俺はずっと知らないふりをしていた。
ぼんやりと自分の中にある記憶を、夢の話だと本気にすらしてこなかった。それに、そんな記憶どころではなかったし、それを真に受けて何がどうこうなるわけではない。
当時一九二二年、戦後恐慌から取り付け騒ぎが相次ぐ銀行への支払いで、日本銀行が紙幣の生産が追いつかず二百円札の裏が白紙の裏白の紙幣が世の中に出回っていた時代。
その時の俺じゃない俺はよくその紙幣を見て、まるで自分のようだと笑っていた。
当然のように自分が自分に向けた皮肉に、悲しくから笑いする日々。
表だけきれいに繕って、裏は何もない空っぽな人間だ。それも自覚したところで今更埋まりようのないほどに年を食ってしまっている。
響の家は規模の大きな呉服屋を営んでいた。その嫡男として俺は生まれ、そして不景気の波にあおられて、家の中は常にピリピリとしていた。
まだ学生であったが、母のプレッシャーに耐えきれない父はいつしか引きこもるようになり、経営を母と俺に押し付けるようになっていた。
毎日の通学路と自分の店だけが全てだった。繰り返す日々の重圧に耐えながら、自分が削り取られていくような感覚にいつも怯えていた。
世襲が当たり前な時代、自分は都合良く嫡男として生まれ後を継ぐように育てられた。毎日に充実感も何もなかった。教えられたことを必死にこなし、それでもそれ以上を求められる度、自分は何をやっているのかわからなくなっていった。
空虚だった。
明日が来てもこの空っぽな心は変わらない。虚しさを隠し、嘘みたいに笑って生きていれば、誰もこの惨めさには気づかないでくれるだろうか?
ただ淡々と生きている自分の、心から笑えないという惨めさに誰かが気づけば、貶められる気がして……。
いつも見えない何かと戦っていた。
俺はこの紙幣と一緒だ。価値はある。けれどそれだけでは不十分。俺は家にとっては嫡男という価値があるけれど、自分にとってそれは苦痛を感じるだけのただの器でしかなかった。
家の商売を手伝いながら、ふと自分にとっての己の価値を考えた。嫡男だけではない、自分は他に何の価値があるのだろうと。
桜が咲いたことで、春は鮮やかになった。蜂や蝶が辺りを飛び回り、庭に植えられた桜もゆるりと蕾を解いていく。和やかな季節になった。戦後恐慌に呉服屋である自分の家も不況に煽られ、どうにか立て直そうと躍起になっていたからだろうか、家の中は殺伐としていた。
冷たい声で指示されることをし、金切り声で神経質になった母が俺にいう。
「あなたしか店を任せられない」
母は父に諦めを抱いていたのだろうか? 父のことを影で情けない人だと言っていた。あなたしかいないのと泣きつかれたこともあった。
次男である総司のいる前で、平然と言ってのける母だった。総司の気持ちも考えずに……。なんて無神経な人なのだろうと口に出さずに思っていた。
何もかもが自分にとって重くて仕方がなかった。
逃げ出したい。
彼女に出会ったのは、そんな春先のできごとだった。
父に母が浴びせる罵倒に聞き耐えれなくなり、俺はそそくさと家を出た。
宛などなかった。友人と呼べるほど、誰かと関係を築ける時間もなかった。愛想笑いできる程度、世間話ができる程度、それだけの関わりができれば、店と関係のない人間と接するには十分だった。
春一番が吹く。叱咤されるように吹き荒れ、花びらが舞い落ちてぶつかる。
薄紅の花弁にさえ怒鳴りつけられているような気持になり、桜ににらみつけるも無意味さに空しくなる。
希薄だとしか言いようがなかった。自分も家族も、薄っぺらな存在でしかないことに寂しさが疼く。誰かの特別になりたいと、居なければ死んでしまうと言われるほどに必要とされたいと思った。
「身投げだ!」
井塚川に架けられた橋を通りかかった時、人だかりができていた。
何事だと人をかき分け、川の方を見ると薄い桜色の着物の娘が川で溺れている。濁流にもがくように手を伸ばし、苦しむように暴れながら沈んだり浮かんだりして今にも視界から消えてしまいそうな命。
何故か俺には彼女が、心の中の自分に見えた。
周りという人間に苦しめられ、空気を求めて苦しむ自分に重なって見えた。
流れていく彼女を見て助けようとする者はいないのかを辺りを見渡しても、誰も川に入ろうとする人は居なかった。 昨夜の雨で増水した川に入り助ければ、自分の命がないと思っているのか、ただ周りは見ているだけだった。
何か考えてのことではなかった。
脊髄反射のように、春先のまだ冷たい川の水の中に飛び込む。
増水した川に飛び込む勇気だとか、そんなものは吹き飛んでいた。ただ彼女が自分に見えた。苦しんでいる彼女を助けないのは、自分が助からない気がして怖かった。ただもう、純粋に怖かったのだ。
水を吸った上着が重く、泳ぎながら脱いだ。彼女はまだ先にいる。流れに押されて何度も溺れそうになる。けれど、助けたい気持ちが俺を後押しする。
誰にも助けられない彼女、まるで自分のようだった。
本当に手を差し伸べられたかったのは、紛れもなく俺自身だ。自己満足の偽善者といわれても仕方がない。
それでも彼女を救いたかった。
あと少しで辿り着きそうになった時、彼女は力尽きたように沈んだ。川の水は濁っている。とても水中で彼女を見つけられはしない。俺は急いで彼女のいた辺りに手を伸ばし、探ると布のような感覚のものに手が触れた。これだと思い、引っ張るとぐったりした青白い顔の娘の顔が出てきた。
息をしていない。
俺は急いで岸に行こうとするが、流れが速くてとても行けそうにない。
もうかなり流されている。初めて死を意識した。それでも怖くなかった。残してきた未練など一つもなかった。
けれど、彼女だけは助かって欲しかった。
俺は最後の力を絞って岸へと泳ごうとすると、兄さんと声がした。
溺れるように流され、必死になって見ると、川の先で弟の総司が浅瀬まで来て手を伸ばしていた。
あそこまでたどり着けば助かる。助けられる。そこから無我夢中で泳いだ。もうなりふり変わってなどいられない。自分を殴るような川の水に抗って、総司の手を握ると俺の意識は飛んだ。
目を開けると、実家の自分の部屋だった。かかりつけの医師と目が合い、自分にあったことを思い出すと、弾丸のように飛び起きた。
周りには母親と、総司、そして総司の隣には助けた娘が俺の様子を伺っていた。
「助か……ったのか?」
そう言った瞬間、母親が目を見開いて俺の頬を叩いた。じんと頬に血が集まってくるように熱くなる。
「……あなた、何もわかってない。あなたが居なければ、この家がどうなると思っているの!」
そう怒鳴られて、また寂しさが疼いた。未だに俺自身より、店の経営の事かと。
「母さん、こんな時に」
総司が母さんの肩に手を置いたが、母さんは金切り声で総司に言った。
「あなたに言ってなどいません。誰があなたなど! 手塩にかけた可愛い息子を心配して何が悪いのです!」
「あなたの産んだのは、俺だけじゃないでしょう。それに、あなたがしてるのは店の心配だ。俺や総司の心配じゃない……」
そう言い放った俺の声には憎しみが混ざっていた。自分の心を焼けるような怒りが、自分の心もろともじわじわと炙る。痛みと混ざって憎しみは熱量を増し続けて、母を殺したくすらあった。
「そうです! 私はあなたが――!!」
それでもまくし立てる母から視線を外そうとした時、凛とした声が聞こえた。
「悪いのは私です」
名前も知らない彼女がそういうと、美しい所作で母の前に行くとひざを折り、母の前で頭を深々と下げた。
「悪いのは私だけです。他の誰も悪くありません」
そういった彼女は、背筋を伸ばし凛とした声ではっきりと言い切った。
謝罪のはずの言葉なのに、彼女の言葉は一瞬、たじろいでしまうほどに威圧感は放っている。
「席を……外していただけませんか? 勝手なお願いだということは分かっております。ですが、息子さんと二人でお話したいのです」
娘は一歩後ずさり、背筋を伸ばした綺麗な姿勢で正座すると深々と頭を下げた。
その様子に総司は母さんの腕を掴むと、行きましょうと声を上げた。医師もその場の空気に居心地が悪くなったのか、腰を上げてそそくさと総司と共に出て行った。
障子が閉まると、彼女は頭を上げて責めるように俺に言った。
「何故助けたのですか?」
泣きそうな顔だった。それでも泣かないことを決意した強い表情だった。
震えている整った眉が悲しさを伝えているのに、瞳の映る光の強さが彼女という人の全てを伝えていた。
そんな、人前で泣かない強かさに強く憧れた。
俺は白状するように心の内を彼女に打ち上げた。
「溺れて苦しむ君を見て……誰からも愛されない空っぽな自分と重なって見えた」
部屋の中は薄暗く、洞穴に閉じ込められたみたいだ。
ぼんやりと照らす春の光ですら、自分には届かないのだと響の家にいると痛みに似た寂しさが疼いてしまう。
「君が誰にも助けられなかったら、俺自身誰にも助けられない気がして怖かった。それだけなんだ。君が死のうが生きようが君の勝手であるのに、余計なことをした」
頭をたれ、謝ると彼女は一瞬みっともないほど情けない顔をした。
きれいな形をした震える唇を強く噛みしめる彼女に動揺して声をかけた。
「そんなに……。何を思いつけていたのか。聞いてもいいだろうか?」
血が出てしまうのではないかと思うほどに、強く唇を噛み、小刻みに震え手をぎゅっと握りしめると、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「私は……くだらない理由で死のうとしました。幼少の頃に母が死にました。家には可愛がってくれる女中がいたので、そこまで寂しくはなかったのですが、父が新しく妻をとり、義母ができると、事態が変わりました。最初は優しくしていただいたのですが、子供が出来てから疎まれるようになり、自分の家なのに自分だけが家族じゃないみたいで、息が詰まる心地でした。女学校へいけば、友達もいましたが、居心地の悪さが消えることはありませんでした。気丈に振舞うことだけが弱い自分を戒める、私はそうやって生きてきたのです。……そんな時でした。先生に出会ったのは」
彼女はそういうと哀しく微笑んだ。苦笑いにも似たその微笑みには、酷い孤独の匂いが染み付いていた。
「先生は上山にある小さな診療所のお医者さんでした。体の弱い私をいつも気にかけてくださって嬉しかった。そのうち先生に恋慕の情を抱くようになり、先生もまた受け入れてくださいました。けれど、先生には正妻がいました。報われることのない恋だったのです。それでもよかった、私を見てくれる人がいることが救いだったのに――。先生は消えました。近所の方の話によるとどこか地方の方へ移転したとのことでした。その時、奥さんにバレたのかと頭の端で思い、悲しくはありましたが。……先立ってどうしようもなさが諦めさせてくれました。ぼんやりと家への帰り道を歩いていると、先生と家のことが交互に思い出されて、井塚川の河川敷までくると、吸い込まれるよう川に引き寄せられました。――馬鹿みたいでしょう? 恋愛沙汰で死ぬなんて、でも先の未来なんて見えなかったんです」
娘はそう言うと、一雫、涙を流してそれでも笑おうとした。取り繕おうとする姿は痛々しく、やはり自分と重なって見えた。
「違う、君は死のうとなどしていない」
涙を拭う彼女は目を見開いた。
「死のうとする人間が、あんなに必死にもがいたりするものか。君は苦しかっただけなんだ、俺と一緒で、誰かに助けて欲しかっただけなんだ」
そう言うと、俺はゆっくり起き上がると彼女の背中を優しくさすった。
