月とベイプ


 大股で歩いた。足元を照らすライトがパン屑のように散りばめられた路地を、まるでオオカミのように。
 ベイプを咥え、吹かしながら。その様はさながらアメリカのギャングである。
 お上品ではいられない。これくらいで丁度いいのだ。

「んっ……」

 ストレスのせいだろうか。私の手のひらや指の腹の複数箇所に湿疹?じんましん?のような炎症反応が浮かび上がっている。
 それらは、なんだか妙な痛みを伴っている。そう、まるで……蜂にさされたかのような。

 だが、いまはそんなことはどうでもいい。

 酒巻酒造の敷地に近づくと、赤いランプをギラつかせながら駐車している2台のパトカーが見えた。
 ちーちゃんが行方不明だということで通報したのだろう。下手人はここにいるが。
 脇目も振らず通過して、黒い門をくぐり、柿の木を一瞥し、向かう先は『酒巻』と書かれた暖簾。
 ──その奥にいるヤツに、私は用があるのだ。

 ちゃぶ台をひっくり返すかの如く、乱暴な「ごきげんよう」をかました。
 玄関の引き戸を派手に開けてやったのである。
 バチィン!とガラスが割れる一歩手前の音が響いた。

 探すまでもない。私の“標的”は土間になっている玄関から入ってすぐの場所に立っていた。
 あの女……“姉さん”である。

 ヤツは盛りのついた猫のようだった。
 若い男性警官を前にして、カラダをくねらせながら上目遣いで何やら話し込んでいる。
 自慢の芸術作品(ネイルアート)を見せびらかしながら。

 私は脱いだ靴を丁寧に揃えて置き、邪魔な警官を押し退けて、あの女の前に立った。

「あっ?誰よ────」

 言い終えるよりも先に。
 私はコイツの右手を掴むと、人差し指の爪に張り付いた“フジツボ(ビーズ)”を……ひっぺがしてやった。なんの躊躇もなく。
 すると『ぽん』と間の抜けたような音が木霊した。

「ぷっ……ぶふっ……んふっ……あっっはははは────!」

 笑ってしまった。あまりに可笑しくて。

「ウケる。もう一個いくか」
「ふざっけんな!」

 2個目を狙おうとしたが、阻止された。空いた方の腕で掴まれてしまったのだ。
 日本刀の鍔迫り合いのようにギリギリとお互いの力が拮抗する。

「このクソ外人が。何してくれてんだコラ!」
「は……?それはこっちのセリフよ。あんたこそちーちゃんに何してくれてんのよ」

 もうゴングは鳴っている。
 その後は、髪を掴んでの引っ張り合いだ。
 喧嘩など初めての経験である。自分のイメージでは、アメリカのプロレスラーのようにエルボーの一撃を喰らわせ、崩れ落ちたコイツを踏みつけて、人差し指を空に掲げて歓声を浴びる。
 ──そんな感じだったが、現実は猫パンチをポコポコ喰らったり喰らわせたりの応酬である。

「ちーちゃん。だぁ?てめえクソ外人!まさか千酔のダチかコラ!」

 私はクソ外人か。ならばコイツはクソ女だ。
 だが力がやたらと強い。引っ張られた髪が引きちぎられそうだ。私も負けじと髪を掴み返す。

「だったらなんだってのよ!」
「千酔はどこにいんだよ、あぁ?てめえ知ってんだろおい。吐けやコラ!」

 髪を掴みながら、クソ女が私のお腹に膝蹴りを見舞った。レバーに刺さったようだ。痛みよりも先、強烈な吐き気が込み上げるも、私はぐっと堪えて睨み返す。

「い……言わない……!」
「あぁ?」
「う、ぅぷ……絶対……絶対に言わない……あんたなんかに。ちーちゃんを苦しめるあんたなんかに!」

 啖呵を切った私は、クソ女に張り手を見舞った。
 パチン!と乾いた音が響く。それを合図にしたように、それまで私たちの剣幕に圧倒されてあたふたしていた警官たちが止めに入った。それでも止むことなどないのだが。

「ふざけるな!ふざけるな!なんでちーちゃんをいじめるんだ!ちーちゃんは……ちーちゃんはちっちゃくて、可愛くて……優しくて……!それなのに……それなのに!あんな酷いことしやがって!ちーちゃんの手を……あんな風にしやがって!」

 気がつけば、私は泣いていた。青い目を猫科動物のように見開いて瞬きもせぬまま、ただ涙だけがとめどなく流れてていた。

「……手だと?てめぇ、千酔の手のこと知ってんのかよ?おい、アイツが話したのか!?」
「知らないよ……なにも……私はちーちゃんのことをなにも知らない!」

 ────だから、私は!

 声を張り上げた。1万フィート先まで轟かせんとするほどに。
 それはまるで、オオカミの遠吠えのようだったのかもしれない。
 
 ゆえに“あの人”はここに来たのだろう。オオカミに一目、会うために。
 
「オオカミがいるぞ」

 喧騒を一発で黙らせる銃声のような。
 それと同じ効果のある一声だった。
 消え入りそうな掠れた声。それなのにこの場にいる全員が一斉に静まり返ったのである。

 声の方を向くと、そこには車椅子に乗ったひとりの老人がいた。一人では押すこともできないようで、後ろにはタキシード姿の男性が補助についている。
 この着物姿の老人は、きっと残りの命が少ない。一眼見てそう思った。
 骨と皮だけのように痩せた体。落ち窪んだ目。それでいて、眼光は鈍い光をいまだ湛えている。きっと潜り抜けてきた人生の修羅場が残火となって燻っているのだろう。

「あーん!門倉さぁ~ん。聞いてよぉ。私、この外人に────ひっ!」

 門倉(かどくら)さん。という方なのか。
 あの女が甘えた声で駆け寄ったが、ジロリとひと睨みされ金縛りのように動きを止めた。いまは安物のミキサーみたいにガタガタと震えている。

「オオカミのお嬢さん。こっちへおいで」

 この場の全員が私を見た。
 (えと……私のこと?)
 私は縮こまりながら歩き、門倉さんの前に立つ。

「知ってるかね。この土地には、その昔オオカミがいたんだ。ワシの曾祖母(ひいばあ)さんがよく話してくれた」
「えっと。私のご先祖さまも……オオカミだって聞きました」
「うんうん。そうだろうね。ではオオカミのお嬢様さんや、ついて来なさい」

 ────千酔(ちよ)のこと。話してあげよう。

 そう言って門倉さんを乗せた車椅子は長い廊下を進んでゆく。
 選択肢はない。異世界へと続くトンネルに案内されるかのように、私はその後をゆっくりとついて行った。