月とベイプ


「オオカミのお嬢さん。お座りなさい。他人の家だというのに、こうして我が物顔で振る舞うのは無粋だがね。いま、茶を持ってこさせるから」

 ついて来なさい。と門倉さんに言われ、私は車椅子の後をついてゆき応接間に入った。
 そこはフローリングの洋間となっており、足元には絨毯が敷かれ、重厚なソファが置かれている。
 門倉さんの車椅子を押していたタキシードの男性が退出すると、私と門倉さんの2人だけになった。

 大きな古い時計がチクタクと時を刻んでいる。
 酒巻酒造の歴代の蔵元だろうか。壁には、額縁に納められた和装の男性の写真がいくつもかけられていた。

「千酔が姿を眩ましたと聞いてな。おちおち死んでもおられんと、棺桶から這い出てきたんだが。お前さんのところにいるんだね、千酔は」
「ご明察です。やっぱりわかっちゃいました?」
「はははっ。オオカミがブタに噛み付いていた。あれを見ればわかるよ。羊飼いでなくともな」
「ややぁ……お恥ずかしい……」

「失礼いたします」と、まるでバリトン歌手のような繊細でありながら渋みのある声がドアの向こう側から聞こえた。先ほど退出したタキシードの男性だ。
 彼は盆に乗せたお茶を持って戻ってきた。しかもお茶請けまであり、備前焼のお皿の上でまん丸の大福がちょこんと胡座をかいている。

 タキシードの男性は門倉さんに一礼すると、再び退出していった。
 一挙手一投足がことごとく洗練されている。
 この男性もただものではないだろうに、目の前のご老人は一体何者なのだろうか。

「安心なさい。オオカミのお嬢さん。ワシは悪党だが、悪人じゃないからね」

 悪党と悪人の違い……義賊と盗賊の違い。みたいなものだろうか。
 なんだか、まるで歴史上の人物を前にしているようだ。ワケもなく胸が高鳴ってしまう。
 勝手なイメージだが、私は門倉さんに『サラディン』の姿を重ね合わせていた。サラディンは十字軍と戦い、聖地エルサレムを奪回したイスラームの英雄だ。それでありながら、ヨーロッパの人々からも尊敬を集めたという、まさしく中世を代表する偉人である。
 
「あの……ちーちゃん……千酔さんとはどういったご関係なんですか?まさか、お祖父(じい)様……」
「ははっ。残念ながら違うよ。そうだなぁ。ワシは────」

 門倉 国蔵(かどくら くにぞう)
 この御仁は、かつて製糸業で莫大な富を築いた門倉家の前当主だという。
 現在、門倉家は製糸業からは身を引いているものの、商業施設の運営など不動産業をはじめとして様々な事業を手掛けている有力な資本家なのだとか。

「じゃあ、酒巻酒造は、門倉さんが守っているってことですか?」

 守っている。
 その表現がしっくりくると思ったからそう言った。
 率直に言えば、酒巻酒造は門倉家の傘下なのだが、赤字続きで経営状態は芳しくないようだ。
 そんな負債同然の酒蔵を、損失を被ってまで支えているというのだから。

酒巻酒造(ここ)だけじゃないさ。小さい酒蔵はどこも首をくくる寸前のところばかりだ。それを見てハイエナのように群がってくる……東京の有象無象どもが。ワシはそれが気に入らなくてな。小遣いの許す範囲で、できる限り多くの酒蔵を抱き抱えているんだよ」

 小遣い。私は月に5000円だ。主に貯金している。
 きっと門倉さんの言う小遣いというのは、私のそれとはケタが5つは違うんだろうな。と指折り数えては、その額に驚いてシャックリをしてしまった。

「酒が好きでね。生まれた土地の水で作った酒が。特に……”月下の青“は格別だ」

 月下の青。
 ちーちゃんが月に掲げていた、あの青い麹によって作られるお酒だ。
 彼女が人生かけて生み出しているお酒。私はそれを知っているからだろうか。まるで自分が褒められているかのようで、とても、とても誇らしい気分になった。

「つまりワシは、千酔の大ファンということだね。なにせ、あの酒はあの子にしか作れないものだから」

 月下の青。
 不思議と、みな似たようなことを言う。
 ちーちゃん自身も言っていた。自分は月下の青を作るために生まれてきたと。

「ちーちゃん……千酔さんにどんな秘密があるんですか?あの子は何を隠しているんですか?教えてください。私……私、彼女のことが知りたいんです」

 ふむ。と小さく頷く門倉さん。
 彼は大福が乗った備前焼のお皿を両手で持ち、震えながら目元まで持ち上げた。
 炎がゆらめくような鈍い光を潜ませたその瞳で、じっと大福を見つめている。

「千酔の手のひらには、神様がお住まいになっている」

 小さく、掠れた声。
 そのはずなのに、まるで鐘楼の鐘を耳元で叩きつけられたかのような、意識をかき消すほどの波動が私の脳を突き抜けてゆく。
 ────刹那。
 フローリングの床が剥がれ、絨毯がほつれ千切れてゆく。壁も、天井も。まるで紙を丸めたようにクシャっと折りたたまれて何処(いずこ)かへと消え去った。
 幻覚……そう、幻覚だ。それはわかっている。けれどいま、私はあの場所に立っている。
 ────凍った湖の上に。
 そして、白い羽織袴のちーちゃんが月に向かって手のひらを掲げていた。
 燐の炎のようにゆらめいていたのは麹ではなかった。麹を枕にして眠る、青い着物を纏った垂髪の女の子だ。

