「おはよう~」
「おはよ。って、きょう早くない?」
高校に向かう電車内。
ツナギ姿の開明社高校の女子生徒たちが、そこかしこで挨拶を交わしている。
いま停車している梨久保駅から、多くの生徒が乗車してくるのだ。開明社前駅まであと二駅。電車内は女子高生の他愛の無い会話がBGMとして途切れることなく続く。
今日の私はマンションを出てからずっと、ヘッドホンを耳に当てている。
と言っても、音楽を垂れ流しているわけではない。率直に言えば、周囲の音……特に“学生”の会話をシャットアウトしたかったのだ。
正解だったな。と、端の席にちょこんと座る私は思った。
────高校。通ってないんです。
昨夜のちーちゃんの言葉が、頭の中にいまでも横たわっているからだ。
あの後、マンションに戻り、ベッドに入った私は当然のように眠ることができなかった。
月光が白いレースカーテンによって拡散され、部屋が“青”で包まれる中、私はベッドの上で寝転がりながらベイプを吹かしていた。
ちーちゃんに比べたら、自分がひどく子供に見られているのではないかと不安でしょうがなかったのだ。
彼女がいつも見せてくれるあどけない笑顔も、幼稚な私に合わせてのものだったり……などとネガティブな思考がシャボン玉のように次から次へと途切れずに飛び出してきた感覚がまだ燻っている。
ちーちゃんは17歳にして既に立派な社会人だ。
私はというと……
半年前まで通っていた高校から逃げ出して、見知らぬ土地に転がり込んでまでして学校に通っている。
特に勉学が好きなわけでも無い。目標としている志望校があるわけでも、部活に打ち込んでいるわけでもない。言ってしまえば、単なる惰性でしかない。
だが、両親にとってはその惰性でさえ価値があると、毎日のように電話やらメッセージやらで私を褒めてくれる。
──半年前。
私は文字通り家から一歩も出ることができなくなって。陸に打ち上げられた魚のように、ただパクパクと口を動かしては窒息しながら呼吸するのがやっとだった。
往診に来た医師の見立てでは、パニック障害だの何だのといくつもの病名がつき、“友人のフリ”をしていた同級生たちからの、数分ごとに鳴り響く携帯の着信音に怯えて……ついにはスマホも叩きつけて壊した。
いったいどれくらいの時間、私はあの部屋で引きこもっていたのか。記録では2ヶ月らしいが、私にはもっともっと……とてつもなく長く感じられた。それこそ、生きた年齢以上の月日にも錯覚してしまうほどに。
中国の英雄に、蘇武という人物がいる。蘇我は紀元前100年ごろ、漢の武帝に仕えていたのだが、匈奴との戦いで敗れて捕虜となる。それから実に20年。蘇武は虜囚としてバイカル湖のほとりで穴倉に放り込まれて軟禁生活を送ったという。
──あの頃、私は自分を蘇武に置き換えてみたりしたのを覚えている。
たが、結末はあまりにも違う。
蘇武は境遇を嘆くことなく、自らを強く持ち続け、ついには漢に帰還して不屈の忠臣として国の英雄となった。
私はというと……“自殺未遂”で救急搬送というオチだ。
それも、2ヶ月ぶりに外に出たタイミングでの、オーバードーズによる昏倒をそのように判断されたという……もはや笑い話にもならない。
だからこそ、両親は私が“普通に”学校に通っているという事実がそれほどに嬉しいのだ。
もちろん、気持ちはわかる。
搬送された病院のベッドで目を覚ました私にすがりつき、泣きじゃくる母の顔を見た時……親にこんな顔をさせてはいけない。立ち直らないと。
──そう思った。だから私は引きこもるのをやめて、ネットでの映像講義で単位を取得できるような通信制高校ではなく、全日制の高校に通う決断をしたのだ。
わかっている。今の私はこれで正解なのだと。
けれど、昨夜から私はずっと焦っているのも事実なのだ。
こうして子供の時間を過ごしている間も、ちーちゃんは大人として前に進んでいく。
このままでは置いていかれそうで、もう追いつくことはできないのではないかと……彼女からも、子どもとして見られて終わるのではないかと……ただただ焦る。
「開明社前~。開明社前~。お降りのお客様は、お忘れ物なきよう────」
車掌のアナウンスが聞こえた。
私はヘッドホンを外し立ち上がる。そのまま開くドアに向かって続く生徒たちの列に並んだ。
