猫と一緒なら天国はいらない

 幽霊になって初めに感じたのは『安心』だった。
 僕は死にたくて死にたくて、そして死にたくなかったから。

 線路の上に、僕であったものが倒れている。
 倒れている、というのは語弊があるだろうか。
 残っている。僕であったものが残っている。
 それを僕は、線路脇で見詰めている。特に恐怖は感じない。ホラー映画は苦手で全然観ないし、魚を捌くこともできないのに、僕は僕を見ても恐怖も、拒絶からの吐き気も覚えなかった。
 ただそこにある物を、その辺の風景と同じ感覚で見詰めている。
 いわゆる人身事故というもので、近くには正面を赤で汚した電車が停まっている。運転士の姿はもう無い。僕とぶつかった時に恐慌を起こし、ホームから慌ててやってきた駅員に連れられていった。駅員は線路を覗き込み、慄くこともなく「あーあ」と辟易した様子で言って運転士の背を支えてホームの階段を下りていった。
 運転をしていた彼には申し訳ないと思う。
 でも僕は、安心してしまったから。
 安心したことからくる申し訳なさはあっても、やってしまったことへの後悔は無い。
 無い――筈だった。

 にゃあ、と、声がした。
 猫の声だ。どこかの野良猫だろうか。沿線に住む家の飼い猫だろうか。
「これを見てしまった猫がトラウマになったら申し訳ないな……」
 少しだけ反省する。
 しかし『あの時』の僕には周囲を確認している余裕も気遣いもなかった。ましてや、近くに猫がいるかどうかなんて。
「にゃあ」
 また、声がした。どこからだろうか。何か、聞き覚えがあるような。
 猫の声なんて、猫(だれ)でも同じだと思うのだが、明らかに聞き覚えのある、懐かしい声のような。
「本当だよ」
 と、誰かが言った。幼い子供の声なのに、大人びた響きがある。というかまさか、僕の声が聞こえたのか。幽霊の声が、聞こえたのか。一体誰なんだ。
「ここだよ」
 周囲を見回す僕の正面から、また声がする。
「……?」
 訝しみながら正面を見ると、反対路線の線路の脇に、猫が前肢を綺麗に揃えて佇んでいた。長毛の白い猫だ。肢の先だけ靴を履いたように茶色く、アルビノではなく黒い目をしている。
 似たような特徴の猫は他にもいるかもしれないが、僕が知っている中でこの猫は世界に一匹であり。
「泡雪?」
 僕がその名前を口にすると、猫は真っ直ぐにこちらへと歩いてくる。
「そうだよ、希望(のぞみ)、ボクは君の飼い猫の泡雪だよ」
 ――半年前に死んだ筈の、泡雪(あわゆき)が。
「ボク、トラウマになっちゃったよ」

 全く平気そうな調子でそう言った泡雪は、僕の足元で立ち止まった。
「どう責任取ってくれるの?」
「え? それは……」
 どう答えればよいか分からなくなって、僕の答えは尻すぼみになった。お互い生きていれば、最後まで一緒にいるよと迷いなく言えたのだが、僕達にはもう、命が無いのだ。
 こんな話をしている間に、生きた人の世界も動いている。大体の人々は僕であったものを避けて、ホームの向こう側に移動していた。だが数名、物珍しさと好奇心からか、僕であったものの姿を電子機器で記録している人達もいた。記録された僕はどうなるのだろうか。SNSに上げられ、顔も知らぬ人同士の雑談のはけ口になるのだろうか。
「ボクはまた、ノゾミと話せて嬉しいけどさ。でも、ノゾミと話せて嬉しくないよ」
 全く反対のことを言う。
 さっき僕が、死にたいけど死にたくなかったと思ったように。運転士に対して申し訳ないと思っても後悔はしなかったように。
 生き物は、全く反対のことを考え、口にすることがある。でもそこに矛盾はなくて、つまり僕は、泡雪の伝えたいことがよく解った。
「ボク、ノゾミには幸せに暮らしてほしかったのにな。ノゾミは、幸せじゃなかったの?」
「僕は……」
 見上げてくる泡雪の目にあるのは純粋な疑問で、残念とか悲しいとか、怒りという感情は見られなかった。
 しゃがみこみ、白猫の頭を撫でる。
「勿論、泡雪と一緒の毎日は幸せだったよ。でも、僕一人になってからは、幸せじゃなかったかもな」
「それは……ボクが死んじゃったから?」
 そこで初めて、泡雪が悲しそうな顔になる。猫にも表情はあって、毎日一緒に暮らしているうちに見分けられるようになる。
「こうなってからも、ボクはずっとノゾミの側にいた。ノゾミは家で毎日、ごはんを食べて、夜は寝て、いつも通りに生きていたじゃないか。幸せだったじゃないか」
 泡雪は訴えてくる。にゃおおぉーん、と泣くように鳴いた。彼と言葉を交わすのは当然初めてだが、同居していた頃に抱いていたイメージと同じ喋り方で、少し笑ってしまう。
 笑ったのなんて、半年ぶりだ。
「……違うんだ。泡雪。猫はそれで充分に幸せを感じるかもしれないけど、人間の幸せの価値はそれだけじゃないんだ」
「ちがうの?」
「そう、ちがう」
 猫に合わせて、何だかひらがなっぽい話し方になった。
「僕に人間としての価値が無いからだよ。僕自身も価値がないと思ってる。だから、幸せじゃなかったんだ」
「ボクにはこんなに価値があるのに?」
 泡雪の言葉には、つい苦笑してしまう。
 目の前では、僕だったものの回収と掃除が始まっている。
 僕は泡雪を抱き上げて立ち上がった。
「うん、だから泡雪がいた時は幸せだったよ」

