しばらくしてから、青志は瑠璃を担いで「家に帰る」と言い出した。俺は「送るよ」と声をかけたが、「危ないだろ?」と言い返されて何も言えなくなった。
俺は瑠璃よりも青志よりも弱いただの人間だ。しかも瑠璃を付け狙う妖怪に、瑠璃を殺すために利用されようとしている。情けなくて思わず俯いた。
「なんだか、申し訳ないな。お前にはいつも世話になってばっかりだ」
もう俺は母さんのことを何も知らなかった時には戻れない。知らないフリをして父さんを責めない自信はなかった。
青志のことも、責めたってしょうがないことはわかっているのに。
大人気ないなとため息をついた。
公園から伸びる階段を降りると、目の前は自宅のリビングになっていた。
「は?」
今までいた公園は姿かたちもなく、一瞬にしてワープしたようにそこが家のリビングになっていた。
テレビやテーブルが置いてある部屋だが、父親が滅多に帰らないことで俺は自分の部屋で食事をしたり、くつろいだりしている。だからリビングは父さんが帰った時以外使わない。
それなのに、リビングには明かりが灯されている。電気は切れかかっているようで、点滅を繰り返していた。
……父さんがいるのだろうか?
それなら青志がここにいるのはまずいかもしれない。俺は青志の方を振り返った。
「これはどうなっているんだ?」
青志は鋭く点滅を繰り返すリビングの奥のドアをにらみつけているだけで、動こうとはしなかった。
開け放たれたドアの向こうには、椅子に座って上機嫌な父親がビール片手に女の人と話していた。
「覚か……?」
呟いた青志の声で、それが覚であることがわかった。
「ねぇ、祐樹さん。可愛いでしょ? この子が青志よ」
覚はシーツにくるまれた泥で作られた人形をまるで生きているかのように、大事に、大事に抱えている。馬鹿にしてる。そんな人形を人だと思うわけがない。
思うわけがないのに――。父さんはこういって笑った。
「……かわいいな」
「なに、いってんの?」
いつからか口も効かなくなっていた父さん、そんな父さんが発した言葉が信じられなくて声が出た。何年ぶりになるかわからないその問いかけに、びくともしないで、父さんはその泥人形を撫ぜている。
「花世」
父親のこんなに幸せそうな顔を見たことがなかった。
そんな様子を尻目に、母さんに化けた覚が薄気味悪くせせら笑い、地を這うような低い声で、俺たちに向かってこう言った。
「殺せ。殺せよ。その大事に抱えた化物を。じゃないとこの男、どうするかわからないよ?」
俺たちは何もできず、距離を縮めることもせずに覚を睨むことしかできない。まさか父親を人質に取られるなんて思いもしなかった。いいや、取られることなら想像できたのに、父親との距離が遠すぎて考えが及ばなかったのだ。
「……あなたの望む通り、私は死ぬよ」
青志の背中から声が聞こえた。瑠璃だ。
「私の血はもう、壱岐の中にあるもの」
その時、青志が大きな声をあげた。
「血を、飲ませたっていうのか……!?」
「ええ」
瑠璃は諦めたように笑う。全てを諦めて泣いているみたいに笑う。
「どういうことだ?」
一人事情が読み込めない俺は瑠璃の方を見つめて、話の全体の説明を求めた。
「鬼は食った魂を持つ人間に自分の血を飲ませると、体の中にある魂が分裂を始めるの。魂が壱岐を思い出して元の体に戻ろうとするから。これで、壱岐は死なない。私が死ぬから」
瑠璃の顔は顔面蒼白で、息も絶え絶えだった。それでも笑おうとする瑠璃を見て、俺は泣きそうになった。
「なんでなんだよ。なんで、自分のことじゃなく俺のことなんだ!?」
声を張り上げて聞いても、瑠璃は悲しそうに笑うだけだ。
(喰わないし愛さない。私はその人と一緒にいたいから、その人を殺さない)
思い出した言葉に、その行動に、その強さに、瑠璃に、俺はどうしようもなく泣きたくなった。
「じゃ、お前は今、壊れかけなんだね」
覚はそんな俺たちの様子も構わず父さんを突き飛ばすと、瑠璃に襲いかかってきた。
