月とベイプ



 凍りついた湖上に、私と彼女の声だけが琴の()のように反響していた。
 時刻は無論、深夜25時だ。

「ちーちゃん、こんにちは!」
「こんばんは。リリアさん」

 今日で5回目。こうして、ちーちゃんと会うのは。
 満月だった月も今では下弦となっている。途中、雲に覆われて月が出なかった日を除いて、私もちーちゃんも皆勤賞だ。

 あれこれと一丁前に悩んだ私ではあったけれど、結局のところ夜になって月が出ていると私の足は迷うことなく湖へと向かう。
 最初こそ肩に力が入っていたものの、氷上でいつものように純白の袴姿で月に祈っている神秘的なちーちゃんが、私の姿を見つけた途端に子犬のような人懐っこい笑顔を向けてくれるので、私の“自分自身に対する“警戒心などすっかりほぐされてしまうのであった。

「さてさて、座りましょうかー。椅子準備するね」
「いつも、ありがとうございます。それ、重くないですか?」
「これね。全然余裕なんだよー。ダンボールだからさ」

 氷上に直接お尻を乗せるのは無粋……いや、それ以前に単純に冷たい。ということで、私はキャンプや災害時などで役立つダンボールでできた折りたたみ式の椅子を持参している。ダンボールとはいえ、表面を樹脂でコーティングしてあるため防水性もある。ちーちゃんの分も合わせて2脚だが、細身な私でも十分持ち運べる程度の重量でしかないため、何の問題もないのだ。

 そんなわけで、並べたダンボール椅子に2人して腰を下ろす。そして、これまた持参したブランケットをちーちゃんの膝に掛けてあげた。私はスキーウェアだから防寒もバッチリだけれど、ちーちゃんは袴姿なのできっと寒かろうと思い、ちょっと厚めの膝掛けを丸めて持ってきている。「寒いのは慣れているから、大丈夫ですよ」なんて彼女は言っていたけれど、それでは私の気が済まない。何より、ひざ掛け一枚くらいの親切と引き換えに得られる報酬は莫大だ。それはちーちゃんの笑顔。私だけに向けられている彼女のあどけない笑顔を側で見られるのだから、これに勝る物はないだろう。
 
 さて、準備完了。このようにして2人並んで座り、真冬のお月見と洒落込むのだ。
 
 もちろん、そのための”お供“も抜かりない。お互いに甘い物は大好きだから。

御用改(ごようあらため)である!」

 私は“今日のブツ”が載せられた紙のお皿を持ち、ちーちゃんを見据えて言い放つ。
 目の前の小柄な少女は、はっとして背筋を正した。

「え、リリアさん……今日は気合いが違いますね……まさかっ」
「左様。今日の『おちゃのこ』は……ケーキであるぞー!」
「やったぁー!」

 私はマジシャンのように、手のひらに被せたハンカチを摘んで、バッと取り去る。姿を現したのは2切れのチョコレートケーキ・ザッハトルテだ。
 それを見て、ちーちゃんはパチパチと胸の前で小さく拍手する。
 ちなみに『おちゃのこ』というのはお茶のお供。すなわち“お茶菓子”のことなのだが、ちーちゃんにとっては初めて聞く言葉だったらしい。東京よりの埼玉で長く暮らしていた身であるため、方言というものが存在しない世界の住人(と思い込んでいた)だった私としては、ちーちゃんの反応が新鮮に感じられて嬉しかったのを覚えている。
 だがしかし。つい先日、セイちゃんに『おちゃのこ』のことを話したら、それは長崎の方言だと言われた。スマホで調べてみると、確かに長崎の民謡に由来しているという。私はこの不都合な真実を仏頂面で飲み込んだ。知らぬ方がいいこともあるのだ……。

「それでは、ちーちゃん……」
「ではでは、リリアさん……」

「「いただきますっ」」

 もしかして私達、オリンピックに出場できるのでは?アーティスティックスイミングで。そう思えるほどに息ぴったりの「いただきます」だった。
 それだけではない。右手に持った木のフォークをケーキに差し込むタイミング、掬い上げて口に含むまでの各関節の動きから首の位置まで、一卵性双生児かの如く完全に一致している。
 そう。極上のスイーツの前では……誰もが兄弟。平等なのだ。

「ぅ……ぅぅ……うそ……でしょ……」
「ぁ……なん……なん……ですか……」

 私たちは震えていた。
 震えながら、オイルの切れたブリキのオモチャのように、キリキリと金切り音を立てながらカラダを横に向け、ふたりは互いに向きあった。
 ──そして