 最初に泡雪が声を掛けてきた位置まで行き、彼を一度ホームに放す。自らはホームによじ登り、待っていた白猫をまた抱き上げる。
「幽霊なのに宙を浮いたりできないなんて、不便だな」
 歩く先には、電車が再び動くのを待つ人々がいる。駅員から遅延証明書を貰ったり、次の電車について問い詰めたり、携帯電話で何かを話したりしている。人混みの中で独り言を呟くというのは奇異であり非常識だが、今の僕には関係ない。
「その気になれば浮けるよ」
「え、早く言ってほしかったな」
 だったら、いったん泡雪を放す必要もなかったのに。浮けないものだと思い込んでしまっていた。幽霊の先輩に尋ねればよかった。
「浮く必要がないし、いつも通りに過ごす方が落ち着くからあんまり浮かないんだよ。それは人間の幽霊もそうで、浮いてる人間はたまにしか見ないよ」
 確かに、僕もホームを登るなんていう必要に迫られなければ浮ければいいのにとか思わなかったかもしれない。その幽霊は、何を思って浮こうと思ったのだろうか。
 ベンチに座って、泡雪の背を撫でる。ふわふわとして、不思議と温かかった。可愛らしい顔を間近で見ていると、やっと愛猫と再会できたのだという感慨が湧いてきた。さっきは突然の展開を受け止めるだけで、情緒が死んでいたのだ。
 何せ、死ぬ前から僕の心は死んでいたのだから。
 幽霊になったからってすぐに生き返るわけもない。
「淡雪……」
 両目から涙が溢れて、流れた。
 会いたくて会いたくて、たまらなかった。
 もう二度と会えないと思っていたのに、死んでからまた会えるなんて、こんな奇跡が起きるなんて夢のようだ。
「会えて良かった。すごくすごく、会いたかった」
「だからボクは、まだ会いたくなかったよ。それはさ、何を話しかけても聞こえないし見えないっていうのは寂しかったけどさ……」
 泡雪の声が震える。寂しさを思い出したからだろうか。
 一人と一匹の前では、スーツ姿の男性が苛々した声を出している。
「くそっ! 遅刻じゃねーか。人身事故とか人の迷惑を考えろよ」
 そんなに仕事がしたいのだろうか。人身事故なんて彼らにとっては不可抗力だ。堂々とサボれる機会なのに。
「ここで人が死んだのに、誰も悲しんでくれないんだね。知らない相手だからかな」
 泡雪がしょんぼりとしている。しかし人はそんなものだ。そして、猫の世界でもそこは大きく変わらないだろう。
「たとえ僕を知ってる人でも、悲しんだりはしないと思うよ」
「なんで? ノゾミはとっても優しくていいやつだよ」
 つぶらな黒い瞳が僕を見上げる。悪意というものを何も知らない、純粋な瞳が。
「そうだね……僕の話を聞いてくれる? 生きていた頃、僕が何を考えていたのか。あまり楽しい話じゃないけれど……」
「うん。聞くよ。ノゾミが幸せと思えなかった理由、知りたいよ」
 1日は始まったばかりで、ホームから見える空には薄い水色が広がっている。生きている時は大嫌いだった空だが、今は悪くないなと思えた。
「わかった」
 その空を見ながら、僕は僕について話し始めた。

