「──どうです、妙堂さん?借金の代わりに、〝これ〟なんかは」
隣に座る父のその言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ黒になった。
雑に背中を小突かれ、私はよろめくようにして向かい側に座る男性の前に差し出された。
「(まさか、この方が……)」
──妙堂蓮。
その名を帝都で知らない者はいない。
冷徹無比な高利貸しで、彼に目をつけられた家は『骨の髄までしゃぶり尽くされ、跡形もなく消滅する』と噂される、悪名高き一族の若き当主。
視界の端で、父の指先が小刻みに震えているのが見えた。額には異様に汗が滲み、呼吸も浅い。
かつては華族としてふんぞり返っていた父が、まるで蛇に睨まれた蛙のように萎縮しているその姿を見て『妙堂家に逆らう者は社会的に抹殺される』という噂が決して大袈裟なものではないのだと実感した。
「(なんて、恐ろしい人……)」
本当は今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたいけれど、足がすくんで動けないどころか、彼と目を合わせることすらできずにいる。
この男の纏う異様に冷たくて重苦しい威圧感が、私をその場に留まらせた。
「──これ?」
鋭い視線をこちらに向けながら、地を這うような低い声で彼はそう尋ねた。
「え、えぇ、わたしの娘です。しかし我が家にはすでに歴とした跡取りがおります故、口減らしとまでは言いませんが、うちにはもうあまり必要のない娘でしてね?」
「なるほど」
「とはいえ、月濱の名に恥じない教育はきっちりと受けさせておりますし、掃除に炊事に洗濯、どんな汚れ仕事も嫌な顔ひとつせずにするよう躾けておりますので、妙堂さんのところに行けば少しは役に立つはずです」
「……ほぉ、それで?」
「〝こんな〟でも、一応は月濱の長女です。これでどうにか、借金をいくらか帳消しにしていただくことは……」
父が矢継ぎ早に話す内容に、頭がついていかない。
十歳のときに母が亡くなってからというもの、その翌日にはずっと愛人関係にあった女性を後妻として迎え入れた父。
新たに事業を始めては失敗を繰り返すたびに、母が残してくれた財産から形見まですべて金に換えられてしまった。
生前、母が大切にしていたペンダントでさえ、『これだけは手元に残しておいてほしい』とどんなに懇願しても、それが叶うことはなかった。
そして、今度はいよいよ私自身が金に換えられる番がやってきたというのだろうか。
「……やめて、ください。お父様っ」
やっとの思いで絞り出した声は、情けないほどか弱いものだった。
口減しと言って自分の娘を借金のカタにするような最低なことをされてもなお、この父にしがみつかなければならないと思ったのは、目の前にいる彼、妙堂漣という男があまりにも恐ろしいから。
「うるさいぞ!塵の分際で口答えするんじゃない!」
いつものように大きな声で怒号を飛ばしながら、父は腕を振り上げる。
私はギュッと目を瞑って、これからやってくるであろう衝撃と痛みに備えた。
「──まったく、仮にもこれからこの俺と取引しようとしている商品に自ら傷を付けようとするとは、愚かにも程があるのでは?」
「ぐっ!」
その声に恐る恐る目を開くと、そこには立ち上がって父の腕を掴んでいる妙堂さんの姿が映し出された。
「え?」
「前々から商売の才が皆無な男だとは思っていましたが、まさかここまでとはね」
「う、腕が……っ!」
見慣れない黒革の手袋を嵌めた妙堂さんの手が、じわじわと父の腕に容赦なく食い込んでいく。
顔を真っ赤にさせてもがく父を鼻で笑った妙堂さんは、まるで汚いものを放り投げるようにして振り払った。
「(助けて、くれた……?)」
いいえ、そんなはずない。彼はただ、自分のものになるかもしれない『商品』に傷を付けられることを嫌っただけ。
同じ月濱という苗字を持つ家族でさえ、私のことを助けてくれる人は一人もいないというのに。それなのに、赤の他人の、ましてや悪い噂しか聞かない妙堂家の当主がどうして私のことを助けてくれるというのだろうか。
「〝これ〟が、塵……ねぇ」
横で痛がる父には目もくれず、妙堂さんはハンカチを取り出してその黒革の手袋を外しながら私を値踏みするかのように近くへとやってきた。
「……っ」
初めて間近で見る、妙堂漣という男の人。