「なにか見えたかい?オオカミのお嬢さん」

 はっとして息を大きく吸い込んだ。呼吸を止めていたようだ。
 2、3回浅い呼吸を繰り返して、意識はようやく明晰さを取り戻した。

「神様……神様って……」
常在菌(じょうざいきん)だよ」
「……じょう、ざいきん?」
「そうだ。人間の手のひらには、誰しもが常在菌を宿している。腸内細菌(そう)という言葉を聞いたことはあるだろう。腸内フローラというやつだ。手のひらにも同じように、様々な細菌が寄り集まってひとつの町を作り上げているんだよ」

 門倉さんは、お皿をテーブルに置き、大福を割いて見せた。中から現れたのは鮮やかな赤色を放つイチゴだった。

「オオカミのお嬢さん。大福を割いてごらんなさい」
「大福……」

 私は大福の中身を開いてみた。私の方は……小ぶりな栗が隠れていた。

「みな違う。外からみれば同じだが、宿している常在菌は人によって様々だ」
「じゃあ……千酔さんのは……?」

 門倉さんは懐に手を入れ、ショットサイズの小さな瓶を取り出した。その中には淡い青色の液体が入っている。

「これは100年前に作られた月下の青。千酔の前任者が生み出した青い麹で醸したんだ」
「前任者……」

 門倉さんは、私に「これを開けておくれ」と言って、月下の青が込められた瓶を手渡した。蓋を開けろ、ということだろう。
 小さい上に、いかんせん100年ものとのことなので、相当難儀するだろうと覚悟したが、驚くほどあっけなくその封は解かれた。

「オオカミのお嬢さん。月下の青をここに」

 門倉さんの手のひらに、白磁の盃が乗せられていた。
 お酌と言っていいのだろうか。私は恐縮しつつその上に“青“を注いだ。
 わぁ……とため息が漏れてしまう。

 まるで、月が湖へと(こぼ)れ落ちてゆくようだった。
 盃に花が咲いたように、月は砕け散って青い砂塵を巻き上げている。
 ……鼻先を梅の匂いがくすぐった。それは切なく、儚い夜の残り香に思えた。

 ────これが、月下の青。

 美しい。
 月並の言葉がよく似合う。月の名を冠しているのだから決して無粋ではないはずだ。

「この青色を生み出すのは、麹なのさ」
「麹……」

 あぁ、と思い出す。いつか湖に上で、ちーちゃんが私に話してくれた。月に掲げているのは麹だと。

「麹を作る作業のことを製麴(せいきく)という。蒸した米に麹菌を振り撒いてな、手でもって混ぜ合わせる。麹とはそうして作られるのだよ」
「じゃあ……手の……常在菌が……青い麹を?」
「わかったようだね。察しの通り。千酔の手のひらには特殊な常在菌がある。恐らくは世界中でただ一人の。それこそがこの……月下の青を生むのだよ」

 月下の青を作るために生まれてきた。ちーちゃんの言葉どおりだった。
 彼女は奇跡を宿して生まれてきた女の子だったんだ。
 
 ふいに、涙がこぼれた。
 今日はほんとうに……泣いてばっかりだ。

「だから……ちーちゃんは手袋をしてるんですね。守ってる……神様を。だから……」

 そうか。だからあの時、私が触れようとしたら強く拒絶したんだ。
 
 はっと気づく。
 ……ちょっと待ってほしい。じゃあ”アレ“はなんだったんだ。手袋の下に隠された、あの火傷の痕は。

「門倉さん。私、ちーちゃんの手のひらを間近で見ました。知ってますよね?ヤケドしてました。ケロイドみたいになって……どうしてですか?やっぱり──」

 あの女がやったのではないのか!
 門倉さんの答えを聞くまでもなく、私は立ちあがろうとした。許さない!
 
 そんな私は、門倉さんの一言で動きを止めた。恐らく、心臓も止まった。

「千酔がやったのさ」

 ────は?
 なぜ?どうして?
 言葉が出てこない。

「焼けた鉄瓶に、自らの手のひらを押し付けたんだ。あの子がまだ10歳にも満たない頃だ」
「そん……な。10歳?な、なんで……だって……だって……大切な……」

 コンコン。とノックする音。
 引き戸を開け、タキシードの男性が部屋に入って来た。

「オオカミのお嬢さん。ワシはもうすぐ死ぬ身だ。だからその前に、お前さんに会えてよかった」

 タキシードの男性は一礼し、門倉さんの車椅子の手押しハンドルを掴む。

「あとは千酔に聞きなさい。オオカミのお嬢さん。カラダを大事にね。どうか千酔と仲良くしてやっておくれ」

 そう言い残し、門倉さんは車椅子を押されて部屋から出た。
 チクタクと音を立てる古びた時計の針は、深夜2時を通り過ぎようとしている。
 私はひとり。胸のざわめきを抑えられぬままじっとソファの上で固まっていた。