そのスピードと気迫に青志は一瞬身を竦ませてしまったようだった。妖芽に殺された怨念なのか、鬼に対する憎しみなのかわからない。わからないが、覚は憎悪に染まった顔つきで瑠璃に襲いかかってきたのだ。
それでも一歩、瑠璃には届かなかった。ポタリ、ポタリと血が垂れる。俺の腕からあの時みたいに激痛が走る。覚の爪が俺の腕を裂いた。深く傷が付いた腕からは大量に血が流れる。
「……」
覚は無言で自分の胸を見た。白い妖刀が、自分の心臓に深く突き刺さっているのをじっと眺めている。
ポタリ、ポタリと俺の腕から覚の血も流れていく。
「お前、俺が瑠璃を好きかって聞いたろ? どうやら、その通りらしい」
深く突き刺した妖刀が赤く染まる。肉をさいた刃の感覚はおそらく一生忘れることはないだろう。俺は初めて命を殺したのだから。
青志が目を見開いてこっちを見ている。それだけじゃない。父さんはまだ覚が母さんにでも見えているのか、この世の終わりのような顔をして膝をついたまま、立ち尽くしている。
覚は、無表情のまま俺に手を伸ばしてきた。
「私を殺すのは、あの子じゃなかった」
手を伸ばそうとしたが、覚の手は砂塵のように崩れ落ちた。そうして体も腕も足も、全て砂塵と化して、目玉だけがゴロゴロとフローリングに転がった。
それをみた青志は、我に返ったように急いで転がった目玉を踏み潰した。
「こいつが本体だ。体を得ればまた蘇る」
俺は呆然とそれを見て、ため息をついた。裂かれた腕に激痛が走る。
「俺の割には無茶したな」
そう独り言のように呟くと、青志は怒ったような顔をしてこういった。
「何を言ってるんだ、いつもじゃないか!」
父さんは砂になった覚に近づいて、うわ言のように呟いた。
「花世は結局、どこにも居ないのか……」
俺は憐憫の視線を投げかけることしかできなかった。母さんはいる。姑獲鳥になって生きている。でもそれをいったところで何になるっているんだ?
もう、あの頃と同じにはなれない。仲のいい家族に戻ることなんかできないんだ。
「 。母さんはもう居ないんだろうか?」
父さんは目線が定まらず、不安定で見てるこっちが嫌になった。
「……あんたのせいだろ?」
「 、母さんは……」
父さんは俺なんか見ず、ただ空に向かって話している。そんな父親に対してふつふつと怒りが湧き、抑えきれず叫んだ。
「あんたが何をしたかは知らない! 興味もなかった。なんでかわかるか? それだけ俺とあんたの関係が薄っぺらだったからだ! 今更愛情求める気なんかさらさらないよ。でも、あんたが家族に対して情を求めるなら、どうして青志を、母さんを、追い詰める様なことをしたんだ! どうして……母さんを信じてあげられなかったんだ!?」
初めてだった。そんな風に声を張り上げたのは。俺も本当は求めてたってことか、家族に対する情を。
父さんは少し黙って声を殺すようにすまない、すまなかったと泣き出した。俺は譲歩した。優しさなんて見せるつもりはなかったのに、父親の肩を優しく叩いた。
(キィー、キィー)
「花世」
青志が花世をみて呟く。いつの間にか母さんは家に来ていたようだった。
母さんは父さんの肩に乗ると、すり合わせるように身を寄せた。父さんは不思議と母さんを追い払うことはしなかった。そしてわからないはずのなのに、
「お前に怒られて今、初めて花世にようやく会えた気がするんだ」と呟いた。
俺の部屋に戻り、瑠璃をベッドに寝かせると青志が話し出した。
「……兄さん、ここからが本題だ。兄さんは本当に瑠璃の血を飲んだのか?」
俺が黙って頷くと、青志は椅子に座りながら「もう、取り返しがつかない」と独り言のように言った。
「いいか、瑠璃の血にはあなたの魂が混じってる。正確には前世だった頃、瑠璃に奪われた魂が。それを口にしたことで、均衡が完全に崩れた。もう、瑠璃の中で魂の崩壊が始まったんだ」
「どういうことだ?」
嫌な汗が背中を流れる。さっき、瑠璃が霞んで見えたのはもしかして瑠璃が消えかけているからなのか?
