夜光虫が嗤う

 見覚えのある河川敷の並木道に、桜が咲いている。
一人の着物を着た少女がそこで座り込んで、ぼんやりと辺りを見ていた。光で霞む桜の木は、雨のように花びらを散らしては、汗ばむ肌を撫ぜるように落ちていく。
少女は誰だろう? 滑らかな黒髪、華奢な肩、白磁のような白の肌は、陽の光に照らされるとその白さが反射して、淡く光を放っているようにも見えた。
夜光虫に、似ている気がした。
 古い作りの河川敷に掛かる橋から話し声が聞こえた。耳に唸るような風の音が聞こえたかと思うと、桜の花びらが飛ばされて、その先にいた長身の男と、着物を着崩しキセルを加えた猿の妖怪に吹き荒れた。
「約束通り、神様の種をもらいに来たよ」
鈴の音がリンリンとその猿が揺れるたびに鳴り響く。昼間だというのに、そこには少女と彼らしかおらす、その静寂に鈴の音は耳障りで酷くうるさかった。
「……約束が違う。鬼を殺すには子供を産ませることだとお前は言った。鬼に子供を産ませれば、鬼の力は衰えて死んでしまうと。確かに小夜は死んだ。けれど今度は子供が鬼になった。こんなこと望んでいない。こんな望んでいないことと小夜の記憶を引き換えになど! できるはずがないだろう!」
 取り乱す男に、猿はさも当たり前のようにこう返す。
「鬼の子供が鬼にならないわけがないだろう? 鬼というのはね、子供産むと鬼の魂が子供にわたるんだよ。記憶も妖力も、子供を守るための力全てが母から子へ渡り、渡してしまった母鬼は死んでしまう。私はあくまで小夜を殺すにはどうしたらいいかという問いにしか答えてない。間違いではないだろう?」
「そんな……!」
 少女は遠くから、その言い争いを見ていた。ただぼんやりとみているその無表情の瞳にはいつしか涙が零れ落ちていた。
「それに……名は体を表すとはよく言ったものだよ。小夜の子、あやめといったかな? ふふっ、ひどい名前をつけるもんだ」
「……」
「妖かしの芽。であやめ。花の名前で隠してごまかせるとでも思ったのかい? 真名はね、つけた本人の願いと感情が現れるんだよ。心を読めばすぐにわかる……。お前は自分の子を恐れている。そして、小夜は死を選ぶために妖芽を産んだ……。違うかい?」
 猿は攻め立てるように、長身の男に言い放った。長身の男は悲しげな顔をして押し黙っているばかりで、答えようとはしなかった。
「おかあさんは……死ぬためだけに私を産んだの?」
少女がそう呟くと、次の瞬間にはその幼い手が黒く変色していき、血管が浮き出て、爪が鋭く大きく尖った。
そんな変化に男と猿は気づかない。
「私は誰からも望まれてなかった。……誰も私を望んでなかった!」
 一人の少女はだんだんと黒く染まっていく。そして八重歯が鋭利になり、頭の折れた角が再生していくのがわかった。
「望まれずに生きるぐらいなら」
 少女は全身真っ黒になって油断していた猿を、後ろから引き裂いた。耳の痛くなるような悲鳴を猿は上げて横たわり、赤い血が飛び散って辺りを汚す。そしてその血から蒸気が立ち上る。
「臭い。まずい。おいしくない。……それでも私を鬼にしたお前を許さない。愛されない体にしたお前を、私は許さない」
猿は少女に殴られた。その力はあまりに強靭すぎて、殴られるたび猿の肉片があちこちに飛び散り、飛び散った肉片は蒸気になって消えていく。
「許さない、許さない」
そうして猿は姿形もなくなったが、瞳だけは消えることなく転がって川の中に落ちていった。血まみれの黒い鬼はそれを呆然と見ているだけだった。
「愛されない。私は……一生、誰にも愛してもらえない」
 そういって泣いた鬼の瞳には、涙があふれてはこぼれ、流れていく。その姿はもう、ただ、弱くてみっともないただの人間だった。血で汚れたただの少女だった。
 月明かりは少女の泣き崩れた姿を優しく照らしている。もう月明かりを反射するほど白かった肌は黒く染まって見る影もない。