ふと、脳裏によぎる“この感情”の答え。
「あっ────!」
私の口から素っ頓狂な声が飛び出した。しかもわりと大きな声だ。
──気づいてしまったからである。
私のこの焦燥感は、例えるならば……『高校教師に恋をしたJK』の心境なのではないかと。
そう思ったら、なんだか急に恥ずかしくなってしまったのだ。
件の設定の映画やらドラマやらを目にする度に鼻で笑っていた私である。当事者となってはじめてわかる。ヒロインたちにとっては死活問題だったのだな、と。
そして、ヘンな声をあげた私に向けられる女子生徒たちの視線、視線、視線。
「ややっ……あぅぅ…………」
私はもう一度、ヘッドホンを耳に当て、その場で小さく縮こまった。早く到着してドアが開いてほしいと願いながら。
*
「こちら、毒島くん。映像研の部長さんだよ」
お昼休み。旧校舎にある歴研の部室にて。
佐々さんがひとりの女子生徒を私に紹介してくれた。
クラスが違うので会うのは初めてだ。いや、初めてなのだが……よく今まで目に止まらなかったな。と不思議に思った。それほどに彼女の“見た目”はあまりにも特徴的だったのである。なぜなら彼女は
──『ガスマスク』を装着しているからである。
それもフルフェイス。頭まですっぽり覆うタイプのものだ。
「シュコー……よろしく。毒島です。シュコー……」
「あ、えと。リリア……です」
シュコーシュコーと聞こえるのは、ガスマスクの呼吸音だ。
試験中とか周囲の人は気になって仕方ないだろうな。でも慣れてしまってもはや背景として溶け込んでいるのだろうか。
とはいえ、ガスマスク以外はいたって普通の雰囲気の子だ。きっと小柄で可愛らしい女の子……と思う。
「毒島くんは、花粉症でね。それも一年中。だからガスマスクが無いと鼻水地獄なのだよ。そうだよね、毒島くん?」
「シュコー……わかってんじゃん。シュコー……」
それ……長野県向いてないのでは?都会に転校した方が。
と喉元まで顔を出した言葉をごくんと飲み込んだ。
一応、文連週間に向けて共闘していく同志である。郷に入ってはなんとやらだ。
兎にも角にも。
お昼ご飯を食べつつの、3人だけのゆるい作戦会議がはじまった。
口火を切ったのは毒島さんだ。
「シュコー……芽衣、あんたさ。今回は直前になってから題材探し始めるのやめてよね。去年ガチで地獄みたから。シュコー……わかってんの?」
「おや。人聞きが悪いね、毒島くん。1ヶ月前には、これだ!という題材を提出したはずだけれど」
「一週間前な!」
ダンッ!とテーブルを叩く毒島さん。
私は驚いて、手に持ったおにぎりを落としてしまった。コロコロとテーブルの上を転がるおにぎりは、毒島さんがキャッチして、私に手渡してくれた。
その際、彼女は「ごめんね」と小さくつぶやいて。
「安心しなよ毒島くん。今回はもう題材は決めてあるから。そうだよね、タンビスキーくん」
題材。というのは、文連週間で発表するライトアニメの主人公のことだ。
去年9月の文連週間では戦国時代を生きた『守矢の姫君』をライトアニメにした。結果的に作品は好評だったため、今回こうして市役所の協賛も得られたわけであるが、佐々さんをはじめ歴研の面々がマイペースすぎて直前になるまで一向に制作が進まず難儀したという。
「それって、女工さんのこと?」
「大正解!今回の主人公は……女工の『チヨ』さんで決まりだ!」
心臓が小さく脈打った。
チヨ。
聞き間違いだろうか。いま、佐々さんはチヨと言ったような……
「シュコー……異議あり」
「毒島くん。異議は却下します」
「ダメ。女工はダメ。シュコー……今回は市役所の声がかかってるんだから。悲劇で終わるニオイがプオンプオンするような題材はNG。やり直し。シュコー……以上!」
確かに、毒島さんの考えも理解できる。
女工さんと聞くと、どうしても奴隷労働じみたイメージがついてしまい、悲劇を想起するのも無理はない。
けれど、そういったイメージは後年に創作された小説などによって形成された側面が少なからずあるのは事実だ。パッと思いつくとすれば、織田信長がいい例だろう。敵将の髑髏で祝杯をあげたという逸話が作り話であったことを考慮してみるといい。
女工も同じく。しかるべき一次資料をしっかりと紐解けば、彼女たちが当時の一般的な労働者と比べてもかなり高待遇で働いていたことがわかる。宿舎に食事や風呂など、福利厚生も完備されていた。