「泣いていいんだ。泣いて忘れられるならみっともなくていい。泣いていいんだよ」
そう言った俺を見つめる彼女の顔が忘れられない。瞳いっぱいに涙をため、縋るように俺の着物を握り締めて、哀しいと苦しいと顔を歪めて子供のように泣いた。
その顔は酷く歪んでいて、ただもうみっともなかったのに、感情の底のとても純粋で綺麗な部分に触れた気がした。
自分が持ちようのない美しく、純粋な感情に俺はただ感化されていた。
彼女が泣き止むと、手を引いて外へ出た。
「何処へ行くのです?」
「診察所は上山の斉田診察所であっているか?」
そういうと、彼女は驚いたように「いいんです! もう、いいんです!」と俺の手を振り払おうとした。俺はそれを無視して彼女の手を離さなかった。
少し歩いてついた診察所に人気はなかった。そこまで来て俺は初めて彼女の手を離した。
人がいないことわかっていながら、俺は戸を叩いた。
「ごめんください」
「もう、居ないです! やめてください」
俺はそれを無視して続けた。
「ごめんください!」
「何がしたいんですか! やめてください!」
娘は必死になって言う。俺は娘の方を向いてはっきりとこういった。
「後悔しないのか? 例え、もう居なくても言いたいことあっただろう? 不満だってあるだろう? どんなことがあったのか知らない。君たちの関係なんて知らない。けど、君は何も知らされずに残されて、別れさえ言えないまま、それで本当にいいのか?」
俺がそう言うと、娘は俺を平手で殴り、涙をためた瞳で俺を見た。
純粋できれいな涙が惜しげもなく、流れてしまってあまりにそれがもったいなくなるほどに、身が凍ってしまうほどに美しくて見惚れる。
彼女の強い感情、彼女の強さ。誇り高さに俺は必死につけこめる隙を見つけたがっていた。
それが俺の抱いた初めての恋慕の情だった。
「……私が何を言ったところで。結局、意味なんかないですわ。あの人は聞きやしない。聞こえやしないんだわ。どうしたって、私は愛されない。気丈に振舞ったところで私の見え透いた演技なんか見破られて馬鹿にされていたんだわ。だいっきらい。皆、皆だいっきらい。本当はあなたのことなんて好きじゃなかったんだから」
彼女は何度も何度も俺を叩いて泣きじゃくった。八つ当たりでも感情を向けてもらえることが嬉しかった。
彼女には言いたいことが山ほどあったのだろう? 俺とは違っていうことを本当は諦めてはいない。彼女は俺と違って空っぽではない。
いろんなことを諦めずに向き合おうとしている。その痛々しさと健気さに、俺は感化されて憧れを抱いていた。
時代が時代なだけに、そんな女性は敬遠された。何も言わず、ただ夫に従うことが美徳とされた時代。それでも彼女の懸命さに俺はひどく羨望した。
彼のことを愛していたんだ。好きじゃなかったなんていっても、それなら泣いたりしないのだから。彼女に愛された先生はどれほど、幸福なんだろう。俺は誰にも愛されないのに、こんなに美しい人に愛されて、命を捨てるほどに愛されて、死ぬほど愛されていたのに、それなのに。
それを捨てていくなんて俺にはできない。
俺は彼女に愛されたいと、その時無意識に嘆願していた。
「君はまっすぐだね」
羨望と愛しさが絵の具みたいに混ざった言葉が出た。
彼女は、ただそのまっすぐな瞳で俺を見て「ごめんなさい。誰も悪くないのに」と呆然と言った。
「響さん!」
一週間たった晴天の朝の事だ。その日は学校もなく、経営する呉服店の朝仕度のみの比較的ゆっくりと過ごす朝だった。
女中の作る朝食の焼き魚の骨をぼんやりとしながら取っていると、怒号にも似た薫子の声が玄関から響いた。反響する声は低血圧気味の頭にじんと響き、目を細めて頭のしびれが過ぎ去るのを待つ。
こんがり焼かれたシャケの骨をとる手を止め、重い腰を上げる。母親は無言で「後にするように」と視線を送っていたが、それを俺は無視をし、玄関に急ぐ。
彼女が訪ねてくるのはわかっていた。
女中が彼女をなだめるように、彼女に向かい何度も頭を下げている。
「若旦那様がもうじき参ります。どうか落ち着いてください。客間にお通しいたしますので」
そう必死に言い募る女中を尻目に、息の上がる呼吸を整えて深く息を吐くとはっきりと彼女は言い切った。
「玄関で結構です。ここで待たせていただきますわ」
「ですが、若女将になる方を玄関でお待たせするなんて」
女中はおろおろと動揺し、言葉を詰まらせて彼女の扱いに困惑する。そんな女中を見て思わず、俺は笑ってしまった。
「薫子さん、うちの女中を困らさないでくれないか?」
品もなく声をあげて笑ってしまった自分をすぐに恥じ、取り繕うにして咳き払いをして彼女の前に立った。
助かったと言わんばかりに嬉しそうな表情をした女中は「それではあとはお若い二人で」とそそくさとその場を立ち去り、玄関にぽつりと俺の彼女だけが取り残された。
彼女の方に視線を向けると、彼女はその美しく愛らしい顔をこわばらせて声を荒げる。
「どういうことですか? 母から聞きました。見合いもなしに婚約の話を進めるなんて」
俺は嬉しそうな顔でもしているのだろうか? 俺が彼女に視線を向けた瞬間、恥ずかしそうに彼女は視線をそらし、頬を赤らめた。
「そんな顔したって嫌なものは嫌です」
俺はそんな彼女の恥じらう姿があまりに愛らしく、心の中がむず痒くどうしていいかわからないほどに愛しく感じてしまっていて思わず彼女の頭に手を置き優しく撫ぜてしまった。
その瞬間、彼女はほのかに色づいていた頬を真っ赤に染めて頬に手をあて誤魔化すようにうつむいた。
覗き込むように顔を傾けると、それに気づいた彼女が顔を思い切りしかめて噛み潰した声を出していう。
「……勝手ですわ。そんなの! 私は自分でちゃんと好きになった方と添い遂げます。義理でお嫁にもらわれたってそんなの幸せと違うわ」
薫子は静かに取り乱して見せた。俺はそんな薫子を見て自分でもびっくりするぐらい穏やかに笑えた。
「同じだ。……俺も自分の好きになった女しか嫁に迎える気はないんだ」
「えっ……?」
驚いたように思わず顔をあげた薫子に俺は頬を赤めて幸せそうに笑って見せた。
「俺は君を好きになってしまった。君があまりにも感情豊かで、まっすぐで嘘偽りないから、俺は感化されてしまった。どれだけ君を知っても、とても嫌いになりそうにない。君が嫌なら婚約は解消してもいい。でも、少しぐらいは考えてみてはくれないか? 俺は不精だし、大した奴ではないけれど……」
途端に自信なく言いよどむと、そんな俺を見て薫子は抑えきれず笑った。初めて彼女が心から笑うところを見た。
澄み切った声が鼓膜をくすぐる、薄暗いはずの玄関に途端に光が差し込むように彼女が笑うだけで、その全てが明るく華やかになる。
彼女の吐息でさえも花のように香り、全てを優しく包むようで、俺は彼女の笑顔を見て一生、彼女を守ろうと安易にも決意する。
けれど、その決意がそれだけ安直でも、真っ暗闇を照らす灯された火のように俺を照らしてくれる。細く脆い心がそれを感じた時、俺はようやく生きていると感じられた。
ずっと無感傷に生きていくのだと思っていたから、不意に与えられたそれは幸福でしかない。死ぬまでそれを大事にするから、彼女を幸せにするから、与えられるこの幸福を誰も奪わないでくれと懇願したくなるほど、俺の過去について回る孤独は冷たく、彼女は唯一みた光だった。
延々と消えないほどの熱量と光を放って、それが愛なのだと縋った。
「兄さん、婚約したって母さんが……」
彼女を送り届けたあとの慌ただしい居間で、席を立とうとした俺に弟の総司は少しだけ遠慮がちに聞いてきた。俺は総司の頭に手を置いて撫ぜてやってから、長い廊下に出て後ろを振り向かず「そうだよ」と答えた。
「やめてください、もう小さくないのだから。あの身投げの方ですか? 何故そこまで気をやるのです? 確かにお綺麗な方でしたが」
総司は食ってかかるように俺の後を追って、はっきりとした口調で言った。
「なんとなく、変われる気がしたんだ」
「何がです?」
不思議そうに聞く総司に笑いかけると、少しだけ俺は本音を交えて話をした。
「俺は馬鹿なんだ。総司、俺はずっとお前に恨まれてたんじゃないかと思っていたんだ」
それを言うと、総司は目を丸くして「何を馬鹿な」と吐き捨てた。
「……嫡男だからといって特別優秀でもない俺は優遇されて生きてきたから」
「兄さんは優秀ではないですか! それに俺が後継ではないのはあなたがそれにふさわしいからだ」
そう、必死に言い募る弟を見て俺は苦笑いするばかりだった。そうじゃない。お前の頑張りは俺が一番わかっている。なんだって他の者より頭一個飛び出ていて、俺はお前に追いつかれないようにするのに必死で何もできていない。
「毎日毎日、今以上を求められるのに疲れたと……泣き言をいえば軽蔑するか?」
そう言うと総司は黙った。
「余裕なんてないのだと思っていたのだ。他人に分けてあげられる情など、自分にはもう微塵も残っていないのだと、そう……思っていたのだ。自分にとって何もかも家に奪われて、生きている意味も全部家にあるのだと思っていた。でも、そうじゃないんだ」
肺に行きわたるように深く息を吸った。
幸せそうなんて大それたことを言うのは、人生で初めてかもしれない。でもどう否定したって俺が浮かべた表情は、幸せそうな笑顔だった。
「人は人と関わらなきゃだめだな。上辺だけではなく、腹を割って。そうやって関わっていかなければ、自分が本当はどこに立っているかわからなくなる。薫子と関わってわかった気がするよ。彼女は真っ直ぐで嘘がない、そばにいて得られるものが多い。だからだよ、そこに浮ついた感情などない。全て本気だよ」
俺はそう言って早くいかなければ遅れてしまうよと総司の背中を押した。総司は困ったような顔をして自分の部屋へ支度しに戻った。
「桜を見に行こうなんて、そんな風流な方だとは思いませんでしたわ」
薫子は少しツンとした態度で、俺の少し先を歩いていた。
河川敷沿いの桜並木道。薄紅の花弁が惜しげもなく零れ散るその景色に彼女の艶やかな黒髪とうぐいす色の着物の色味が映える。鮮やかな色彩だが、それだけではない。
彼女の凛とした立ち振る舞い、品のある彼女から染み出るあまりに儚い雰囲気が幻想的に目に映り、見惚れてしまう。
恍惚と香る桜とスミレの花の匂い。うららかな春の陽気に誘われて気持ちが浮足立ってあの世にいるような錯覚すらした。
はっと我に返り照れて視線を外す。
「君は桜が好きなのかと思って。初めてあったのも桜の下だったし」
俺は照れ隠しするように俯いて返事をする。
「正確には桜の咲いた川の泥水の中ですが……。あなたこそ桜が好きなんですか?」
「いいや、君が喜べばいいと思って」
俺がそう言うと薫子は余計怒る。そしてそれは照れ隠しだということも分かっているから、余計に笑ってしまうのだ。
「笑わないでください。何がおかしいんですか」
「ああ、茶店があるよ。腹も空くだろう? 薫子は花より団子の方だったかな?」
「もう!」
楽しそうに怒るというのは、おかしな言い方だろうか? 薫子の様子を見ていると怒っているのに楽しんでいるように感じる。
桜が吹雪のように流れ散る。美しいと思うのだけれど、少しだけ寂しくてもったいないように感じてしまう。
延々と春ならいいのに、それでも花は必ず散ってしまうのだ。
「きれい」
「散るのがなんだか、もったいない気もするがね」
「散らなければ、葉桜が見れません。桜は季節によって変わるから美しいのです」
薫子は桜に手を当てて優しく撫ぜた。
「毎年、咲いてくれてありがとう」
「意外と風流なんだな」