           □□□□

 僕は正社員として働いたことがない。
 パートで、週五日の一日八時間勤務だ……だった。パートというのは主婦の人が扶養内で働く手段だ、と大体の人は認知していると思う。しかし、フルタイム勤務のパートも存在する。フルタイムでアルバイト勤務も存在し、そこに違いがあるかといえば特にない。時給制で、八時間勤務であるという、それだけ。パートだろうがアルバイトだろうがそこには『軽い』イメージがある。短時間勤務なら確かにそうだろう。けれど、フルタイムである場合はそこに『軽さ』はない。拘束時間は正社員と一緒であり、残業もある。残業を断れば評価が下がり、周囲から排斥されることもあるし飲み会もある。社会保険にも入っている。
 正社員と違うのは『権利』と『賞与』だ。
 パートやアルバイトは業務を行える範囲が狭く、業務全体の内容が把握できない。だからこそ責任を伴わない楽な仕事だと思われている節があるが、僕から見ればそれは権利の剥奪に過ぎない。知りたいことを教えてもらえないという感覚の方が強い。
 そして賞与。これがあるかないかで社会からの信用も人間としての誇りも現実的な生活水準も天と地ほど変わってくる。
 恨み言だと唾棄されれば否定はできない。
 これは恨み言であり、強烈な羨望でもある。
 インターネットでは、独身で一人暮らしならパートではなく正社員になればいい。正社員にならないのはお前の選択だろうという意見を見る。
 だが、そうではない。
 正社員に『なれない』、『選ばれない』のだ。
 僕はお世辞にも立派な履歴の持ち主ではない。最終学歴も高卒だ。正社員募集に応募しても相手にされない。正社員登用制度のある会社でパートとして採用されて何年働いても、僕が登用されることはない。
 なぜかというとそれはきっと、僕が変だからだ。
 変だから。

 自分のどこが変かというのを自分で説明するのは難しい。
 変だと分かっていれば直すことができる。直せないから、変なのだ。だから僕のどこがどう、ではなくて僕を取り巻く環境を説明していくしかない。
 僕は未だかつて、同窓会というものに呼ばれたことがない。
 学校というコミュニティの中で、僕が特殊で忌むべき存在だったからだ。反抗的だったとか法律に反したことをしたとかそういうことではなく、僕が普通だと思っていたことが普通じゃなかったり、トラブルへの対処方法が突拍子もなかったり、と小さい頃からそんな感じだったので、その積み重ねで人から相手にされなくなり、相手にされる時は好意的なものではなく悪意的なもので、そういった時には子供ながらに暴れてみたりもしたので、ますます周囲からは相手にされなくなっていった。
 その時は自覚していなかったが、人は悪意を向けられた時は暴れたり反抗してみるのが大事だと、大人になってから知った。前者の場合は厄介者として遠巻きにされ、後者の場合は意外に人格が認められたり、手や口を出されなくなったりするからだ。
 物理的に悪意を向けられるより、嫌悪だろうが何だろうが無関心でいられる方がずっといい。ただ椅子に座って、日々を一人で過ごせばいいのだ。

「ノゾミが暴れるなんて、想像もつかないな」
 と、泡雪が言った。
「そりゃね、理由がなきゃ暴れないよ」
「今でも、悪意を向けられたら暴れる?」
「うーん、そうだね……」
 僕はちょっと考える。
「暴れはしないけど、敵意や、相手が嫌いだという気持ちは伝わるように行動するよ。僕が反抗できない、気弱な性格だと思われるのが一番良くないからね」
「あ、それはちょっとわかるよ。猫の世界と同じだね」
 泡雪の声が跳ねる。何だか嬉しそうだった。
「泡雪は、猫と争ったことはないだろう?」
 彼はペットショップ出身でまっすぐ僕の家に来たから、縄張り争いとかボス猫争いとかとも無縁のはずだ。
「そうだけど、本能ってやつでわかるんだよ。そういうのが大事だって。ボクも同じ状況になったら、きっと同じことをするよ。猫として」
「猫として……か」
 僕は笑った。
「僕達、よく似てるんだね」