『怪物』という噂から想像していた姿とはあまりに違って見えた。彼は最先端の西洋文化をそのまま体現したような、端正な紳士の形をしている。
けれど、その完璧さがかえって妙堂漣という人間の底知れなさを際立たせているようで、私は思わず息を呑んだ。
「さて、可哀想なお嬢さん?」
父と私を遮るように真ん中にドサッと腰を下ろして、妙堂さんは私のほうを見ながら口を開いた。
「あなたはたった今、俺に売られてしまったわけですが……」
「う、売られてなどいません」
「おや?しかし確かに先ほどそこの彼から月濱家の長女であるあなたを買い取ってくれと言われたのですが?」
父に対する物言いとは打って変わって、妙堂さんはなぜか私に敬語で話しかけてくる。
そんな違和感を感じながらも、頭の中ではどうにかこの家に留まる方法を模索し続けた。
「お父様、お願いです。どうか私を売らないでくださいませっ」
「ま、まだ言うかこの穀潰しが……っ!」
「お願いです!これまで以上に家のことを熟してみせます。自分の食い扶持くらいは稼げるように仕事もします。だから、どうか……」
「お前は最初からこの家の者じゃないんだよ!あいつが死んだ時からな!」
「……!」
「早く月濱の家から出て行け!お前の居場所はもうここにはないんだ!」
父のいう『あいつ』とは、私のお母様のことだ。
父はいつも酒に酔うたびに『あいつに恋人を奪われた』『わたしの人生はあいつに壊されたんだ』などと言いながら亡くなったお母様を侮辱し続けた。
両親の結婚は家同士が決めたもので、そこに愛はなかったのかもしれない。
自分たちの意思など聞き入れてはもらえなかった結婚のせいで、父が学生のころからお付き合いをしていたという今の継母と離れ離れになったのだとしても、それはお母様だって同じことだったかもしれない。
それでもお母様は最期まで父のことを敬い、家の主人として引き立て、尽くしていた。
『人を恨んではいけませんよ、和泉』
『どんな苦難も、自分の人生の試練だと思って挑みなさい』
『そうやって頑張って生きていれば、きっとあなたのことを助けてくれる人が現れます』
『優しくて賢い和泉の母になれて、私は幸せでした』
お母様が最期に残してくれた言葉たちが、ときよりものすごく私を苦しめる。
お母様がいなくなって、私に対する父の態度がさらに悪化しても、継母に嫌われようと、異母弟妹たちから馬鹿されようと、あの言葉を何度も思い出してはただひたすらに耐えてきた。
「お父様がどんなにお母様のことを嫌っていたからと言って……、私はあなたの娘でははいのですか?本当の父親ではありませんか」
「ふんっ!お前を娘と思ったことなど一度だってないわ!わたしの家族は幸子と重政と花子だけだ!」
「……っ!」
「つべこべ言わずにとっとと出ていけ!」
ねぇ、お母様。
こんなことを面と向かって言われてもまだ、私はこの人を恨んではいけないのですか?
父の言葉のひとつひとつが、私の心を痛め続ける。
この世に性を受けてから十八年間住み続けた家。
十歳のときにお母様が他界してからはつらいことのほうが多かったけれど、それでもここが私の帰る場所だった。
一番日当たりの悪い北向きの湿気た部屋に変えられても、同じ食卓を囲って食事をすることが許されなくなっても、侍女たちと同じような扱いを受けても、ここだけが私の居場所だったのに──。
「──もういいでしょう。彼女をいただきましょう」
こんな身内の不毛な言い合いを見ていて痺れを切らしたのか、パンッと両手を叩いてその場を強制的に切り上げたのは妙堂さんだった。
「ほ、本当ですか妙堂さん!それで、その、いったいおいくらほどで……」
「これまでの借金の全額、すべてきれいに精算してやる」
「な、なんと!」
「だから今すぐここで誓えよ愚かな月濱の当主。金輪際、月濱和泉とは関わらない、と──」
妙堂さんのその言葉に、父は腕の痛みなど忘れているかのように飛び跳ねて喜んだ。
どれだけ私が声をあげてここに居させてくれと懇願しても、父にはもう届かない。
それを証明するかのように、私の隣では淡々と契約書が巻かれていく。
「では参りましょうか、和泉さん」
「……」
「どうかこの手を取ってくれますか?」
そして今日、私は正式に売られた。
帝都一悪名高き一族、妙堂家の新しい当主……妙堂漣という男に。
目の前にスッと出された手。
今の私には、言われたとおりに彼の手を取ってついていくことしか許されなかった。



