推し活の朝は早い。
「朝だよ、起きて! 今日も、あなたに会えるの、楽しみに待ってるね!」
早朝五時。アラームに設定した推しの声援が、今朝も、俺、町家 灯の部屋中に鳴り響く。
「っん……ふあぁ~~っ」
生欠伸と共にベッドから起き上がると、早々に身支度を済ませ、静かに家を出る。
「行ってきます」の挨拶に返事はない。うちの家族はまだ寝ているのだ。
しかし、これが七時を過ぎたら話は変わる。
我先にと支度をする兄弟達と両親とのやり取りで、家中慌ただしくなる。
そんな騒がしい中で、俺の推し活はやりにくい。
推しは、定期的に朝七時から朝活として配信をしている。
それを、一言一句聞き漏らさぬように集中して、かつ生配信で観たい、聴きたい。
目的を果たしたい俺は、早めに家を出ると、電車とバスでおよそ一時間ほど経由して、大学の近くにある、殆ど人気の無い桜庭公園に立ち寄っていた。
学校のグラウンド程の広さがあり、季節ごとに咲き誇る木々と花々が、外周の遊歩道脇を彩っている。その一角にあるテーブル付きのベンチに腰掛け、推しの配信を静かに満喫するのが、俺が朝の推し活をする時の習慣だ。
「やばっ、配信始まってる!?」
スマホで時刻を確認すると、朝活の配信が開始される時間になったところだった。
今朝はやたら赤信号に捕まってしまったのがいけなかったのだろう。
慌てて配信動画を流し見しつつ、イヤホンを耳にはめて聴き入りながら、小山の上にある公園に続く階段を足早にのぼる。
『おっはよーー! 姫宮コンだよーー! 今日も一緒に朝活しちゃおーー! 皆、今朝は何食べた? コンはねえ、あれっ! コンッと甘い苺ホイップロールケーキーー! 今、コラボして絶賛発売中だから、皆も食べてみてよね! 甘酸っぱいのが癖になっっちゃうの、美味しいよ!』
(ああ、間に合った、良かったあ……)
ケモ耳ふわふわしっぽを揺らし、巫女装束をまとう、見習いお狐神使のVTuver姫宮ミコ。
スマホの画面に映る推しの配信に釘付けになりながら、顔の筋肉を喜びに綻ばせた。
ご機嫌で歩を進めていると、突如、壁の様な何かと正面からぶつかる衝撃を感じた。
「んぐえっ!?」
スマホの画面に釘付けとなり、俯いていた俺の視線。目の前の誰かに向いたかと思えば、途端、よろけて後ずさった足が段を踏み外し、反転しそうな体が宙を舞った。
「……あっ!」
階段から転落しそうになった俺を、どうやら、間一髪、声の主が腕を掴んで引き寄せて、助けてくれたらしい。
肝を冷やした俺の心臓の動悸が鳴り止まない。
「っあ……っぶねえーー」
震えた声で一息吐くと、サバ折り状態で後ろに仰け反る上半身を起こした。
同時に、声の主が、掴んでいた腕ごと俺を強く引っ張り上げ、勢いのまま身体を引き寄せ抱きしめた。
そのおかげで、眼前に迫って現れた何者かとご対面した。
(……うっわーー、綺麗な顔ーー)
「あの、大丈夫ですか?」
整った面立ちに見惚れていると、心配されてしまった。
恐らく近しい年頃だろう青年を安心させようと、返事を返しながら、足元に視線を降ろす。
「はっ、はい、だっ、大丈夫で……」
慌てて相手の腕から逃れると、取りこぼした自分のリュックを見つけて手に取り引き上げようとした。
しかし、不自然な重みを感じて視線を戻すと、リュックの横にぶら下げていた推しのアクリルキーホルダーが、10キログラムと彫られた丸い鉄球の下敷きになっているのを発見した。
「え? あ……ああああああああーーっ!?」
叫び声をあげてその場にしゃがみ込んだ俺。
無残に割れて砕けた推しの残骸を、両手で掬い上げると全身を震わせた。
「えっ!? どっ、どうしたんですか!? どこか痛むんですか!?」
覗き込むようにして隣に屈んだ青年。
「姫宮コン、ファーストライブ迷宮ラビリンス会場限定販売アクキーがあああっ! 潰され、て、壊れ、て、こんなっ……うっ」
彼に状況を説明しながら、推しとの想い出の一部が走馬灯のように脳内を駆け巡り、俺はほんのり涙してしまった。
この推しのアクリルキーホルダーは、俺が高校受験を控えた中学三年生の時に開催された、推しの初ライブを観に行った際、直接入手したものだ。
以来、勉強机に置いては、受験勉強を見守ってもらい、励まされたり、高校生活を通して、日々、心の支えとなった、思い入れの深いお守りだった。
これまで、推しについて誰かに口外することは特になかったが、大学生となった現在では、思春期程の照れくささは薄れ、自室に置くのみならず、リュックに付け、さり気なく布教していた。それが仇になるとは。
それにしても、正直、涙が出るとは思ってもみなかった。
あるのが当たり前すぎて、失ってからどれほど大事に思っていたのかを知り、己の鈍さに驚いた。
「あっ、え? 姫みゃ……!? あっ……すみません! それ、俺のダンベルで……」
慌てつつ、申し訳なさそうに重りを掴んで避けると、青年は、未だに打ちひしがれる俺の猫背を、ポンポンと優しく励ましてくれた……ら良かったのだが、ボンボンと、やや力強く叩くものだから、俺はせき込みむせた。
「うっ……うえっほおっほっ……っちょ、っと、やめろって!」
人を太鼓のように鳴らし続ける青年の手を払うと、恨みを込めて睨んだ。
「どうしてくれるんだよ! 大事なものだったのに」
スマホを見ながら駆けあがっていた俺が悪いと分かっていた。ただの八つ当たりだとも。けれど、吐き出さずにいられなかった。
「すみません、あの、弁償します」
「代えのものは別物なんだよ、全く同じものは他にないし、代わりなんてないんだよお、っう……」
唇を噛みしめ俯く俺。込み上げる後悔が止まない。
いつものように、あまり人気のない公園で推しの朝活配信を楽しもうとやってきたら、まさかダンベルを持った男に推しを壊されるなんて……ん? ダンベル?
