月とベイプ


 夜明けが近い。
 まるで一週間を詰め込んだような……そんな一日だった気がする。
 私自身、疲れ果てているはずなのに、まるで眠気が来ない。
 だからこうして、バルコニーでベイプの一服だ。

「奇跡……か」

 ────千酔(ちよ)の手のひらには、神様が住まわれている。

 門倉さんはそう言った。
 彼の話を聞いて、私もそう思った。奇跡のようだと。それなのに……

 コンコン。
 とガラスを叩く音がした。
 振り返ってみると、そこには“奇跡の子”が立っていた。
 パジャマ姿で、ニットのカーディガンを肩に掛けている。

「ちーちゃん!」

 目が覚めたんだ。

 私が酒巻酒造を襲撃してからマンションへと帰還した後、そう間を置かずにお医者さんが往診に来てくれた。
 専門は脳神経外科とのことだったが、叔父さんの知り合いということもあり、深夜であるにも関わらず足を運んでくれたのだ。
 先生の診断によると、栄養失調と疲労による衰弱。とのことだった。
 あれだけ痩せていたのだ。やはり食事もまともに与えていなかった事実に、私は怒りを抑えるのに非常に難儀した。
 いずれにせよ、ちーちゃんが目を覚ますまで24時間でも48時間でも起き続ける覚悟だったが、思ったよりも早く目を覚ましたことに安堵した。それと同時、無理をしているのではないかと心配になる。

「よいっしょ……と」

 私は掃き出し窓を開けて、バルコニーからちーちゃんのいる部屋に入った。
 氷点下の空気がどっと流れ込む。ちーちゃんはきゅっと身を縮めた。

「ちーちゃん、もう起きて大丈夫なの?」
「リリアさん……ここって……」
「私の住んでるマンションだよ。ちーちゃんをここに運んだの。覚えてない?」
「えっと……すこし思い出せる感じは……」
「いいんだよ。さ、ベッドに戻ろう。まだ寝てないと」
「あの……私その……」
「ん?どこか痛いの?」
「……お手洗い。行きたくて……」
「あ……トイレ。そっか。そうだよね。私に掴まって歩けばいいから。案内するね」

 
 *

 
「ごちそうさま。美味しかったです」
「お、全部食べれたね〜。よかったよかった」

 トイレを済ませたちーちゃんに、まずは水分補給として温めたスポーツドリンクを飲んでもらった。
 その次は食事だ。
 私が酒巻酒造を襲撃している間に、セイちゃんがスープを作ってくれていたのである。セイちゃん曰く、病人にはお粥よりもボーンブロススープがいいとのことで、冷凍にしてストックされていたボーンブロススープのキューブを贅沢に溶かし入れた特製スープとなっている。
 これを、ちーちゃんはスープ皿2杯分飲んだのである。

 多少なり栄養が取れたところで、私は彼女を再びベッドに運んだ。体が温まってきて、いつ眠気に襲われてもいいように。

「そうですか。門倉さんが……。ご老体なのに、私なんかのために……」

 私は、ちーちゃんを虐待していた連中の所業が、門倉さんの知るところとなった旨を伝えた。
 それだけで意図は十二分に伝わったようで、彼女は安堵したような忍びないような、まるで上の句と下の句が繋がっていないカルタのような表情を浮かべた。
  
「ちーちゃんのこと孫みたいに思ってるんだよきっと。だから、体調が戻るまでこのマンションにいるようにって。門倉さんの言いつけだからね。脱走しちゃダメだよ、ちーちゃん」
「ふふっ。脱走。しちゃおうかな」
「お〜、やるか〜?捕まったら拷問だぞ〜?」

 私はちーちゃんの足裏をこちょこちょした。
 彼女はいま、ベッドで足を伸ばして上体だけを起こしているのだ。

「効きませんよ。くすぐったくならないタイプなんです」
「えー、じゃあツボ押すね……どうだ!」
「痛ったぃ!リリアさ……痛い痛い!」
「あははっ。弱点が過ぎる。じゃあこれはどうだ!」

