ふ、と風が吹いて。
おおきないぬの顔が見える。
僕は瞬間、目を離せなくなった。
眠そうで、でもどこか鋭さを感じる瞳。僕よりも三十センチは高い身長。引き結ばれた愛想のない唇。やる気なさげにブレザーのポケットに手を突っ込んでいる。
ふわふわの肩まである髪が、またおおきないぬの顔を隠してしまった。
(綺麗……)
僕は、人生で初めて、一目惚れをした。
狗塚茜。
それが、おおきないぬの名前だった。
桐谷第一高等学校入学式。
春麗らかに、満天の青空が広がっている。
——僕はその日、恋に落ちた。
体育館に入れば、教師らしき人間に名前を問われる。
「猫宮讃良です」
すると、一年二組の席に案内される。僕は一年二組らしい。
その時、隣に座っていたのが狗塚だった。出席順に座っていくらしい。だから、僕が少しでも遅れてきていたら、狗塚の隣にはならなかった。そして、僕ら二人は出会えなかったと言うことだ。
背が大きくて、体格が良い。でも肩まである天然パーマと長い前髪が、陰鬱さを醸し出していた。
僕は少し緊張していた、隣に座る狗塚に。
すると開け放たれた窓から拭いた風が、狗塚の髪を揺らしたのだ。
それを目にした、僕の心臓の温度が一気に上がっていく。
脈拍が早くなって、耳の中で鼓動が聞こえる。
すると、狗塚が僕が見つめていることに気づいたのだろう。
首を傾げて、小さく口角が上がった。
「何、一目惚れでもした?」
「し、てない」
辛うじて首を横に振った僕に、狗塚は俯きがちな僕の顔を覗き込んでくる。
「本当に?」
僕は口を引き結んだ。顔が真っ赤になっている自覚はあった。
ずっと黙っている俺に、狗塚は僅かに肩を揺らす。
「そっか。俺、狗塚茜。お前は?」
「猫宮讃良」
「似合ってんね、名前」
僕はムッとした。この男は僕の地雷を踏んだのだ。一瞬、気持ちが冷めかける。
「僕が小さいから?」
「小さいね。別にそれはどうでも良いけど。ただ、可愛いなって。俺、猫派だから」
「可愛い……」
引いてきた熱がまたぶり返す。
さっきからムッとしたり、顔を赤くしたり、僕は忙しい男だ。
狗塚はずっと僕の顔を覗き込んでいた。前髪は傾いて落ちて、顔がずっと近くに見える。
僕好みの鋭くて、でも優しい瞳に見つめられて、僕はその瞳から視線を逸らしたくて、でも出来なかった。
「猫宮」
「な、に」
また狗塚が面白そうに肩を揺らすから、僕は睨んでやった。僕は何も面白くない。さっきから心臓が忙しくて仕方ないのだ。
「仲良くしてくれる?」
「……うん」
頷けば、狗塚は目を細めた。それがひどく喜んでいるように見えて、僕も小さく笑った。
すると、狗塚が目を見開く。
「な、何」
「やっぱり可愛いね、猫宮」
すると、入学生が揃ったのだろうか。
司会の教師が定型文を読み始めたところで、僕らは前を向いた。
僕は狗塚からもらった可愛いを心に刻みながら、ちっとも頭に入ってこない話を聞き流していた。
どれもこれも、狗塚が悪い。僕は隣の男のせいにした。
式典が終わって、教室に連れて来られる。
出席番号順に一人一人呼ばれて行って、狗塚は最初に呼ばれていた。
僕はね、から始まるから、まだまだ先だ。校庭の方を眺めたりしていたら、狗塚のことが気になって、開け放たれている廊下側の窓の方を見た。
すると、狗塚と視線が合う。僕はびっくりして、肩を跳ねさせた。
「な、に」
口パクでそう言えば、狗塚は首を横に振る。
なんだ、たまたまか。きっと暇つぶしに視線を巡らせていたら、僕と目が合ったのだろう。
いや、でもそれならば狗塚がずっと僕を見ていたことになるのではないか?