バカにしていったわけではないのに、薫子はまた声を荒げ怒るのだ。
「お互い様です」
お互い顔を合わすとなんだかおかしくなって笑ってしまう。
心に血が通ったような感覚に陥った。薫子がいると世界が変わる。幸せは程遠く、自分には縁がないものだと思っていた。ちゃんとあるんだな。自分にもちゃんとやってくるのだな。この人を大切にしたいと思う気持ちは会うたび大きくなって自分が変わっていく。
「先生のこと聞いてもいいか?」
「昨日来た手紙のことですか?」
薫子は身構えるようにおどおどと答える。
「先生は最後に君に何を伝えたかったのか、知りたくて。すまない。無神経だったかな?」
「いいえ」
寂しそうな顔をする薫子の心にはまだ、先生のことが残っているのだろうか? 傷つけたくないと思うのに、気になって仕方がないほど狭量だ。
「先生は女にだらしがなくて、頼りなくてどうしようもない人でしたが、優しい人でした」
薫子はそう言って大きく息を吐くと、俺に向かって幸せそうに微笑んで見せる。頬をほのかに赤らめて桜の雨を浴びながら、彼女は俺の方を見て言うのだ。
「俺がいなくても幸せになってください。それだけはいつも思うよと、手紙にはそれだけ。先生らしいといえば先生らしいですが、私は嬉しかった」
「君はそれでよかったのか?」
なんとなく歯切れ悪く聞いたのに、彼女はずっと幸せそうな表情を崩さないままだ。
「ふふっ。先生と別れなければ、私ずっと不幸せでした。あなたに出会えなかったから」
「えっ?」
「私は意地っ張りですが、あなたは私を大切にしてくれます。私は毎日花を玄関に置いて去っていく、あなたの照れ屋なところ好きですよ」
そう言った瞬間、俺が真っ赤に染まった。
「あれは、君が喜ぶかと思って」
言い訳みたいに言い募ると、薫子は嬉しそうにクスクスと笑った。
「あなた今、空っぽですか?」
薫子は少し真剣になって聞いた。その真摯な態度に俺は薫子の手を握ってこういった。
「いえ。俺は今、毎日楽しくて嬉しい。――きっと君に会えたからだ」
彼女は俺の手を取ってゆっくりと歩き出した。
「私もあなたに会えてとても幸せです」
小さく聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で呟いたその声に、俺は思わず泣きそうになった。この繋いだ手からこの震えが伝わらないでくれることを祈るばかりだった。
「……そうだ、名前で呼んでくれないか?」
思いついたように俺がそう言うと、薫子が少しおどけたように俺の顔を見て笑った。
「いっちゃん」
「なっ」
驚いて言葉を詰まらせると、薫子は悪びれずこういった。
「だって私たち年あまり変わらないんですもの」
俺は男を「ちゃん」づけで呼ぶなんてを怒ったが、からかった薫子はいつまでも笑っているもんだから、俺もおかしくなってお互い微笑みあって声を出して笑った。こんな時間がずっと続けばいいのに。そう思わずにはいられないほどに幸せだった。
「君が女学校を卒業したら、結婚しよう」
無責任な言葉だったのだ。その時薫子が見たこともないような顔で笑ったから、俺は疑いもしなかった。その言葉が薫子を傷つけることになるなんて。
出会ってからだんだんと会う機会が減っていった。それというのも経営がさらに悪化し、家のことで手一杯になったからだった。結婚を目前にして相手の家が倒産にもでもなったらと、彼女の親に示しがつかない。結婚が水に流れるのだけは嫌で避けたかった。それほどまでに俺にとって彼女の存在は大きかったのだ。
「兄さん。薫子さんに会ってやってください」
「今、経営が苦しいのは分かっているだろう? 今、破綻すれば結婚ができなくなる。互いのためなんだ」
今思えば、全部自分のためだった。薫子を離してしまうのが嫌で、必死だった。寂しく思う薫子のことなど何も考えていなかったのだ。
「……兄さん、薫子さんのことも考えてください」
「すまない。……それでも、今は頑張りたいのだ」
何も見えていなかった。削り取られていくようなあの頃の感覚だけが、また心に舞い戻ってくるようだった。その度、薫子を想った。一人ではない。今頑張れば、彼女がきっと待っていてくれると――。
玄関前で卒業間近の薫子が家路を歌いながら立っていた。まるで幽霊のように不気味に。西日が差し込んで薫子の影は焦げたように地面を黒く染めていた。その様子に俺は足を止め、ただ見入ることしかできなかった。
光に照らされながら薫子は俺を見るとこういった。
「……聞きました」
「何を?」
何もわからず、聞き返した。
「とぼけないでくださいっ! 婚約は破棄されたのでしょう!? 斎藤の娘さんと婚約するからとあなたのお母様が家に来ました!」
「……えっ?」
戸惑いの声をあげることしかできなかった。否定も肯定もできない。知らなかったのだ、母がそんなことをしていたことすら、俺は何もわからず仕事に没頭していた。
「わかっています! あなたは私より仕事が大切なのだと。わかっていますが……それでも! 私をとって欲しかった!」
責め立てるように叫ぶ薫子の肩を持った。
「落ち着け、薫子! 何も知らない! 俺は何も! 本当だ」
「嘘なんか嫌いです! あなたは私を捨てたんだわ、先生と同じ」
そう言いかけて、薫子は酷く咳き込んだ。驚き薫子の背中をさすりながら大丈夫かと声をかけた。
そっと覗き込んだ彼女は口元を押さえてゆっくりと手のひらを見る。
血が、手のひらにべったりとついていた。
驚きで黙り込んでいると、また口元を手で覆い咳き込む。
彼女の顔は青白く病的だった。腕も以前見たときより細く、弱々しい。
「薫子、お前……」
「肺病の女など捨てられて当然です。分かっては、いるのです。……わかっています。私はそれでも……あなたが好きなんですっ!」
そう言ってすがるように抱きついてきた薫子を俺は呆然と見つめていた。失うのは嫌だった。だから頑張ってきたのに。
俺は何をやってきたのだろう。頭の中で何度も、何度も、自分を責め立てた。けれど、どうしようもない。もう、薫子は俺のものではない。
二人で抱きしめ合って咽び泣いた。
俺も好きなのだと、愛しているのだと何度だって言った。ただもう、泣くことしかできなかった。何を言っても、何をしたところで、当時結核は不治の病だった。
先の見えない現実を見て、できることと言えば家を立て直し、薫子を家の力で最高の治療が受けられるよう病院に入れることだけだった。
「薫子を、総司と婚約させてください」
自分から親に頭を下げてお願いするのは、二度目だった。一度目の時は嬉しかったのに、二度目は胸に重石が乗っているような気持ちだった。
いくら元婚約者だからといって、何の関係性もない女の面倒などみれない。だからこその願いだった。
「兄さん……」
隣にいた総司さえ俺を哀れんだだろう。惨めな男だと思っただろう。そしてなんて勝手なのだと苛立っただろう。それでもよかった。薫子が生きてさえいてくれれば、あとはもうどうなろうと構わなかった。
「兄さんはそれでいいんですか?」
「俺は、薫子が生きてさえくれれば、それでいいんだ」
俺はいつも自分勝手だった。薫子の気持ちなんて何も考えていなかったのだ。
「兄さんはいつも自分のことしか考えてないんだな……彼女の気持ちも考えずなんて」
その時、初めて総司に侮蔑の視線を投げかけられた。けれどそれさえどうでもよくなるくらいに、彼女に助かって欲しかった。
「彼女がお前を好きだったらよかったのに」
流した涙を拭う気力さえわかなかった。総司はそう言った俺を笑ってしまうくらい情けない顔で見ていた。彼女を想う資格さえなくなった気がした。
それから総司は毎日彼女の入ったサナトリウムに手紙を送っていたが、俺は一通も送ることはなかった。いい加減に彼女と関わりたくなかったのだ。もう、俺にとって彼女は婚約者でもなんでもなかったから。
桜を見に行ったことばかり思い出していた。彼女の笑顔ばかり思い出していた。自分の心ばかりが彼女を覚えているのに、彼女の心から自分が消えることに恐怖していた。
それから半年、若さから進行が早く薫子は死んだ。その知らせが来たときは夏で蝉の声がうるさい昼間、俺は人目を気にせず泣き崩れた。全てをなくした気がした。きっと体は生きていてももう二度と笑えないような、そんな絶望が心に根ざしていた。
あなたは今、空っぽですか?
その言葉を思い出し、ふらつく体を起こして外に出ると空は高く青く澄んで綺麗だった。入道雲の影が夕立を予感させ、急に冷たくなる空気を感じて俺は家の中に入った。薫子は最後に何を思っていたんだろう。誰を思っていたのだろう。抱き合って泣いた時を思い出して背にしていた横開きの扉の方へ振り向くと人影が見えた。髪の長い、女が座り込んでいる。幻覚だと思った。そう、あの影は――。
急いで扉を開けると、目を鈍く光らせた彼女が膝を追って座っていたのだ。
「――薫子!!」
そこから先のことはあまり思い出したくはない。彼女に抱きついた瞬間、腕が彼女につかまれたことによって握り潰され、ちぎれた。あまりの激痛にもがくと、彼女は俺の腹を引き裂いた。赤黒い血飛沫を見せられてそれが現実だとは思えなかった。
ただ彼女は泣いていた。自分の行動が信じられないように悲鳴じみた声を上げ、青ちゃん、青ちゃんと俺の名前を呼んで泣いていた。
恐怖心に震えながら、自分が死ぬかもしれない時にどうしてだろう? 俺は考えていた。彼女のその涙は俺をまだ想っていてくれる証なのだろうか? 哀しそうに涙を流す彼女を見て、激痛で濁った声を上げながら、それでもどうしようもなく満たされていた。彼女の悲しい顔が俺を愛した証なら。殺されたって構わない。それは俺がずっと欲しかったものなのだから。
死んだって構わないのだ。
彼女を同じあの世にいけるなら、この痛みさえどうだっていい。俺がそう思った瞬間に彼女は俺をいたぶるのをやめて濁った目が、澄んだ瞳に戻り、泣き崩れ何度も何度も謝っていた。
「泣くな、薫子。泣かないでいいんだよ」
そう言った声はもう口から発せられていなかった。
泣きながら俺のことを抱きしめる薫子は、決心したように俺から遠ざかると、自分の鋭く尖った爪を首に当てた。
「――やめろ!! みたくない。俺はお前が二度も死ぬなんて見たくないんだ!!」
声をあげることも、その手を掴むこともできなかった。もう自分の体が自分の体ではないように動かない。
目をギュッとつぶり、覚悟したように薫子は引き裂いた。
薫子の血があたりを濡らし、目を背けることもできないで俺は彼女を見つめていた。けれど彼女の傷はみるみる癒え、彼女が倒れることはなかった。
その瞬間、重たかった体が動くようになった。
「薫子……!?」
咄嗟に薫子の方へ走り寄った。
「なんでっ……? なんで死ねないの!?」
「やめるんだ! そんなことしなくていい!!」
そう叫び、彼女に触れようとするのに、すぐに彼女に触れることができなかった。
彼女は何度も何度も狂ったように首を引き裂いた。その姿はもう正気の沙汰ではなく、ただもう狂人だった。
「どうしてだ? くそ! 薫子……、やめろ! もう、やめてくれ!!」
どれだけ叫んでも声が嗄れることはなく、掠れることもなかった。さっきまで自分を苦しめていた痛みも感じない。そんな違和感を不審に思い、辺りを見渡した。
夕立が降り出す。雨音がうるさい空間に雨に流れていく濃い血を見た。薫子の血ではない。けれど自分以外に怪我をしている者なんて――。
雨が運ぶ血の流れの先を見ると、無残な自分の亡骸を見つけた。その時初めて自分が死んでいることに気がついた。
俺は……死んでいる?