「瑠璃の中には二つの魂が存在している。一つは瑠璃の魂、二つ目は鬼の魂。そして鬼を抑えるための贄の肉体と魂の欠片。均衡が取れていた頃は、二つの魂は共存し合っていた。瑠璃の取り込んだ兄さんの欠片が鬼の魂に人間の理性を与えていたからだ。しかし均衡が崩れたことによって鬼の魂に理性がなくなった。兄さん魂の欠片を失った鬼は瑠璃を飲み込んで、生きようとするだろう。でも瑠璃は死んだ人間ではない。完全に飲み込むことはできない。そうすると、どうすると思う?」
青志は俺にわかるようにいうと、顔を曇らせた。俺もその話を聞いて最悪だと思った。
「瑠璃を殺そうとするのか?」
瑠璃はそれを知っていて俺に血を飲ませたんだ。それほどまでに瑠璃にとって、受け継がれてきた記憶は辛いものなんだってわかった。自分が消えてもいいと思うほど――。
「そうだ。瑠璃を殺して体を乗っ取ろうとする。もうそれは瑠璃じゃない。鬼神でもない。それはもうただの本能で暴れまわる意思のない化物だ」
瑠璃が意思のない化け物になる。組んでいた腕の力が強くなる。
「青志、瑠璃は自分の魂が消えたあとの鬼のことをどうするつもりだったんだ?」
疑問に思ったことを聞くと、青志は表情を曇らせた。一度口を開こうと動かせたが声を出さなかった。
「どうした?」
聞くと、青志がまた口を開いて今度は声を出してこういった。
「俺に……殺させるつもりだったんだろう。俺と瑠璃の契約はあくまで瑠璃とだけのもの。瑠璃の魂が死ねば俺は契約を解かれ自由になり、力を持ったまま鬼を殺せる。そしたら俺は鬼の一族を産んだ罪から解放される。ハッピーエンドってわけだ」
大きな音がした。手がじんと痛む。俺は無意識に遊具を手が痛むほど強く叩いていた。
「――ハッピーエンド?」
煮え返りそうな怒りの声が響いた。そう、ハッピーエンドなんかじゃない、そんなの誰一人、瑠璃でさえ本当は望んでいないのだ。
「ごめん」
青志は捨てられた動物のように消え入りそうな声で呟き、言った。
「あなたは、死んでも瑠璃を守りたいと思うか?」
そんなのは、本当はとっくに決まっていたんだ。
ここは俺が生きてきた世界だ。誰もいなかったんだ、俺の心には誰もいなかった。でも――手の届くところに瑠璃がいる。
本当はもう、わかってたんだ。
「……均衡が保てれば瑠璃は元のままでいられるんだな?」
俺が青志に聞くと地を這うような冷たく低い声が帰ってきた。
「何を考えている?」
俺は青志が怒っているのがわかった。当たり前だ。瑠璃のことをこれ以上まだ苦しめようとする俺のことを恨んだって、憎んだってしょうがない。
「瑠璃に俺を全部捧げる」
「兄さんは、本当に自分勝手だ。瑠璃がどれほどの決意をして、どれほど泣いてこの決断をしたか考えもしないんだな?」
さげずむようにいう青志に俺は問いかけた。
「お前は瑠璃の心から笑った顔が見たくないか?」
青志が目を見開いて俺を見た。そして火のついた導火線のように言った。
「俺がそれを望まないとでも? 俺は!」
その青志の言葉を遮って俺は言った。
「生き方は変えられない、何度も繰り返す。俺は人の気持ちを考えないんだ。けれど、いつも願ってきたよ。彼女がどうやったら笑ってくれるのか、そして今は彼女が生きてくれる方法を。なんだっていいんだ。なんだって願いたいんだ。可能性があるならかけたいんだ。俺はお前が瑠璃の一番身近にいて瑠璃の苦悩に一番触れてきたから、瑠璃の思うとおりにさせたいんだろう。けど、本当は違うよな? 俺を殺そうとしてまで瑠璃を守ろうとしたんだ。お前は瑠璃が好きなんだろう? だったら望めよ! もう後悔なんかしたくないんだ! お前も! 後悔する道なんか歩むな!」
俺が怒鳴り付けながら言うと、青志は小さく悪態を付いた。
そうして俺を恨めしそうな顔をして睨むと、呆れたように声を出した。
「……俺が協力できることは限られてる。……瑠璃との制約があるから。けどあなたに、壱岐兄さんに協力するよ。瑠璃を守るために」