「あの、俺、どうしたら……」
顔を上げた俺は、青年の姿をまじまじと見つめた。
薄茶色くて緩く猫毛の俺の毛髪とは対照的な、芯の強そうな漆黒の直毛が、そよ風に揺られている。かち合うと射抜かれそうな鋭い眼光の上に困り眉を乗せたおでこには、薄っすらと汗が滲んで見えた。軽く開いた口をへの字に曲げ、戸惑ったまま、二の句が継げないでいるようだ。
ここまでなら、健気な青年だと思えただろう。
けれど、ランニングウェアからはみ出た地肌の部分は、首と名のつくそこかしこ、皆、逞しかった。
思えば、先程、衝突した時も、抱き締められた時も、どうにも硬かった。
そして、ダンベル。
着痩せでもするのか、この一見細い外見の癖に、頑丈に整った身体で、ダンベルという名の鈍器を持った男が、頭上から見下ろしている。ナニコレ、詰んだ?
(――あかん、殺られる!)
言い争って下手をしたら退治されそうだと恐怖を感じた俺は、ヒュッと一息吸い込むと、か細く返事を返した。
「……いい……許す」
「え? 何て?」
「いいって、もういいよ……気にしないでください」
「や、でも」
「俺の方こそ、前、見ずにぶつかって。助けてくれたのに、すいませんでした」
じゃあと、別れを告げて背を向けると、引き止めようとした青年を振り返ることなく駆け下り去った。早くその場から離れたかった。
「ってことがあってさーー」
大学のゼミの教室で、早速、今朝のダンベルマンとの出来事を友人達に打ち明けた。
「推し潰されるのとかマジ無理なんだけど? ってか、ダンベル持ってんの何なん? 怖えんだけど! 危ねえからその公園もう行かんどきーー?」
と、大人気アイドルグループ《ルーナヴィス》箱推しの家庭教師佐波多 元に、共感と心配をされた。
「だよな、そうなるよな――」と、うなずき返していると、
「お前は、よく前を見ずに突っ走ってることがあるからな。これに懲りて気をつけるんだぞ」
と、ファンタジーなキャラクター《ぽわぽむむ》と文房具推しの喫茶店店員高梨 宗治から、注意された。
「へーい。ってか、公園寄れないんだよな、どうしよっかな、どっか朝活出来るとこないかなあーー」
「うちも実家だし、朝は灯ん家と一緒で、家族でごった返してるから無理なんよねえ。宗治は?」
「うちは寮だから、寮生以外は原則立ち入り禁止だな。カフェやフリースペースでも行けばいいだろう?」
「いやあ、出来れば金使わずに行けるとこがいいんだけどなあーー。その分を課金したいし。うーーん」
行き場を思いつかず唸っていると、教室に教授が入室して来て、講義が始まった。
二人とは、大学に入学して同じゼミ生として知り合ってからの付き合いだ。二年になった今も同じゼミを履修しており、学校帰りにカラオケに寄ったり。長期休みにはテーマパークへ泊りがけで旅行したりもしていて、お互いの推しのことも共有し合っている仲だ。
良い奴らで、俺は恵まれているなあと思う。けれど、時々、ふと思う。
同じ推しを推したあーーいっ!!
どうせ行くなら、推し達とコラボしたテーマパークやカラオケ店に行って、思う存分共に推しを摂取して推しトークを繰り広げたり満喫したいな、と。
いや、二人とそういうところに行かない訳では無い。
むしろ、互いの推し関連のイベントに参加したりもしている。
けれど、推しが被っていないので、それぞれの推しを一方通行で語ることになる。
なので、一人で推すだけじゃなく、誰かと直接オフ会がしたいな、と。
ネットで知り合うでも、イベントで知り合うでも、勇気を出せば出来るのだろう。
けれど、そういう未知に踏み出すには小心者だった俺。
気心の知れた誰かと、同じくらいの熱量を持って、推しを推せたらいいのにな、と、密かに一人、憧れ続けていた。
「はあーーっ」
大学から徒歩圏内にあるバイト先のラーメン屋【朱華亭】にて。
閉店時刻の迫る夜分。客足も途絶え、炊事場の洗い物をこなしつつ、今朝のことを思い起こしては落ち込む俺。
ダンベルマン、もとい、あの人の好さそうな青年は、あれから自責の念に囚われて、落ち込んだりしているんだろうか。
随分とお粗末な態度をとってしまった。そこは反省している。
(けど、推しを壊されたんだぞ? いや、わざとじゃないし、でも何だよダンベルって。あんなの凶器じゃん。言い返せねえよ……。でも、階段から落っこちそうになったの、助けてくれたし、悪い奴ではないんだろうけど……。あ――、くそっ!)
