恋する心臓の温度は

 朝。
 ランニングを終えて、汗を流して、学校へ登校している途中だった。
 あの分岐点で、大きな男が立ち止まってぼんやりしている。
 僕はどうしたのだろうと思って、近づいた。
「狗塚、何してんの」
「お、やっと来た」
 先程までの、アンニュイな雰囲気が霧散して、僕に微笑みかけてくる。
 僕は目を丸くした。
「待ってたの?」
「んー? うん」
「僕が今日休みだったらどうしたんだよ……」
「流石に遅れそうになったら行く。でもまだ全然時間あるし」
 狗塚がスマホを見た。まだ朝の八時十分。始業まで三十分。ここから学校までは十分程度だ。
「じゃ、行こ」
「あ、うん」
 当たり前のように隣で歩いていると、僕の恋があまりにも都合よく進みすぎているような気がするのだ。
 好きな人と初日で仲良くなれて、それも、好きだとバレていても(もしかしたらバレていないかも知れないけど)遠ざけられることもなく、相手も好意的で、今日なんて僕がくるかも分からないのに待ってくれていた。
 でも、ずっと待たせる訳にもいかない。
「ねえ、狗塚。僕たちこれから待ち合わせするなら、時間決めようよ」
「うん。八時くらいで良い?」
「そうしよう」
 僕が頷けば、狗塚はふと僕の方に鼻を近づける。
「ん。てか、風呂上がり?」
「え?」
「めっちゃ清潔な香りする」
「か、嗅ぐな!」
「いや?」
 嫌、じゃない!
 僕は狗塚と距離を取った。でも横一歩でその間を潰されてしまう。
「朝シャン派?」
「朝、ランニングしてるから」
「へえ、まじで健康児だ」
 関心したような狗塚の言い草。きっとこの男は、小さい男の気持ちなんてわからない。今もしかしたら、僕らは兄弟が登校してると思われたっておかしくないくらいの身長差だ。
 僕は不貞腐れながら言った。
「身長、小さいから、身体くらいは鍛えてたくて」
「努力だ」
「……ありがと」
 僻んでいる自分がバカらしくなる。狗塚は僕に嫌味なんて言わない。
 誰にも言っていなかった、この事。中学の時代は部活熱心なやつだとは言われたけど、
 胸がくすぐったくて、僕は人知れず微笑んだ。
 好きな人に、小さな男は頼り甲斐がないなんて、思われたくない。僕の勝手な願望だけど。
「狗塚はなんか、やってることあるの?」
「筋トレとか?」
「お前がムキムキになったらもう無敵だね」
「無敵なの?」
「無敵でしょ」
「じゃあ無敵になるか……」
 力こぶを作る狗塚を見て僕は笑う。ブレザーだからわからないけど、きっとそこには力こぶが存在しているのだろう。
 負けないぞ。なぜかそんな対抗心に燃える。
 すると、学校はすぐそこ。楽しい時間はおしまいだ。
 ……お昼休みとか、誘っても良いかな。
「狗塚」
「猫宮」
 同時にお互いの名前を呼んで、僕は互いに目を合わせた。
「ど、したの」
「いや、猫宮は?」
 窺うような視線を向ける狗塚に、僕は恐る恐る声をかけた。
「あ、えっと、……昼休み、一緒に食べない?」
「うん」
 僕はすぐに頷いてくれた狗塚に嬉しくなった。
「狗塚は何言ったかったの」
「一緒のこと」
「そっか」
 狗塚は僕のこと、嫌ってはいないのだろう。もしかしたら、好意的に思ってくれているのかも知れない。
 それなら嬉しいなと思った。
 校門を潜って、靴を履き替えて、狗塚を待っていた。
 その時だった。
「ちっさ!」
「……は?」
 思わず口から出たガラの悪い一言。
 でも、ネクタイの色からわかる、年上だと。
 僕は無視することにした。小さいのは事実だ。こんなの、何回も言われたことある。