 ツボ押し攻撃の痛みに顔を歪めながらも、クスクスと笑うちーちゃん。
 それを見て私はとても安心した。彼女は無理をして笑っているのかもしれないけれど。
 だとしても私は、本当は今すぐ泣き出したくなるくらいに……心から安心していた。

 
 *

 
「ねぇ、リリアさん。聞いてもいいですか?」

 ツボ押しの効果だろうか。
 ちーちゃんは、またお腹が空いてきたと私に伝えてきたので、私は先ほどのスープにレンチンした押し麦(もち麦)を入れて麦粥を作った。古代ローマで食べられていた料理をイメージしたのであるが、もち麦のプチプチした食感がクセになる。私などは、夜中に小腹が空いた時などにこっそり作ってはよく食べていたものだ。
 この麦粥にカレー粉を入れて味変し、ちーちゃんに振る舞ったところ、とても喜んでおかわりまでしてくれた。
 そうしてひと息ついたところで、彼女は私に問いかけたのである。

「門倉さんは……話しましたか?私のこと」
「うん。話してくれた」

 ちーちゃんはスープ皿をベッド脇のサイドテーブルに置いた。
 そして、手袋をはめたままの手をじっと見つめながら言った。

「この手のことは?」
「……聞いたよ」

 私は、門倉さんに聞いたことを話した。
 手のひらの常在菌のことを。
 そして、ヤケド痕のこと……。

「ちーちゃん。本当に自分でやったの?それ言わされたんじゃないの?アイツ……姉とか言ってたけど」

 あははっと、ちーちゃんは目を細めて苦笑いを浮かべた。

「ヒトミさんのことですね。彼女と私は、血が繋がってないんですよ。というより、ヒトミさんの家族全員とです。父以外は」
「え?それって……」
「私は、父が他所(よそ)でこさえた子供なんですよ。父は婿養子で酒巻家に入ったので、実のところ私には酒巻の血は一滴も入ってないんです」

 ちーちゃんは、不貞の末に生まれた子だったのだ。
 しかも、父親も相手の女性……つまりちーちゃんの母親も、ちーちゃんが乳飲み子であるにも関わらず、彼女を捨てて2人して蒸発したのだという。

「それからは、おばあちゃんに育てられました。おばあちゃんというのは、ヒトミさんの祖母なので。いずれにしても血縁は無いんですけどね」

 あのクソ女……ヒトミは悪鬼だが、ヒトミの祖母は菩薩だったようだ。
 コノミさんという名の、そのお婆さんは捨てられた赤ん坊を不憫に思ったのだろう。それからは自身が未成年後見人となってちーちゃんを育てたのだ。
 
 だが、親代わりだったコノミさんは昨年亡くなったという。

「それからです。ヒトミさん母子(おやこ)が入れ替わるように酒巻酒造の経営に加わったのは。それまではコノミおばあちゃんが舵を握っていて、娘も孫も近づけさせないようにしていたみたいで」

 父親が女性と逃げるのにも理由があったのだろう。
 慈悲深いコノミさんですら遠ざけねばならないほどに、ヒトミもその母親も鬼畜のような人物ということだ。
 もちろん、それでちーちゃんを捨てた所業を肯定することなどできるはずもないが。

「本来なら、この手のひらの常在菌は、酒巻の血筋に稀に現れる異能みたいなものだったらしいです。なのに……どうして血縁のない私に発現したのかは誰にもわからなくて」

 それゆえに、酒巻酒造に帰還してからは、ちーちゃんを強制的に養子にして、彼女の“手”を我が物にしたのだ。
 月下の青を作ることが宿命づけられているちーちゃんは、逃げることなどできなかった。

「じゃあ、それから……ちーちゃんが酷い仕打ちを受けるようになったんだね?」
「そんなに大袈裟じゃないですよ。労働時間が増えたくらいで」
「やっぱりそうだ。やっぱそのヤケドもアイツらがやったんじゃん……今度こそ殴るわ」
「え、リリアさん!?」