納得できず、解消されないモヤモヤとした気分を抱え、本日、もう何度目とも分からないため息を吐くと、深くうな垂れた。
「何だあ? 辛気臭えなあ、町家あーー、どうしたあ?」
店長の堂前さんが、片づけを粗方済ませたようで、話しかけてきた。
「試験の結果が悪かったかあ? シフト減らしてもいいんだぞお?」
「それは駄目っす! 推しのライブに参戦するんで! 遠征費と、グッズ代と、あと、新規のボイスに、コラボカフェに……とにかく、お金は一杯いるんです! 休んでられませんよ!」
「派遣で、色々掛け持ちだっけなあ? 学生時分に何かに夢中になるのは良い経験だと思うがよおーー、青春っつったら、ダチと遊んだりもしとけよお?」
「遊んでますよ、たまには」
「なら良いんだがよおーー。よし、そろそろあがれよお、バス間に合いそうかあ?」
「うっす! 大丈夫っす!」
店長の合図を皮切りに、バックヤードに身支度を整えに行く。早々に着替えると、再び店長に挨拶をした。
「お疲れっしたーーっ!」
「おおーーっ、気をつけてなあーー」
店の外は、出勤した頃の夕焼けの空模様から一転、すっかり暗い夜空に様変わりしている。
精一杯背伸びをすると、日中より少しばかり冷えた夜の空気を肺一杯吸い込む。そうして、今日も頑張ったなと、やり遂げた気分を味わった。もう一呼吸すると、星々に見守られる中、俺は道路沿いを小走りに駆けた。
(帰ったら、アクキー接着剤で引っ付けなきゃな。んで、明日は朝活配信無くて、講義が一限からだし、昼からは空いてるから、図書館でレポートまとめて、それから夕方のバイトまでは……)
バス停の手前にある信号機で、青に変わるのを待ちながら考え事に集中していた俺。そのうち、トントンと肩を叩かれつつ、「あの、すいません」と何度も呼びかけられていることに気がついた。
「はい?」
振り返ると、やや背の高い青年がこちらを見下ろしていた。
「あのっ、今朝、姫宮コンのアクキー、俺のダンベルで壊れた人ですよね?」
「えっ? あ……、ああーーっ!」
もう会うことはないと思っていた、ダンベルマンが現れた。
「たまたま見かけて、もしかしたらと思って……やっぱり、そうだった」
「ど、どうも」
気まずい。一体何を話せばいいのだろう。もやもやした気持ちが込み上げつつ、目を泳がせていると、ダンベルマンは、両手で俺の両腕を掴んだ。
「わっ!」
「やっぱり、弁償させてください! あれは、貴方の大事なモノなんですよね? それに見合った対価は受け取って良いと思います」
「や、だから、いいんですって、もう。仕方なかったし」
「それじゃあ申し訳ないです」
「それって、金払って自分の気を良くしたいだけなんじゃないですか?」
「え?」
「無かったことには出来ないんですよ。その申し訳なさを抱えることが、対価ですよ」
痛い。直球の言葉が自分にも刺さる。
自分の油断から壊してしまって、推しに対して申し訳ないし、こうして何度も謝らせて、罪悪感を抱かせていることが心苦しい。
かといって、思い入れのあるモノを、想い出を、お金で量られるのも、それで済まされるのも癪だった。結局、意地なのだろう。
「あ……っ……」
無言で視線を彷徨わせるダンベルマンの手を振り払った。
「ほんと、もう、いいんで。俺も、ぶつかってすみませんでした。あと、落っこちそうなの、助けて頂いて、ありがとうございました」
きっと今度こそ、もう会うこともないだろう。そう思いつつ、俺は「じゃあ」と言い残して振り返った。
すると、丁度バスがバス停から発車するところだった。
「あっ! ちょっ、待って、乗るって!」
信号は赤なので渡れず。車が行き交う中、バスが走り去るのを見送った。
「あ、ああーーっ、最終便、行っちまったああーーっ! げえっ、帰れねえーーっ! どうしよーーっ!」
絶望した俺は、両手で頭を抱え、その場に崩れた。
地方の山間部にある大学の周りには田畑が広がっており、朝まで開いているファミレスやカラオケにネットカフェや宿も存在していない。そういうのは、都市部の中心街に集まっていた。
この時の俺は、初めて最終バスを逃した衝撃と、ダンベルマンとのやりとりに困惑して、家族に車で迎えに来てもらったり、堂前さんに頼んでラーメン屋に泊めてもらうということを思いつかないでいた。
「あの……うち、こっから近いんで。良かったら、泊まっていきませんか?」
「え?」
打ちひしがれている俺に助け船を出したのはダンベルマンだった。
「いや、ほんと、良かったらなんですけど……俺、一人暮らしで、部屋、狭いし散らかってますけど、外で寝るよりはいいかなって」
「いや、そんな……」
(今日出会ったばっかで、こんな因縁持った見ず知らずの相手と一晩過ごすなんて……)
「このまま放って帰るのは、ちょっと……」
「でも……」
「良かったら、姫宮ミコセカンドライブ、キツネツキライフを観ながら、語れたら、何て……」
「……ん?」
「確か、コンッと甘い苺ホイップロールケーキ、冷蔵庫に冷やしてるから、一緒に食べながら観れたらなあ、なんて……」
「んん!?」
「でも、急に誘われても、嫌ですよね。それじゃあ、お気をつけて……」
「待って! ひょっとして……」
気になる文言を言い残して立ち去ろうとするダンベルマンを引き止めると、俺は質問を投げた。
「ミコニャーー!?」
「ハイニャーー!」
ミコニャーとは、姫宮ミコの配信を見ているリスナーの通称で、呼びかけられると、コメントで一斉にハイニャーと答えるのがお決まりであった。
つまり、ダンベルマンは、姫宮ミコの視聴者なのだろう。
(同士かあーーっ!?)