 声の主は僕を不躾にジロジロ見ながら、話しかけてくる。
「何センチ?」
「おい八代やめろ」
 誰か知らない、先輩に引き摺られて不躾男はどこかへ行った。
「猫宮、大丈夫?」
 心配げな狗塚に俺は笑って見せる。
「慣れてる」
「いや、慣れないでいいよ。失礼でしょ、普通に」
「……そうだね」
 少し機嫌悪い狗塚に、僕は眉を下げた。
「狗塚、大丈夫。笑って」
 そう言えば、狗塚は困ったように笑った。
「ダメ。もっと素敵に笑って」
「俺の笑顔素敵なの」
「うん」
 僕が頷けば、狗塚は少し照れたような顔になった。僕はそれが珍しくて、可愛くて、じっと見てしまう。
 すると、大きな手が僕の目を塞いだ。
「見ちゃダメ」
 手の平は、僕の顔全体を覆ってしまうほど大きかった。僕の心は高鳴る。
 その手の平を取ると、僕は顔から外す。好きな人の手に触るのは、少し、緊張する。
「ほら、行こ」
「ん」
 僕らは階段を四階分も登って、少し疲労を覚えながら教室に入る。
「じゃあ、昼飯一緒に食うってことで」
「うん。じゃあね」
 そう言って、僕らは各々の席に座った。

 僕は午前、ずっとソワソワしていた。
 ノートに書く文字に誤字が多くなったり、ぼーっとして、教師の話を聞き流してしまったり。
 これではいけない。恋心一つに、ここまで左右されてはいけない。
 そう思うのに、心は追いついていけない。
 真面目に授業を受けながら、僕はこの恋心を封印しようか迷っていた。
 だって叶うことはないのだから。
 友達として、ずっとそばに、いや、狗塚にだって恋人ができる可能性はある。その時はその時だ。
 ただずっと、狗塚のそばに居られると良いなと思った。

 なんとか授業に追いついて、昼休みになった。
 やっぱり有名な進学校なだけ、教師は一流だけど、勉強は難しい。
 このままやっていけるだろうか。僕はため息をつきながら、教科書を机の中に閉まった。
「どした、暗い顔して」
「! 狗塚」
 静かに現れるものだから、僕は驚いてしまった。
 狗塚は購買で買ったのだろうパンを三つ持って、空いている僕の席の前に座る。
 僕は、お前に恋をして、そして悩んでます、なんて言えないから、笑顔で誤魔化す。
「勉強、難しいから。ついていけるかなって」
「……へえ。苦手な教科とかあるの」
「うーん、英語かな」
 僕が苦笑いして答えれば、狗塚はなんでもない風に言う。
「そっか、じゃあ、俺と英語勉強する?」
「え?」
「俺、英語得意だよ」
「そうなの? 僕は有難いけど……。図書室とかでする?」
「ん、そうしよ」
 僕は頷いて、カバンから弁当を取り出した。いつも朝暇だから、手作りして、家族の分も作っている。
 腕前に自信はある、なんせ中学生から作っていたのだ。
 ……狗塚も、美味しそうだと思ってくれるだろうか。
「お、手作り弁当?」
 狗塚の言葉に、僕は緊張を隠しながら頷いた。
「僕の手作り」
「すご、見せて」
 僕は弁当の蓋を開けた。一番に、今日のおかずが出てくる。
 狗塚はびっくりしたみたいに、俺の弁当箱の中を除く。
「すご、めっちゃ美味そうじゃん」
「卵焼き、食べれる?」
「食べれる食べれる」
「一つどうぞ」
「マジ? ありがと」
 僕は箸で卵焼きを取って、狗塚の口元に手の平で皿を作って、運んだ。
 すると狗塚は少し間抜けな、呆然とした顔で卵焼きを一口で食べた。
 そして咀嚼すると、とびきりの笑顔を見せてくれる。
「美味いよ」
「良かった……」
 もし口に合わなかったら、悲しいところだった。
 それにしても。