死? これが……? ぞっとした。自分の死体を見つめている魂だけの自分がいることも、もう薫子を止めることすらできないことも、全てが怖くなってその場に立ち尽くしていることしかできない。
地面を叩く雨音が大きくなって音に飲まれそうになった。
お互いをもう触れることもできない俺達はもう泣こうが喚こうが、この悲しい結末を変えることはできない。取り返しのつかない絶望が目の前に見えていた。
「……薫子さん?」
呆然と立ちつく俺達の前にふいに総司の声が聞こえた。薫子はもうすでに正気ではなく、救いを求めるように声を上げた。
「――総司さん。私、死ねないの。死にたいのに、死ねないの。嫌よ、いっちゃん! いっちゃん!」
俺の名を口にする薫子に泣きつかれ、総司は俺の死体を見つけた。
「……っ、兄さん!」
走り寄って俺を見ると総司は薫子を睨みつけた。薫子は嗚咽をあげるだけで何もいうことはなかった。怒りを押し殺すように総司が言葉を吐き捨てた。
「あなたは鬼だ! 俺の兄をこんなにして、兄はあなたを傷つけたかもしれない! けれど兄さんはあなたを愛していた。わかっていたでしょう?」
どれだけ怒鳴りつけても、薫子は泣きじゃくるばかりで総司の声に答えることはなかった。
「薫子さん、あなたは一体どうしたと言うんです? 最後まで――俺がそばにいても最後まで兄の名前を呼び続けたあなたが、何故兄を?」
「……未練が残ったの。死にたくなかった、ただいっちゃんに会いたかった」
そう言って薫子は泣き崩れ、華やかな薫子の桜の着物は赤い血と泥で汚れていく。その様子を見て総司は思い出したようにこういった。
「……この世に未練を残して死んだ者が時折、鬼になると聞いたことがある。そしてその鬼はその未練になった人物を食い殺し、その人物の心を奪って完全なる鬼になると」
薫子は呆然と鬼とだけ呟いてそれから魂が抜けたように動かなくなった。ただ総司をおっくうそうに見上げて一筋涙を流してこういった。
「……死にたい」
俺にそこからの記憶はない。
ただ総司が俺達に振り回されて響の全てを背負うことになったのだけはわかった。
「思い出した。夜光虫、君は薫子……?」
薫子は悲しげな表情を浮かべて俯いてから、睨むように告げた。
「思い出したならわかるでしょ?……歪みが生じるの、私は不完全な鬼神。壱岐が私のそばにいれば戻ろうとするの、魂が。そして鬼と人間の均衡が崩れて、神の力が抑えられ、鬼が本性を出す」
薫子は笑った。困ったように笑いながら涙を流した。
「一生愛さないと決めていたのは、食うのが怖かったからだけじゃない。愛してしまえば、一緒にいたいって、死んでしまうことが怖くなるから――。決めて、壱岐。私はこのままじゃあなたを殺すか、あなたに魂を奪われて鬼になる。あなたも不完全な魂じゃ、長くは生きられない。だから、私を殺して。今度はあなたが生きて」
薫子は強かった。ずっとそんな風に覚悟して生きてきたなんて、そんなの苦しいに決まっているのに。ずっと俺にも言わずに、一人だけで……でも、そんなのは!
「……っ卑怯だ! 何を選んだって後悔するしかないじゃないか!」
「ごめん」
「なんでずっと黙ってた!? なんでずっと、一人で抱えてたんだ!」
悲鳴のような不協和音が耳にづいてあげられなくて響いている。それが俺の中の記憶が瑠璃を拒否する拒絶反応だって分かっていても俺は瑠璃を抱きしめた。
「謝るなよ、お前は何も悪くない」
薫子が嗚咽を上げて俺にしがみついた。二人で泣き喚いたあの頃がフラッシュバックした。
「気、ごめん。ごめんな……」
塩辛い悔しさの涙が口に入った。花世はそっと羽ばたいて、飛び立った音が耳に届いた。
俺は、本当は薫子の悲しい顔が好きなんじゃなかった。薫子が自分を想っていてくれる証が欲しかっただけなんだ。本当は、お前の悲しい顔なんか見たくないよ。そんなの大っきらいだ。
涙が止まらなかった。俺はあの頃の壱岐じゃない。それでもまた出会い、惹かれあった。それは運命じゃない。けれど偶然じゃなかった。ずっと、会いたかったんだ。
泣き声が響く世界の中、悲しみと愛情がいつまでも溢れてきて痣ができるほど、強く抱き合った。
愛してると喉が嗄れるまで、伝えたかった。けれど、俺に。薫子を鬼にしてしまった俺にそんな身勝手な思いを伝えることなどできるはずもなかった。
「今の俺には弟がいたんだ。生まれてすぐ死産したって聞いてた」
俺は薫子をまっすぐと見据えた。薫子も言いたいことはわかっているみたいだった。
「……母さんは花世って名前だった」
薫子は俯きながら、「うん」とだけ返事をした。覚悟を決めたような、諦めたようなそんな返答に俺は確信する。
「あの時、自殺した母さんは、姑獲鳥になったんだな」
薫子は俯いたまま、首を縦に振った。
「どうして? 母さんは姑獲鳥に? それに青志はどうしてお前と一緒だったんだ?」
薫子はうつむいたまま、残酷な青の目をしてこういった。
「私は鬼の血族を絶やすために、壱岐の魂を持つ者を探さなければならなかった。自分を殺すために」
「うん」
薫子は俺のベッドに座ると、こういった。
「青志のことを私は目を付けていた。だから鬼子として生まれたの」
「鬼子? って何?」
俺はわけがわからなくなって聞いた。薫子は鬼で、青志も鬼? だったって言うんだろうか?
「鬼子っていうのは、鬼じゃないの。歯が生まれながらに生え揃った赤ちゃんのこと。実の親を殺すとか、不吉の象徴とか言われて忌み嫌われて……いる……わ」
瑠璃はそういうと、フラフラとその場に倒れた。
「おい!」
急いで駆け寄ると、瑠璃は月明かりに照らされて瞳を閉じて寝息を立てていた。その顔は何か重たいものを吐き出したような、少しだけほっとしたような顔だった。
俺はそっと、瑠璃の足を抱き上げた。こんな時に寝てしまうなんて、とため息を吐いて瑠璃をみつめる。すると瑠璃が一瞬霞んで見えた。目をこすってもう一度見ると、やはりぶれてみえる。どうしたのだろう? 瑠璃以外のものはちゃんとはっきり見えるのに……。
月がぼんやりとした明かりを公園に落としている。不気味だった。
こんな赤みがかった月明りを、俺は見たことがなかった。
肩をトントンと叩いて青志が俺の前に現れた。急に現れた青志に驚いたが、すぐに冷静さを取り戻して振り返った。
「まだ、喰われてなかったんだな」
吐き捨てるように青志はいい、睨んできた。
「ああ。悪くなったな」
記憶を掘り返そうとすると、ガラス片が刺さるような痛みが頭を襲う。
「思い出したのか……。わかっていると思うが、俺は死んでない」
「……」
俺は瑠璃の方を見ながら言った。
「お前、鬼子だったんだってな……」
俺が聞くと、青志は表情を曇らせてベンチに腰を下ろした。
「……どこまで覚えているんだ?」
瞳が色をなくしたような、力ない憂鬱な目をして青志が聞く。その瞳に隠された、どこまでも落ちてしまいそうなほど底の見えない闇に俺は怯えた。
「俺はお前のことに関しては何も知らない。何も覚えていない」
その言葉を口にすることが、どれほど無神経か分かっているのに言葉は躊躇いもなく出てくる。謝罪は必要ない。それは青志を傷つけるだけだと分かっているから。
「そうか、俺も赤子だったから何も覚えてない。けれど、瑠璃が教えてくれた。瑠璃と響鬼の家のこと。少しばかり長い話になるが、聞いて欲しい。母さんが姑獲鳥になった理由。俺が眷属に至ったわけ、そして瑠璃のことを」
切願するような寂しい目に俺は首を縦に振った。青志は知らないのだろう? 俺と同じに安らぎなどなかったのだろう。本当の家族を知らないで甘えられずに生きてきたのだろう。
青志は想いを吐き出すように言葉を噛み締めながら話し出した。俺の顔を見ながらゆっくりと、慎重に話しだした。
「俺が鬼子だと分かったとき、父親は我が子より迷信を信じ、母さんを守るため、俺を殺した。母さんは鬼子の存在は迷信だと否定したところで父さんを説得できるはずもないと、父親が出たあとすぐに兄さんに話しかけたそうだ」
「すぐに戻ってくるから」
「……俺は大丈夫。だからその子を守って」
「俺は正直、兄さんは変わっていないと思ったよ。覚えてないかもしれないけど、俺は兄さんが壱岐だった頃も兄さんの弟だった。兄さんは俺をよく親の暴力から俺を逃がしてくれた。そして、あの時、炎の中で焼かれた兄さんを助けた。その時にできた縁で、俺は兄さんと瑠璃と運命が重なった」
そういった青志の言葉で、首を絞められた時がフラッシュバックした。あの時、青志は何を考えていたんだろう? 壱岐の頃の俺を重ねて見ていたのだろうか? あの息苦しさの中、俺は自分と瑠璃のことしか考えていなかったというのに。
瑠璃とこいつはずっと過去と向き合わずにはいられない状況にいたというのに。
自分の無力さと無神経さにどうしようもない苛立ちを感じた。赤くただれる肌のむず痒さに耐えるような……そんなどうしようもない苛立ち。
「瑠璃が、逃げようとする母さんの前に現れ言ったんだ。その子を守ってあげる。その代わりに私に命を捧げなさいってな」
「な、なんでそんなことを」
うろたえて声が震えた。
「名前を奪われた兄さんは、感情が希薄だった。それは名をなくしたものの末路だ。名を奪われることによって生じる影響は計り切れない。それこそ十五才を迎える前に亡くなったっておかしくないんだ。けれど、それを回避する方法がある。それは兄さんの心に深い傷を残すこと。そうすれば、兄さんは消えてしまった感情を強く刺激することができる。命を長らえることができる。感情はエネルギーなんだよ」
俺は黙ったままうつむいた。だから、母さんが自殺したっていうのか。だから俺は母さんを見たときに。
思い返して吐きそうになった。
「続けるぞ。母さんはそれを了承した。自分の死を受け入れたんだ。マンションから飛び降りて死を意識した時に母さんはただただ、――俺たちが心配だった。そしてその気持ちと鬼の呪縛が母さんを姑獲鳥にしてしまった」
「……」
俺は何か言おうと口を開けたが、何も言えなかった。
無神経だったのだ。何もかも、青志の気持ちも瑠璃の気持ちも俺は何も知らないで、のうのうと生きてきたのだ。
顔をしかめて黙り込んだ俺を見て青志はため息を吐いてから言った。
「俺が鬼子に生まれたのは、前世の過ちから考えれば当然だ。俺は兄さんに逃がしてもらった後、兄さんのことも何も考えずに幸せな生涯を終えた。なんの罪悪感も抱かず。子をなし、恩を返すこともせず。……だからそんな顔をするな。あなたが悪いんじゃない」
青志はしっかりした口調で言い切った。俺は苦笑いするしかない。
「……俺、そんな変な顔してるか?」
「全部、自分のせいだと思っているんだろう?」
聞いたのに真顔で聞き返されたことで、俺はもう降参するしかなかった。
「俺が、もっとしっかりしていればこんなことにはならなかったんだ」
俺が泣き晴れた目からまた涙が流ないように天井を見ながら言うと、青志はなんとも思ってないような平然とした面でこういった。
「……馬鹿じゃないのか?」
「は?」
「罪悪感なんか今更どうしようもないんだよ。過去に戻れるわけであるまいし。例えもう一度やり直せたとしても、同じこと繰り返さないなんて言い切れるか? 俺はどれだけ過去に戻れたって過去を変えられるとは思えない。兄さんも瑠璃も、他の道を選べなかったからそうなったんだろう? 今更謝られたってあなたが自分勝手な道しか歩めないのは知ってるんだよ」
責められた気がした。初めて、その取り返しのなさを許さないでいてくれる存在が救いだと思った。これで青志に、許されたら俺はきっと自責の念で今以上に苦しんだだろう。
「ありがとう」
かすれた声で呟くと、青志が容赦なく呟いた。
「本当に馬鹿だな」
俺は少し、怒ったように笑った。
ぼんやりと自分の中にある記憶を、夢の話だと本気にすらしてこなかった。それに、そんな記憶どころではなかったし、それを真に受けて何がどうこうなるわけではない。
当時一九二二年、戦後恐慌から取り付け騒ぎが相次ぐ銀行への支払いで、日本銀行が紙幣の生産が追いつかず二百円札の裏が白紙の裏白の紙幣が世の中に出回っていた時代。
その時の俺じゃない俺はよくその紙幣を見て、まるで自分のようだと笑っていた。
当然のように自分が自分に向けた皮肉に、悲しくから笑いする日々。
表だけきれいに繕って、裏は何もない空っぽな人間だ。それも自覚したところで今更埋まりようのないほどに年を食ってしまっている。
響の家は規模の大きな呉服屋を営んでいた。その嫡男として俺は生まれ、そして不景気の波にあおられて、家の中は常にピリピリとしていた。
まだ学生であったが、母のプレッシャーに耐えきれない父はいつしか引きこもるようになり、経営を母と俺に押し付けるようになっていた。
毎日の通学路と自分の店だけが全てだった。繰り返す日々の重圧に耐えながら、自分が削り取られていくような感覚にいつも怯えていた。
世襲が当たり前な時代、自分は都合良く嫡男として生まれ後を継ぐように育てられた。毎日に充実感も何もなかった。教えられたことを必死にこなし、それでもそれ以上を求められる度、自分は何をやっているのかわからなくなっていった。
空虚だった。
明日が来てもこの空っぽな心は変わらない。虚しさを隠し、嘘みたいに笑って生きていれば、誰もこの惨めさには気づかないでくれるだろうか?