 私立受験をしなければ、義務教育期間は学区内の公立学校に通うことになる。クラス替えというシャッフルがあるものの九年間は殆ど同じ顔ぶれだ。希望のようなあぶれ者は学年全体に噂が広がっていて、こちらが知らなくても相手にはよく知られていたり、相手が知らなくても希望を知っている誰かがあいつはああでこうでと、どんなやつか吹き込んだりして、人間関係をイチから構築するのは難しいし自分の『性質』を偽って友人を作ることも難しい。
 九年間は同じ関係、同じ立場で過ごすしかないのだ。
「僕はいじめられていたわけじゃない。相手にされていなかっただけで排斥されていたのでもない。あ、でも……僕に近付いちゃいけないみたいな空気はあったな。やっぱり排斥されていたのかな」
 にゃぁぁん……
 膝に載った泡雪が、心細そうに、鳴く。三角耳がぺたんと折れた。駅のホームに目を遣っている。喋るつもりはなさそうで、混乱が収まってきた人々を眺めている。
「ただ座っているだけでいい環境でも、孤独感や圧迫感はある。教室にいる限り僕が異物であるということを常に自覚し続けることになる。苦痛とまではいかないし慣れるけど、居心地は悪いし、早く帰りたいと思うんだ」
「確かにそれは、幸せそうじゃないね」
 泡雪は、ホームにいる人々に首を向けたまま、長い尻尾を持ち上げて、びたんと下ろした。尻尾の根本が太ももに当たるが、痛みはない。幽霊には痛覚がないのだろうか。ほわりとした温かみだけが感じられる。
「学校を変えればいいんじゃないかな。猫が縄張りを変えるみたいに」
「……そうだね、そうできればいいんだけど……」
「できないのか?」
 まん丸の瞳で僕を見上げ、泡雪は小さく首を傾げる。
「さっき話した通り、義務教育期間中は通う学校を選べない。私立に編入するという手段もあるけど、学力が高くないと入れないし、卒業するまでにはたくさんのお金がかかる。うちは貧乏だったし……それに、僕は両親に、孤立していると話してなかった」
「じゃあ、餌が取れなくても縄張りを変えられないのか。それは大変だね」
「餌……?」
 ちょっと何を言っているのかわからない。
「同じ縄張りの猫から認められないと餌場でごはんは取れないからね」
 学校とは縄張りみたいなもので、そこで認められないと幸せにはなれないんだよね。でも、移動もできないなら飢えてしまう。それなら、学校の友達というのは餌と同じくらい大事なものなんじゃないかなって――と、泡雪は言った。
「餌と同じくらい大事、か」
 僕は苦笑してしまう。餌と友達を同列に扱うのは随分と暴力的だけれど、泡雪の言葉は的を射ていた。
「そうかもしれないな」
 今思えば、不登校になれば良かったのかもしれない。餌のない、息苦しくストレスが溜まるだけの場所に行き続ける必要もなかった。
 ――いや、僕は両親に学校での自分を教えていなかった。友達を連れてきたことも友達の話をしたこともなかったから何かしら察していたかもしれないが、学校での様子を問われたことはなかった。不登校になればその全てがバレてしまう。そんな勇気を、僕は持ち合わせていなかった。
「ばっかじゃないの」
 そんな話をしていたら、唾を吐き捨てるような忌々しそうな声がした。女の子の声だ。
(……何だ?)
 僕達の姿は誰も見えない。電車待ちをする誰かの独り言だろうと思いつつ、『ばっか』という罵倒が自分に向けられたもののような気がして視線を巡らせる。
 電車の運行ダイヤは未だに乱れていたものの、人々はもう真顔で乗車口に並んでいる。その中で、先頭に並ぶ制服女子が線路側を背にして立っていた。黄色い線の外側に立ち、僕を睨みつけている。
 他の人達とは違う彼女の振る舞いを注意する者はいない。皆が例外なくスマートフォンをいじっている。
「うっ……」
 僕は呻いた。一番苦手なタイプだ。学校では常にスクールカースト上位にいる、ギャルという存在。
「……うっ」
 だが、次のうっ、は拒否感から出たものではなく、驚きからの声だった。泡雪が「にゃっ」と鳴き僕の膝から下りる。
 電車がホームに入ってくる。
 制服女子は、背中からまっすぐに線路に倒れて、視界から消えた。