「狗塚ってよく笑ってくれよね」
「……そう?」
 狗塚は不思議そうに首を傾げる。僕は狗塚のいくつかの笑顔を思い浮かべてみた。どれもこれも、優しくて、素直な笑顔だった。
「うん、嬉しい。ずっと笑ってて」
「ずっと笑ってたら怖くない?」
「言葉の綾だから」
「確かに」
 僕も卵焼きを口にする。そしてふと、気がついた。
 さっきしたのって。よくある、恋人同士がやるような……。
 僕の顔に熱が集まる。また拍動が耳の中で響き始める。
 狗塚は眉を顰めた。
「どした?」
「さ、さっき」
 その言葉だけで察したのだろう。狗塚は肩を揺らす。だから僕と卵焼きを交互に一瞥して、食べたのだ。
「大丈夫、大丈夫」
「だ、大丈夫?」
 僕は混乱して、箸からご飯を落としてしまう。容器の中に逆戻りしただけだけど。
「そう言う時もあるって」
「うん、うん」
 僕は深く考えないようにした。
 ……恋心隠そうと決めたばかりなのに、僕はちっとも、この男の前で冷静に居られないな。
 僕は平気な顔で狗塚と話しながら、心の中では少し、黒いモヤが潜んでいた。

 数学の時間、当てられたけどちゃんと答えられて良かった。
 僕は安堵の息を吐きながら、帰る準備をする。
 必要な教科書やノートは家に持って帰って、忘れ物がないか確認すると、廊下で待っている狗塚の元へ小走りで近寄った。
「ごめん、待たせた」
「そんなに待ってないよ。図書室行くか」
「うん」
 僕は図書室の場所がわからなくて、まごつく。
 すると狗塚がそれに気づいて、指を指してくれた。
「こっち」
「あ、うん」
「ついてきな」
 そう言って、僕は狗塚の背を追う。
 悪戯心が湧いて、ブレザーの裾を取ったら、狗塚はチラリと僕を見て、何も言わなかった。
 きっと狗塚は、僕が何をしても、胸が高鳴ったりしないんだろうな。恋になんて、落ちたりしないんだろうな。
 羨ましくて、憎らしい。
 背後の男がそんな事を考えているとはつゆ知らず、狗塚は図書室まで連れて行ってくれた。
 扉を開ければ、そこには大量の人が、机に向かっている。
 僕らは顔を見合わせた。
「やめとく?」
「俺の家でやろ」
「あ、え、いいの?」
「いいよ、両親共働きで家帰ってくるの遅いし」
 僕は究極の選択を迫られていた。ここで断って、フードコートでも使って勉強をするのが普通の友達の関係値なのかもしれない。
 でも、好きな人の家で、好きな人の空間に包まれて、勉強をする。
 集中なんてできないだろうけど、幸せだ。
「わかった。じゃあ狗塚の家でする」
「ん」
 図書室の扉を静かに閉めて、僕らは歩き出した。
「狗塚、なんで僕のことこんなに気に入ってくれてるの」
「気に入ってるっていうか、隣に居ると落ち着くから」
「へえ……」
 僕はお前の隣にいると心臓が忙しくて仕方ないよ。そんな事、言えないけど。
「猫宮は、俺のことが好きだから一緒に居てくれるんでしょ?」
「は!? え、え!?」
 どう言う意味での“好き”、と言うことなのだろう。もしかして、僕の恋心はもうすでに丸見えなのだろうか。
「何、ちがうの? 俺のこと友達として好きだから、一緒に居てくれるんでしょ?」
 狗塚が悪戯っぽく笑うから、僕はムッとして、顔を逸らした。
 狗塚は僕を弄んでいるのだろうか。きっと、僕が狗塚のことが好きで、この男の一挙一動に心動かされている事を知らないのだ。だからこんな、冗談みたいに言ってくる。
「猫宮?」
「何」
「俺のこと、嫌い?」
 どうしてそんな、不安そうな声で言うのだろう。僕が視線を戻せば、そこには少し悲しげな狗塚の顔があった。僕の胸は苦しくなる。