俺は思わず青志の頭を乱暴に撫ぜてやった。つい青士郎の時の癖が出て、青志は少しだけうっとおしそうに俺の手を振り払った。
不機嫌そうな声に、少しだけ照れが隠れていることに気づいて俺は青志と昔に戻ったようにな感覚に陥った。
「瑠璃を人間戻すにはどうしたらいい?」
静かな声だった。自分で驚くぐらい、静かで強い声だった。
「瑠璃と……鬼の魂に同時に、この世界で一番望まないことを、つまりショックを与えればいい、それで魂は分離する……」
「俺は、瑠璃が好きだった。瑠璃が好きだったよ。瑠璃は俺を、……壱岐を想って笑ってくれて、あの頃と同じ、俺は瑠璃に救われていた。俺は何をしていても、誰といても、心の中が空っぽで誰かの幸せを祈ったこともない。人の温かみを、優しさを、本当に愛しいと思ったことがない。けど、変われた。瑠璃に――笑って欲しいんだ」
それが願える、それが俺にとっての幸せなんた。
「ごめん、俺はまた兄さんを助けられない、ごめん」
俺は捨てられた動物のように消え入りそうな声で呟き、言った。
「謝るなよ、謝るのは俺の方だろ? いつもお前に後始末ばっかりやらせてごめんな。瑠璃が本当は何を望んでいるか、分かりきっているのに――瑠璃を悲しませてごめんな」
そっと触れる大きな傷口は過去のものだ。俺と青志と瑠璃の、大きな傷。それでも、先に進めるなら。
俺は眠っている瑠璃を撫ぜた。瑠璃が望むこと、それは人間として生きて、哀しみをぬぐい去るように幸せになることだと思った。それを叶えてあげたい。それは何に変えても。
「壱岐……?」
俺たちの声に意識を取り戻したのだろうか、瑠璃は目を覚ました。体を起こそうとする瑠璃だが、その体は震えて動けないみたいだった。
もう崩壊が始まっていて体が自由に動かせないのだと思った。呆然とする瑠璃の頬に触れる。……冷たくて、一瞬泣きそうになった。
青志から奪い取るように、妖刀を取ると目を思い切りつぶって首を深く切った。血飛沫が上がる。悲鳴のような声を上げる瑠璃が桜子に見えて――思い出した。君は、どんな思いで死んだのかな?
必死に俺に手を伸ばし、泣きじゃくる瑠璃のように、笑ってはくれなかったよな? 傾く体からは力が抜けていく。
(死なないで!)
声が聞こえた。
瑠璃の声じゃない。誰の声? 意識が霞んでいく、体が分かれていく。だんだんと軽く、浮き上がるように……。
(あなたは本当に何もわかってない!)
その言葉が浮き上がるような感覚を奪い取った。体に痛みとずっしりとした重みが蘇ってくる。そうだ、この声は。
(母さん?)
目を開けているのか、閉じているのかわからない。何も見えない。手を伸ばして辺りを探ってみても何も掴めなかった。
声が聞こえなくなった。沈黙と見えない視界がだんだんと色づいていく。桜の下で、井塚川の河川敷に母は立っていた。
「ねぇ、 は今幸せ?」
彼女が責めるようにそう言った瞬間、思い出したように涙が溢れた。瑠璃が無邪気に笑う、その顔が網膜に焼き付いている。誰も愛せないで悲しんでいるあの瞳が俺の心に焼き付けられている。
瑠璃――。
「みっともない、ほら泣かないで。―― はも贄じゃない。一人の大好きな女の子を守ろうとする壱岐でしょう?」
泣きじゃくる俺の涙を拭って母さんは笑いながらこういった。
「生きてね。母さんは青志もあなたのことも——愛してる」
叱咤するような桜の花びらに吹かれて桜子は見えなくなった。
真っ暗な闇の中を歩いて、ただ瑠璃のことを思った。息を吸い込むとぼんやりと瑠璃の泣き顔が見えた。何故だろう? こんなに心が痛いのは、こんなに悲しいのは。
誰かを愛することはこんなにも痛い。
「壱岐! 壱岐!! こんなの望んでない!! 私、こんなの望んでないよ!!」
(泣くな、瑠璃)
そう言っても瑠璃は気づかない。
(瑠璃! 瑠璃!)
呼びかけても返事はない。
「私は、ずっと壱岐と、一緒にいたかった……! 本当は望んでいたの。優しく笑い合える相手。大切にしてくれる人。それは壱岐でしょ? それは壱岐なの!!」
(俺は——!)