           □□□□

「あっ……」
 希望はベンチから立ち上がる。一瞬のような短い時間に、様々な考えが浮かんでは消える。
 助けないと。無事ならいいけど。あのタイミングで無事なわけがない。手遅れだ。この駅で、このホームで。今日二度目の人身事故が起こったのだ。人身――あれ?
 ホームの様子に変わりはない。
 電車は予定通りの位置で停車し、乗車口前で二列に並んで待っていた客が、順番に中に乗り込んでいく。悲鳴を上げる人も、逃げ出す人もいない。ルール通りに動く、日常の光景が広がっている。
「…………?」
 辻褄の合わない状況に理屈をつけられないでいると、泡雪が振り返って「にゃー?」と鳴き、続けて言う。
「どういうことだろう」
「さあ……」
「あんたの話さ、聞いてると苛々すんだよね」
 泡雪が分からないのに僕に分かるわけがないと思っていると、泡雪の後ろにさっきの制服女子が現れた。怪我一つなく、服に汚れもついていない。彼女は泡雪を抱き上げて、背中を撫でる。
「んー、なめらかで湿ってる感じするー。幽霊に湿り気とかあんだ?」
 少女は幸せそうにしていて、僕に向けていた刺々しさは霧散してしまっている。
「幽霊って……まさか君も幽霊なのか?」
「は? 今更? 気付くの遅っ!」
 少女の刺が復活した。
「幽霊じゃなかったら轢かれて死んでるっつーの。もう死んでたから無事だったの。あっ、ちょっと!」
 泡雪が少女の腕の中で暴れて抜け出し、濃灰色の地面に着地して白い毛を逆立たせた。フーッ、と威嚇する。
「え、なんか傷つく……」
「な、なんであんなことを……? 何を考えて……」
「なんでって、あんたの話がムカついたから」
 悲しそうだったのが一気に強気になる。僕は怯んだ。ギャルの、このずけずけと遠慮のないところが苦手であり、怖くもあった。びっくり箱を前にしたような怖さもあったし、ああ、これから悪口を言われるんだなと肌感で分かるからだ。
「そんなことで死んだのかって。周りが構ってくれなかったとかいうガキみたいな理由で死んだのかってムカついて。それなら、あたしが死のうとしたらどうするのかなって、演ってみたわけ」
「それは、ちが……違うよ。ガキみたいな理由じゃない。もっと……」
 僕の話はまだ中学までだ。大人になってからも色々あったんだ。子供の頃と基本は――基本は変わらないまでも、生の価値が下がっていく日々があったんだ。
 もっと……もっと、重いんだ。
「あんたは、びびって人と向き合おうとしなかっただけじゃん。ダチを作ろうともしないで勝手に嫌われてると思い込んで、自分から壁作って縮こまってただけでしょ。それで被害者面されてもね。ちゃんと話しかければ、たのしー学校生活だったかもしれないのに」
「そんなわけない」
「そんなことある!」
「そんなわけないんだ。君みたいなカースト上位には分からない。そんなレベルじゃないんだ!」
 つい叫んでしまうと、ホームがしんと静まり返った。生きている人達の耳にまで僕の声が聞こえたかのような静寂だった。泡雪が僕の足に体を擦り付けてくる。慰めてくれているのか。
「……でも、あんた今、あたしにはっきり言いたいこと言ってんじゃん」
 僕は顔を上げる。制服女子はつり上がった冷めた目で僕を見ている。
「学校でも、そうすれば良かったんじゃないの」
「違うんだ……話しかけても、ダメなんだ。僕はどこまでも、異物なんだよ。どうしようもないんだ」
 また俯いた僕は、みじめな気持ちになっていた。人生の勝ち組であろう彼女に僕の苦しみは分からない。人生の勝ち組――
 ――ん?
 何かが、引っ掛かった。
「ふーん」
 無関心そうな声が聞こえる。彼女は何故、幽霊の僕と話しているんだ? それは彼女も幽霊だからで、髪を染めて制服をアレンジして、ジャラジャラとアクセサリーをつけて、クラスのカースト上位で――
 何故。
 勝ち組が、何故、こんな格好で死んでるんだ?
「分かるよ」
 予想外の言葉が、飛んできた。
「話しかけることでめんどいことになったり、失敗して立場が悪くなることもある。そういうの、よく見たよ」
「よく見た……自分で経験はしてないんだな」
 皮肉を込めて言うと、彼女は僕を一瞥してから歩き出した。
「あたしは夢女(ゆめ)。来なよ。幽霊の世界を教えてやる」
 僕は、立ったままそこを動かなかった。僕には泡雪がいればいい。一人と一匹で毎日平和に過ごせればいい。過去に一緒に暮らした猫達がいればもっといいけれど、贅沢は言わない。
 彼女についていく理由はない。彼女が離れれば離れるだけ、僕の心は軽くなっていく。
「行かないの?」
 と泡雪が言った。
「ノゾミ、ボクはノゾミが幸せだと思ってた。今の話はボクと出会う前のことだけど、それでもノゾミが幸せじゃないのが嫌だった」
 僕を見上げて、泡雪は話し続ける。
「だからボクは、幽霊になってからでもノゾミに幸せになってほしい。彼女は何だか、そのヒントを持っている気がしたんだ」
「…………」
 僕は泡雪を抱き上げる。僕の幸せは猫と一緒にいることだけだ。他には、何もいらない。他の幸せに興味はない。
 けれど――
 彼女の死因が気になって、彼女が教えるという『幽霊の世界』が気になって。
 僕は彼女を――夢女を追いかけた。