「あのっ! やっぱり、今晩、お世話になってもいいですか?」
「はいにゃーーっ!」
嬉しそうに笑うダンベルマン。一気に警戒心が解けた俺は、ダンベルマンのお宅に一晩泊めてもらうことにした。
「清瀬 流さん?」
清瀬さんの住むマンションの一室に入室する直前、部屋番号の隣に貼られた名札を読み上げた。
「ながれ、って読みます。どうぞ」
「へえ。あ、俺、灯、町家 灯です。灯台の灯って書いて、あかりです。どうも。お邪魔します」
ここに来るまでの道中、姫宮ミコトークを繰り広げ、すっかり意気投合した俺達。
清瀬さんは、俺とは別の大学に通う三年生。
大学受験の時に、姫宮ミコの配信を見かけて励まされて以来、推しているらしい。
「そのへん、適当に座ってて。えっと、町屋君。珈琲と緑茶があるんだけど、飲める? どっちがいい?」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、緑茶お願いします」
リビングに進み、部屋中を見渡すと、小綺麗に片付いた部屋の一隅に、姫宮コングッズが飾られていた。
「おお、祭壇! ミコぬいに、アクキーに、誕生日フォト! 同じの持ってます!」
ソファに腰掛けて祭壇を眺めていると、しばらくして、清瀬さんがテーブルにお茶とロールケーキを配ってくれた。
「あ! コンッと甘い苺ホイップロールケーキ! 食って良いんですか?」
「うん。何個か買ってるんだ。美味しいよね、さ、食べよ」
「ありがとうございます。頂きます……あつっ!」
「あっ、お茶、湧き立てだから、気をつけてねって、遅かったかあ。ごめんね」
「いや、大丈夫っす。んぐっ。あー、この甘い苺ホイップがロールケーキと合うんだあー、美味しーい!」
ご機嫌に笑う俺につられて、清瀬さんも微笑んだ。
(やっぱりこの人、美人さんだなあ)
「こないだ出た新規ボイスも良かったよね、ミコのだもんって拗ねるとことか」
「え? ああ、可愛かったですよね、あれ」
再び、姫宮ミコトークに花を咲かせた俺達。それから、ライブのアーカイブを一緒に観た後、交代で風呂に入ったり、歯を磨いたりして身支度を済ませ、眠る頃合いを迎えた。
「こっち、寝室かな?」
リビングの隣にある部屋の扉を開けようとした俺の手が、後ろから伸びてきた清瀬さんの手に捕まれた。力加減が強くて痛い。
「そこ、開けないでくれる?」
風呂上がりで血流が良くなったのか、血走った眼をした清瀬さんに背後に立たれて睨まれた。
「ヒッ」
振り返って直視した俺は、湯冷めと肝を冷やして震えだした。それを見た清瀬さんは、俺の手を放すと、謝った。
「ごっ、ごめん……痛かった?」
「……ちょっと、痛かった」
しょ気る俺の手を両手で包んだ清瀬さんは、痛いの痛いの飛んでけーーと唱えて、優しく撫でてくれた。
「どう? 痛いの無いなった?」
「……無いなった、です」
「良かったあーー」
心底ほっとした清瀬さんが、安心して微笑んだ。つられた俺も笑った。
その一連のやりとりが何だか可笑しくて、胸がほっこり温かくなった。
(何だ、この人、可愛いな)
「この部屋はね、ちょっと、その、散らかってたりするんで、見ないで欲しいんだ」
「あーー成程……」
照れくさそうに赤面して告げる清瀬さんを見て、俺は察した。
恐らく、ゴミが散乱していたり、見られたくないものが溜まっていたりするんだろう。
「分かりました、見ないでおきますね」
「うん。お願いね」
「はい」
「絶対ね」
「はい」
「約束だよ?」
「はい」
少し無言の間を置いてから、よし! と一息、奮起して、二人でテーブルを避けると、布団を敷いた。
「町家君は布団で寝てね。俺はソファで寝るね」
「いやいや、俺がソファで寝ますって! 清瀬さんが布団で寝て下さいよ!」
「いや町家君が……」
「いや清瀬さんが……」
しばらく問答が続いて、結局、ジャンケンで決めた。俺が布団になった。
「じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
消灯して、暗闇の中、俺は目を瞑った。
(最初、出会った時は最悪だったけど……清瀬さんがいい人で、出会って良かったな……)
本日起こった事を振り返りながら浸っていると、やがて、静かに眠りに就いていた。
翌朝、意識を覚ました俺の目の前に清瀬さんが転がっていた。
「ーー???」
寝ぼけ眼を擦っていると、同じく目覚めた清瀬さんが欠伸をしながら大きく伸びをした。
「ふぁあーーっ、あ、おはよーーっ」
「おはようございます?」
「あれ? 町屋君? 何で隣で寝てるの?」
「それはこっちが聞きたいです」
お互い上半身を起こすと、部屋を見渡した。
「ソファから転げ落ちたんだね、俺」
「っぽいっすね……ぶふっ」
清瀬さんの寝癖が面白くて吹き出してしまった。
「え? 何?」
「いや、その、髪、癖強くて」
「そんな変かなあ?」
丸ごと逆立つ頭髪を見続けられず、俺は布団を抜け出した。
(やばいな、この人、推せる)
にやける俺を余所に、一限に遅刻しないよう、慌てて朝食と身支度を済ませた。それに合わせて、清瀬さんも準備をしてくれた。
二人で並んで桜庭公園の近くまで歩いた。
清瀬さんは、ここらへんで、朝、不定期に運動しているらしい。
「昨日で懲りて、ダンベルは家でやることにしたよ」
背中のリュックを叩きながら、中にダンベルを入れていないアピールをしてきた清瀬さん。
「そうしてください」
「うん。じゃあ、また近々連絡するね」
「はい、それじゃ」
清瀬さんと別れて大学への道を歩きがてら、俺は今朝のことを振り返った。
朝活配信を公園で観ている話をしたら、清瀬さんは、彼の家に観に来てはどうかと提案してくれた。
流石にそれは甘え過ぎだろうと遠慮したが、とりあえず、これから一週間試してみないかと誘われ、俺は、やってみることにした。
信号待ち中、交換した清瀬さんの連絡先を確認していると、通知が入った。
「あ、せなべえ、あのゲームやるんだ、楽しみ!」
それは、もう一人の推しである、配信者せなべえの、配信予定のお知らせだった。