「……瑠璃……」
やっと声が出た。瑠璃の哀しい瞳と目線が合う。瑠璃は目を見開いて何も言わない。
「……瑠璃、お前は……俺のことが……好きか……?」
涙が流れた。愛しくて初めて泣けた。悲しいほどに、彼女を愛していた。あの瞳に魅入られてから、どうしようもなく……彼女を愛していた。
「壱岐、私は——」
答える変わりに唇を重ねた。
寂しさを残して、桜は散る。人を愛することは痛い。傷つく。それでも求めずにはいられない。人を愛さなければ——。
俺は瑠璃よりも青志よりも弱いただの人間だ。しかも瑠璃を付け狙う妖怪に、瑠璃を殺すために利用されようとしている。情けなくて思わず俯いた。
「なんだか、申し訳ないな。お前にはいつも世話になってばっかりだ」
もう俺は母さんのことを何も知らなかった時には戻れない。知らないフリをして父さんを責めない自信はなかった。
青志のことも、責めたってしょうがないことはわかっているのに。
大人気ないなとため息をついた。
公園から伸びる階段を降りると、目の前は自宅のリビングになっていた。
「は?」
今までいた公園は姿かたちもなく、一瞬にしてワープしたようにそこが家のリビングになっていた。
テレビやテーブルが置いてある部屋だが、父親が滅多に帰らないことで俺は自分の部屋で食事をしたり、くつろいだりしている。だからリビングは父さんが帰った時以外使わない。
それなのに、リビングには明かりが灯されている。電気は切れかかっているようで、点滅を繰り返していた。
……父さんがいるのだろうか?
それなら青志がここにいるのはまずいかもしれない。俺は青志の方を振り返った。
「これはどうなっているんだ?」
青志は鋭く点滅を繰り返すリビングの奥のドアをにらみつけているだけで、動こうとはしなかった。
開け放たれたドアの向こうには、椅子に座って上機嫌な父親がビール片手に女の人と話していた。
「覚か……?」
呟いた青志の声で、それが覚であることがわかった。
「ねぇ、祐樹さん。可愛いでしょ? この子が青志よ」
覚はシーツにくるまれた泥で作られた人形をまるで生きているかのように、大事に、大事に抱えている。馬鹿にしてる。そんな人形を人だと思うわけがない。
思うわけがないのに――。父さんはこういって笑った。
「……かわいいな」
「なに、いってんの?」
いつからか口も効かなくなっていた父さん、そんな父さんが発した言葉が信じられなくて声が出た。何年ぶりになるかわからないその問いかけに、びくともしないで、父さんはその泥人形を撫ぜている。
「花世」
父親のこんなに幸せそうな顔を見たことがなかった。
そんな様子を尻目に、母さんに化けた覚が薄気味悪くせせら笑い、地を這うような低い声で、俺たちに向かってこう言った。
「殺せ。殺せよ。その大事に抱えた化物を。じゃないとこの男、どうするかわからないよ?」
俺たちは何もできず、距離を縮めることもせずに覚を睨むことしかできない。まさか父親を人質に取られるなんて思いもしなかった。いいや、取られることなら想像できたのに、父親との距離が遠すぎて考えが及ばなかったのだ。
「……あなたの望む通り、私は死ぬよ」
青志の背中から声が聞こえた。瑠璃だ。
「私の血はもう、壱岐の中にあるもの」
その時、青志が大きな声をあげた。
「血を、飲ませたっていうのか……!?」
「ええ」
瑠璃は諦めたように笑う。全てを諦めて泣いているみたいに笑う。
「どういうことだ?」
一人事情が読み込めない俺は瑠璃の方を見つめて、話の全体の説明を求めた。
「鬼は食った魂を持つ人間に自分の血を飲ませると、体の中にある魂が分裂を始めるの。魂が壱岐を思い出して元の体に戻ろうとするから。これで、壱岐は死なない。私が死ぬから」
瑠璃の顔は顔面蒼白で、息も絶え絶えだった。それでも笑おうとする瑠璃を見て、俺は泣きそうになった。
「なんでなんだよ。なんで、自分のことじゃなく俺のことなんだ!?」
声を張り上げて聞いても、瑠璃は悲しそうに笑うだけだ。
(喰わないし愛さない。私はその人と一緒にいたいから、その人を殺さない)
思い出した言葉に、その行動に、その強さに、瑠璃に、俺はどうしようもなく泣きたくなった。
