月とベイプ



「月……月が出てる」

 ──深夜25時

 “いつもの“時間がきた。
 昼間にあんなことがあったけれど。いや、あったからこそ、私はあの場所へ。湖の上へ行くのだと決心していた。

 まずはセイちゃんだ。
 彼の部屋のドアをこっそり開けて確認してみる。
 ……眠っている。
 佐々さんの弟くんにゲーセンのUFOキャッチャーで取ってもらったという、タコのぬいぐるみを抱きしめて夢の中だ。

 よし。大丈夫。
 私はいつものスキーウェアに着替え、ボンボンのついたニット帽を被って玄関を出た。

 昼間とは打って変わって、ため息すら凍りつきそうな寒さだ。こんな夜に、ちーちゃんは大丈夫だろうか。不安に駆られた私は、足音に気をつけながら小走りでエレベーターへと向かった。


 *


「こんにちは」
「あ……リリアさん」

 やはり。ちーちゃんはそこにいた。湖の上に。白い袴姿で。
 月の下で見る彼女の姿は、私の知っている神秘的で可憐な少女そのものだ。
 だからこそ、心配になる。

「ねぇ、ちーちゃん」
「ごめんなさい」
「えっ?」

 ちーちゃんは、月に掲げていた手を下ろし、腰に提げた巾着袋に青い麹を流し入れた。
 次いで、白い手袋をしっかりとはめる。
 
 そして、私の方を向いて頭を下げて言った。

「この前……リリアさんを拒絶するようなこと……ごめんなさい……本当にごめんなさい」

 ……心が痛い。
 私は口篭ってしまい、すぐに返事ができなかった。

 具合が悪いだろうに。疲れているだろうに。
 どうしてこの子は、こんなにも……あの夜だって、私に全面的な非があるのに。

 けれど、安心したことがひとつ。

「ちーちゃんのばか」
「えっ」
「私……謝るタイミング逃しちゃったじゃん。ちーちゃんが不意打ちするからさ。卑怯なんだが?」
「……ふふっ。じゃあ、謝っていいですよ。私、ちゃんと聞きます」
「えー、やだ。もう言えないよー」

 示し合わせたように、ふたりしてクスクスと笑い合う。

 そう。安心した。
 私は拒絶されたわけじゃなかったんだ。


 *


 今日はダンボール椅子を持参しなかったので、私たちは氷の上に直接座っている。
 久々に味わう、お尻に伝わるひやっとした感覚にふたりで顔を見合わせて笑った。
 それからは、いつものように他愛のない会話をいくつか交わしてから、ぼんやりと月を眺めている。

「私さ、従兄弟にね。よく言われるんだよ。お尻大きいってさ」
「ぶふっ」
「あー、笑った!」
「わ、笑ってないです……でもさっき、リリアさんのお尻が氷の上に乗ったとき。ミシィ!って音が鳴ってましたね。割れちゃうかと思いました。ふふっ」
「……鳴ってないんだが?」

 私は、ケラケラと笑うちーちゃんに、グルグルパンチのジェスチャーをお見舞いした。
 目を細めながら、両手で口元を隠して「ごめんなさい」をするちーちゃん。その手には白い手袋がはめられている。

「でも、割れるとしたら、相当氷が薄くなった時だよね!……あー、そうか」
「ん?どうしました?」
「湖の氷が溶けたら。夏とかさ。ちーちゃんは来なくなるのかなって……そう思って。まあそうだよね」

 当然と言えば当然のこと。このひと時は、足下の氷が歩けるほどに分厚いからこそだ。
 わかってはいたけれど、私はあえて目を逸らしていた。なぜって、口実を失ってしまうからだ。ちーちゃんに会うための言い訳を。

「そうですね。お酒は冬の間に仕込むので、夏は麹も作りませんし」
「そっか……」

 やっぱり。ちーちゃんと会えるのは今だけ。この冬が終われば……また次の冬が来るまで、こうしてふたりの時間を過ごす機会は訪れない。
 ならば、じっと待っていればいい。来年も、再来年も、冬の訪れを待ち侘びて。