僕は否定しようとしたが、狗塚は視線を前に戻していて、いちいち肩を叩きに行ってなんだと聞くのもおかしな話だと思った。
良いじゃないか。
もし好きとバレていたって。
狗塚が悪いのだ。僕を恋に落とした責任をとってほしい。僕のことを可愛いと言う。思わせぶりな男。それが恋愛に通じることはないのだろうけど、でも、好きな人に可愛いと言われて嬉しくない訳はない。
でももし、狗塚に恋人ができたら?
僕は今からバッドエンドを考えるのはやめにした。誰も幸せにならない。
「猫宮」
「はい」
僕は名前を呼ばれて、教室に入る。
ふと、左手の小指が握られて、僕は立ち止まった。
「狗塚……?」
僕が恐る恐る名前を呼べば、狗塚は口元だけで笑って、肩を竦めた。
なんて思わせぶりなやつ……!!
僕は思わず大きな声で抗議しそうになったけど、目立ちたくないから、さっさと窓際の席に向かった。
生徒が揃って、担任が教台に立つ。
「おはようございます。まずは、入学おめでとう。これから桐谷第一高等学校の一員として、節度を持った行動をしてください」
僕はチラリと、自分の胸元の校章を見た。
桐谷第一高等学校は、巷でも有名な進学校だ。僕らは大体、必死に勉強してきてこの学校に入ってきている。たまに天才がいて、勉強をしなくても点数を取れる奴が居るが、そんなの一握りだ。
努力をした凡人の一人である僕は、この教室に居ることが、感無量だった。あの時、必死に机に齧り付いて勉強をして良かったと。
「さて、中年のおっさんの話なんて聞いてても楽しくないだろう。自己紹介の時間にでもするか。澤田だ。趣味は釣り、以上。さて、狗塚から立ってくれ」
「はい」
狗塚が立ち上がる。すると、教室に気押されるような空気が流れる。
「狗塚茜です。趣味は昼寝。よろしくお願いします」
「はい、次」
淡々と流れていく
僕は何を言おうか迷って、結局、適当に言えば良いや、と思った。
「次」
「……猫宮讃良です。身長は百五十八。以降は答えません。趣味はカラオケ。よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、僕は椅子に座った。
百五十八。その数字に教室の中で驚きや揶揄いの視線が向けられたことには気づいていた。
僕は背が小さい。それも壊滅的に。そして華奢だ。女子が男子制服を着ているものだと勘違いされたこともあった。
だから身体だけは鍛えていた。朝の六時からランニングに行って、夜も一時間くらい走る。中学校の頃は陸上部に所属していた。
だから、少し前よりは子供らしくなくなったとは思う。
でも身長は伸びないままで。母さんは、高校生になったら伸びる、と言うので、それを信じていた。
狗塚みたいになれるとは思わないけど、最低でも百七十は欲しい。
「さて、明日から通常授業だ」
考え事をしているうちに、話は進んでいたらしい。いつの間にか自己紹介の時間は終わっていて、明日からの流れを説明されていた。
「教科書を配布する、そしてシラバスも配布するから、今週中に選択授業提出しろ」
「はーい」
適当な返事をする生徒に、よし、と澤田先生が頷く。
教科書は前から順番に送られてくるのを礼を言って受け取るくらいだった。
そして落丁やページの損傷がないか確認をして、カバンに入れていく。