「じゃ、お前は今、壊れかけなんだね」
覚はそんな俺たちの様子も構わず父さんを突き飛ばすと、瑠璃に襲いかかってきた。
そのスピードと気迫に青志は一瞬身を竦ませてしまったようだった。妖芽に殺された怨念なのか、鬼に対する憎しみなのかわからない。わからないが、覚は憎悪に染まった顔つきで瑠璃に襲いかかってきたのだ。
それでも一歩、瑠璃には届かなかった。ポタリ、ポタリと血が垂れる。俺の腕からあの時みたいに激痛が走る。覚の爪が俺の腕を裂いた。深く傷が付いた腕からは大量に血が流れる。
「……」
覚は無言で自分の胸を見た。白い妖刀が、自分の心臓に深く突き刺さっているのをじっと眺めている。
ポタリ、ポタリと俺の腕から覚の血も流れていく。
「お前、俺が瑠璃を好きかって聞いたろ? どうやら、その通りらしい」
深く突き刺した妖刀が赤く染まる。肉をさいた刃の感覚はおそらく一生忘れることはないだろう。俺は初めて命を殺したのだから。
青志が目を見開いてこっちを見ている。それだけじゃない。父さんはまだ覚が母さんにでも見えているのか、この世の終わりのような顔をして膝をついたまま、立ち尽くしている。
覚は、無表情のまま俺に手を伸ばしてきた。
「私を殺すのは、あの子じゃなかった」
手を伸ばそうとしたが、覚の手は砂塵のように崩れ落ちた。そうして体も腕も足も、全て砂塵と化して、目玉だけがゴロゴロとフローリングに転がった。
それをみた青志は、我に返ったように急いで転がった目玉を踏み潰した。
「こいつが本体だ。体を得ればまた蘇る」
俺は呆然とそれを見て、ため息をついた。裂かれた腕に激痛が走る。
「俺の割には無茶したな」
そう独り言のように呟くと、青志は怒ったような顔をしてこういった。
「何を言ってるんだ、いつもじゃないか!」
父さんは砂になった覚に近づいて、うわ言のように呟いた。
「花世は結局、どこにも居ないのか……」
俺は憐憫の視線を投げかけることしかできなかった。母さんはいる。姑獲鳥になって生きている。でもそれをいったところで何になるっているんだ?
もう、あの頃と同じにはなれない。仲のいい家族に戻ることなんかできないんだ。
「 。母さんはもう居ないんだろうか?」
父さんは目線が定まらず、不安定で見てるこっちが嫌になった。
「……あんたのせいだろ?」
「 、母さんは……」
父さんは俺なんか見ず、ただ空に向かって話している。そんな父親に対してふつふつと怒りが湧き、抑えきれず叫んだ。
「あんたが何をしたかは知らない! 興味もなかった。なんでかわかるか? それだけ俺とあんたの関係が薄っぺらだったからだ! 今更愛情求める気なんかさらさらないよ。でも、あんたが家族に対して情を求めるなら、どうして青志を、母さんを、追い詰める様なことをしたんだ! どうして……母さんを信じてあげられなかったんだ!?」
初めてだった。そんな風に声を張り上げたのは。俺も本当は求めてたってことか、家族に対する情を。
父さんは少し黙って声を殺すようにすまない、すまなかったと泣き出した。俺は譲歩した。優しさなんて見せるつもりはなかったのに、父親の肩を優しく叩いた。
(キィー、キィー)
「花世」
青志が花世をみて呟く。いつの間にか母さんは家に来ていたようだった。
母さんは父さんの肩に乗ると、すり合わせるように身を寄せた。父さんは不思議と母さんを追い払うことはしなかった。そしてわからないはずのなのに、
「お前に怒られて今、初めて花世にようやく会えた気がするんだ」と呟いた。
俺の部屋に戻り、瑠璃をベッドに寝かせると青志が話し出した。
「……兄さん、ここからが本題だ。兄さんは本当に瑠璃の血を飲んだのか?」
俺が黙って頷くと、青志は椅子に座りながら「もう、取り返しがつかない」と独り言のように言った。
「いいか、瑠璃の血にはあなたの魂が混じってる。正確には前世だった頃、瑠璃に奪われた魂が。それを口にしたことで、均衡が完全に崩れた。もう、瑠璃の中で魂の崩壊が始まったんだ」
「どういうことだ?」
嫌な汗が背中を流れる。さっき、瑠璃が霞んで見えたのはもしかして瑠璃が消えかけているからなのか?