「「めちゃうまが過ぎるッ────!」」

 本日2回目。歓喜の息ぴったり。金メダルだ。

「え、ハモった?」
「ハモですね。んふっ」

 クスクスと笑い合うふたり。
 ただ一緒にスイーツを食べているだけ。それだけなのに、こんなにも楽しいのはケーキの美味しさゆえなのか、あまりにも息ぴったりなのがおかしくて笑ってしまうからなのか。きっと、ふたつとも正解だろう。
 けれど、私にはもうひとつ理由がある。

「ふふっ。幸せです。リリアさん、いつもありがとうございます」
「……ん。よかった」

 ちーちゃんが喜んでくれること。
 彼女の嬉しそうな顔を見ると、私の胸の奥がじんわりと温かくなって、自然と呼吸が深くなる。
 ベイプで吸引するCBDなんて及ばないほどに、私の心をほぐしてくれるのだ。
 
 ちょっぴり……欲を言えば。ちーちゃんも、同じように思ってくれていたら……などと。ありもしない願望を取り去るように、私はケーキをまた少しフォークで崩した。


 *


「ザッハトルテ……やっぱりそうだ。これ、有名なお店のケーキですよ。高くなかったですか?」
「え、そうなの?」

 ちーちゃんは、このザッハトルテに見覚えがあるらしい。
 ザッハトルテとは本来、チョコレート然としたまっ黒いケーキである。だが、いま私たちが舌鼓を打っているケーキはザッハトルテとは名ばかりで、どう見てもオリジナルのケーキである。いわばチョコレートクリームショートケーキといった感じだ(イチゴの代わりにかなり硬めのバタークリームがぽてっと乗っている)
 
「はい。世界的な芸術家も愛したっていうお店のケーキですよ。1970年の大阪万博での作品が有名な人……あのデッカいやつ……えっと、名前忘れちゃったけど」
「ややっ。知らなかったよ。そんなすごいお店だったなんて」
「だから……高かったろうなって。申し訳なくて……」
「あー、大丈夫大丈夫。心配させてごめんね。これね、高校の友達からもらったの。タダでね!」

 そうなのだ。このケーキ。というか、私が持参するお菓子は全てタダでもらったものである。
 出所(でどころ)(くだん)の洋菓子店なのだが、その正体はわが歴研部長・佐々(さっさ)さんのご実家である。
 ちーちゃんとのお月見にお菓子を持って行こうと思い立ち、放課後に佐々さんの洋菓子店を訪れたのがはじまりだ。あの作業着のような制服姿の私を見た店主の方(佐々さんのお父様だ)に声をかけられ、娘の友人だとわかると、お菓子をタダくれたのである。もちろん、規格外のものであったり試作品であったりと、商品としては陳列されない品である。そのため、あちらとしてもただ廃棄するより有り難いということで、ご厚意に甘えている。
 とはいえ、ほぼ毎日顔をだしているので、裏で変なアダ名をつけられていそうな気がしないでもないが……。

「高校……かぁ」

 ちーちゃんが紙のお皿に乗せられた、残り半分ほどのザッハトルテを見つめながらポツリと言った。

「そういえば、聞いてなかった。ちーちゃんてさ、どこの高校通ってるの?」

 今更か。とツッコミたくなるところだが、不思議とお互いの日常生活を話題にすることが今までなかったことに気付かされた。
 日常生活……というより、JKの日常というべきか。
 
 ちーちゃん会えるのは、長くて1時間程度。あっという間の短い逢瀬(おうせ)である。
 その中で話されるのは、本当に他愛のないことばかりだった。お菓子の味についてだとか、猫派か犬派かとか、シャンプーはこれを使ってるとか、寝相が悪いとか……お化粧はするかという話はあった。でもそれくらいだ。
 きっと暗黙の了解(ルール)のようなものが両者の間に存在していた気がする。
 日常を極力挟まない。そうすることで、凍った湖の上でふたりきりという、私たちのこの関係に一種の神聖さを持たせていたのかもしれない。
 つまり私は、御法度(ごはっと)を破ってしまったわけだ。新撰組であれば、士道不覚悟で切腹。これはまずい。

「あぁ!ごめん、ちーちゃん。やっぱ今の無し──」
「通ってませんよ」
「……へっ?」
 
「高校。行ってません。中卒でそのまま、うちの酒蔵で働いてるんです」