初めてシラバスというものを受け取って、僕は少しだけ分厚いそれに、高校生になったのだという自覚が湧いた。
「よし、不備はないな。問題がないならここで解散だ、起立!」
ハキハキとした声に、生徒の姿勢は自然とのびる。
「礼」
同じように頭を下げて、僕は教科書の入った重い鞄を持つと、教室を出ようとした。
するとそこに、狗塚がやって来る。
僕は自然と立ち止まった。
「何」
「一緒に帰る?」
僕は一瞬言葉の意味が理解できなくて、返事に間が開いてしまった。
すると狗塚は首を傾げる。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「わかった、一緒に帰ろう」
「……うん」
嬉しくて胸がいっぱいになる。だって、好きな人が自ら誘ってきてくれたのだ。これがわざとなら、狗塚はとんでもない男である。幾人もの人間を弄んできたのだろう。
僕は狗塚の隣に立つ、すると狗塚は満足そうにして僕の袖を少し掴む。
引っ張られて、僕はゆっくりと着いて行った。
下足室で上履きから靴を脱ぐ。
もう人はほとんど帰っているのだろう。閑散としていた。
僕は靴を履くと、下に向けていた目を見開く。
「でっか……」
「海外のサイトしかほとんど売ってないよ、靴」
「それはそれは……」
だいぶ苦労しているのじゃないだろうか。僕は狗塚みたいな身長になりたいと思っていたけど、少し考えを改めることにした。
「で」
「?」
「校門出て、右? 左?」
「右」
「お、一緒」
狗塚の笑顔は、僕の心臓をおかしくさせる。きっと中の血液を沸騰させているのだ。
僕は頷くだけ頷いて、熱い顔を隠すようにそっぽを向いた。
狗塚はそんな僕に気づかなかったらしい。屈んで、僕の顔を覗き込んでくる。
「あ、照れてる」
「うるさいな!」
弱い力で頭を叩けば、狗塚はわざとらしく眉を下げた。
「痛い」
「い、痛くないだろ」
「俺が泣いてもいいの?」
「す、好きにすれば?」
僕は一足先に下足室を出た。すると、ゆっくりと、でも歩幅が違うから、すぐ狗塚に追いつかれてしまう。
「俺が泣いても良いなんて、猫宮は薄情だね」
「……泣いたら、慰めてあげるから」
「……へえ」
チラリと狗塚の方を見る。
するとその無気力な瞳に、小さな火の粉が舞っていた。
「? どうしたの、狗塚」
「んーん。別に」
「そう」
僕はそれ以上は追求しなかった。嫌われてないならそれでいい。
「ね、狗塚は、なんで桐谷行こうと思ったの」
「うーん、家から近いから?」
「お前、天才型か」
「いや、秀才型」
「へえ。努力しないとやっぱり、賢くなれないよな」
僕も寝ずに過去問解いてたっけ。試験当日はほぼ徹夜だった。歩きながら英単語を復習していたものだ。
「まあね、努力しないと出来ない奴は努力しないと。才能があっても開花しないと意味ないし」
狗塚の言葉は、少し鋭かった。
誰に言っているのだろう。才能があっても開花しないと。
狗塚は、才能があっても開花しなかったのだろうか。
僕の心配げな視線に気づいたのかもしれない。
狗塚は僕の頭に大きな手の平を置いた。
「なんでもないよ。猫宮」
「……うん」
聞けない。だって僕と狗塚は、まだ友達になれているのかも分からない間柄だ。
「猫宮は可愛いな」
「は!?」
僕は今度こそ、目が転げ落ちるかと思った。
「急に何!?」
動揺する僕に、狗塚は笑う。
笑顔、可愛いな。
じゃなくて!
