、そんなに性能よかったっけ)

「怖い?」

「ちょっと。でも……変な感じ」

「いい感じってことだね」

「勝手に解釈するな」

赤羽は自分もマスクを被って、俺の前に立った。
彼の目が、網の向こうで笑っている。

「じゃ、立ち方。ここがオンガード。足はこう。前足、軽く。後ろ足、斜め。ほら、真似して」

「……こう?」

「そうそう!いい!朔、飲み込み早い!」

「早いっていうか、必死」

「必死は最高。必死は才能」

「才能の方向性がおかしい」

俺は足を動かしてみる。前へ。後ろへ。
体育の授業でやるダンスのステップとは違う。足裏が床を「擦る」感じ。静かに、でも確実に距離を詰める。

(これ、意外と難しい)

(でも、難しいって、なんか嬉しい。俺、今まで簡単なことしかしてこなかったのかも)

「ほら、進んで、戻って。進んで、戻って。リズム」

「リズム……」

「そう。音楽だと思え。フェンシングはダンスだ」

「ダンスで人を突くの、怖い」

「突かないダンスもあるけど、うちは突く」

赤羽の言葉が矛盾だらけなのに、なぜか頭に入ってくる。
俺の身体が、ちょっとずつ「いつも」と違う動きを覚えていく。

赤羽が、剣先を俺の胴に向ける。

「いくよ。突く。――えい」

「うわ」

反射で身を引いた。
赤羽の剣先は、俺のジャージに触れる寸前で止まる。

「今の、避けた。いい」

「いや、怖いから避けただけ」

「怖いを避ける。才能だよ」

「才能って便利な言葉だな」

「便利だよ。運命と同じくらい」

白石先輩が小さく笑った気がした。気のせいかもしれない。

「今度は君。俺の――胸じゃない、胴。胴を狙って」

「胸って言いかけた」

「フェンシングでは胸も胴のうち」

「そういう問題じゃない」

「いいからいけ。青春は胸だ」

俺は剣を構えて、赤羽の正面に立った。
呼吸が浅くなる。指先が冷える。

(……やるだけ。刺さない。突く)

(『刺さない』って思うから怖いんだ。『突く』って言い換えても怖いけど)

「せーの、でいってみ」

「せーの……!」

俺は一歩踏み込んで、剣先を伸ばした。

カン!

赤羽の剣とぶつかって、音が鳴った。
同時に、肩から腕にかけて、ビリッと電気みたいなものが走る。

(……今の音、好きだ)

(心臓が、音に合わせて速くなる)

(退屈って、こうやって壊れるのか)

赤羽が笑う。

「今の、いい!ぶつかったけど、踏み込みがちゃんと前に出た」

「わかんないけど、なんか……」

「なんか?」

「……ちょっと楽しい」

俺が言った瞬間、赤羽は「よっしゃあ!」って叫んだ。
体育館じゃなくてよかった。入学式の校長先生より声がでかい。

「よし、じゃ次は本当にポイント取ろう。ここ、機械に繋ぐ。突いたら光るやつ」

「本当に光るんだ」

「光る。青春みたいに」

「青春、万能すぎ」

俺はコードを腰に付けられて、剣にも線を繋がれて、完全にゲームの主人公みたいになった。
胸の前の装置が、かすかに「ピ…」って鳴っている。

白石先輩が手慣れた動きでコードの接続を確認してくれた。

「これ外れると判定出ない。慎太郎、また回線言い訳するなよ」

「言い訳じゃない、戦略!」

「戦略って言うなら勝て」

「うるさい!」

赤羽は先輩に突っかかって、先輩は涼しい顔。平和だ。だけど退屈じゃない平和。

「じゃ、いくぞ。ルールは簡単。先に当てたほうが勝ち。合図はコーチが『アレ!』って言う」

「アレ?」

「フランス語。たぶん『行け』みたいな意味」

「たぶん?」

「大丈夫、大体で生きてるから」

「俺は大体が苦手なんだが」

三枝コーチがホイッスルを口に咥えた。

「二人とも、プレッ。――アレ!」

ピーッ!

俺の足が勝手に動いた。
前へ。踏み込む。剣先が伸びる。

赤羽も同時に動く。速い。けど、怖くない。
さっきまでの「知らない世界」が、今は「入っていい世界」に変わっている。

(……あ、俺、今――)

(退屈じゃない)

カン!

剣がぶつかった。
赤羽の肩が僅かに沈む。隙――なのか。
俺は自分でも驚くくらい自然に、もう一歩踏み込んだ。

ピカッ。

赤。

「え」

「え?」

「今、光った?」

「光った!朔、当てた!初ポイント!」

赤羽がマスクのまま、肩を揺らして笑った。
俺も、なんか笑ってしまう。笑い方を忘れてたみたいに、ぎこちないのに、止まらない。

「当てた……?」

「当てた!君、すごい。入学式帰りに初ポイント。記念日だよ。今日は『朔ポイント記念日』」

「ネーミング、適当すぎる」

「適当って言うな。大事にしろ。人生で初めて、何かが『当たった日』だぞ」

その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
俺の人生、今まで何も当たってこなかったみたいじゃん。

でも、否定できないのが悔しい。
だから、俺は話をそらすみたいに聞いた。

「……赤羽は、なんでフェンシングやってんの」

「え?」

「こんなに楽しそうに。理由あるの?」

「理由?うーん……」

赤羽は少しだけ黙って、マスクを外した。
汗で濡れた前髪を指でかき上げて、笑ったまま言う。

「単純。剣ってかっこいいから」

「それだけ?」

「それだけで十分じゃん」

赤羽の言葉が、胸の奥に刺さる。いや、突く。
俺はまだ、世界に味方されたことなんてないと思ってた。
でも今、ほんの一瞬だけ、俺のほうに光が点いた。