昼からベイプを吸い過ぎたようで、頭が少々ぼんやりしている。
やはり何事も、過ぎたるは及ばざるが如し。いかに鎮静作用があるとはいえ、脳が鈍るほどに吸っていては本末転倒である。
とはいえ、頼らざるを得なかったとも言える。
こうして夜がくるまで、言い知れぬ不安と戦っていたのだから。だが、ちーちゃんに会ってしまえばこっちのものだ。彼女はまるで特効薬のよう。月に祈っているちーちゃんの姿を見ただけで、私の呼吸はすっと楽になり、自然と頬が緩むのだ。
そんなわけで、こうして何度目かにもなる月夜の25時の逢瀬は開幕した。
今日は例の昔話について聞くつもりなので秘密の方をさくっと告白し終えた私たちは、さっそくお菓子タイムに突入していた。
「ふふふ。ところで、ちーちゃん。ブラックコーヒーは飲めるかな?」
リュックを弄りながら、私はちょっとイジワルな表情でちーちゃんを見据えた。
「ブラックは……えっと苦手ですね。いつもミルク入れちゃいます。お砂糖も」
「ややっ。これはいけませんねぇ」
「えっ、まさか……」
「んふふ。そうだよ。まさか、まさかですよ」
私はリュックから取り出した水筒をこれみよがしに見せつけた。中身はお察しの通りだ。
「今日はブラックコーヒー!熱々だよー。真っ黒だよー」
「えぇー。そのまま?お砂糖は無しですか?」
「もちよもち。もっちもちよ」
私は器用に左目の眉毛だけをクイッと持ち上げてちーちゃんを見据える。それはまるでアメリカのプロレスラーみたいな表情だ。
「If you smell what The Lilia is cookin’ !」
なんてセリフを口走りたくなる気分で、その顔のままリュックに手を突っ込み、わざとらしくガサガサと音を立ててみせた。
「でも安心してね、ちーちゃん。ちゃんと用意してあるから……!」
「それって……お菓子……ですね!」
「ややっ?がっつくねぇ、奥さん。ご無沙汰かい?ご無沙汰なのかい?」
「早く!早く見せて……!」
お茶菓子の入ったリュックの中を覗こうと、頭を捩じ込むかの如く顔を寄せるちーちゃん。
まるで、オヤツを前にして興奮する子犬みたいだ。
私は、彼女のくせっ毛なショートヘアの頭を手で抑えながらケラケラと笑う。
「あっはは。ねぇー、ちーちゃん。がっつき過ぎだよー」
「もうちょっとで見えそうです……!」
こうして近くで見てみると、本当にクセの強い髪の毛だなと思う。もっと率直に“天パ”と言ってもいいのかも知れない。と言っても、パンチパーマみたいなチリチリなものではなく、例えるなら古代ギリシアの少年みたいな雰囲気の髪だ。
そして──
この毛の感触は……プードルだな。
埼玉の実家の近所に住む老夫婦が飼っている茶色いプードルのことを思い出した。やたらと私のスカートの中に鼻を突っ込むたがる子で、家の前を通りすがる度に襲撃されていた記憶が甦ってきた。あの時もこうやってグイグイ押し込んできるプードルの頭を抑えていたっけ。
(ちーちゃんて、ほんとワンちゃんみたい)
そう思っていたせいだろうか。
撫でてしまったのだ。無意識に……ついやってしまった。
「あっ」
今更になって気づく。私はいまプードルの頭ではなく、女の子の……ちーちゃんの頭に触れているのだと。
心臓が軽くジャンプしたように跳ねた。
このまま触れていていいのだろうか。というか撫でてしまったけれど。
気持ち悪いと思われるかも。でも……
「きょうのお菓子。見えちゃいました!」
そう言って、サッと顔を上げるちーちゃん。
「ぁ……」
ふわり。と彼女の頬の香りがした。
それは雪の下に咲く梅の花びらのようで甘酸っぱく、哀しいほどに淡く切ない匂いだった。
意図したものではないだろう。
けれど、いま。鼻先が触れ合うほどの距離にふたりはいる。
私は瞬きすらとうに忘れていた。
──結ばれていたからだ。
私の青い瞳と、彼女のまん丸の大きな黒い瞳を繋ぐ目線が、まるで靴紐のように。
私なのか、彼女なのか。いや、きっと私だと思う。
固く結び過ぎてしまったのだろう。その“靴紐”は解けぬまま、時計の針はふたりを横目に歩みを進める。
「時間……」
「……え?」
「時間……無くなっちゃいますよ」
「……へっ。あっ、あぁ。時間……そっか。そうだね。時間……」
ちーちゃんの言葉でようやく我に帰ることができた。
私は軽く頭を振り、目線を下げてリュックからお菓子を掴んで取り出して、ちーちゃに見せつける。
「どじゃーん。バターサンド。ブラックコーヒーによく合うんだよー」
その際、わざとらしく笑顔を作って目を閉じた。
