そろり、そろり。
抜き足差し足忍び足……泥棒になった気分だ。
そぉーっと玄関を出たあたりで時間を確認すると、時計の針は深夜25時に差し掛かろうとしていた。
静かな夜だ。湖をぐるりと囲むキャンドルのような街の明かりもいまは消え、その代役は星の瞬きが担っている。
こうして深夜に抜け出すにあたり、なんとかセイちゃんの目を掻い潜らなければ。と思案したのだが、それは杞憂だった。
セイちゃんは部活(薙刀部)で夜になってから帰宅したのだ。相当疲れていたようで、彼はお風呂から上がってアイスを食べた後、歯磨きをしながら眠っていた。危うく倒れそうになっているところを、私がキャッチ。寝落ちした彼に代わって歯磨きの続きをしてあげた後、お姫様抱っこしてベッドまで運んであげたのである。
なんとまぁ……薔薇の荊が似合いそうな、憎たらしいほど美しい寝顔だった……耽美というべきか。
ほっぺをつついても、つまんでも起きる気配は皆無。ぐっすりだ。それを確認してから、私はスキーウェアに着替えて家を抜け出したのだ。
行き先はひとつ。凍った湖の上。
あれからずっと、逆立ちしても何をしても、頭から離れなかった。
だから心はとうに決まっていた。
────“あの子”に会いにいくのだ。
*
「こんにちは」
「……えっ」
なんかまた来た。
言わずとも、彼女の表情がそう告げていた。けっこう表情に出るタイプの子なのかもしれない。
今夜は満月だ。
まるでガス燈の下にいるかのように湖上は明るい。とはいえ、いっさい迷うことなく彼女の元に辿り着けたことに正直驚いた。なんら疑うこともなく、凍った湖の上を歩んだ先に、彼女はいたのだ。
はじめて見た時と変わらぬ姿。かなりくせっ毛なショートヘア。白い袴姿で、月に向かってお皿のようにした両手の手のひらを掲げて立っていた。
声をかけられた彼女は月に向けていた手を下ろし、腰に提げた巾着袋に何かを流し入れる。ザラザラと米粒が擦れ合うような音。これも昨夜と同じだ。
やはり夢でも見ているのかな……そう考えたと同時、彼女が私に笑いかけた。
「ふふっ。もしかしたらって。そう思ってました」
彼女が手袋をはめる。白の薄い手袋だ。
「今日も来てくれるのかなって。なんだか嬉しいです」
そう言って微笑む彼女に、私は問いかけた。
「これってさ、夢じゃない……よね?」
「え?ユメ?」
「あっ、いや、えと……なんかそのぉ、神秘的が過ぎて。だってほら。こんな凍った湖の上で、真夜中で、純白の大正女子スタイルで、お月様とお見合いして……」
あぁ、やっぱ夢っぽいかも……
と頭をよぎった刹那。彼女は──
「ぺぷしっ」
くしゃみした。
bless you …
「あはは。失礼しました」
……夢じゃないんだ。
肩をさすりながらダウンコートを羽織る彼女を見て、私はそう確信した。この子はちゃんと現実に存在する。私はこの子とお話しすることができるんだ。
心なしか。月光が強みを増したように感じる。
僕の彼女に近づくな。と、お月様がオオカミを警戒しているかのようだ。
(くわばら、くわばら)
心の中で“まじない”を唱えながら、私は綻んだ口元を、首に巻いたマフラーでそっと隠した。
*
「私、リリアって言います。リリア・タンビスキー」
凍った湖の上にふたりして腰を下ろし、私と彼女はささやかな自己紹介をしている。
お尻から伝わる氷の冷たさも、胸の高鳴りに上気した私の肌を冷ますにはちょうどいいのかもしれない。そんな風に、私は思っていた。
「見た目通り外国人な名前ですね。漢字当てたりするんですか?」
「漢字バージョンね~。あるんですけどもぉ……」
私スマホ画面に、漢字表記の名前を入力し、彼女に見せた。
──亥狸蛙 耽美好鬼
「ひどくない?」
「イノシシに、タヌキに、カエル……ふっ」
「あっ、笑った?」
「わ、笑ってないです。んふっ」
「えー!笑った笑った!」
ちょっと怒ったフリをしながら、まるで子供みたいに笑い合った。
お淑やかな子だな。と神秘的な佇まいからそんなイメージを刷り込んでいたけれど、彼女の笑顔は幼な子のようにあどけなくて、大人びたつもりでいる17歳の私を、すっかり年相応の少女へと引き戻してしまった。
「千酔さん。いや、ちーちゃん!」
彼女の名前は、酒巻 千酔という。
私と同じ17歳なのだとか。
「ちーちゃん。かぁ。そんな風に呼ばれたの久しぶりです。ちょっと嬉しいかも」
「え、じゃあ呼びまくっちゃうね?ちーちゃん、ちーちゃん!ちちちちぃ────」
「ふふっ。ほどほどにしてください」
「あい。あ、それでさ。聞きたいなって思ってたんだ」
そう。はじまりはそこだったはずだ。バルコニーから見えた白い人影。それが、ちーちゃんだったわけで。私は彼女に聞きたいことががあって湖の氷上を歩いて来たのだから。