ただ淡々と生きている自分の、心から笑えないという惨めさに誰かが気づけば、貶められる気がして……。
いつも見えない何かと戦っていた。
俺はこの紙幣と一緒だ。価値はある。けれどそれだけでは不十分。俺は家にとっては嫡男という価値があるけれど、自分にとってそれは苦痛を感じるだけのただの器でしかなかった。
家の商売を手伝いながら、ふと自分にとっての己の価値を考えた。嫡男だけではない、自分は他に何の価値があるのだろうと。
桜が咲いたことで、春は鮮やかになった。蜂や蝶が辺りを飛び回り、庭に植えられた桜もゆるりと蕾を解いていく。和やかな季節になった。戦後恐慌に呉服屋である自分の家も不況に煽られ、どうにか立て直そうと躍起になっていたからだろうか、家の中は殺伐としていた。
冷たい声で指示されることをし、金切り声で神経質になった母が俺にいう。
「あなたしか店を任せられない」
母は父に諦めを抱いていたのだろうか? 父のことを影で情けない人だと言っていた。あなたしかいないのと泣きつかれたこともあった。
次男である総司のいる前で、平然と言ってのける母だった。総司の気持ちも考えずに……。なんて無神経な人なのだろうと口に出さずに思っていた。
何もかもが自分にとって重くて仕方がなかった。
逃げ出したい。
彼女に出会ったのは、そんな春先のできごとだった。
父に母が浴びせる罵倒に聞き耐えれなくなり、俺はそそくさと家を出た。
宛などなかった。友人と呼べるほど、誰かと関係を築ける時間もなかった。愛想笑いできる程度、世間話ができる程度、それだけの関わりができれば、店と関係のない人間と接するには十分だった。
春一番が吹く。叱咤されるように吹き荒れ、花びらが舞い落ちてぶつかる。
薄紅の花弁にさえ怒鳴りつけられているような気持になり、桜ににらみつけるも無意味さに空しくなる。
希薄だとしか言いようがなかった。自分も家族も、薄っぺらな存在でしかないことに寂しさが疼く。誰かの特別になりたいと、居なければ死んでしまうと言われるほどに必要とされたいと思った。
「身投げだ!」
井塚川に架けられた橋を通りかかった時、人だかりができていた。
何事だと人をかき分け、川の方を見ると薄い桜色の着物の娘が川で溺れている。濁流にもがくように手を伸ばし、苦しむように暴れながら沈んだり浮かんだりして今にも視界から消えてしまいそうな命。
何故か俺には彼女が、心の中の自分に見えた。
周りという人間に苦しめられ、空気を求めて苦しむ自分に重なって見えた。
流れていく彼女を見て助けようとする者はいないのかを辺りを見渡しても、誰も川に入ろうとする人は居なかった。 昨夜の雨で増水した川に入り助ければ、自分の命がないと思っているのか、ただ周りは見ているだけだった。
何か考えてのことではなかった。
脊髄反射のように、春先のまだ冷たい川の水の中に飛び込む。
増水した川に飛び込む勇気だとか、そんなものは吹き飛んでいた。ただ彼女が自分に見えた。苦しんでいる彼女を助けないのは、自分が助からない気がして怖かった。ただもう、純粋に怖かったのだ。
水を吸った上着が重く、泳ぎながら脱いだ。彼女はまだ先にいる。流れに押されて何度も溺れそうになる。けれど、助けたい気持ちが俺を後押しする。
誰にも助けられない彼女、まるで自分のようだった。
本当に手を差し伸べられたかったのは、紛れもなく俺自身だ。自己満足の偽善者といわれても仕方がない。
それでも彼女を救いたかった。
あと少しで辿り着きそうになった時、彼女は力尽きたように沈んだ。川の水は濁っている。とても水中で彼女を見つけられはしない。俺は急いで彼女のいた辺りに手を伸ばし、探ると布のような感覚のものに手が触れた。これだと思い、引っ張るとぐったりした青白い顔の娘の顔が出てきた。
息をしていない。
俺は急いで岸に行こうとするが、流れが速くてとても行けそうにない。
もうかなり流されている。初めて死を意識した。それでも怖くなかった。残してきた未練など一つもなかった。
けれど、彼女だけは助かって欲しかった。
俺は最後の力を絞って岸へと泳ごうとすると、兄さんと声がした。
溺れるように流され、必死になって見ると、川の先で弟の総司が浅瀬まで来て手を伸ばしていた。
あそこまでたどり着けば助かる。助けられる。そこから無我夢中で泳いだ。もうなりふり変わってなどいられない。自分を殴るような川の水に抗って、総司の手を握ると俺の意識は飛んだ。
目を開けると、実家の自分の部屋だった。かかりつけの医師と目が合い、自分にあったことを思い出すと、弾丸のように飛び起きた。
周りには母親と、総司、そして総司の隣には助けた娘が俺の様子を伺っていた。
「助か……ったのか?」
そう言った瞬間、母親が目を見開いて俺の頬を叩いた。じんと頬に血が集まってくるように熱くなる。
「……あなた、何もわかってない。あなたが居なければ、この家がどうなると思っているの!」
そう怒鳴られて、また寂しさが疼いた。未だに俺自身より、店の経営の事かと。
「母さん、こんな時に」
総司が母さんの肩に手を置いたが、母さんは金切り声で総司に言った。
「あなたに言ってなどいません。誰があなたなど! 手塩にかけた可愛い息子を心配して何が悪いのです!」
「あなたの産んだのは、俺だけじゃないでしょう。それに、あなたがしてるのは店の心配だ。俺や総司の心配じゃない……」
そう言い放った俺の声には憎しみが混ざっていた。自分の心を焼けるような怒りが、自分の心もろともじわじわと炙る。痛みと混ざって憎しみは熱量を増し続けて、母を殺したくすらあった。
「そうです! 私はあなたが――!!」
それでもまくし立てる母から視線を外そうとした時、凛とした声が聞こえた。
「悪いのは私です」
名前も知らない彼女がそういうと、美しい所作で母の前に行くとひざを折り、母の前で頭を深々と下げた。
「悪いのは私だけです。他の誰も悪くありません」
そういった彼女は、背筋を伸ばし凛とした声ではっきりと言い切った。
謝罪のはずの言葉なのに、彼女の言葉は一瞬、たじろいでしまうほどに威圧感は放っている。
「席を……外していただけませんか? 勝手なお願いだということは分かっております。ですが、息子さんと二人でお話したいのです」
娘は一歩後ずさり、背筋を伸ばした綺麗な姿勢で正座すると深々と頭を下げた。
その様子に総司は母さんの腕を掴むと、行きましょうと声を上げた。医師もその場の空気に居心地が悪くなったのか、腰を上げてそそくさと総司と共に出て行った。
障子が閉まると、彼女は頭を上げて責めるように俺に言った。
「何故助けたのですか?」
泣きそうな顔だった。それでも泣かないことを決意した強い表情だった。
震えている整った眉が悲しさを伝えているのに、瞳の映る光の強さが彼女という人の全てを伝えていた。
そんな、人前で泣かない強かさに強く憧れた。
俺は白状するように心の内を彼女に打ち上げた。
「溺れて苦しむ君を見て……誰からも愛されない空っぽな自分と重なって見えた」
部屋の中は薄暗く、洞穴に閉じ込められたみたいだ。
ぼんやりと照らす春の光ですら、自分には届かないのだと響の家にいると痛みに似た寂しさが疼いてしまう。
「君が誰にも助けられなかったら、俺自身誰にも助けられない気がして怖かった。それだけなんだ。君が死のうが生きようが君の勝手であるのに、余計なことをした」
頭をたれ、謝ると彼女は一瞬みっともないほど情けない顔をした。
きれいな形をした震える唇を強く噛みしめる彼女に動揺して声をかけた。
「そんなに……。何を思いつけていたのか。聞いてもいいだろうか?」
血が出てしまうのではないかと思うほどに、強く唇を噛み、小刻みに震え手をぎゅっと握りしめると、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「私は……くだらない理由で死のうとしました。幼少の頃に母が死にました。家には可愛がってくれる女中がいたので、そこまで寂しくはなかったのですが、父が新しく妻をとり、義母ができると、事態が変わりました。最初は優しくしていただいたのですが、子供が出来てから疎まれるようになり、自分の家なのに自分だけが家族じゃないみたいで、息が詰まる心地でした。女学校へいけば、友達もいましたが、居心地の悪さが消えることはありませんでした。気丈に振舞うことだけが弱い自分を戒める、私はそうやって生きてきたのです。……そんな時でした。先生に出会ったのは」
彼女はそういうと哀しく微笑んだ。苦笑いにも似たその微笑みには、酷い孤独の匂いが染み付いていた。
「先生は上山にある小さな診療所のお医者さんでした。体の弱い私をいつも気にかけてくださって嬉しかった。そのうち先生に恋慕の情を抱くようになり、先生もまた受け入れてくださいました。けれど、先生には正妻がいました。報われることのない恋だったのです。それでもよかった、私を見てくれる人がいることが救いだったのに――。先生は消えました。近所の方の話によるとどこか地方の方へ移転したとのことでした。その時、奥さんにバレたのかと頭の端で思い、悲しくはありましたが。……先立ってどうしようもなさが諦めさせてくれました。ぼんやりと家への帰り道を歩いていると、先生と家のことが交互に思い出されて、井塚川の河川敷までくると、吸い込まれるよう川に引き寄せられました。――馬鹿みたいでしょう? 恋愛沙汰で死ぬなんて、でも先の未来なんて見えなかったんです」
娘はそう言うと、一雫、涙を流してそれでも笑おうとした。取り繕おうとする姿は痛々しく、やはり自分と重なって見えた。
「違う、君は死のうとなどしていない」
涙を拭う彼女は目を見開いた。
「死のうとする人間が、あんなに必死にもがいたりするものか。君は苦しかっただけなんだ、俺と一緒で、誰かに助けて欲しかっただけなんだ」
そう言うと、俺はゆっくり起き上がると彼女の背中を優しくさすった。
「泣いていいんだ。泣いて忘れられるならみっともなくていい。泣いていいんだよ」
そう言った俺を見つめる彼女の顔が忘れられない。瞳いっぱいに涙をため、縋るように俺の着物を握り締めて、哀しいと苦しいと顔を歪めて子供のように泣いた。
その顔は酷く歪んでいて、ただもうみっともなかったのに、感情の底のとても純粋で綺麗な部分に触れた気がした。
自分が持ちようのない美しく、純粋な感情に俺はただ感化されていた。
彼女が泣き止むと、手を引いて外へ出た。
「何処へ行くのです?」
「診察所は上山の斉田診察所であっているか?」
そういうと、彼女は驚いたように「いいんです! もう、いいんです!」と俺の手を振り払おうとした。俺はそれを無視して彼女の手を離さなかった。
少し歩いてついた診察所に人気はなかった。そこまで来て俺は初めて彼女の手を離した。
人がいないことわかっていながら、俺は戸を叩いた。
「ごめんください」
「もう、居ないです! やめてください」
俺はそれを無視して続けた。
「ごめんください!」
「何がしたいんですか! やめてください!」