「俺の一挙一動に喜んだり、心配したりするところ」
「別に可愛くない! 僕の一挙一動を操作して楽しい? やめてよ、僕の心臓は一つしかないんだよ」
するとまた、狗塚はさらに面白そうに笑うから、僕は頬を膨らませた。
「もういい、狗塚なんて嫌い」
「俺のこと、嫌いになっちゃうの?」
「うん」
嘘だった。真っ赤な嘘。
僕が狗塚を嫌いになるなんて、きっと出来ない。よっぽど酷いことをされない限り。でも、きっと、狗塚は誰かに取り返しのつかない嫌がらせなんてしないんだろうな。まだ出会ってばかりなのに、そんな信頼を抱いてしまう。
重いだろうか。
重いとか、軽いとか、よく分からないけど。
僕は重い方がいいなと思った。
すると僕の言葉で、狗塚は、落ち込んだような雰囲気を纏う。傷ついたような顔をする。
「俺、猫宮に嫌われるんだ……」
「ほ、本気で言ってるわけじゃないって知ってるんでしょ」
「うん」
「この野郎」
僕は拳で、狗塚の肩を殴った。
痛い痛い、と笑う狗塚に、僕も笑ってしまう。
すると、狗塚は優しい瞳で、僕を見るのだ。
勘違いさせないで欲しい。
まるで、僕に恋心を抱いているような、そんな瞳はしないで欲しかった。そんな訳ないのだから。
僕は視線を逸らした。まっすぐ前を見るのは大事だ。
するとその瞬間、後ろからベルの鳴る音がした。
振り返ろうとする瞬間、狗塚に腕を引かれる。
そして、僕は次の瞬間、狗塚の腕の中にいた。
「あっぶね、あの自転車」
僕は頭が真っ白になっていた。分厚い、頼り甲斐のある胸板。今抱きしめられたら、僕は狗塚にすっぽり抱きしめられてしまうだろう。
狗塚は腕の中の僕の顔を両手で包んで、上に向かせる。
「大丈夫?」
「な、何も大丈夫じゃない……」
「え、どっか捻った?」
さらに顔を近づけてくる狗塚に、僕は真っ赤な顔で手を離させると、ちょっと走って逃げた。
だってあまりに恥ずかしかったから。あんな綺麗な顔に近づかれて、こっちの心臓は一個しかないと言っただろう。
でもさっさと追いつかれてしまう。
羨ましい、どうしてそんなリーチが長いんだ。
「恥ずかしい?」
「そうだって言ったら?」
「可愛いなって思う」
「……人たらし」
僕は自分の恋の前途多難具合に、ため息をついた。あと二ヶ月も経てば、きっと狗塚は人気者だ。大きい、優しい犬みたいな男だから。そして、誰かの恋心を奪うのだ。
僕は肩を落とした。この具合だと、多分狗塚は男もいけるのだろう。僕は狗塚以外は好きにならないだろうけど。
「うーん、人誑しではない。気に入った人間しか周りにいて欲しくないし」
「そうなの?」
じゃあ僕は、気に入られているということだろうか。
「うん、だから俺は猫宮のこと好きだよ」
「ありがとう。僕も好きだよ」
決して、恥ずかしいとか、喜んでるとか、そんな感情は見せないで。僕はクールにその言葉を受け流した。心中は大嵐だけど。
……少しくらい、照れたりしてるのかな。
僕はチラリと狗塚を見る。すると、狗塚は僕を凝視していた。
びっくりして、肩が跳ねる。
「な、何。怖いんだけど」
「怖くない怖くない」
「いや怖いけど……」
何を言ってるんだ。大男に上から見つめられていたら、怖いだろう。それも瞳孔が開いている。犬なんだから、もっと穏やかな目つきでいて欲しい。
すると、分岐点が現れたらしい。狗塚は立ち止まって、左を指差す。
「俺こっち」
「僕、右」
「じゃあ、お別れか」
「うん、また明日」
「ん、また明日」
手を挙げて、僕らは別れた。
少し歩いて、なんだか名残惜しくなる。
後ろを振り向いた。きっと、狗塚は振り返ってなんてないと思うけど。
でももしかしたら。
もし、そこに狗塚がいるなら。僕は、この恋に真剣になってみようと思った。男になんて初めて恋するし、叶うかも分からない。ただの友達で終わるかもしれない。ギクシャクして、離れてしまうかもしれない。