「こんなところで。凍った湖の上で……何してたの?」
あはは。と、ちーちゃんは少しはにかんだ。
そして小ぶりな巾着袋を取り出し、その口を開け中身を見せてくれた。
「これのためです。何かわかりますか?」
「えっと……お米……だよね?なんか青いような?」
「麹です」
「コウジ?」
「はい。私、造り酒屋の娘なんですよ」
千酔……なるほど。それでお酒の香りがする名前なんだな。私は妙に納得した。
「リリアさん、知ってますか?この街はお酒の都、酒都なんて呼ぶ人もいるくらい、全国的に有名な銘酒をいくつも抱えているんですよ」
「お酒の都……かぁ」
ちーちゃんいわく、この湖の街・守矢市には有名な5つの酒蔵がある。それぞれが独自のブランドを確立していて、全国的にファンを抱える人気の銘酒を作っている。夏の行楽シーズンなどには“酒蔵めぐり”の観光客で老若男女問わず賑わうのだとか。
「じゃあ、ちーちゃんの家も有名なんだね。お嬢様なの?“ちーさん”って呼んだ方がいい?」
「うちは全然。こじんまりとした酒蔵です。家族でひっそりやってるので」
ちーちゃんが、巾着袋の中から麹を少しつまみ、手袋をはめた手のひらに乗せた。
「でも、この青い麹から醸されるお酒は、この世でウチの蔵でしか作れないんです」
白い手袋の上、その青い麹は月光に照らされて、まるで燐の炎を帯びているかのように青く揺らめいている。
「100年ぶりに復活したんです。『月下の青』っていうお酒で……“私が生まれてから”また作れるようになったんですよ。それまでは幻の銘酒って呼ばれていて」
ちーちゃんが月を見上げた。その横顔は、なぜだか寂しげに見える。
「月に麹を掲げるのは、まじないみたいなものなんですよ。それこそ、数百年……もっと昔から行われていたと聞いてます」
彼女は月に向けていた視線を、今度は私に向けた。
「まさか見られちゃうとは思わなかったけど」
「あう……まじまい……かぁ。大事だよ……ね?」
「まあ、何のためにって正直思いますけどね。それでも、私にだけ任されている仕事ですし」
「そ、そうだったんだ……じゃあ、ごめん。だよね?邪魔しちゃった……よね?」
「ふふっ。そうですね。邪魔されちゃいました」
「あう……」
これ……もうここに来ちゃダメなやつでは?
足元の氷ヒビが入ったような音がした。いや、これは私の心にヒビが入ったのだろう。
「あ、時間だ。そろそろ失礼しますね。送り迎えしてもらってるので」
懐中時計の文字盤を見つめながら、ちーちゃんがそう言った。すっと立ち上がり、袴のシワを整えると、手袋をはめた両手を擦り合わせながら、ふぅーっと息をはいた。
あ、ベイプ吸いたい……私もスキーウェアの内ポケットを弄ってみる。
あった。持ってきたつもりはなかったけれど、無意識に忍ばせていたみたいだ。
とりあえず、私も立ち上がる。
「ち、ちち、ちーちゃん……いや、酒巻さん。ごめんね?私もう……ここには来ませんので……」
私は彼女から目を逸らして告げた。
これ以上、迷惑をかけられない。心のクラウチングスタートは準備できてる。もう限界だ。彼女の返事を待たずに走り去ろう。そう思った時だった。
「どうして?」
「へっ?」
彼女はキョトンとしている。すると、私の気持ちを察したようで「安心してね」となだめるように、しっとりとした穏やかな笑顔を浮かべた。
そして告げた。
まるで、愛しい人に“おやすみ”を囁くかのように。
「月夜にだけ、私はここにいます。月の出る夜に……25時に。また、来てくれますか」
*
──また、来てくれますか。
「月の出る夜……25時……月の……」
私は湖の上を踏み締めるように歩いている。マンションへと帰るのだ。
ついさっきのことだというのに、まるで100年後の約束を交わしたかのように明日が待ち遠しい。
とはいえ、曇りやら雪やらで月が出るとは限らないのだが。それでも私は、明日もちーちゃんに会えるのだと心は弾んでいた。
ふわふわした気分だ。
なんとなく、クルっとその場で回転してみる────転んだ。
「いっ……痛ぁぁぁ……い…………ふっ、ふふ……あはははっ」
私は氷上に尻もちをついたまま、ベイプを取り出した。
そして電源を入れ、そっと咥えて、肺に水蒸気を満たし……月に向かってふぅ~~っと吹いた。
「わかってるのに……ダメだな私は……」
私の吹いた水蒸気は、薄雲へと姿を変えたのか。纏わりつかれて、月は迷惑そうにしている。
「ダメなのに……でもやっぱり私は……」
──── 女の子が、好きなんだ。
月を覆う雲の流れが早い気がする。
私が月に煙を吹きかけたから、気を損ねたのだろうか。
それとも、寵愛するあの子に近づく痴れ者を照らしたくないのか。
だんだんと満月は雲に覆われ、その光は朧げになってゆく。
私はその様を、ただじっと眺めていた。