そして何よりも給料である。人によっては、2年働いて得た給金で3軒の家を建てたというトップランカーもいたほどなのだから。当時の日本における外貨獲得の手段で”生糸“がその筆頭であったことを鑑みれば、製造の中核を担う彼女たちへの報酬が高いのは至極当然と言える。
もちろん、いかなる業界にも“合う合わない”はある。しかも半ば売られるような形で田舎から出てきたため、辛いからといって辞めることなど許されない。そういった環境下では、プレッシャーに耐えかねて自ら命を絶ってしまう少女がいたことも、また事実としてあるのだが。
「あのぉ~。ちょっといい?」
あ?なんだよ?と言った体で。
睨み合い、火花を散らす2人が、その鋭い視線を私に向けた。
「それがわからない佐々さんじゃないと思うんだ。その……チヨって子を主人公にしようって考えたのは、ちゃんと理由があるんでしょ?それを聞いてからでも、よくない?」
佐々さんが緊張を解いた。
「……さぁ~すが、タンビスキーくん!よくわかってるじゃないか。うむ!ではでは、聞いてくれたまえよぉ~」
佐々さんが宝塚歌劇団のような美声をこれでもかと披露して言った。
ただ、これではっきりした。女工さんの名前はチヨというのだ。
千酔……ちーちゃんと同じ。その配列の言葉を聞いただけでもう胸が高鳴っている。どうしたものか……
「タンビスキーくんの言った通り。チヨさんを選んだのには理由がある」
佐々さんは、テーブルにコピー用紙を置いた。
新聞記事のコピーのようだ。
「彼女は女工として働きながら、夜学で開明社に通って勉学に励んだ勤労学生だったのさ。そしてなんと……海外留学を果たしている」
私と毒島さんは新聞記事のコピーに目をやった。
100年前に書かれた、地元の新聞社が発行した記事のようだ。
一部独特の表記はあるものの、十分読み解くことができる。
そこには「チヨ」「女工」「開明社」「留学」という見慣れたワード。そして一際目立つ『蘇格蘭』の一字が踊っていた。
「シュコー……蘇?どこの国なのこれ」
「蘇格蘭。スコットランドだよ」
イギリス……大英帝国と書けば良いものを、わざわざスコットランドと表記したのには、何か理由があったのだろうか。
兎にも角にも、チヨさんが海外に留学したことは事実のようだ。
「どうだい、毒島くん。己の人生を切り開いて海の向こうへ飛び立ったひとりの少女……いいセン行ってるんじゃぁないのかい!どうなんだい!?」
「シュコー……。いいね」
「よっし、じゃあ決まり────」
「シュコー……でもなぁ」
「え、ちょっと。なんだよ毒島くん。これ以上の題材は見込めないぞ?」
毒島さんは、コピー用紙をつまんでヒラヒラさせながら答える。
「シュコー……苦学の末に留学を果たす。確かにすごいよ?すごいけどさ。いまいちね、ストーリーが弱い気がする。かと言ってそれ以外も現状見えてこないし。他に情報は無いの?シュコー……」
「例えば?」
「例えばそうだな。シュコー……。海外留学した理由は、恋仲になった男性を追いかけるため。とか。わざわざスコットランドに行ったわけだし。シュコー……」
男なんかのためにそこまで頑張るかねぇ?
それな。
と話し込む2人を尻目に、私の頭には別の考えが浮かんでいた。
口に出すつもりはなかったのだが、漏れ出た言葉によって私の考えはこの直後に伝わることになる。
「女の子を……追いかけて行ったんじゃないかな」
────金髪ですか?
────外国の人?
────まるで本当に、女工さんの昔話みたい。
私の姿を見てそう言ったちーちゃんが、私に言葉を紡がせた。そんな気がした。
「つまり……?」
「シュコー……友達……いや、女の子の恋人……ってこと?」
あっ。しまった……。
私をじっと見据える2人の目が怖い。
気持ち悪い。そう思われてしまったんだ。早く否定しないと────
その時だった。
「「それ、いいねぇ~!」」
佐々さんと毒島さんの声がハモったのだ。
昨夜の私とちーちゃんに負けず劣らず。
予想外の反応に、安堵したやら虚をつかれたやらで、私はまともに受け身も取れぬまま。
キーンコーンカーンコーンと昼休みの終了を知らせる予鈴は旧校舎に寂しく響き渡っていた。