僕は、後ろを振り返った。
狗塚は、笑って手を振ってくれる。
僕は、この恋が忘れられなくなるだろうことがわかった。
おおきないぬの顔が見える。
僕は瞬間、目を離せなくなった。
眠そうで、でもどこか鋭さを感じる瞳。僕よりも三十センチは高い身長。引き結ばれた愛想のない唇。やる気なさげにブレザーのポケットに手を突っ込んでいる。
ふわふわの肩まである髪が、またおおきないぬの顔を隠してしまった。
(綺麗……)
僕は、人生で初めて、一目惚れをした。
狗塚茜。
それが、おおきないぬの名前だった。
桐谷第一高等学校入学式。
春麗らかに、満天の青空が広がっている。
——僕はその日、恋に落ちた。
体育館に入れば、教師らしき人間に名前を問われる。
「猫宮讃良です」
すると、一年二組の席に案内される。僕は一年二組らしい。
その時、隣に座っていたのが狗塚だった。出席順に座っていくらしい。だから、僕が少しでも遅れてきていたら、狗塚の隣にはならなかった。そして、僕ら二人は出会えなかったと言うことだ。
背が大きくて、体格が良い。でも肩まである天然パーマと長い前髪が、陰鬱さを醸し出していた。
僕は少し緊張していた、隣に座る狗塚に。
すると開け放たれた窓から拭いた風が、狗塚の髪を揺らしたのだ。
それを目にした、僕の心臓の温度が一気に上がっていく。
脈拍が早くなって、耳の中で鼓動が聞こえる。
すると、狗塚が僕が見つめていることに気づいたのだろう。
首を傾げて、小さく口角が上がった。
「何、一目惚れでもした?」
「し、てない」
辛うじて首を横に振った僕に、狗塚は俯きがちな僕の顔を覗き込んでくる。
「本当に?」
僕は口を引き結んだ。顔が真っ赤になっている自覚はあった。
ずっと黙っている俺に、狗塚は僅かに肩を揺らす。
「そっか。俺、狗塚茜。お前は?」
「猫宮讃良」
「似合ってんね、名前」
僕はムッとした。この男は僕の地雷を踏んだのだ。一瞬、気持ちが冷めかける。
「僕が小さいから?」
「小さいね。別にそれはどうでも良いけど。ただ、可愛いなって。俺、猫派だから」
「可愛い……」
引いてきた熱がまたぶり返す。
さっきからムッとしたり、顔を赤くしたり、僕は忙しい男だ。
狗塚はずっと僕の顔を覗き込んでいた。前髪は傾いて落ちて、顔がずっと近くに見える。
僕好みの鋭くて、でも優しい瞳に見つめられて、僕はその瞳から視線を逸らしたくて、でも出来なかった。
「猫宮」
「な、に」
また狗塚が面白そうに肩を揺らすから、僕は睨んでやった。僕は何も面白くない。さっきから心臓が忙しくて仕方ないのだ。
「仲良くしてくれる?」
「……うん」
頷けば、狗塚は目を細めた。それがひどく喜んでいるように見えて、僕も小さく笑った。
すると、狗塚が目を見開く。
「な、何」
「やっぱり可愛いね、猫宮」
すると、入学生が揃ったのだろうか。
司会の教師が定型文を読み始めたところで、僕らは前を向いた。
僕は狗塚からもらった可愛いを心に刻みながら、ちっとも頭に入ってこない話を聞き流していた。
どれもこれも、狗塚が悪い。僕は隣の男のせいにした。
式典が終わって、教室に連れて来られる。
出席番号順に一人一人呼ばれて行って、狗塚は最初に呼ばれていた。
僕はね、から始まるから、まだまだ先だ。校庭の方を眺めたりしていたら、狗塚のことが気になって、開け放たれている廊下側の窓の方を見た。
すると、狗塚と視線が合う。僕はびっくりして、肩を跳ねさせた。
「な、に」
口パクでそう言えば、狗塚は首を横に振る。
なんだ、たまたまか。きっと暇つぶしに視線を巡らせていたら、僕と目が合ったのだろう。
いや、でもそれならば狗塚がずっと僕を見ていたことになるのではないか?