もしも、今また彼女と目が合ってしまったら、今度は逸らすことができなくなってしまう。そう確信している自分に気づいて……怖かったからだ。
彼女は悟ってしまうのではないかと……私の”秘密“を。
*
「まず、バターサンドを一口ぱくり。そしてこの口いっぱいに広がる暴力的な甘さを……ブラックコーヒーで……キュッと流す!」
「呑兵衛みたいですね」
せっかく持参したコーヒーなのに、どうしても飲めないと言う“お子様”なちーちゃんに、私はオトナの嗜みをレクチャーしている。
けれど、イマイチ響かない。ついには酒飲みのオジサン扱い。大変遺憾だ。
けれど、安心した。
彼女は……ちーちゃんは”先ほどの状況“を特に何とも思っていないようだ。
私にとっては、彼女と見つめ合っていた時間が、まるでスノードームに閉じ込められたかのような、隔絶され循環する刻の輪の中に置き去りにされたかのような。そんな浮世離れした感覚に陥っていたけれど。
ほんの数分……いや数秒かもしれない。きっと僅かな時間だったろう。
彼女にとっては、いまこの一瞬と何ら変わらない。泡のような出来事だったに違いない。
そう、安心した。ちーちゃんの変わらぬ笑顔に。
同時に……胸が痛い。
私と彼女は同じ刻を過ごしているはずなのに。その重さはあまりにも違うのだ。
表情に出てしまってはいけない。
少し唇を噛み、私はわざとらしいほどの笑顔を張り付けて、彼女との会話を続けた。
「さぁさぁ、ちーちゃんもやってごらんよ。美味しいよー。人生は甘いだけじゃダメなんだわ。苦みがあってこそ甘さが引き立つのだよ」
「ふふっ。ほんとに……セリフまで呑兵衛みたいです」
「ねぇ~、呑兵衛ってなによ。酒飲みのおっちゃんでしょそれ。JKなんだがー?」
「でもね。お料理を日本酒でキュッと流し込むのが呑兵衛のスタイルなので。リリアさんはきっと素質あるんですよ」
「なにそれ。“おじ”の素質……ってコト?いいよもう知らない」
「ごめんなさい。私はこのままで十分美味しいです」
クスクスと笑いながら、バターサンドを一口かじるちーちゃん。
私はほっぺたをぷくーっと膨らめながら、その姿を横目で見ていた。そして、ふと気付く。
「手袋……取った方がよくない?汚れちゃうよ?」
そう。ちーちゃんは手袋をしたまま、バターサンドを食べていたのだ。
たしかに、寒いから手袋をするのもわかる。
けれど、彼女がはめているのは、薄い綿の手袋で、正直それをわざわざはめるくらいなら素手でも大差ないようにも感じる。ましてや、物を食べる時には汚れるという点のみならず、掴みづらいというデメリットもあるだろう。
思えば……ちーちゃんが手袋を外している時は、月に手を掲げている時だけな気がする。
私と合流し、青い麹を巾着袋に入れた後は、すぐさま手袋をするのだ。
こうして回数を重ねて会っている中で、少なくとも私はちーちゃんの手の素肌を間近で見ていない。
「あ……これはその……」
「そっか。いまお菓子持ってるもんね。おっけ、そのままでいいよ。私が外してあげる」
私が空気を読んでいなかったようだ。確かに、片方の手が塞がった状況で手袋など外せまい。ならば、左手にバターサンドを持っている彼女の代わりに、私が右手の手袋を外してあげよう。
そう思って、手をのばした。
ふと、氷の軋む音が耳を掠めた。そして一瞬、ほんの一瞬。昼間に見た光景がフラッシュバックした。それは屋上で目にした、液晶の割れたタブレット。
(やめろ)
と声が聞こえたような気がした。けれど私の手は、もうちーちゃんの元に届いている。
無意識に少し。ほんの少し、彼女の手袋の生地を指で摘んだ。
その時だった。
「やめてッ──────!!」
静寂に包まれていた湖上に“少女”の声が木霊した。
それが、私の目の前にいるくせっ毛なショートヘアの女の子から……ちーちゃんから発せられたものだと認識するまで、私は少しの時間を要した。
なぜなら、それはまるでスパイクのついた靴裏で氷を踏み抜いたような。彼女には似つかわしくない、あまりにも刺々しい声色だったからだ。
飛びかかってきた毒蛇を避けるかのようにして立ち上がった勢いで椅子は倒れ、その際に落としたのだろう、食べかけのバターサンドが足下に転がっている。
私は……何が起きたのかわからないまま。怯えた表情を浮かべて立ちすくんでいるちーちゃんを、ただ茫然と見ていた。
手袋をはめたその両手をぎゅっと重ねて胸の前に置いて震えている彼女の姿を。
──月光が明るさを増した。
ざまあみろ。と、まるで私を嘲笑っているかのように。