「瑠璃の中には二つの魂が存在している。一つは瑠璃の魂、二つ目は鬼の魂。そして鬼を抑えるための贄の肉体と魂の欠片。均衡が取れていた頃は、二つの魂は共存し合っていた。瑠璃の取り込んだ兄さんの欠片が鬼の魂に人間の理性を与えていたからだ。しかし均衡が崩れたことによって鬼の魂に理性がなくなった。兄さん魂の欠片を失った鬼は瑠璃を飲み込んで、生きようとするだろう。でも瑠璃は死んだ人間ではない。完全に飲み込むことはできない。そうすると、どうすると思う?」
青志は俺にわかるようにいうと、顔を曇らせた。俺もその話を聞いて最悪だと思った。
「瑠璃を殺そうとするのか?」
瑠璃はそれを知っていて俺に血を飲ませたんだ。それほどまでに瑠璃にとって、受け継がれてきた記憶は辛いものなんだってわかった。自分が消えてもいいと思うほど――。
「そうだ。瑠璃を殺して体を乗っ取ろうとする。もうそれは瑠璃じゃない。鬼神でもない。それはもうただの本能で暴れまわる意思のない化物だ」
瑠璃が意思のない化け物になる。組んでいた腕の力が強くなる。
「青志、瑠璃は自分の魂が消えたあとの鬼のことをどうするつもりだったんだ?」
疑問に思ったことを聞くと、青志は表情を曇らせた。一度口を開こうと動かせたが声を出さなかった。
「どうした?」
聞くと、青志がまた口を開いて今度は声を出してこういった。
「俺に……殺させるつもりだったんだろう。俺と瑠璃の契約はあくまで瑠璃とだけのもの。瑠璃の魂が死ねば俺は契約を解かれ自由になり、力を持ったまま鬼を殺せる。そしたら俺は鬼の一族を産んだ罪から解放される。ハッピーエンドってわけだ」
大きな音がした。手がじんと痛む。俺は無意識に遊具を手が痛むほど強く叩いていた。
「――ハッピーエンド?」
煮え返りそうな怒りの声が響いた。そう、ハッピーエンドなんかじゃない、そんなの誰一人、瑠璃でさえ本当は望んでいないのだ。
「ごめん」
青志は捨てられた動物のように消え入りそうな声で呟き、言った。
「あなたは、死んでも瑠璃を守りたいと思うか?」
そんなのは、本当はとっくに決まっていたんだ。
ここは俺が生きてきた世界だ。誰もいなかったんだ、俺の心には誰もいなかった。でも――手の届くところに瑠璃がいる。
本当はもう、わかってたんだ。
「……均衡が保てれば瑠璃は元のままでいられるんだな?」
俺が青志に聞くと地を這うような冷たく低い声が帰ってきた。
「何を考えている?」
俺は青志が怒っているのがわかった。当たり前だ。瑠璃のことをこれ以上まだ苦しめようとする俺のことを恨んだって、憎んだってしょうがない。
「瑠璃に俺を全部捧げる」
「兄さんは、本当に自分勝手だ。瑠璃がどれほどの決意をして、どれほど泣いてこの決断をしたか考えもしないんだな?」
さげずむようにいう青志に俺は問いかけた。
「お前は瑠璃の心から笑った顔が見たくないか?」
青志が目を見開いて俺を見た。そして火のついた導火線のように言った。
「俺がそれを望まないとでも? 俺は!」
その青志の言葉を遮って俺は言った。
「生き方は変えられない、何度も繰り返す。俺は人の気持ちを考えないんだ。けれど、いつも願ってきたよ。彼女がどうやったら笑ってくれるのか、そして今は彼女が生きてくれる方法を。なんだっていいんだ。なんだって願いたいんだ。可能性があるならかけたいんだ。俺はお前が瑠璃の一番身近にいて瑠璃の苦悩に一番触れてきたから、瑠璃の思うとおりにさせたいんだろう。けど、本当は違うよな? 俺を殺そうとしてまで瑠璃を守ろうとしたんだ。お前は瑠璃が好きなんだろう? だったら望めよ! もう後悔なんかしたくないんだ! お前も! 後悔する道なんか歩むな!」
俺が怒鳴り付けながら言うと、青志は小さく悪態を付いた。
そうして俺を恨めしそうな顔をして睨むと、呆れたように声を出した。
「……俺が協力できることは限られてる。……瑠璃との制約があるから。けどあなたに、壱岐兄さんに協力するよ。瑠璃を守るために」
俺は思わず青志の頭を乱暴に撫ぜてやった。つい青士郎の時の癖が出て、青志は少しだけうっとおしそうに俺の手を振り払った。
不機嫌そうな声に、少しだけ照れが隠れていることに気づいて俺は青志と昔に戻ったようにな感覚に陥った。
「瑠璃を人間戻すにはどうしたらいい?」