「……ダメだよ。そんなんじゃ」

 驚いた。
 自分自身で口しておきながら、それはまるで赤の他人が発した言葉のようで。私は、はっとあいて視線を空に向けていた。その先にぼんやりと浮かぶ月もまた、びっくりしたような顔で私を見ていた。

「えっと……リリアさん?」

 今日、意を決して酒蔵に行ったのはなんのためか。
 うじうじしている自分にケリを入れたのは、ちーちゃんに会いたくて仕方がなかったからじゃないのか。
 ならば、じっと待っていることなんてできやしない。薄い桜色の春も、映えるカナリア色の夏も、溢れた橙色の秋も……その全てを、ちーちゃんの白で淡く染めてしまいたいから。

 ──頃合いだ。

 聞きづらいから、他の話題でお茶を濁していたけれど、そろそろ向き合わなければ。

「ねぇ、ちーちゃん」

 やはり。いまのちーちゃんは昼間見た少女とはまるで別人のように見える。
 日の下で見た、青白い顔で疲れ果てていた彼女はどこにいるのだろう。あの荒かった呼吸も今は穏やかだ。

「昼間のことなんだけど」

 ちーちゃんが私から視線を逸らし、目を伏せた。そして落ち着きなく指を絡ませながら答える。

「リリアさん。何も見なかった……そういうことにしてもらえませんか?」
「え……?」
「いいんです。私はお酒さえ作れれば……月下の青……それさえ作らせてもらえれば、それでいいんです。そのために生きてるんだから」

 ────ほら、あの子は特別だろ?
 ────千酔ちゃんが倒れたら、月下の青は……

 昼間、聞き流していた程度だったはずの、エビスのおば様が言っていた言葉が妙にクリアに甦ってきた。
 ちーちゃんは……やはり何かを隠している。そんな気がする。
 とてつもない秘密を。

「だけどね、ちーちゃん。私は……えっ?」

 ドスッと、左半身に重みを感じた。
 
 こういう感覚は覚えがある。埼玉にいた頃だ。満員電車で人がもたれかかってきた時の感触。あれに近い。いや、近いのではない。そのものだ。
 私はようやく気づいた。私の隣にいる人は────

「ちーちゃん?」

 ちーちゃんが、私にもたれかかっていたのだ。
 恋人への愛情表現として行うのとは違う。それはすぐにわかった。腕をだらりと下げ、顔を押し付けるようにしているからだ。倒れまいと私のカラダにすがりついているとも言える。

「ちーちゃん。ねぇ、大丈夫?ちーちゃん?」
 
 額に手を当てた私は、驚いてサッと手を離してしまった。熱がある。それも異常な熱さだ。
 見れば、はぁ……はぁ……と呼吸も浅く、どんどんと細切れになってゆく。

「ちーちゃん、やっぱり具合が……あぁ。どうしよう。どうすれば……」

 無理をして強がっていたんだ。そんなことに気づけないなんて……。
 人体というものは、限界を超えるとオーバーヒートしたスマホのように、強制的に“落ちる”のだと聞いたことがある。いままさに、ちーちゃんのカラダはそれほどに危険な状況に達していたのだ。

 ちーちゃんの肩を抱き、私はその場でただ狼狽えていた。
 彼女はたしか、送り迎えしてもらっていると言っていた。どこだ。どこかにいるはずだ……湖を見渡すも、人影などまるで見えない。
 救急車……そうだ救急車!

「……ダメだ」

 脳裏に昼間の光景がよぎった。
 救急車を呼べば病院には家族が来ることになる。
 あんな奴に、ちーちゃんを任せるのか?家に帰れば、すぐにでも働かせるつもりでいるはずだ。どれだけ衰弱していようと。

 もたれかかっている彼女の頭。くせっ毛な髪が汗でびっしょりと濡れている。
 見れば、カラダからは湯気が立ち昇っていた。相当な汗をかいているようだ。

「ちーちゃん、大丈夫だよ。大丈夫だからね……!」

 意は決した。
 私はちーちゃんをおぶって足にぐっと力をこめて立ち上がった────