「妖芽……」
 呼びかけたのは長身の男だった。
「おとうさん、私と同じになってよ……。一人にしないで! 私を……鬼の私を、一人にしないで!!」
 狂い咲きの桜が二人の間に花びらの雨を降らせる。みじめにも散っていく桜は一人だけ咲いて、一人だけ散っていく。寂しい桜だった。
「わかった」
男はそういうと、少女の腕にかみついて血を飲んだ。少女は嬉しそうに笑っていた。


 目を開くと、まだ朝にもなっていない深夜二時だった。時計の針がカチカチと規則的に鳴り響く。丑三つ時か。ぐっしょりとパジャマが汗で濡れ、冷たい雫が背中を流れていく。  
夏の熱帯夜で掻いた汗ではないことは、明確だった。
 長い夢を見ていた。
どこからどこが誰の夢で、よくわからない。けれど、確かにいえるのは一つはあの妖怪の記憶ということだ。
「起きたか」
 声が聞こえた。でも姿は見えない。どこを見渡しても人なんかいない。妖怪? いいや、この声は青志の声だ。
「青志……か?」
 おそるおそる聞いてみると、ははっと乾いた笑い声が聞こえてくる。あざ笑うような馬鹿にしたような、心底俺を嫌っているとでも言いたげな声。
「この夢はお前が?」
「そうだ」
 見下すようなその声には何故だか、緊張感のようなものを感じる。ピリリと肌に痛みを感じるほど張り詰めたその雰囲気から、昼間の妖怪のことを思い出していた。リンリンとうるさいぐらいになる鈴の音――。
「お前に聞きたいことがある」
 俺は恐る恐るどこにいるのかわからない青志に向かって声をあげた。青志は黙って何も言わない。俺は戸惑いながらも、言葉を続ける。
「どうして俺にこんな夢を見せた?」
 そう聞くと、青志は考え込むように少しだけ間を開けてから答えた。
「……昼間、妖怪にあっただろう?」
「ああ」
「あれは、覚という心を読むことができる妖怪。さっきの夢の通り、響鬼家に鬼を殺す方法を授けたのはあの妖怪。知識欲が強く、記憶を喰って生きている。妖怪のことを何も知らなかった響鬼家に、記憶と引き換えに鬼の殺し方を教えてやると取引を持ちかけてきたのが奴だ。しかし、そいつは桜子の子、妖芽が封印した」
 真っ黒に染まる怒りと悲しみに満ちたその鬼を思い出して、うっ、と込み上がる胃液をどうにか押さえ込んだ。
「……その殺したはずの、そいつが今日の昼間俺の前に現れたってことか」
青志は「そうだ」と肯定してから俺に問いかけた。
「その妖怪はどんな姿をしていた?」
 俺は夢の中にいた妖怪を思い出して、彷彿と昼間にあったことを思い出した。鈴の音、男の声、生暖かい息――。
「……人の姿を。でも、もしかして、夜光虫は……夜光虫の本当の名前は——」
「それを答える権利は、俺にはない」
 俺は少し違和感を抱いた。
「夜光虫はあの妖怪に狙われている?」
「ああ、そうだ」
「それは、妖芽さんと一緒に死ねなかったからか? 愛していた人を奪った瑠璃が憎いからか」
「そうだ」
 やっぱり。やっぱりおかしい。夜光虫は妖芽の記憶を持っている。それは夜光虫自身が妖芽だったと言っても過言ではないほど、聞いた話の記憶とか曖昧なものではなく、本人の記憶自体をもらっている。そして瑠璃は今日、俺からあの妖怪の匂いを嗅いで、何か確信した素振りを見せていた。
 匂いを嗅いで確信していたのなら、何故確認するような真似をする? それに何かが引っかかる。
「お前は、夜光虫に妖芽の記憶を見せてもらったのか?」
「何を言っているんだ。そうでなければ、お前に記憶を見せることはできない。俺は自分の見た記憶しか相手には見せられないのだから」
 俺は確信した。――こいつは青志じゃない。俺は咄嗟に枕元に置いていた瑠璃からもらった妖刀を手にすると、部屋中を見渡しながらこういった。