静かな声だった。自分で驚くぐらい、静かで強い声だった。
「瑠璃と……鬼の魂に同時に、この世界で一番望まないことを、つまりショックを与えればいい、それで魂は分離する……」
「俺は、瑠璃が好きだった。瑠璃が好きだったよ。瑠璃は俺を、……壱岐を想って笑ってくれて、あの頃と同じ、俺は瑠璃に救われていた。俺は何をしていても、誰といても、心の中が空っぽで誰かの幸せを祈ったこともない。人の温かみを、優しさを、本当に愛しいと思ったことがない。けど、変われた。瑠璃に――笑って欲しいんだ」
それが願える、それが俺にとっての幸せなんた。
「ごめん、俺はまた兄さんを助けられない、ごめん」
俺は捨てられた動物のように消え入りそうな声で呟き、言った。
「謝るなよ、謝るのは俺の方だろ? いつもお前に後始末ばっかりやらせてごめんな。瑠璃が本当は何を望んでいるか、分かりきっているのに――瑠璃を悲しませてごめんな」
そっと触れる大きな傷口は過去のものだ。俺と青志と瑠璃の、大きな傷。それでも、先に進めるなら。
俺は眠っている瑠璃を撫ぜた。瑠璃が望むこと、それは人間として生きて、哀しみをぬぐい去るように幸せになることだと思った。それを叶えてあげたい。それは何に変えても。
「壱岐……?」
俺たちの声に意識を取り戻したのだろうか、瑠璃は目を覚ました。体を起こそうとする瑠璃だが、その体は震えて動けないみたいだった。
もう崩壊が始まっていて体が自由に動かせないのだと思った。呆然とする瑠璃の頬に触れる。……冷たくて、一瞬泣きそうになった。
青志から奪い取るように、妖刀を取ると目を思い切りつぶって首を深く切った。血飛沫が上がる。悲鳴のような声を上げる瑠璃が桜子に見えて――思い出した。君は、どんな思いで死んだのかな?
必死に俺に手を伸ばし、泣きじゃくる瑠璃のように、笑ってはくれなかったよな? 傾く体からは力が抜けていく。
(死なないで!)
声が聞こえた。
瑠璃の声じゃない。誰の声? 意識が霞んでいく、体が分かれていく。だんだんと軽く、浮き上がるように……。
(あなたは本当に何もわかってない!)
その言葉が浮き上がるような感覚を奪い取った。体に痛みとずっしりとした重みが蘇ってくる。そうだ、この声は。
(母さん?)
目を開けているのか、閉じているのかわからない。何も見えない。手を伸ばして辺りを探ってみても何も掴めなかった。
声が聞こえなくなった。沈黙と見えない視界がだんだんと色づいていく。桜の下で、井塚川の河川敷に母は立っていた。
「ねぇ、 は今幸せ?」
彼女が責めるようにそう言った瞬間、思い出したように涙が溢れた。瑠璃が無邪気に笑う、その顔が網膜に焼き付いている。誰も愛せないで悲しんでいるあの瞳が俺の心に焼き付けられている。
瑠璃――。
「みっともない、ほら泣かないで。―― はも贄じゃない。一人の大好きな女の子を守ろうとする壱岐でしょう?」
泣きじゃくる俺の涙を拭って母さんは笑いながらこういった。
「生きてね。母さんは青志もあなたのことも——愛してる」
叱咤するような桜の花びらに吹かれて桜子は見えなくなった。
真っ暗な闇の中を歩いて、ただ瑠璃のことを思った。息を吸い込むとぼんやりと瑠璃の泣き顔が見えた。何故だろう? こんなに心が痛いのは、こんなに悲しいのは。
誰かを愛することはこんなにも痛い。
「壱岐! 壱岐!! こんなの望んでない!! 私、こんなの望んでないよ!!」
(泣くな、瑠璃)
そう言っても瑠璃は気づかない。
(瑠璃! 瑠璃!)
呼びかけても返事はない。
「私は、ずっと壱岐と、一緒にいたかった……! 本当は望んでいたの。優しく笑い合える相手。大切にしてくれる人。それは壱岐でしょ? それは壱岐なの!!」
(俺は——!)
「……瑠璃……」
やっと声が出た。瑠璃の哀しい瞳と目線が合う。瑠璃は目を見開いて何も言わない。
「……瑠璃、お前は……俺のことが……好きか……?」
涙が流れた。愛しくて初めて泣けた。悲しいほどに、彼女を愛していた。あの瞳に魅入られてから、どうしようもなく……彼女を愛していた。
「壱岐、私は——」
答える変わりに唇を重ねた。
寂しさを残して、桜は散る。人を愛することは痛い。傷つく。それでも求めずにはいられない。人を愛さなければ——。