僕は否定しようとしたが、狗塚は視線を前に戻していて、いちいち肩を叩きに行ってなんだと聞くのもおかしな話だと思った。
良いじゃないか。
もし好きとバレていたって。
狗塚が悪いのだ。僕を恋に落とした責任をとってほしい。僕のことを可愛いと言う。思わせぶりな男。それが恋愛に通じることはないのだろうけど、でも、好きな人に可愛いと言われて嬉しくない訳はない。
でももし、狗塚に恋人ができたら?
僕は今からバッドエンドを考えるのはやめにした。誰も幸せにならない。
「猫宮」
「はい」
僕は名前を呼ばれて、教室に入る。
ふと、左手の小指が握られて、僕は立ち止まった。
「狗塚……?」
僕が恐る恐る名前を呼べば、狗塚は口元だけで笑って、肩を竦めた。
なんて思わせぶりなやつ……!!
僕は思わず大きな声で抗議しそうになったけど、目立ちたくないから、さっさと窓際の席に向かった。
生徒が揃って、担任が教台に立つ。
「おはようございます。まずは、入学おめでとう。これから桐谷第一高等学校の一員として、節度を持った行動をしてください」
僕はチラリと、自分の胸元の校章を見た。
桐谷第一高等学校は、巷でも有名な進学校だ。僕らは大体、必死に勉強してきてこの学校に入ってきている。たまに天才がいて、勉強をしなくても点数を取れる奴が居るが、そんなの一握りだ。
努力をした凡人の一人である僕は、この教室に居ることが、感無量だった。あの時、必死に机に齧り付いて勉強をして良かったと。
「さて、中年のおっさんの話なんて聞いてても楽しくないだろう。自己紹介の時間にでもするか。澤田だ。趣味は釣り、以上。さて、狗塚から立ってくれ」
「はい」
狗塚が立ち上がる。すると、教室に気押されるような空気が流れる。
「狗塚茜です。趣味は昼寝。よろしくお願いします」
「はい、次」
淡々と流れていく
僕は何を言おうか迷って、結局、適当に言えば良いや、と思った。
「次」
「……猫宮讃良です。身長は百五十八。以降は答えません。趣味はカラオケ。よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、僕は椅子に座った。
百五十八。その数字に教室の中で驚きや揶揄いの視線が向けられたことには気づいていた。
僕は背が小さい。それも壊滅的に。そして華奢だ。女子が男子制服を着ているものだと勘違いされたこともあった。
だから身体だけは鍛えていた。朝の六時からランニングに行って、夜も一時間くらい走る。中学校の頃は陸上部に所属していた。
だから、少し前よりは子供らしくなくなったとは思う。
でも身長は伸びないままで。母さんは、高校生になったら伸びる、と言うので、それを信じていた。
狗塚みたいになれるとは思わないけど、最低でも百七十は欲しい。
「さて、明日から通常授業だ」
考え事をしているうちに、話は進んでいたらしい。いつの間にか自己紹介の時間は終わっていて、明日からの流れを説明されていた。
「教科書を配布する、そしてシラバスも配布するから、今週中に選択授業提出しろ」
「はーい」
適当な返事をする生徒に、よし、と澤田先生が頷く。
教科書は前から順番に送られてくるのを礼を言って受け取るくらいだった。
そして落丁やページの損傷がないか確認をして、カバンに入れていく。