楽しみが増えた俺は、信号が青に変わると、横断歩道をご機嫌な足取りで渡り、大学へと向かった。
帰宅した清瀬は、町家に入る事を禁じた部屋の扉を開けた。
顔に大きめのマスクを着けて、パソコンを再起動させると、馴れた手つきで準備を済ませ、配信を開始した。
「こんちは。お前ら、今日も生きてっか? せなべえだ。それじゃ、いっちょ、一狩り行きますかあ!」
「朝だよ、起きて! 今日も、あなたに会えるの、楽しみに待ってるね!」
早朝五時。アラームに設定した推しの声援が、今朝も、俺、町家 灯の部屋中に鳴り響く。
「っん……ふあぁ~~っ」
生欠伸と共にベッドから起き上がると、早々に身支度を済ませ、静かに家を出る。
「行ってきます」の挨拶に返事はない。うちの家族はまだ寝ているのだ。
しかし、これが七時を過ぎたら話は変わる。
我先にと支度をする兄弟達と両親とのやり取りで、家中慌ただしくなる。
そんな騒がしい中で、俺の推し活はやりにくい。
推しは、定期的に朝七時から朝活として配信をしている。
それを、一言一句聞き漏らさぬように集中して、かつ生配信で観たい、聴きたい。
目的を果たしたい俺は、早めに家を出ると、電車とバスでおよそ一時間ほど経由して、大学の近くにある、殆ど人気の無い桜庭公園に立ち寄っていた。
学校のグラウンド程の広さがあり、季節ごとに咲き誇る木々と花々が、外周の遊歩道脇を彩っている。その一角にあるテーブル付きのベンチに腰掛け、推しの配信を静かに満喫するのが、俺が朝の推し活をする時の習慣だ。
「やばっ、配信始まってる!?」
スマホで時刻を確認すると、朝活の配信が開始される時間になったところだった。
今朝はやたら赤信号に捕まってしまったのがいけなかったのだろう。
慌てて配信動画を流し見しつつ、イヤホンを耳にはめて聴き入りながら、小山の上にある公園に続く階段を足早にのぼる。
『おっはよーー! 姫宮コンだよーー! 今日も一緒に朝活しちゃおーー! 皆、今朝は何食べた? コンはねえ、あれっ! コンッと甘い苺ホイップロールケーキーー! 今、コラボして絶賛発売中だから、皆も食べてみてよね! 甘酸っぱいのが癖になっっちゃうの、美味しいよ!』
(ああ、間に合った、良かったあ……)
ケモ耳ふわふわしっぽを揺らし、巫女装束をまとう、見習いお狐神使のVTuver姫宮ミコ。
スマホの画面に映る推しの配信に釘付けになりながら、顔の筋肉を喜びに綻ばせた。
ご機嫌で歩を進めていると、突如、壁の様な何かと正面からぶつかる衝撃を感じた。
「んぐえっ!?」
スマホの画面に釘付けとなり、俯いていた俺の視線。目の前の誰かに向いたかと思えば、途端、よろけて後ずさった足が段を踏み外し、反転しそうな体が宙を舞った。
「……あっ!」
階段から転落しそうになった俺を、どうやら、間一髪、声の主が腕を掴んで引き寄せて、助けてくれたらしい。
肝を冷やした俺の心臓の動悸が鳴り止まない。
「っあ……っぶねえーー」
震えた声で一息吐くと、サバ折り状態で後ろに仰け反る上半身を起こした。
同時に、声の主が、掴んでいた腕ごと俺を強く引っ張り上げ、勢いのまま身体を引き寄せ抱きしめた。
そのおかげで、眼前に迫って現れた何者かとご対面した。
(……うっわーー、綺麗な顔ーー)
「あの、大丈夫ですか?」
整った面立ちに見惚れていると、心配されてしまった。
恐らく近しい年頃だろう青年を安心させようと、返事を返しながら、足元に視線を降ろす。
「はっ、はい、だっ、大丈夫で……」
慌てて相手の腕から逃れると、取りこぼした自分のリュックを見つけて手に取り引き上げようとした。
しかし、不自然な重みを感じて視線を戻すと、リュックの横にぶら下げていた推しのアクリルキーホルダーが、10キログラムと彫られた丸い鉄球の下敷きになっているのを発見した。
「え? あ……ああああああああーーっ!?」
叫び声をあげてその場にしゃがみ込んだ俺。
無残に割れて砕けた推しの残骸を、両手で掬い上げると全身を震わせた。
「えっ!? どっ、どうしたんですか!? どこか痛むんですか!?」
覗き込むようにして隣に屈んだ青年。
「姫宮コン、ファーストライブ迷宮ラビリンス会場限定販売アクキーがあああっ! 潰され、て、壊れ、て、こんなっ……うっ」
彼に状況を説明しながら、推しとの想い出の一部が走馬灯のように脳内を駆け巡り、俺はほんのり涙してしまった。
この推しのアクリルキーホルダーは、俺が高校受験を控えた中学三年生の時に開催された、推しの初ライブを観に行った際、直接入手したものだ。
以来、勉強机に置いては、受験勉強を見守ってもらい、励まされたり、高校生活を通して、日々、心の支えとなった、思い入れの深いお守りだった。
これまで、推しについて誰かに口外することは特になかったが、大学生となった現在では、思春期程の照れくささは薄れ、自室に置くのみならず、リュックに付け、さり気なく布教していた。それが仇になるとは。
それにしても、正直、涙が出るとは思ってもみなかった。
あるのが当たり前すぎて、失ってからどれほど大事に思っていたのかを知り、己の鈍さに驚いた。
「あっ、え? 姫みゃ……!? あっ……すみません! それ、俺のダンベルで……」
慌てつつ、申し訳なさそうに重りを掴んで避けると、青年は、未だに打ちひしがれる俺の猫背を、ポンポンと優しく励ましてくれた……ら良かったのだが、ボンボンと、やや力強く叩くものだから、俺はせき込みむせた。
「うっ……うえっほおっほっ……っちょ、っと、やめろって!」
人を太鼓のように鳴らし続ける青年の手を払うと、恨みを込めて睨んだ。
「どうしてくれるんだよ! 大事なものだったのに」
スマホを見ながら駆けあがっていた俺が悪いと分かっていた。ただの八つ当たりだとも。けれど、吐き出さずにいられなかった。
「すみません、あの、弁償します」
「代えのものは別物なんだよ、全く同じものは他にないし、代わりなんてないんだよお、っう……」
唇を噛みしめ俯く俺。込み上げる後悔が止まない。
いつものように、あまり人気のない公園で推しの朝活配信を楽しもうとやってきたら、まさかダンベルを持った男に推しを壊されるなんて……ん? ダンベル?
