彼女の家が造り酒屋だということはもちろんわかっている。けれどそれがどのようなものか、頭の中で思い描くことができないままここまで来てしまった。
「この先です」と運転手さんに言われ、タクシーを降りたのは町の外れで、細い路地の先にちーちゃんの家…酒巻酒造はあった。
ひっそりと佇む門が見えた。黒ずんだ木の門構えは、まるで長い年月を黙して耐えた老人のようで、静かな威厳を湛えている。門をくぐると、小さな庭が目に飛び込んできた。欠けた石灯籠と、風にそよぐ一本の柿の木が、まるでこの家の歴史をさりげなく語っているようだった。
正直……とても好きな風景だ。
大きく息を吸い込みたくなる。いや、もうすでに目一杯吸い込んでいた。
風に乗ってきたのか、微かにお酒の香りがする。
「ちーちゃんは、ここに住んでるんだ」
誰に語りかけるでもなく、ただ言葉が溢れた。
なんて素敵な環境だろうか。ちーちゃんが優しく、穏やかな子に育った理由がよくわかる。
だからこそ、あれほど声を荒げて拒絶されたという事実が重くのしかかった。
やっぱり帰ろう……。そんな風に何度か逡巡し、門の方へ行ったり来たりを繰り返すこと三度。
意を決した私は、ベイプを取り出して口に咥えた。そしていつものように吸引して気を落ち着かせる。
まずは、ちーちゃんを探さないと。
目の前にある平屋建ての木造家屋。『酒巻』と書かれた暖簾をくぐり、私は土間になっている玄関に立った。
「すみませーん」
私は大きい声が出せないタイプだ。オオカミの子孫が聞いて呆れる。
しかしこれ以上の声は出せないので、何処ぞにインターホンはないかとキョロキョロしていた時、救いの手は差し伸べられた。
「おや、外人さん?迷子かね?」
背後から声をかけられたのだ。
恰幅の良い中年女性で、エビス様のような福々しい笑顔が眩しい。手には野菜が目一杯詰め込まれたダンボールを持っている。
「サワッディーカー。スマラットトゥンガハリ。シンチャオ~」
「えと……日本人です」
「おやまあ!」
サワッディなんたらは、たしかタイの挨拶じゃなかったかな。他のもエスニックな風味を感じたんだけれど……。
とにかく助かった。関係者かどうか定かではないけれど、渡りに船だ。
「あの、私。えと……友人……そう。友人!友人を訪ねて来たんです」
ちーちゃんは私にとって何だろうか。と考えてしまい言葉を詰まらせた。
こんな時くらい適当に”友達”だといえばいいものを、私は本当に面倒くさい性格をしている。呆れてしまうほどに。
「千酔さん。ご在宅でしょうか?」
「あぁ。千酔ちゃんかい。アタシはこの家の人間じゃないもんだから。ちょっとわからないけども」
「そう……ですか」
「でもねぇ。あの子はずーっと働かされてるから……いつもみたいに蔵で作業してるんじゃないかねぇ」
エビスおば様が、ダンボールをドスンと地面に置いた。
「かわいそうにねぇ。年末に体調を崩したって聞いてたのに」
「えっ?具合……悪いんですか?」
「そうなんだよ。それなのに、まともに休ませてもくれないみたいでさ。アタシはさ、この家にちょいちょい野菜届けてるもんだから、ついでに聞くんだよ。ほら、あの子は“特別”だろ?だから気になってね」
ぐるぐると……ドラムの中で回転する洗濯物のようだ。頭の中で特定のワードがぐるぐると。
「体調」「崩した」「働かされている」──────『特別』
思考がまとまらない。
そんな私のことなど知らぬままに、彼女は話を続けた。
「”月下の青“で成り立ってる家なのにねぇ。あの子が倒れたらどうするつもりかって。みんなそう言ってるよ」
「あの……」
「でも友達がいてほっとしたよ。あの子はずっとひとり────」
「すみません!」
私は彼女の話を遮って、玄関を飛び出した。
さほど大きくない敷地だ。目的の場所はすぐに目についた。
庭の奥。そこに酒蔵がある。
白壁はところどころ黒ずみ、長い歳月の風雨に耐えた痕跡が、まるで古い書物のページのように刻まれている。
ほんの数分前であれば、その風情に心を動かされるところだろうが、今は別だ。
私は蔵の入り口に立った。ひんやりとした空気が私の頬を撫でる。手をかけた木の扉は重々しい。しかしその表面には、幾人もの手の跡が刻まれたような滑らかさがあった。
荒い息をなんとか食い殺し、ゆっくりと扉を開けると、薄暗い照明のついた蔵の中から湿った土と麹の匂いがふわりと立ち上った。目を凝らすと、奥に並ぶ巨大な木桶が見える。
────そのうちのひとつ。足場に立って櫂棒を両手で持ち、木桶の中身をかき混ぜている人影が見えた。
「ちーちゃん……」
彼女がいた。
白いツナギのような作業着を纏い、長靴を履いて、頭には手拭いの代わりなのだろう。ツバの短いワークキャップを被っている。
その手に握られている長い櫂棒。彼女はそれで桶の中をかき混ぜていた。その動きは力強く、しかしどこか優雅で、まるで古い舞を舞っているかのようだ。
心配で駆けつけたくせに……私はその姿に見惚れてしまっていた。
ふいに、彼女が動きを止める。チラリとこちらを────見られた!?