初めてシラバスというものを受け取って、僕は少しだけ分厚いそれに、高校生になったのだという自覚が湧いた。
「よし、不備はないな。問題がないならここで解散だ、起立!」
ハキハキとした声に、生徒の姿勢は自然とのびる。
「礼」
同じように頭を下げて、僕は教科書の入った重い鞄を持つと、教室を出ようとした。
するとそこに、狗塚がやって来る。
僕は自然と立ち止まった。
「何」
「一緒に帰る?」
僕は一瞬言葉の意味が理解できなくて、返事に間が開いてしまった。
すると狗塚は首を傾げる。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「わかった、一緒に帰ろう」
「……うん」
嬉しくて胸がいっぱいになる。だって、好きな人が自ら誘ってきてくれたのだ。これがわざとなら、狗塚はとんでもない男である。幾人もの人間を弄んできたのだろう。
僕は狗塚の隣に立つ、すると狗塚は満足そうにして僕の袖を少し掴む。
引っ張られて、僕はゆっくりと着いて行った。
下足室で上履きから靴を脱ぐ。
もう人はほとんど帰っているのだろう。閑散としていた。
僕は靴を履くと、下に向けていた目を見開く。
「でっか……」
「海外のサイトしかほとんど売ってないよ、靴」
「それはそれは……」
だいぶ苦労しているのじゃないだろうか。僕は狗塚みたいな身長になりたいと思っていたけど、少し考えを改めることにした。
「で」
「?」
「校門出て、右? 左?」
「右」
「お、一緒」
狗塚の笑顔は、僕の心臓をおかしくさせる。きっと中の血液を沸騰させているのだ。
僕は頷くだけ頷いて、熱い顔を隠すようにそっぽを向いた。
狗塚はそんな僕に気づかなかったらしい。屈んで、僕の顔を覗き込んでくる。
「あ、照れてる」
「うるさいな!」
弱い力で頭を叩けば、狗塚はわざとらしく眉を下げた。
「痛い」
「い、痛くないだろ」
「俺が泣いてもいいの?」
「す、好きにすれば?」
僕は一足先に下足室を出た。すると、ゆっくりと、でも歩幅が違うから、すぐ狗塚に追いつかれてしまう。
「俺が泣いても良いなんて、猫宮は薄情だね」
「……泣いたら、慰めてあげるから」
「……へえ」
チラリと狗塚の方を見る。
するとその無気力な瞳に、小さな火の粉が舞っていた。
「? どうしたの、狗塚」
「んーん。別に」
「そう」
僕はそれ以上は追求しなかった。嫌われてないならそれでいい。
「ね、狗塚は、なんで桐谷行こうと思ったの」
「うーん、家から近いから?」
「お前、天才型か」
「いや、秀才型」
「へえ。努力しないとやっぱり、賢くなれないよな」
僕も寝ずに過去問解いてたっけ。試験当日はほぼ徹夜だった。歩きながら英単語を復習していたものだ。
「まあね、努力しないと出来ない奴は努力しないと。才能があっても開花しないと意味ないし」
狗塚の言葉は、少し鋭かった。
誰に言っているのだろう。才能があっても開花しないと。
狗塚は、才能があっても開花しなかったのだろうか。
僕の心配げな視線に気づいたのかもしれない。
狗塚は僕の頭に大きな手の平を置いた。
「なんでもないよ。猫宮」
「……うん」
聞けない。だって僕と狗塚は、まだ友達になれているのかも分からない間柄だ。
「猫宮は可愛いな」
「は!?」
僕は今度こそ、目が転げ落ちるかと思った。
「急に何!?」
動揺する僕に、狗塚は笑う。
笑顔、可愛いな。
じゃなくて!