 改札を出る少し前の位置で立ち止まり、夢女は斜め上に首を上向けた。何を見ているのだろうと視線を追った先に、電光掲示板がぶら下がっている。上り線と下り線それぞれに次の電車の時刻が表示されていて、『人身事故の影響で電車に遅れが出ております』という一文が下の段で流れている。
「何だか、罪悪感があるな」
 さっきは遅れた分はサボればいいのにと思ったし、パートをしていた時の僕は仕事が大嫌いで苦痛でしかなかったから、電車が止まればいいのにといつも思っていた。けれど、僕の所業でどれだけの人に迷惑を掛けたのかと思うと、罪悪感があった。
「あんた、暇な時に何を見てた? スマホじゃない?」
 電光掲示板を見上げたまま、夢女が言う。
「ああ、うん……そうだね」
 本を読んだりする時もあるけれど、スマートフォンを見ている時が多い。メッセージアプリを使う機会もない。メールも届かない。電話も来ない。でもスマートフォンを見てしまうのは、暇つぶしであり、そこに居る自分の居場所を作るためでもあった。僕はこれに用があります。人と交流しているし、あなた達と同じですと示すためだ。それと同時に、人を遮断するための行為でもある。実際に見てしまうのは、ニュースサイトやトレンドワードのランキング――
「そうすっとさ、出てくるじゃん。人身事故に対するみんなの愚痴が」
「そうだね」
 その通りだから、僕は「そうだね」以外の言葉を持たない。僕が死んだ後に見たホームの人々の反応が、そのまま電子に流れている。
「だったら分かるでしょ。死ぬ程追い詰められた人のことなんて誰も考えない。そんでね」
 高校の制服に身を包んだ彼女は、ミニのプリーツスカートを翻してホームを顧みた。
「こいつらもどこかで誰かを、死ぬ程追い詰めてるんだ。こいつらだって加害者みたいなもんだよ。そして、自分のことしか考えてない」
 淡々としているその声には、しかし、確かな忌々しさがあった。
「死ぬやつも、自分のことしか考えてない。みんな自分のことしか考えてない。おあいこじゃない?」
「…………」
 そうかもしれない。
 でも、そうだねとは言えなかった。僕はお人好しなのだろうか。
「あんたも今、自分のことしか考えてない。悪いと思ってるんじゃなくて、自分が責められるのが怖いだけ」
「そんなことは……」
 ない、という反論に自信が持てずに、口を閉ざす。夢女はまた、電光掲示板を見上げた。
「今の時間、学校も会社も大体始まってるよ。でも、駅にはたくさんの人が居る。人の生活なんて、案外ね、型に嵌まったもんじゃないんだ」
 仏頂面ではあったが、励ましてくれようとしているのだと分かった。僕の行動を「ばっかじゃないの」と言いながらも、長々と色々と喋って、気にするなと伝えようとしている。
 黙ったままの僕に、夢女は言った。
「……まあ、ここでは劣等感を持つ必要なんてないよ。幽霊の世界には、不幸なやつしかいないんだから」
「不幸なやつしか……?」
 僕の足元にいる淡雪がふわあっとあくびをした。退屈そうだった。
「死んだんだから不幸だよ。ほら、あれ見て」
 細い指が差す先を見る。そこには、今までなぜ気付かなかったのかと思う程に黒い、もやもやとした塊があった。
 人の背丈と同じくらいの、黒い塊。
「あれがね、絶望した幽霊の成れの果てだよ」
 塊は動かない。ただ、そこに存在している。虚無の中に、悲しみと苦しみと恨みを抱いて。
「あんたは、これからどうしたい? 絶望する? それとも――絶望しない?」