娘は必死になって言う。俺は娘の方を向いてはっきりとこういった。
「後悔しないのか? 例え、もう居なくても言いたいことあっただろう? 不満だってあるだろう? どんなことがあったのか知らない。君たちの関係なんて知らない。けど、君は何も知らされずに残されて、別れさえ言えないまま、それで本当にいいのか?」
俺がそう言うと、娘は俺を平手で殴り、涙をためた瞳で俺を見た。
純粋できれいな涙が惜しげもなく、流れてしまってあまりにそれがもったいなくなるほどに、身が凍ってしまうほどに美しくて見惚れる。
彼女の強い感情、彼女の強さ。誇り高さに俺は必死につけこめる隙を見つけたがっていた。
それが俺の抱いた初めての恋慕の情だった。
「……私が何を言ったところで。結局、意味なんかないですわ。あの人は聞きやしない。聞こえやしないんだわ。どうしたって、私は愛されない。気丈に振舞ったところで私の見え透いた演技なんか見破られて馬鹿にされていたんだわ。だいっきらい。皆、皆だいっきらい。本当はあなたのことなんて好きじゃなかったんだから」
彼女は何度も何度も俺を叩いて泣きじゃくった。八つ当たりでも感情を向けてもらえることが嬉しかった。
彼女には言いたいことが山ほどあったのだろう? 俺とは違っていうことを本当は諦めてはいない。彼女は俺と違って空っぽではない。
いろんなことを諦めずに向き合おうとしている。その痛々しさと健気さに、俺は感化されて憧れを抱いていた。
時代が時代なだけに、そんな女性は敬遠された。何も言わず、ただ夫に従うことが美徳とされた時代。それでも彼女の懸命さに俺はひどく羨望した。
彼のことを愛していたんだ。好きじゃなかったなんていっても、それなら泣いたりしないのだから。彼女に愛された先生はどれほど、幸福なんだろう。俺は誰にも愛されないのに、こんなに美しい人に愛されて、命を捨てるほどに愛されて、死ぬほど愛されていたのに、それなのに。
それを捨てていくなんて俺にはできない。
俺は彼女に愛されたいと、その時無意識に嘆願していた。
「君はまっすぐだね」
羨望と愛しさが絵の具みたいに混ざった言葉が出た。
彼女は、ただそのまっすぐな瞳で俺を見て「ごめんなさい。誰も悪くないのに」と呆然と言った。
「響さん!」
一週間たった晴天の朝の事だ。その日は学校もなく、経営する呉服店の朝仕度のみの比較的ゆっくりと過ごす朝だった。
女中の作る朝食の焼き魚の骨をぼんやりとしながら取っていると、怒号にも似た薫子の声が玄関から響いた。反響する声は低血圧気味の頭にじんと響き、目を細めて頭のしびれが過ぎ去るのを待つ。
こんがり焼かれたシャケの骨をとる手を止め、重い腰を上げる。母親は無言で「後にするように」と視線を送っていたが、それを俺は無視をし、玄関に急ぐ。
彼女が訪ねてくるのはわかっていた。
女中が彼女をなだめるように、彼女に向かい何度も頭を下げている。
「若旦那様がもうじき参ります。どうか落ち着いてください。客間にお通しいたしますので」
そう必死に言い募る女中を尻目に、息の上がる呼吸を整えて深く息を吐くとはっきりと彼女は言い切った。
「玄関で結構です。ここで待たせていただきますわ」
「ですが、若女将になる方を玄関でお待たせするなんて」
女中はおろおろと動揺し、言葉を詰まらせて彼女の扱いに困惑する。そんな女中を見て思わず、俺は笑ってしまった。
「薫子さん、うちの女中を困らさないでくれないか?」
品もなく声をあげて笑ってしまった自分をすぐに恥じ、取り繕うにして咳き払いをして彼女の前に立った。
助かったと言わんばかりに嬉しそうな表情をした女中は「それではあとはお若い二人で」とそそくさとその場を立ち去り、玄関にぽつりと俺の彼女だけが取り残された。
彼女の方に視線を向けると、彼女はその美しく愛らしい顔をこわばらせて声を荒げる。
「どういうことですか? 母から聞きました。見合いもなしに婚約の話を進めるなんて」
俺は嬉しそうな顔でもしているのだろうか? 俺が彼女に視線を向けた瞬間、恥ずかしそうに彼女は視線をそらし、頬を赤らめた。
「そんな顔したって嫌なものは嫌です」
俺はそんな彼女の恥じらう姿があまりに愛らしく、心の中がむず痒くどうしていいかわからないほどに愛しく感じてしまっていて思わず彼女の頭に手を置き優しく撫ぜてしまった。
その瞬間、彼女はほのかに色づいていた頬を真っ赤に染めて頬に手をあて誤魔化すようにうつむいた。
覗き込むように顔を傾けると、それに気づいた彼女が顔を思い切りしかめて噛み潰した声を出していう。
「……勝手ですわ。そんなの! 私は自分でちゃんと好きになった方と添い遂げます。義理でお嫁にもらわれたってそんなの幸せと違うわ」
薫子は静かに取り乱して見せた。俺はそんな薫子を見て自分でもびっくりするぐらい穏やかに笑えた。
「同じだ。……俺も自分の好きになった女しか嫁に迎える気はないんだ」
「えっ……?」
驚いたように思わず顔をあげた薫子に俺は頬を赤めて幸せそうに笑って見せた。
「俺は君を好きになってしまった。君があまりにも感情豊かで、まっすぐで嘘偽りないから、俺は感化されてしまった。どれだけ君を知っても、とても嫌いになりそうにない。君が嫌なら婚約は解消してもいい。でも、少しぐらいは考えてみてはくれないか? 俺は不精だし、大した奴ではないけれど……」
途端に自信なく言いよどむと、そんな俺を見て薫子は抑えきれず笑った。初めて彼女が心から笑うところを見た。
澄み切った声が鼓膜をくすぐる、薄暗いはずの玄関に途端に光が差し込むように彼女が笑うだけで、その全てが明るく華やかになる。
彼女の吐息でさえも花のように香り、全てを優しく包むようで、俺は彼女の笑顔を見て一生、彼女を守ろうと安易にも決意する。
けれど、その決意がそれだけ安直でも、真っ暗闇を照らす灯された火のように俺を照らしてくれる。細く脆い心がそれを感じた時、俺はようやく生きていると感じられた。
ずっと無感傷に生きていくのだと思っていたから、不意に与えられたそれは幸福でしかない。死ぬまでそれを大事にするから、彼女を幸せにするから、与えられるこの幸福を誰も奪わないでくれと懇願したくなるほど、俺の過去について回る孤独は冷たく、彼女は唯一みた光だった。
延々と消えないほどの熱量と光を放って、それが愛なのだと縋った。
「兄さん、婚約したって母さんが……」
彼女を送り届けたあとの慌ただしい居間で、席を立とうとした俺に弟の総司は少しだけ遠慮がちに聞いてきた。俺は総司の頭に手を置いて撫ぜてやってから、長い廊下に出て後ろを振り向かず「そうだよ」と答えた。
「やめてください、もう小さくないのだから。あの身投げの方ですか? 何故そこまで気をやるのです? 確かにお綺麗な方でしたが」
総司は食ってかかるように俺の後を追って、はっきりとした口調で言った。
「なんとなく、変われる気がしたんだ」
「何がです?」
不思議そうに聞く総司に笑いかけると、少しだけ俺は本音を交えて話をした。
「俺は馬鹿なんだ。総司、俺はずっとお前に恨まれてたんじゃないかと思っていたんだ」
それを言うと、総司は目を丸くして「何を馬鹿な」と吐き捨てた。
「……嫡男だからといって特別優秀でもない俺は優遇されて生きてきたから」
「兄さんは優秀ではないですか! それに俺が後継ではないのはあなたがそれにふさわしいからだ」
そう、必死に言い募る弟を見て俺は苦笑いするばかりだった。そうじゃない。お前の頑張りは俺が一番わかっている。なんだって他の者より頭一個飛び出ていて、俺はお前に追いつかれないようにするのに必死で何もできていない。
「毎日毎日、今以上を求められるのに疲れたと……泣き言をいえば軽蔑するか?」
そう言うと総司は黙った。
「余裕なんてないのだと思っていたのだ。他人に分けてあげられる情など、自分にはもう微塵も残っていないのだと、そう……思っていたのだ。自分にとって何もかも家に奪われて、生きている意味も全部家にあるのだと思っていた。でも、そうじゃないんだ」
肺に行きわたるように深く息を吸った。
幸せそうなんて大それたことを言うのは、人生で初めてかもしれない。でもどう否定したって俺が浮かべた表情は、幸せそうな笑顔だった。
「人は人と関わらなきゃだめだな。上辺だけではなく、腹を割って。そうやって関わっていかなければ、自分が本当はどこに立っているかわからなくなる。薫子と関わってわかった気がするよ。彼女は真っ直ぐで嘘がない、そばにいて得られるものが多い。だからだよ、そこに浮ついた感情などない。全て本気だよ」
俺はそう言って早くいかなければ遅れてしまうよと総司の背中を押した。総司は困ったような顔をして自分の部屋へ支度しに戻った。
「桜を見に行こうなんて、そんな風流な方だとは思いませんでしたわ」
薫子は少しツンとした態度で、俺の少し先を歩いていた。
河川敷沿いの桜並木道。薄紅の花弁が惜しげもなく零れ散るその景色に彼女の艶やかな黒髪とうぐいす色の着物の色味が映える。鮮やかな色彩だが、それだけではない。
彼女の凛とした立ち振る舞い、品のある彼女から染み出るあまりに儚い雰囲気が幻想的に目に映り、見惚れてしまう。
恍惚と香る桜とスミレの花の匂い。うららかな春の陽気に誘われて気持ちが浮足立ってあの世にいるような錯覚すらした。
はっと我に返り照れて視線を外す。
「君は桜が好きなのかと思って。初めてあったのも桜の下だったし」
俺は照れ隠しするように俯いて返事をする。
「正確には桜の咲いた川の泥水の中ですが……。あなたこそ桜が好きなんですか?」
「いいや、君が喜べばいいと思って」
俺がそう言うと薫子は余計怒る。そしてそれは照れ隠しだということも分かっているから、余計に笑ってしまうのだ。
「笑わないでください。何がおかしいんですか」
「ああ、茶店があるよ。腹も空くだろう? 薫子は花より団子の方だったかな?」
「もう!」
楽しそうに怒るというのは、おかしな言い方だろうか? 薫子の様子を見ていると怒っているのに楽しんでいるように感じる。
桜が吹雪のように流れ散る。美しいと思うのだけれど、少しだけ寂しくてもったいないように感じてしまう。
延々と春ならいいのに、それでも花は必ず散ってしまうのだ。
「きれい」
「散るのがなんだか、もったいない気もするがね」
「散らなければ、葉桜が見れません。桜は季節によって変わるから美しいのです」
薫子は桜に手を当てて優しく撫ぜた。
「毎年、咲いてくれてありがとう」
「意外と風流なんだな」
バカにしていったわけではないのに、薫子はまた声を荒げ怒るのだ。
「お互い様です」
お互い顔を合わすとなんだかおかしくなって笑ってしまう。
心に血が通ったような感覚に陥った。薫子がいると世界が変わる。幸せは程遠く、自分には縁がないものだと思っていた。ちゃんとあるんだな。自分にもちゃんとやってくるのだな。この人を大切にしたいと思う気持ちは会うたび大きくなって自分が変わっていく。
「先生のこと聞いてもいいか?」
「昨日来た手紙のことですか?」
薫子は身構えるようにおどおどと答える。