 そんな顔して、僕のこと、好きでもないくせに。
 でも、嫌いになんてなれないから。
「僕も、友達として、狗塚が好きだよ」
「……ふうん」
 その返事が少しだけつまらなさそうに響く。僕はそれが不思議で、狗塚に首を傾げて見せるけど、狗塚は何も反応を返してくれなかった。
 ついて行っているうちに、左手に大きな家が見えてくる。
「すご、でかい家あるね。金持ちなんだろうなあ」
「あれのこと言ってる?」
 狗塚が指をさすから、僕は頷いた。
 すると、狗塚が言う。
「あれ、俺んち」
「え!?」
 純粋に心から驚く俺に、狗塚はくつくつと喉を鳴らす。
「狗塚って金持ちだったの?」
「ん〜、上流階級とは言わないけど、貧乏ではない」
「だろうね……」
 感心しているうちに、狗塚が指紋で門扉を開ける。
「指紋認証のやつなんてあるんだ……」
「まあね。ほら、入った入った」
 背を押されて、僕はされるがまま狗塚の家の敷地を踏んだ。
「ちょっと待って、玄関開けるから」
「また指紋認証?」
「いや、暗証番号、十桁。今のところ破られてないよ」
「破れられてたらやばいよ。でも、指紋の跡とかでバレないの?」
「指紋とかつかない素材で作られてる」
「へえ……」
 お金持ちの家はすごい。妬み嫉みとかじゃなくて、純粋にそう思った。
 鍵が開くと、中へと促される。僕は靴を脱ごうとして、玄関に入って真正面に飾られている絵に動きが止まる。
「綺麗……」
 目を奪われるとは、こう言うことなのだろう。
 少しの間、僕は立ち尽くして、絵を眺めていた。
 水辺で、男と女が座って、女性の髪が風に揺れている。その輪郭はしっかり描かれているのに、どうしてこんなにもやわらかなんだろう。
 周囲の風景は水彩のように滲んでいるのに。その輪郭のしっかり描かれた髪は全く浮いていない。
「狗塚、これ、誰が描いたの」
 僕は夢見心地で絵画を鑑賞していた。もしこれを描いた画家の個展があれば、僕は喜んで観に行くだろう。
 僕は目を輝かせていた。狗塚の方に振り返れば、すると、その瞳は揺れていた。
「狗塚……?」
 どうしてそんな顔をするのだろう。僕は言ってはいけない事を言ったのだろうか。
 僕はどう弁解して良いのかわからなくて、視線をうろうろさせた。花瓶にさされた花がさらに僕の心を孤独にさせる。僕の家の玄関には花なんてさされていない。ここは他人の家で、狗塚は他人だった。
 もっと近づきたい。でも、僕らはどうしたって一つにはなれない。
 すると狗塚は誤魔化すように笑う。僕はそれに、少し傷ついたけど、この歪んだ空気が正常に戻るなら、なんでも良かった。
「その絵」
 だから、狗塚が口を開いた時、僕は驚いた。答えてくれるとは思わなかったから。心の壁は、確かにあると思っていたから。
「俺が描いたんだよ」
「え……?」
 狗塚の瞳と、僕の瞳が混じり合う。
 その色は、真実を表していた。
「……僕、この絵、大好きだよ」
「ありがとう。俺もこの絵、好きだよ」
 狗塚は穏やかに頷くと、靴を脱ぐ。俺もさっさと靴を脱ぐと、狗塚についていく。
 好きな人の家は、こんなにも興味深いものなのだと言うことは僕は初めて知った。友人の家に行くこともそれは目新しいが、狗塚の家は、すごく、妄想に駆られるものだった。このソファで、あのキッチンで、狗塚の色が残っているのだ。
 階段を登って、扉を開ける。
 瞬間、鼻につく臭いがした。
「俺の部屋だけど、半分アトリエだから、まあまあきつい臭いするけど、リビングでする?」