「俺の一挙一動に喜んだり、心配したりするところ」
「別に可愛くない! 僕の一挙一動を操作して楽しい? やめてよ、僕の心臓は一つしかないんだよ」
するとまた、狗塚はさらに面白そうに笑うから、僕は頬を膨らませた。
「もういい、狗塚なんて嫌い」
「俺のこと、嫌いになっちゃうの?」
「うん」
嘘だった。真っ赤な嘘。
僕が狗塚を嫌いになるなんて、きっと出来ない。よっぽど酷いことをされない限り。でも、きっと、狗塚は誰かに取り返しのつかない嫌がらせなんてしないんだろうな。まだ出会ってばかりなのに、そんな信頼を抱いてしまう。
重いだろうか。
重いとか、軽いとか、よく分からないけど。
僕は重い方がいいなと思った。
すると僕の言葉で、狗塚は、落ち込んだような雰囲気を纏う。傷ついたような顔をする。
「俺、猫宮に嫌われるんだ……」
「ほ、本気で言ってるわけじゃないって知ってるんでしょ」
「うん」
「この野郎」
僕は拳で、狗塚の肩を殴った。
痛い痛い、と笑う狗塚に、僕も笑ってしまう。
すると、狗塚は優しい瞳で、僕を見るのだ。
勘違いさせないで欲しい。
まるで、僕に恋心を抱いているような、そんな瞳はしないで欲しかった。そんな訳ないのだから。
僕は視線を逸らした。まっすぐ前を見るのは大事だ。
するとその瞬間、後ろからベルの鳴る音がした。
振り返ろうとする瞬間、狗塚に腕を引かれる。
そして、僕は次の瞬間、狗塚の腕の中にいた。
「あっぶね、あの自転車」
僕は頭が真っ白になっていた。分厚い、頼り甲斐のある胸板。今抱きしめられたら、僕は狗塚にすっぽり抱きしめられてしまうだろう。
狗塚は腕の中の僕の顔を両手で包んで、上に向かせる。
「大丈夫?」
「な、何も大丈夫じゃない……」
「え、どっか捻った?」
さらに顔を近づけてくる狗塚に、僕は真っ赤な顔で手を離させると、ちょっと走って逃げた。
だってあまりに恥ずかしかったから。あんな綺麗な顔に近づかれて、こっちの心臓は一個しかないと言っただろう。
でもさっさと追いつかれてしまう。
羨ましい、どうしてそんなリーチが長いんだ。
「恥ずかしい?」
「そうだって言ったら?」
「可愛いなって思う」
「……人たらし」
僕は自分の恋の前途多難具合に、ため息をついた。あと二ヶ月も経てば、きっと狗塚は人気者だ。大きい、優しい犬みたいな男だから。そして、誰かの恋心を奪うのだ。
僕は肩を落とした。この具合だと、多分狗塚は男もいけるのだろう。僕は狗塚以外は好きにならないだろうけど。
「うーん、人誑しではない。気に入った人間しか周りにいて欲しくないし」
「そうなの?」
じゃあ僕は、気に入られているということだろうか。
「うん、だから俺は猫宮のこと好きだよ」
「ありがとう。僕も好きだよ」
決して、恥ずかしいとか、喜んでるとか、そんな感情は見せないで。僕はクールにその言葉を受け流した。心中は大嵐だけど。
……少しくらい、照れたりしてるのかな。
僕はチラリと狗塚を見る。すると、狗塚は僕を凝視していた。
びっくりして、肩が跳ねる。
「な、何。怖いんだけど」
「怖くない怖くない」
「いや怖いけど……」
何を言ってるんだ。大男に上から見つめられていたら、怖いだろう。それも瞳孔が開いている。犬なんだから、もっと穏やかな目つきでいて欲しい。
すると、分岐点が現れたらしい。狗塚は立ち止まって、左を指差す。
「俺こっち」
「僕、右」
「じゃあ、お別れか」
「うん、また明日」
「ん、また明日」
手を挙げて、僕らは別れた。
少し歩いて、なんだか名残惜しくなる。
後ろを振り向いた。きっと、狗塚は振り返ってなんてないと思うけど。
でももしかしたら。
もし、そこに狗塚がいるなら。僕は、この恋に真剣になってみようと思った。男になんて初めて恋するし、叶うかも分からない。ただの友達で終わるかもしれない。ギクシャクして、離れてしまうかもしれない。
僕は、後ろを振り返った。
狗塚は、笑って手を振ってくれる。
僕は、この恋が忘れられなくなるだろうことがわかった。