「先生は最後に君に何を伝えたかったのか、知りたくて。すまない。無神経だったかな?」
「いいえ」
寂しそうな顔をする薫子の心にはまだ、先生のことが残っているのだろうか? 傷つけたくないと思うのに、気になって仕方がないほど狭量だ。
「先生は女にだらしがなくて、頼りなくてどうしようもない人でしたが、優しい人でした」
薫子はそう言って大きく息を吐くと、俺に向かって幸せそうに微笑んで見せる。頬をほのかに赤らめて桜の雨を浴びながら、彼女は俺の方を見て言うのだ。
「俺がいなくても幸せになってください。それだけはいつも思うよと、手紙にはそれだけ。先生らしいといえば先生らしいですが、私は嬉しかった」
「君はそれでよかったのか?」
なんとなく歯切れ悪く聞いたのに、彼女はずっと幸せそうな表情を崩さないままだ。
「ふふっ。先生と別れなければ、私ずっと不幸せでした。あなたに出会えなかったから」
「えっ?」
「私は意地っ張りですが、あなたは私を大切にしてくれます。私は毎日花を玄関に置いて去っていく、あなたの照れ屋なところ好きですよ」
そう言った瞬間、俺が真っ赤に染まった。
「あれは、君が喜ぶかと思って」
言い訳みたいに言い募ると、薫子は嬉しそうにクスクスと笑った。
「あなた今、空っぽですか?」
薫子は少し真剣になって聞いた。その真摯な態度に俺は薫子の手を握ってこういった。
「いえ。俺は今、毎日楽しくて嬉しい。――きっと君に会えたからだ」
彼女は俺の手を取ってゆっくりと歩き出した。
「私もあなたに会えてとても幸せです」
小さく聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で呟いたその声に、俺は思わず泣きそうになった。この繋いだ手からこの震えが伝わらないでくれることを祈るばかりだった。
「……そうだ、名前で呼んでくれないか?」
思いついたように俺がそう言うと、薫子が少しおどけたように俺の顔を見て笑った。
「いっちゃん」
「なっ」
驚いて言葉を詰まらせると、薫子は悪びれずこういった。
「だって私たち年あまり変わらないんですもの」
俺は男を「ちゃん」づけで呼ぶなんてを怒ったが、からかった薫子はいつまでも笑っているもんだから、俺もおかしくなってお互い微笑みあって声を出して笑った。こんな時間がずっと続けばいいのに。そう思わずにはいられないほどに幸せだった。
「君が女学校を卒業したら、結婚しよう」
無責任な言葉だったのだ。その時薫子が見たこともないような顔で笑ったから、俺は疑いもしなかった。その言葉が薫子を傷つけることになるなんて。
出会ってからだんだんと会う機会が減っていった。それというのも経営がさらに悪化し、家のことで手一杯になったからだった。結婚を目前にして相手の家が倒産にもでもなったらと、彼女の親に示しがつかない。結婚が水に流れるのだけは嫌で避けたかった。それほどまでに俺にとって彼女の存在は大きかったのだ。
「兄さん。薫子さんに会ってやってください」
「今、経営が苦しいのは分かっているだろう? 今、破綻すれば結婚ができなくなる。互いのためなんだ」
今思えば、全部自分のためだった。薫子を離してしまうのが嫌で、必死だった。寂しく思う薫子のことなど何も考えていなかったのだ。
「……兄さん、薫子さんのことも考えてください」
「すまない。……それでも、今は頑張りたいのだ」
何も見えていなかった。削り取られていくようなあの頃の感覚だけが、また心に舞い戻ってくるようだった。その度、薫子を想った。一人ではない。今頑張れば、彼女がきっと待っていてくれると――。
玄関前で卒業間近の薫子が家路を歌いながら立っていた。まるで幽霊のように不気味に。西日が差し込んで薫子の影は焦げたように地面を黒く染めていた。その様子に俺は足を止め、ただ見入ることしかできなかった。
光に照らされながら薫子は俺を見るとこういった。
「……聞きました」
「何を?」
何もわからず、聞き返した。
「とぼけないでくださいっ! 婚約は破棄されたのでしょう!? 斎藤の娘さんと婚約するからとあなたのお母様が家に来ました!」
「……えっ?」
戸惑いの声をあげることしかできなかった。否定も肯定もできない。知らなかったのだ、母がそんなことをしていたことすら、俺は何もわからず仕事に没頭していた。
「わかっています! あなたは私より仕事が大切なのだと。わかっていますが……それでも! 私をとって欲しかった!」
責め立てるように叫ぶ薫子の肩を持った。
「落ち着け、薫子! 何も知らない! 俺は何も! 本当だ」
「嘘なんか嫌いです! あなたは私を捨てたんだわ、先生と同じ」
そう言いかけて、薫子は酷く咳き込んだ。驚き薫子の背中をさすりながら大丈夫かと声をかけた。
そっと覗き込んだ彼女は口元を押さえてゆっくりと手のひらを見る。
血が、手のひらにべったりとついていた。
驚きで黙り込んでいると、また口元を手で覆い咳き込む。
彼女の顔は青白く病的だった。腕も以前見たときより細く、弱々しい。
「薫子、お前……」
「肺病の女など捨てられて当然です。分かっては、いるのです。……わかっています。私はそれでも……あなたが好きなんですっ!」
そう言ってすがるように抱きついてきた薫子を俺は呆然と見つめていた。失うのは嫌だった。だから頑張ってきたのに。
俺は何をやってきたのだろう。頭の中で何度も、何度も、自分を責め立てた。けれど、どうしようもない。もう、薫子は俺のものではない。
二人で抱きしめ合って咽び泣いた。
俺も好きなのだと、愛しているのだと何度だって言った。ただもう、泣くことしかできなかった。何を言っても、何をしたところで、当時結核は不治の病だった。
先の見えない現実を見て、できることと言えば家を立て直し、薫子を家の力で最高の治療が受けられるよう病院に入れることだけだった。
「薫子を、総司と婚約させてください」
自分から親に頭を下げてお願いするのは、二度目だった。一度目の時は嬉しかったのに、二度目は胸に重石が乗っているような気持ちだった。
いくら元婚約者だからといって、何の関係性もない女の面倒などみれない。だからこその願いだった。
「兄さん……」
隣にいた総司さえ俺を哀れんだだろう。惨めな男だと思っただろう。そしてなんて勝手なのだと苛立っただろう。それでもよかった。薫子が生きてさえいてくれれば、あとはもうどうなろうと構わなかった。
「兄さんはそれでいいんですか?」
「俺は、薫子が生きてさえくれれば、それでいいんだ」
俺はいつも自分勝手だった。薫子の気持ちなんて何も考えていなかったのだ。
「兄さんはいつも自分のことしか考えてないんだな……彼女の気持ちも考えずなんて」
その時、初めて総司に侮蔑の視線を投げかけられた。けれどそれさえどうでもよくなるくらいに、彼女に助かって欲しかった。
「彼女がお前を好きだったらよかったのに」
流した涙を拭う気力さえわかなかった。総司はそう言った俺を笑ってしまうくらい情けない顔で見ていた。彼女を想う資格さえなくなった気がした。
それから総司は毎日彼女の入ったサナトリウムに手紙を送っていたが、俺は一通も送ることはなかった。いい加減に彼女と関わりたくなかったのだ。もう、俺にとって彼女は婚約者でもなんでもなかったから。
桜を見に行ったことばかり思い出していた。彼女の笑顔ばかり思い出していた。自分の心ばかりが彼女を覚えているのに、彼女の心から自分が消えることに恐怖していた。
それから半年、若さから進行が早く薫子は死んだ。その知らせが来たときは夏で蝉の声がうるさい昼間、俺は人目を気にせず泣き崩れた。全てをなくした気がした。きっと体は生きていてももう二度と笑えないような、そんな絶望が心に根ざしていた。
あなたは今、空っぽですか?
その言葉を思い出し、ふらつく体を起こして外に出ると空は高く青く澄んで綺麗だった。入道雲の影が夕立を予感させ、急に冷たくなる空気を感じて俺は家の中に入った。薫子は最後に何を思っていたんだろう。誰を思っていたのだろう。抱き合って泣いた時を思い出して背にしていた横開きの扉の方へ振り向くと人影が見えた。髪の長い、女が座り込んでいる。幻覚だと思った。そう、あの影は――。
急いで扉を開けると、目を鈍く光らせた彼女が膝を追って座っていたのだ。
「――薫子!!」
そこから先のことはあまり思い出したくはない。彼女に抱きついた瞬間、腕が彼女につかまれたことによって握り潰され、ちぎれた。あまりの激痛にもがくと、彼女は俺の腹を引き裂いた。赤黒い血飛沫を見せられてそれが現実だとは思えなかった。
ただ彼女は泣いていた。自分の行動が信じられないように悲鳴じみた声を上げ、青ちゃん、青ちゃんと俺の名前を呼んで泣いていた。
恐怖心に震えながら、自分が死ぬかもしれない時にどうしてだろう? 俺は考えていた。彼女のその涙は俺をまだ想っていてくれる証なのだろうか? 哀しそうに涙を流す彼女を見て、激痛で濁った声を上げながら、それでもどうしようもなく満たされていた。彼女の悲しい顔が俺を愛した証なら。殺されたって構わない。それは俺がずっと欲しかったものなのだから。
死んだって構わないのだ。
彼女を同じあの世にいけるなら、この痛みさえどうだっていい。俺がそう思った瞬間に彼女は俺をいたぶるのをやめて濁った目が、澄んだ瞳に戻り、泣き崩れ何度も何度も謝っていた。
「泣くな、薫子。泣かないでいいんだよ」
そう言った声はもう口から発せられていなかった。
泣きながら俺のことを抱きしめる薫子は、決心したように俺から遠ざかると、自分の鋭く尖った爪を首に当てた。
「――やめろ!! みたくない。俺はお前が二度も死ぬなんて見たくないんだ!!」
声をあげることも、その手を掴むこともできなかった。もう自分の体が自分の体ではないように動かない。
目をギュッとつぶり、覚悟したように薫子は引き裂いた。
薫子の血があたりを濡らし、目を背けることもできないで俺は彼女を見つめていた。けれど彼女の傷はみるみる癒え、彼女が倒れることはなかった。
その瞬間、重たかった体が動くようになった。
「薫子……!?」
咄嗟に薫子の方へ走り寄った。
「なんでっ……? なんで死ねないの!?」
「やめるんだ! そんなことしなくていい!!」
そう叫び、彼女に触れようとするのに、すぐに彼女に触れることができなかった。
彼女は何度も何度も狂ったように首を引き裂いた。その姿はもう正気の沙汰ではなく、ただもう狂人だった。
「どうしてだ? くそ! 薫子……、やめろ! もう、やめてくれ!!」
どれだけ叫んでも声が嗄れることはなく、掠れることもなかった。さっきまで自分を苦しめていた痛みも感じない。そんな違和感を不審に思い、辺りを見渡した。
夕立が降り出す。雨音がうるさい空間に雨に流れていく濃い血を見た。薫子の血ではない。けれど自分以外に怪我をしている者なんて――。
雨が運ぶ血の流れの先を見ると、無残な自分の亡骸を見つけた。その時初めて自分が死んでいることに気がついた。
俺は……死んでいる?