「あの、俺、どうしたら……」
顔を上げた俺は、青年の姿をまじまじと見つめた。
薄茶色くて緩く猫毛の俺の毛髪とは対照的な、芯の強そうな漆黒の直毛が、そよ風に揺られている。かち合うと射抜かれそうな鋭い眼光の上に困り眉を乗せたおでこには、薄っすらと汗が滲んで見えた。軽く開いた口をへの字に曲げ、戸惑ったまま、二の句が継げないでいるようだ。
ここまでなら、健気な青年だと思えただろう。
けれど、ランニングウェアからはみ出た地肌の部分は、首と名のつくそこかしこ、皆、逞しかった。
思えば、先程、衝突した時も、抱き締められた時も、どうにも硬かった。
そして、ダンベル。
着痩せでもするのか、この一見細い外見の癖に、頑丈に整った身体で、ダンベルという名の鈍器を持った男が、頭上から見下ろしている。ナニコレ、詰んだ?
(――あかん、殺られる!)
言い争って下手をしたら退治されそうだと恐怖を感じた俺は、ヒュッと一息吸い込むと、か細く返事を返した。
「……いい……許す」
「え? 何て?」
「いいって、もういいよ……気にしないでください」
「や、でも」
「俺の方こそ、前、見ずにぶつかって。助けてくれたのに、すいませんでした」
じゃあと、別れを告げて背を向けると、引き止めようとした青年を振り返ることなく駆け下り去った。早くその場から離れたかった。
「ってことがあってさーー」
大学のゼミの教室で、早速、今朝のダンベルマンとの出来事を友人達に打ち明けた。
「推し潰されるのとかマジ無理なんだけど? ってか、ダンベル持ってんの何なん? 怖えんだけど! 危ねえからその公園もう行かんどきーー?」
と、大人気アイドルグループ《ルーナヴィス》箱推しの家庭教師佐波多 元に、共感と心配をされた。
「だよな、そうなるよな――」と、うなずき返していると、
「お前は、よく前を見ずに突っ走ってることがあるからな。これに懲りて気をつけるんだぞ」
と、ファンタジーなキャラクター《ぽわぽむむ》と文房具推しの喫茶店店員高梨 宗治から、注意された。
「へーい。ってか、公園寄れないんだよな、どうしよっかな、どっか朝活出来るとこないかなあーー」
「うちも実家だし、朝は灯ん家と一緒で、家族でごった返してるから無理なんよねえ。宗治は?」
「うちは寮だから、寮生以外は原則立ち入り禁止だな。カフェやフリースペースでも行けばいいだろう?」
「いやあ、出来れば金使わずに行けるとこがいいんだけどなあーー。その分を課金したいし。うーーん」
行き場を思いつかず唸っていると、教室に教授が入室して来て、講義が始まった。
二人とは、大学に入学して同じゼミ生として知り合ってからの付き合いだ。二年になった今も同じゼミを履修しており、学校帰りにカラオケに寄ったり。長期休みにはテーマパークへ泊りがけで旅行したりもしていて、お互いの推しのことも共有し合っている仲だ。
良い奴らで、俺は恵まれているなあと思う。けれど、時々、ふと思う。
同じ推しを推したあーーいっ!!
どうせ行くなら、推し達とコラボしたテーマパークやカラオケ店に行って、思う存分共に推しを摂取して推しトークを繰り広げたり満喫したいな、と。
いや、二人とそういうところに行かない訳では無い。
むしろ、互いの推し関連のイベントに参加したりもしている。
けれど、推しが被っていないので、それぞれの推しを一方通行で語ることになる。
なので、一人で推すだけじゃなく、誰かと直接オフ会がしたいな、と。
ネットで知り合うでも、イベントで知り合うでも、勇気を出せば出来るのだろう。
けれど、そういう未知に踏み出すには小心者だった俺。
気心の知れた誰かと、同じくらいの熱量を持って、推しを推せたらいいのにな、と、密かに一人、憧れ続けていた。
「はあーーっ」
大学から徒歩圏内にあるバイト先のラーメン屋【朱華亭】にて。
閉店時刻の迫る夜分。客足も途絶え、炊事場の洗い物をこなしつつ、今朝のことを思い起こしては落ち込む俺。
ダンベルマン、もとい、あの人の好さそうな青年は、あれから自責の念に囚われて、落ち込んだりしているんだろうか。
随分とお粗末な態度をとってしまった。そこは反省している。
(けど、推しを壊されたんだぞ? いや、わざとじゃないし、でも何だよダンベルって。あんなの凶器じゃん。言い返せねえよ……。でも、階段から落っこちそうになったの、助けてくれたし、悪い奴ではないんだろうけど……。あ――、くそっ!)