 本当は、リビングでやる方が良いんだろう。多分これは、絵の具の匂いだ。
 でも、“狗塚の部屋”に入ってみたいと言うところがあって、僕は首を横に振った。
「大丈夫」
「そ、じゃあどうぞ〜」
 開かれた先にあったのは、真っ白な壁、絵の具に汚れた床。そして右側には、整理整頓されて、どこにも絵の具なんて付いていない、大きな空間が広がっていた。
 部屋の真ん中を仕分けるように、カーテンがついている。今は開けられているけれど、きっと、絵を描くの時には閉められているのだろうなと思った。
「すご……」
「換気すんね、適当に座って。ベッドの方は汚れてないから」
 僕は言われた通り、狗塚の生活領域だろうところに入った。机の近くにはローテーブルがあって、僕はそのそばに腰を下ろす。
 ベランダに繋がっている大きな窓を開けて、カーテンと、飯塚の髪が揺れる。
(やっぱり、綺麗な顔してるなあ)
 顔だけじゃないけど、やっぱり一目惚れした人間としては、容姿に心が動かされてしまうもので。
(そんな綺麗な顔してる方が悪い)
 僕はなんでもない風に目を逸らした。風が吹き込んでくる、外の香りがした。
「よし、勉強するか」
「うん。英語、教えてくれる?」
「いいよ、えっと、どれくらい苦手?」
「模試で一番英語が点数低い。中学英語はなんとかなってると思いたい」
「そっか」
 僕と狗塚は鞄から教科書とノートを取り出すと、狗塚は立ち上がって、本棚へ向かう。
 壁を覆うくらいの本棚。先程から気づいていたが、よく見れば、色んなジャンルの本が入っている。でも、美術に関する書籍が多いなと思った。
「じゃあ、この参考書おすすめ。一番わかりやすかった」
「そう言えば、狗塚、どこの中学通ってたの?」
「瀬戸」
「うわ」
 僕は若干引いたような声をあげてしまった。だって、瀬戸だ。私立の名門進学校。金持ちの巣窟。
 僕は公立中学卒業だった。たまにすれ違う瀬戸中学の生徒の制服の高そうなこと。僕は間違えても彼ら彼女らの制服には近寄りたくなかった。というか関わり自体持ちたくないと思っていた。
「そんな引く?」
「制服いくらだった?」
「六桁はいったかな」
「本当に近づかなくて良かったと思う」
 僕が大真面目に言えば、狗塚は寂しそうに笑う。
「俺とも友達になってくれなかった?」
「……それは、考える」
 すると狗塚が肩を揺らす。僕は苦笑いした。中学生の頃出会っていても、僕は狗塚を好きになってしまうのだろう。そうわかったから。
「さて、勉強しますか」
「はーい」
 僕らは勉強を始めると、わからないところは二人で解決して、それ以外はほとんど話さなかった。
 でも狗塚の部屋にいること、尚且つ狗塚が一緒に居ることに緊張しすぎて、ろくに手が進まない。
 でもそんなそぶりは見せずに、僕は悩んだり迷ったりしているような仕草をして、シャーペンを走らせる。
「猫宮」
「ん?」
「ちょっと休憩にする?」
「あ、うん。そうしよっか」
 スマホで時間を確認したら、一時間半くらい集中していたらしい。流石に休憩を挟んだ方が良いなと思った。
「お茶、入れてくるから」
 そう言って立ち上がる狗塚に、僕はお礼を言って、部屋で待つことにした。
 待っている間、僕はきっと近づいてはいけないから、カーテンの向こう側を隙間から眺めていた。
 狗塚は、将来、絵描きにでもなるのだろうか。でも、なってもおかしくないと思った。
 あの玄関に飾られた絵を描いたのは狗塚だ。僕はあの一枚に心奪われてしまった。きっとこれから、どんな絵を見ても、あの絵を思い出すのだろう。
 それなのに、狗塚は僕に自分が絵を描いていることは教えてくれなかった。