死? これが……? ぞっとした。自分の死体を見つめている魂だけの自分がいることも、もう薫子を止めることすらできないことも、全てが怖くなってその場に立ち尽くしていることしかできない。
地面を叩く雨音が大きくなって音に飲まれそうになった。
お互いをもう触れることもできない俺達はもう泣こうが喚こうが、この悲しい結末を変えることはできない。取り返しのつかない絶望が目の前に見えていた。
「……薫子さん?」
呆然と立ちつく俺達の前にふいに総司の声が聞こえた。薫子はもうすでに正気ではなく、救いを求めるように声を上げた。
「――総司さん。私、死ねないの。死にたいのに、死ねないの。嫌よ、いっちゃん! いっちゃん!」
俺の名を口にする薫子に泣きつかれ、総司は俺の死体を見つけた。
「……っ、兄さん!」
走り寄って俺を見ると総司は薫子を睨みつけた。薫子は嗚咽をあげるだけで何もいうことはなかった。怒りを押し殺すように総司が言葉を吐き捨てた。
「あなたは鬼だ! 俺の兄をこんなにして、兄はあなたを傷つけたかもしれない! けれど兄さんはあなたを愛していた。わかっていたでしょう?」
どれだけ怒鳴りつけても、薫子は泣きじゃくるばかりで総司の声に答えることはなかった。
「薫子さん、あなたは一体どうしたと言うんです? 最後まで――俺がそばにいても最後まで兄の名前を呼び続けたあなたが、何故兄を?」
「……未練が残ったの。死にたくなかった、ただいっちゃんに会いたかった」
そう言って薫子は泣き崩れ、華やかな薫子の桜の着物は赤い血と泥で汚れていく。その様子を見て総司は思い出したようにこういった。
「……この世に未練を残して死んだ者が時折、鬼になると聞いたことがある。そしてその鬼はその未練になった人物を食い殺し、その人物の心を奪って完全なる鬼になると」
薫子は呆然と鬼とだけ呟いてそれから魂が抜けたように動かなくなった。ただ総司をおっくうそうに見上げて一筋涙を流してこういった。
「……死にたい」
俺にそこからの記憶はない。
ただ総司が俺達に振り回されて響の全てを背負うことになったのだけはわかった。
「思い出した。夜光虫、君は薫子……?」
薫子は悲しげな表情を浮かべて俯いてから、睨むように告げた。
「思い出したならわかるでしょ?……歪みが生じるの、私は不完全な鬼神。壱岐が私のそばにいれば戻ろうとするの、魂が。そして鬼と人間の均衡が崩れて、神の力が抑えられ、鬼が本性を出す」
薫子は笑った。困ったように笑いながら涙を流した。
「一生愛さないと決めていたのは、食うのが怖かったからだけじゃない。愛してしまえば、一緒にいたいって、死んでしまうことが怖くなるから――。決めて、壱岐。私はこのままじゃあなたを殺すか、あなたに魂を奪われて鬼になる。あなたも不完全な魂じゃ、長くは生きられない。だから、私を殺して。今度はあなたが生きて」
薫子は強かった。ずっとそんな風に覚悟して生きてきたなんて、そんなの苦しいに決まっているのに。ずっと俺にも言わずに、一人だけで……でも、そんなのは!
「……っ卑怯だ! 何を選んだって後悔するしかないじゃないか!」
「ごめん」
「なんでずっと黙ってた!? なんでずっと、一人で抱えてたんだ!」
悲鳴のような不協和音が耳にづいてあげられなくて響いている。それが俺の中の記憶が瑠璃を拒否する拒絶反応だって分かっていても俺は瑠璃を抱きしめた。
「謝るなよ、お前は何も悪くない」
薫子が嗚咽を上げて俺にしがみついた。二人で泣き喚いたあの頃がフラッシュバックした。
「気、ごめん。ごめんな……」
塩辛い悔しさの涙が口に入った。花世はそっと羽ばたいて、飛び立った音が耳に届いた。
俺は、本当は薫子の悲しい顔が好きなんじゃなかった。薫子が自分を想っていてくれる証が欲しかっただけなんだ。本当は、お前の悲しい顔なんか見たくないよ。そんなの大っきらいだ。
涙が止まらなかった。俺はあの頃の壱岐じゃない。それでもまた出会い、惹かれあった。それは運命じゃない。けれど偶然じゃなかった。ずっと、会いたかったんだ。
泣き声が響く世界の中、悲しみと愛情がいつまでも溢れてきて痣ができるほど、強く抱き合った。
愛してると喉が嗄れるまで、伝えたかった。けれど、俺に。薫子を鬼にしてしまった俺にそんな身勝手な思いを伝えることなどできるはずもなかった。
「今の俺には弟がいたんだ。生まれてすぐ死産したって聞いてた」
俺は薫子をまっすぐと見据えた。薫子も言いたいことはわかっているみたいだった。
「……母さんは花世って名前だった」
薫子は俯きながら、「うん」とだけ返事をした。覚悟を決めたような、諦めたようなそんな返答に俺は確信する。
「あの時、自殺した母さんは、姑獲鳥になったんだな」
薫子は俯いたまま、首を縦に振った。
「どうして? 母さんは姑獲鳥に? それに青志はどうしてお前と一緒だったんだ?」
薫子はうつむいたまま、残酷な青の目をしてこういった。
「私は鬼の血族を絶やすために、壱岐の魂を持つ者を探さなければならなかった。自分を殺すために」
「うん」
薫子は俺のベッドに座ると、こういった。
「青志のことを私は目を付けていた。だから鬼子として生まれたの」
「鬼子? って何?」
俺はわけがわからなくなって聞いた。薫子は鬼で、青志も鬼? だったって言うんだろうか?
「鬼子っていうのは、鬼じゃないの。歯が生まれながらに生え揃った赤ちゃんのこと。実の親を殺すとか、不吉の象徴とか言われて忌み嫌われて……いる……わ」
瑠璃はそういうと、フラフラとその場に倒れた。
「おい!」
急いで駆け寄ると、瑠璃は月明かりに照らされて瞳を閉じて寝息を立てていた。その顔は何か重たいものを吐き出したような、少しだけほっとしたような顔だった。
俺はそっと、瑠璃の足を抱き上げた。こんな時に寝てしまうなんて、とため息を吐いて瑠璃をみつめる。すると瑠璃が一瞬霞んで見えた。目をこすってもう一度見ると、やはりぶれてみえる。どうしたのだろう? 瑠璃以外のものはちゃんとはっきり見えるのに……。
月がぼんやりとした明かりを公園に落としている。不気味だった。
こんな赤みがかった月明りを、俺は見たことがなかった。
肩をトントンと叩いて青志が俺の前に現れた。急に現れた青志に驚いたが、すぐに冷静さを取り戻して振り返った。
「まだ、喰われてなかったんだな」
吐き捨てるように青志はいい、睨んできた。
「ああ。悪くなったな」
記憶を掘り返そうとすると、ガラス片が刺さるような痛みが頭を襲う。
「思い出したのか……。わかっていると思うが、俺は死んでない」
「……」
俺は瑠璃の方を見ながら言った。
「お前、鬼子だったんだってな……」
俺が聞くと、青志は表情を曇らせてベンチに腰を下ろした。
「……どこまで覚えているんだ?」
瞳が色をなくしたような、力ない憂鬱な目をして青志が聞く。その瞳に隠された、どこまでも落ちてしまいそうなほど底の見えない闇に俺は怯えた。
「俺はお前のことに関しては何も知らない。何も覚えていない」
その言葉を口にすることが、どれほど無神経か分かっているのに言葉は躊躇いもなく出てくる。謝罪は必要ない。それは青志を傷つけるだけだと分かっているから。
「そうか、俺も赤子だったから何も覚えてない。けれど、瑠璃が教えてくれた。瑠璃と響鬼の家のこと。少しばかり長い話になるが、聞いて欲しい。母さんが姑獲鳥になった理由。俺が眷属に至ったわけ、そして瑠璃のことを」
切願するような寂しい目に俺は首を縦に振った。青志は知らないのだろう? 俺と同じに安らぎなどなかったのだろう。本当の家族を知らないで甘えられずに生きてきたのだろう。
青志は想いを吐き出すように言葉を噛み締めながら話し出した。俺の顔を見ながらゆっくりと、慎重に話しだした。
「俺が鬼子だと分かったとき、父親は我が子より迷信を信じ、母さんを守るため、俺を殺した。母さんは鬼子の存在は迷信だと否定したところで父さんを説得できるはずもないと、父親が出たあとすぐに兄さんに話しかけたそうだ」
「すぐに戻ってくるから」
「……俺は大丈夫。だからその子を守って」
「俺は正直、兄さんは変わっていないと思ったよ。覚えてないかもしれないけど、俺は兄さんが壱岐だった頃も兄さんの弟だった。兄さんは俺をよく親の暴力から俺を逃がしてくれた。そして、あの時、炎の中で焼かれた兄さんを助けた。その時にできた縁で、俺は兄さんと瑠璃と運命が重なった」
そういった青志の言葉で、首を絞められた時がフラッシュバックした。あの時、青志は何を考えていたんだろう? 壱岐の頃の俺を重ねて見ていたのだろうか? あの息苦しさの中、俺は自分と瑠璃のことしか考えていなかったというのに。
瑠璃とこいつはずっと過去と向き合わずにはいられない状況にいたというのに。
自分の無力さと無神経さにどうしようもない苛立ちを感じた。赤くただれる肌のむず痒さに耐えるような……そんなどうしようもない苛立ち。
「瑠璃が、逃げようとする母さんの前に現れ言ったんだ。その子を守ってあげる。その代わりに私に命を捧げなさいってな」
「な、なんでそんなことを」
うろたえて声が震えた。
「名前を奪われた兄さんは、感情が希薄だった。それは名をなくしたものの末路だ。名を奪われることによって生じる影響は計り切れない。それこそ十五才を迎える前に亡くなったっておかしくないんだ。けれど、それを回避する方法がある。それは兄さんの心に深い傷を残すこと。そうすれば、兄さんは消えてしまった感情を強く刺激することができる。命を長らえることができる。感情はエネルギーなんだよ」
俺は黙ったままうつむいた。だから、母さんが自殺したっていうのか。だから俺は母さんを見たときに。
思い返して吐きそうになった。
「続けるぞ。母さんはそれを了承した。自分の死を受け入れたんだ。マンションから飛び降りて死を意識した時に母さんはただただ、――俺たちが心配だった。そしてその気持ちと鬼の呪縛が母さんを姑獲鳥にしてしまった」
「……」
俺は何か言おうと口を開けたが、何も言えなかった。
無神経だったのだ。何もかも、青志の気持ちも瑠璃の気持ちも俺は何も知らないで、のうのうと生きてきたのだ。
顔をしかめて黙り込んだ俺を見て青志はため息を吐いてから言った。
「俺が鬼子に生まれたのは、前世の過ちから考えれば当然だ。俺は兄さんに逃がしてもらった後、兄さんのことも何も考えずに幸せな生涯を終えた。なんの罪悪感も抱かず。子をなし、恩を返すこともせず。……だからそんな顔をするな。あなたが悪いんじゃない」
青志はしっかりした口調で言い切った。俺は苦笑いするしかない。
「……俺、そんな変な顔してるか?」
「全部、自分のせいだと思っているんだろう?」
聞いたのに真顔で聞き返されたことで、俺はもう降参するしかなかった。
「俺が、もっとしっかりしていればこんなことにはならなかったんだ」
俺が泣き晴れた目からまた涙が流ないように天井を見ながら言うと、青志はなんとも思ってないような平然とした面でこういった。
「……馬鹿じゃないのか?」
「は?」
「罪悪感なんか今更どうしようもないんだよ。過去に戻れるわけであるまいし。例えもう一度やり直せたとしても、同じこと繰り返さないなんて言い切れるか? 俺はどれだけ過去に戻れたって過去を変えられるとは思えない。兄さんも瑠璃も、他の道を選べなかったからそうなったんだろう? 今更謝られたってあなたが自分勝手な道しか歩めないのは知ってるんだよ」
責められた気がした。初めて、その取り返しのなさを許さないでいてくれる存在が救いだと思った。これで青志に、許されたら俺はきっと自責の念で今以上に苦しんだだろう。
「ありがとう」
かすれた声で呟くと、青志が容赦なく呟いた。
「本当に馬鹿だな」
俺は少し、怒ったように笑った。