納得できず、解消されないモヤモヤとした気分を抱え、本日、もう何度目とも分からないため息を吐くと、深くうな垂れた。
「何だあ? 辛気臭えなあ、町家あーー、どうしたあ?」
店長の堂前さんが、片づけを粗方済ませたようで、話しかけてきた。
「試験の結果が悪かったかあ? シフト減らしてもいいんだぞお?」
「それは駄目っす! 推しのライブに参戦するんで! 遠征費と、グッズ代と、あと、新規のボイスに、コラボカフェに……とにかく、お金は一杯いるんです! 休んでられませんよ!」
「派遣で、色々掛け持ちだっけなあ? 学生時分に何かに夢中になるのは良い経験だと思うがよおーー、青春っつったら、ダチと遊んだりもしとけよお?」
「遊んでますよ、たまには」
「なら良いんだがよおーー。よし、そろそろあがれよお、バス間に合いそうかあ?」
「うっす! 大丈夫っす!」
店長の合図を皮切りに、バックヤードに身支度を整えに行く。早々に着替えると、再び店長に挨拶をした。
「お疲れっしたーーっ!」
「おおーーっ、気をつけてなあーー」
店の外は、出勤した頃の夕焼けの空模様から一転、すっかり暗い夜空に様変わりしている。
精一杯背伸びをすると、日中より少しばかり冷えた夜の空気を肺一杯吸い込む。そうして、今日も頑張ったなと、やり遂げた気分を味わった。もう一呼吸すると、星々に見守られる中、俺は道路沿いを小走りに駆けた。
(帰ったら、アクキー接着剤で引っ付けなきゃな。んで、明日は朝活配信無くて、講義が一限からだし、昼からは空いてるから、図書館でレポートまとめて、それから夕方のバイトまでは……)
バス停の手前にある信号機で、青に変わるのを待ちながら考え事に集中していた俺。そのうち、トントンと肩を叩かれつつ、「あの、すいません」と何度も呼びかけられていることに気がついた。
「はい?」
振り返ると、やや背の高い青年がこちらを見下ろしていた。
「あのっ、今朝、姫宮コンのアクキー、俺のダンベルで壊れた人ですよね?」
「えっ? あ……、ああーーっ!」
もう会うことはないと思っていた、ダンベルマンが現れた。
「たまたま見かけて、もしかしたらと思って……やっぱり、そうだった」
「ど、どうも」
気まずい。一体何を話せばいいのだろう。もやもやした気持ちが込み上げつつ、目を泳がせていると、ダンベルマンは、両手で俺の両腕を掴んだ。
「わっ!」
「やっぱり、弁償させてください! あれは、貴方の大事なモノなんですよね? それに見合った対価は受け取って良いと思います」
「や、だから、いいんですって、もう。仕方なかったし」
「それじゃあ申し訳ないです」
「それって、金払って自分の気を良くしたいだけなんじゃないですか?」
「え?」
「無かったことには出来ないんですよ。その申し訳なさを抱えることが、対価ですよ」
痛い。直球の言葉が自分にも刺さる。
自分の油断から壊してしまって、推しに対して申し訳ないし、こうして何度も謝らせて、罪悪感を抱かせていることが心苦しい。
かといって、思い入れのあるモノを、想い出を、お金で量られるのも、それで済まされるのも癪だった。結局、意地なのだろう。
「あ……っ……」
無言で視線を彷徨わせるダンベルマンの手を振り払った。
「ほんと、もう、いいんで。俺も、ぶつかってすみませんでした。あと、落っこちそうなの、助けて頂いて、ありがとうございました」
きっと今度こそ、もう会うこともないだろう。そう思いつつ、俺は「じゃあ」と言い残して振り返った。
すると、丁度バスがバス停から発車するところだった。
「あっ! ちょっ、待って、乗るって!」
信号は赤なので渡れず。車が行き交う中、バスが走り去るのを見送った。
「あ、ああーーっ、最終便、行っちまったああーーっ! げえっ、帰れねえーーっ! どうしよーーっ!」
絶望した俺は、両手で頭を抱え、その場に崩れた。
地方の山間部にある大学の周りには田畑が広がっており、朝まで開いているファミレスやカラオケにネットカフェや宿も存在していない。そういうのは、都市部の中心街に集まっていた。
この時の俺は、初めて最終バスを逃した衝撃と、ダンベルマンとのやりとりに困惑して、家族に車で迎えに来てもらったり、堂前さんに頼んでラーメン屋に泊めてもらうということを思いつかないでいた。
「あの……うち、こっから近いんで。良かったら、泊まっていきませんか?」
「え?」
打ちひしがれている俺に助け船を出したのはダンベルマンだった。
「いや、ほんと、良かったらなんですけど……俺、一人暮らしで、部屋、狭いし散らかってますけど、外で寝るよりはいいかなって」
「いや、そんな……」
(今日出会ったばっかで、こんな因縁持った見ず知らずの相手と一晩過ごすなんて……)
「このまま放って帰るのは、ちょっと……」
「でも……」
「良かったら、姫宮ミコセカンドライブ、キツネツキライフを観ながら、語れたら、何て……」
「……ん?」
「確か、コンッと甘い苺ホイップロールケーキ、冷蔵庫に冷やしてるから、一緒に食べながら観れたらなあ、なんて……」
「んん!?」
「でも、急に誘われても、嫌ですよね。それじゃあ、お気をつけて……」
「待って! ひょっとして……」
気になる文言を言い残して立ち去ろうとするダンベルマンを引き止めると、俺は質問を投げた。
「ミコニャーー!?」
「ハイニャーー!」
ミコニャーとは、姫宮ミコの配信を見ているリスナーの通称で、呼びかけられると、コメントで一斉にハイニャーと答えるのがお決まりであった。
つまり、ダンベルマンは、姫宮ミコの視聴者なのだろう。
(同士かあーーっ!?)