 それもきっと、狗塚なりの理由があるのだろう。僕は何も言わないことにした。そして先程の位置に戻って、渡された英語の参考書の中身をパラパラと開く。そこには赤線や蛍光色の線が引かれていて、狗塚の努力が見えた。
 確かに、英語、特に文法に弱い僕に、簡単に、でもしっかりと教えてくれる参考書だなと思った。
「お待たせ」
「! ありがとう」
 カーテンの隙間からお盆を持って出てきた狗塚に、僕は立ち上がるとお盆を受け取る。その上にはお茶の入ったグラスと、カステラが乗っていた。
「カステラ?」
「食えない?」
「ううん」
「なんか、淳二堂ってとこの、カステラらしいよ」
 僕はまた簡単に出てきた名のある店に、驚きさえ忘れた。ただ純粋に、平民との格の違いを見せられただけだった。
「そこ、すごく有名なお菓子屋だから、味わって食べよ」
「え、そうなの。適当に一口で食ってたわ」
 一口。確かに、狗塚は一口で食べられるだろうなと思った。この男の一口は大きい。だって、家から持ってきたと言う間食のおにぎりのサイズが規格外だったから。よくそんなの、五分間で食べ切れるな、って言うくらい。
 僕は味わうように、ゆっくりと食べた。甘党という訳ではないが、母が甘いものが好きだから、よくアフターヌーンティーなどに誘われ、口にすることがあるのだ。
「猫宮、一口小さすぎない?」
 そう言う狗塚はさっさと食べ終わっていて、お茶を飲んでいる。僕はフォークで丁寧に切って食べていたから、時間もかかると言うものだ。
「人様の家で出されたお菓子、一口で食べられる訳ないでしょ」
「ふーん。そんなもん?」
 狗塚が後ろに手をついて、首を一周まわす。
「狗塚、友達の家行くでしょ? そこで出されたお菓子一口で食べれる?」
「俺他人の家入りたくないんだよね」
「え、じゃあ友達とどこで遊んでたの」
「外?」
「僕に疑問系で言われても……。ここで遊んでたの?」
「そんな訳ないじゃん。アトリエに人入れたくない」
 僕は例外なのか。聞きたかったが、別にそんなことある訳ないので黙っておいた。
 それなのに、狗塚は小さく笑って、僕を見る。
「猫宮が特別なんだよ」
「……ありがとう」
 なんと返事をして良いのかわからなくて、お礼を言ってしまう。
 ぺこりと、照れ半分で頭を下げる。すると、手が伸ばされて、それが、髪に触れた。
「猫宮は可愛いね」
「……別に、可愛くない。俺のこと、小さいから、ちょっと可愛いと思うだけ」
「身長なんて関係ないよ。俺、大きいだけで小心者だし。猫宮の方が絶対、勇気あるよ」
「そんなの、わかんないだろ。まだ、出会って一週間も経ってない」
「それでもわかることはあるよ。猫宮は俺が自分の話をしなくても、何も言わないでいてくれるでしょ。得体の知れない人間と一緒に居るのって、怖いものだよ」
「それは、僕の勝手」
 最後の一口を食べて、フォークを置くと、僕はお茶を飲んだ。極めて冷静に。
 でも狗塚は嬉しそうに、でも少し切なさの混じった笑顔を浮かべる。
「俺、もう絵、描かないから。良かったら、玄関の絵、あげるよ」
 僕はびっくりして、狗塚を見た。首を横に振る。
「なんで描かないの」
「内緒。でも俺の名前で調べたら出てくるかもね、知りたかったら、ネット調べて」
「わかった。じゃあ、一生の秘密だ」
 僕は頂いたお菓子に手を合わせると、勉強に戻った。
 狗塚は、そんな僕を眺めて、また、ノートに向き合う。
 すると狗塚は、ささっと髪を結ぶ。前髪も上げて、僕はどきりとした。
「さて、集中しよ」
「うん」