気がづけば、私は踵を返して蔵から逃げ出していた。
なぜ逃げるのか。
ちーちゃんに会いにきたのに。さっきの話を聞いて心配だから、声を聞きたいと思ったのに。
やはり“あの時“拒絶されたことが胸に引っかかって抜けないからか。
そうか。間違いだったんだ。ここに来たのは……もう帰ろう。そう思った。
──その時だった。
声が聞こえたのだ。
「リリアさん?」
心臓を鷲掴みにされた。脈打つことすら許されぬほどに。
「リリアさん……ですよね?」
背後から聞こえる、ちーちゃんの声。
蔵の中からではない。きっと私の姿を見かけて、足場から降りてきたのだ。
心臓を掴む握力が次第に緩んでいく。
ようやく頭に血が巡りだした。さて、どうしよう。何と答えよう。考えるよりも先、私はもう振り返っていた。
「来ちゃった」
あ゛──────!
しまった……何が「来ちゃった」なわけ……まさかこんな、彼氏のアパートの玄関前で佇むヤンデレ彼女みたいなセリフが飛び出すなんて……。
あまりの失態に、私は反射的にぎゅっと目を瞑っていた。おまけに歯も食いしばっているうえに、カラダが強張ってしまってブルブルと震えている。
「あの……リリアさん。お腹痛いですか?大丈夫?」
「えっ」
ちーちゃんの言葉に、私はハッとして目を開けた。
眼前に彼女の姿が映し出される。
「ややっ!違うの違うの。そうじゃなく……て……」
言葉を失ってしまった。文字通り……。
月光の下では覆い隠されていただけなのか。
いま、日の光によって明らかになった彼女は……とてもやつれて……とても疲れて見えた。
湖上で見るちーちゃんの愛らしい面影を、掬い取ることができなかったのだ。
「ちーちゃん……?」
「はぁ……あはは。仕事着。はぁ……見られちゃいました。なんだか恥ずかしいです。はぁ……はぁ。ごめんなさい。汗っかきで」
今日は温かいとはいえ、まだ1月だ。気温は当然低い。
それに、あの蔵の中は外に比べてひんやりとしていた。まるで冷蔵庫のように。
にも関わらず、彼女は随分と汗をかいていた。首に下げたタオルで頻繁に汗を拭くほど。
それだけではない。呼吸が乱れ、浅く細切れなのだ。
──ちーちゃんは体調が悪い。それは火を見るよりも明らかだった。
声をかけねば。大丈夫?って。具合悪いの?って。
だが、そんな私の言葉は、喉から顔を覗かせたところで引っ込んでしまった。見知らぬ“第三者”によって。
「千酔。あんた何やってんの?」
私たちを分つように何処から放たれた声。それは虫ケラを踏み潰すかの如くに冷めた声色だった。
ちーちゃんに向けられたものだ。
私は声の方を見た。
そこに立っていたのは『酒巻酒造』と刺繍の入った法被を羽織っているひとりの女性だった。
年齢的に20代後半といったところだろう。
法被の下はパンツスーツ姿だが、社会人にしては随分明るい髪色をしている。
「あ……姉さん」
その”姉さん“と呼ばれた女性は、ぶっきらぼうにちーちゃんの腕を掴むと、悪態を吐きながら、放り投げるように乱暴に彼女のカラダを蔵の方へと引き戻した。
「サボんじゃねーよ、バカが。あんたが怠けた分、損害が出んだよ。わかってんのか、おい」
ちーちゃんは何も言わず、縮こまったままおずおずと蔵へと戻ってゆく。
その際、一瞬だけちらりと私を見た。
目が合った。でも私は動けずにいる。呆けてしまって……金縛りにあったようで……
「だる。これだから低学歴のゴミは」
状況が飲み込めなかった私であったが、この一言でプツンときた。
一歩踏み出し、この女の顔を正面から睨みつける。さながら、試合開始前にメンチを切るボクサーのようだ。
「で、あんたは何……って外人かよ」
ふてぶてしい態度だ。その分、圧力がある。恐らくは普段からこうして人を威圧して生きているのだろう。自分で言うのも何だが、割りと”お嬢様“な私とはさすがに場数が違う……向かい合ったこの時点で、すでに勝敗は決していたように思う。
「う……あ、ぁぅ…………」
「ここは勝手に入っちゃいけないの。わかる?オーケー?」
しかし、この女……ほんとにちーちゃんのお姉さんなのか?
まるで面影がない。喋り方も仕草も。全てにおいて品がない。愛嬌はカケラもない。
鼻が曲がりそうなほど強い香水に、歳不相応なメイクが癪に触る。涙袋なんて書きやがって……ぶん殴りてぇ。
しかもよく見れば、バカみたいな爪をしている。ドぎつい色味のネイルに張り付いているデカいビーズはさながらフジツボのようだ。最低のセンスである。ペンチで生爪ごと引き抜きたい。
「さっさと帰れや。ゴーホーム。バック。オーケー?」
「ぐ……うぅ…………」
「あ?なんだよ。帰れってのがわかんねーのか?」
「お……ぉぉ……おっけー……おっけー。ご、ご、ゴメンナサァイ」
私はわざとらしくカタコトの日本語で“外人”を装い、愛想笑いを浮かべ、冷や汗をかきながら撤退した。
いや、大本営っぽくいえばこれは“転進”。敗北ではない。
──なんて冗談を吐かなければやってられなかった。あまりにも情けなくて。
そそくさと尻尾を巻いて逃げ込んだタクシーの車中でも、家路につく電車に揺られながらも、出来ることなら今すぐにでも酒巻の家に戻ってひとこと怒鳴りつけてやりたかった。
でもそれすらできない……足がすくんで、ただ唇を噛むだけ。
ちーちゃんのことが好きだ。大切だ。
そう思っているくせに。
情けなくて。悔しくて。
帰宅し、ちーちゃんの苦しそうな顔を思い出しては、部屋でひとり涙を流した。そんな自分にさえ……どうしようもなく腹が立って仕方がなかった。