「あのっ! やっぱり、今晩、お世話になってもいいですか?」
「はいにゃーーっ!」
嬉しそうに笑うダンベルマン。一気に警戒心が解けた俺は、ダンベルマンのお宅に一晩泊めてもらうことにした。
「清瀬 流さん?」
清瀬さんの住むマンションの一室に入室する直前、部屋番号の隣に貼られた名札を読み上げた。
「ながれ、って読みます。どうぞ」
「へえ。あ、俺、灯、町家 灯です。灯台の灯って書いて、あかりです。どうも。お邪魔します」
ここに来るまでの道中、姫宮ミコトークを繰り広げ、すっかり意気投合した俺達。
清瀬さんは、俺とは別の大学に通う三年生。
大学受験の時に、姫宮ミコの配信を見かけて励まされて以来、推しているらしい。
「そのへん、適当に座ってて。えっと、町屋君。珈琲と緑茶があるんだけど、飲める? どっちがいい?」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、緑茶お願いします」
リビングに進み、部屋中を見渡すと、小綺麗に片付いた部屋の一隅に、姫宮コングッズが飾られていた。
「おお、祭壇! ミコぬいに、アクキーに、誕生日フォト! 同じの持ってます!」
ソファに腰掛けて祭壇を眺めていると、しばらくして、清瀬さんがテーブルにお茶とロールケーキを配ってくれた。
「あ! コンッと甘い苺ホイップロールケーキ! 食って良いんですか?」
「うん。何個か買ってるんだ。美味しいよね、さ、食べよ」
「ありがとうございます。頂きます……あつっ!」
「あっ、お茶、湧き立てだから、気をつけてねって、遅かったかあ。ごめんね」
「いや、大丈夫っす。んぐっ。あー、この甘い苺ホイップがロールケーキと合うんだあー、美味しーい!」
ご機嫌に笑う俺につられて、清瀬さんも微笑んだ。
(やっぱりこの人、美人さんだなあ)
「こないだ出た新規ボイスも良かったよね、ミコのだもんって拗ねるとことか」
「え? ああ、可愛かったですよね、あれ」
再び、姫宮ミコトークに花を咲かせた俺達。それから、ライブのアーカイブを一緒に観た後、交代で風呂に入ったり、歯を磨いたりして身支度を済ませ、眠る頃合いを迎えた。
「こっち、寝室かな?」
リビングの隣にある部屋の扉を開けようとした俺の手が、後ろから伸びてきた清瀬さんの手に捕まれた。力加減が強くて痛い。
「そこ、開けないでくれる?」
風呂上がりで血流が良くなったのか、血走った眼をした清瀬さんに背後に立たれて睨まれた。
「ヒッ」
振り返って直視した俺は、湯冷めと肝を冷やして震えだした。それを見た清瀬さんは、俺の手を放すと、謝った。
「ごっ、ごめん……痛かった?」
「……ちょっと、痛かった」
しょ気る俺の手を両手で包んだ清瀬さんは、痛いの痛いの飛んでけーーと唱えて、優しく撫でてくれた。
「どう? 痛いの無いなった?」
「……無いなった、です」
「良かったあーー」
心底ほっとした清瀬さんが、安心して微笑んだ。つられた俺も笑った。
その一連のやりとりが何だか可笑しくて、胸がほっこり温かくなった。
(何だ、この人、可愛いな)
「この部屋はね、ちょっと、その、散らかってたりするんで、見ないで欲しいんだ」
「あーー成程……」
照れくさそうに赤面して告げる清瀬さんを見て、俺は察した。
恐らく、ゴミが散乱していたり、見られたくないものが溜まっていたりするんだろう。
「分かりました、見ないでおきますね」
「うん。お願いね」
「はい」
「絶対ね」
「はい」
「約束だよ?」
「はい」
少し無言の間を置いてから、よし! と一息、奮起して、二人でテーブルを避けると、布団を敷いた。
「町家君は布団で寝てね。俺はソファで寝るね」
「いやいや、俺がソファで寝ますって! 清瀬さんが布団で寝て下さいよ!」
「いや町家君が……」
「いや清瀬さんが……」
しばらく問答が続いて、結局、ジャンケンで決めた。俺が布団になった。
「じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
消灯して、暗闇の中、俺は目を瞑った。
(最初、出会った時は最悪だったけど……清瀬さんがいい人で、出会って良かったな……)
本日起こった事を振り返りながら浸っていると、やがて、静かに眠りに就いていた。
翌朝、意識を覚ました俺の目の前に清瀬さんが転がっていた。
「ーー???」
寝ぼけ眼を擦っていると、同じく目覚めた清瀬さんが欠伸をしながら大きく伸びをした。
「ふぁあーーっ、あ、おはよーーっ」
「おはようございます?」
「あれ? 町屋君? 何で隣で寝てるの?」
「それはこっちが聞きたいです」
お互い上半身を起こすと、部屋を見渡した。
「ソファから転げ落ちたんだね、俺」
「っぽいっすね……ぶふっ」
清瀬さんの寝癖が面白くて吹き出してしまった。
「え? 何?」
「いや、その、髪、癖強くて」
「そんな変かなあ?」
丸ごと逆立つ頭髪を見続けられず、俺は布団を抜け出した。
(やばいな、この人、推せる)
にやける俺を余所に、一限に遅刻しないよう、慌てて朝食と身支度を済ませた。それに合わせて、清瀬さんも準備をしてくれた。
二人で並んで桜庭公園の近くまで歩いた。
清瀬さんは、ここらへんで、朝、不定期に運動しているらしい。
「昨日で懲りて、ダンベルは家でやることにしたよ」
背中のリュックを叩きながら、中にダンベルを入れていないアピールをしてきた清瀬さん。
「そうしてください」
「うん。じゃあ、また近々連絡するね」
「はい、それじゃ」
清瀬さんと別れて大学への道を歩きがてら、俺は今朝のことを振り返った。
朝活配信を公園で観ている話をしたら、清瀬さんは、彼の家に観に来てはどうかと提案してくれた。
流石にそれは甘え過ぎだろうと遠慮したが、とりあえず、これから一週間試してみないかと誘われ、俺は、やってみることにした。
信号待ち中、交換した清瀬さんの連絡先を確認していると、通知が入った。
「あ、せなべえ、あのゲームやるんだ、楽しみ!」
それは、もう一人の推しである、配信者せなべえの、配信予定のお知らせだった。
楽しみが増えた俺は、信号が青に変わると、横断歩道をご機嫌な足取りで渡り、大学へと向かった。
帰宅した清瀬は、町家に入る事を禁じた部屋の扉を開けた。
顔に大きめのマスクを着けて、パソコンを再起動させると、馴れた手つきで準備を済ませ、配信を開始した。
「こんちは。お前ら、今日も生きてっか? せなべえだ。それじゃ、いっちょ、一狩り行きますかあ!」