 ガバッ!と立ち上がり、ドアノブに手をかけたところで思いとどまった。

「でもそれだと……矛盾してる。手のヤケドは、10歳のときだもんね?」

 振り返り、ベッドの上のちーちゃんを見る。
 眉尻を下げて困ったような感じでニッコリと笑い、ちょいちょい。と私を手招きしていた(かわいい)
 おやつに釣られた犬のように尻尾を振って戻ってきた私は、ベッドの端にちょこんと腰を下ろす。
 私が落ち着いていることを確認してから、ちーちゃんは少し寂しげな表情を浮かべ、優しく語りかけた。

「だからね、リリアさん。これは私がやったんです。他の誰でもない。私自身で」

 ちーちゃんが合掌するように手を合わせた。

「焼けば神様も死んじゃうかなと思ったんですけど、全然でしたね。強すぎました」
「……なんでそんなことしようとしたの?奇跡みたいな手なのに」
「話しませんでしたか……?門倉さんは」
「え、それだけ。かな。あとはちーちゃんに聞けって」
「そうですか……ははっ。じゃあね、えっとあれですよ。実験……実験です。そういうことにしておいてください」

 ……話してはくれないの?
 出かかった言葉をぐっと飲み込む。返のついた魚の小骨のように、喉に刺さって取れそうもない。
 けれど納得せざるを得ない。そう思うことにした。
 話せないことがある。
 私がその程度の相手だから……ということだろう。
 当然だ。湖の上でほんの1時間たらずの逢瀬を何度か重ねたくらいの存在でしかないのだから。そのくせに、こんなにも彼女の人生に踏み込んでいる私はどこまで図々しいのか。
 けれど私は、ちーちゃんのこととなると自分のこと以上に怒りが湧く。胸が痛む。悲しくなる。
 
 その理由はもう……わかっている。
 胸にこんこんと湧き立つこの感情の名前も。
 だからこそ私は、彼女との距離感を自分自身で割り切らねばならない。
 友情と慕情との境目……私にとってそれは、あまりにも曖昧なものなのだから。

「ちーちゃんの手……握りたい。いま、すっごく握りたい」
「それはダメ」
「絶対?」
「絶対にです。だってほら……神様が寝てますから。消えちゃったら困るでしょ?」
「じゃあ……手袋つけたままでいい。握らせて。それもダメ?」
「……いいよ」

 ちーちゃんが手袋のまま右手を差し出し、手のひらをむけた。
 私は両手でそっと優しく包み込んだ。

 両親の愛情を知らず、親代わりだったコノミさんも失って。たったひとり、あの薄暗い酒蔵で必死に頑張っていたちーちゃん。
 本当なら、抱きしめたい。抱きしめたっていいはずだ。
 それなのに、そんなことをすれば気持ち悪いと思われるのではないかと心にブレーキをかけてしまう。そのハグは友情ではなく、別の意図を伝えてしまうのではないかと。
 だから……いまこうしてちーちゃんの手を包み込むことだけが……傷だらけの彼女に寄り添える、私にとっての最大限の勇気の証明(スキンシップ)だった。

「リリアさん……どうして」

 ちーちゃんが優しくつぶやく。

「どうして……泣いているんですか」
 
 彼女の声の揺らぎは、まるで愛しい人におやすみを(ささや)くかのように儚げだった。

「ちーちゃんが泣かないから……代わりに泣いてるんだよ……」

 ほんとうに。ほんとうに泣いてばっかりだ。
 瞼が重くなってゆく。目を瞑っても涙というものは何処(どこ)からか溢れてくるものらしい。
 私はちーちゃんの手に触れたまま、ベッドにカラダをもたれて瞳を閉じた。
 まるで糸が切れた人形のように動かなくなって。
 私の髪を、ちーちゃんがそっと撫でている。嬉しい……嬉しい……沈んでゆけ。このまま深く、深く────。

 幸せだった。幸せ。
 もしも人生がこの一瞬でおわるのなら、どんなによかったことだろう。

 けれど“過去”は私を許してはくれなくて────私は、ついぞ気が付かなかったのだ。
 この日、携帯をほとんど見ていない。特に、ちーちゃんに会うために酒蔵に行ってからというもの、一度もスマホの液晶を覗いていない。
 
 だから知る由もなかった。

 私の携帯に……“あの子“から幾度となく着信があったことを。