「青志は言っていた。俺は自分の記憶を相手に見せることができると。相手に自分の記憶を見せるってことは、視点がその記憶の本人でなくてはおかしい。視点が自分なら、見えている映像に自分が映るはずはない。なのに、さっきの夢の映像には妖芽自身が出てきた。まるであれじゃ映画だ。見せたいシーンだけを切りぬいて、編集したみたいだ。……お前、青志じゃないんだろ?」
 そういうと、姿の見えない青志の声がしなくなった代わりにリンリンと鈴の音が鳴り響き始めた。不吉な鈴の音はだんだんと大きくなる。その音の迫力に負けてしまいそうだ。
「……よくわかったな。意外と人間とは頭がいいらしい」
「俺も、妖怪ってもう少し頭がいいもんだとばかり思っていた……」
 何処から現れるかわからない妖怪にビクビクしながら、俺は妖刀を構えてあたりを見渡す。
「あの夢はな、私が作ったまがいものだけれど、嘘ではないんだよ」
「誰が、お前のいうことなんか信じるかよ」
 緊張感の中、喧嘩だってまともにしたことのない俺がいきなり妖怪と戦って勝てるんだろうかと頭の隅で考えていた。無理だとしても、今ここにいるのは俺しかいない。逃げることはできるかもしれない。でも小夜のところだけには逃げるわけにはいかなかった。瑠璃を守るために、それだけはしちゃいけなかった。
「私は化けてない本当の姿の時に嘘はつけないんだよ。なんせ私は記憶を食って生きている妖怪だからな。人の記憶で生成されているこの体は嘘をつくと、崩れ始める。そういう風にできているんだよ」
 俺は声のする方をじっと見つめて、ゆっくりと慎重に間合いを詰めた。
「……普通、自分の弱点を敵にペラペラしゃべる奴なんかいない」
 声を張り上げ、怒鳴るようにそういうと鈴の音がまたリンと鳴った。妖怪が動いたのかと俺は警戒しながら音のする方へじわじわと近づく。クローゼットから聞こえる?
「もう私は長くない。寿命だよ。いつまでも生きられるものじゃないんだ」
 意を決してクローゼットをあけると、白装束の夜光虫がにんまりと笑っていた。……いいや、夜光虫じゃない。夜光虫はこんなふうに笑ったりしない。
「化けたんだよ。あの鬼の子に。君はそれだけで揺らぐね。自分自身あの鬼神じゃないってわかっているだろうに」
「……うるさい」
 俺は吐き捨てるようにそういうと、妖怪に妖刀を向けた。刺殺してしまえばいい。このまま。でも、覚悟を決めようとするたび、夜光虫の顔をした妖怪がにんまりと笑う。見たこともない夜光虫の表情をして笑う。
 ぎゅっと目をつぶった。こいつは瑠璃じゃない。表情が違う。わかっているそんなこと。
「お前はあの鬼神が好きなんだろう?」
「うるさい!!」
 大声で叫んだ俺は妖怪の喉元にぐっと妖刀を当てた。妖怪の喉元から血が流れる。ぽたぽたと白い妖刀に血が伝う。突きつけた喉元が、妖怪がしゃべるたび動くのを見て息を飲んだ。妖怪であれ、何かを殺すのは怖い。息が自然と上がる。
「……その小太刀、何でできているか知っているか?」 
「……知らない」
 吐き捨てるようにそういうと、妖怪が裂けそうなほど口元を釣り上げて、ケラケラ笑った。その声は俺を哀れむような、あざ笑うような声で恐怖心と共に湧き上がったのは、怒りだった。喉元に突き立てた妖刀をさらにぐっと押し付ける。その瞬間、妖怪は笑ったままこういった。
「あの鬼神の角だよ」
「えっ……」
 その言葉を聞いて俺は一瞬気がとられた。その隙を狙っていたのか、今度は妖怪が俺の首を掴んで押し倒した。床の上に小夜からもらった妖刀が転がる。
「何故私がお前に近づいたと思う?」
 首を絞めながら妖怪は俺に聞く。俺は必死にその手を解こうともがくが、手は外れない。
「私は神殺しがしたいのさ。でも私は弱い妖怪でね。一人では勝てない。だから手を組もうって言ってるんだ。お互い利害は一致しているからね」
 俺は渾身の力で妖怪の手をほどくと、妖怪の袂を片手で掴み、小夜の妖刀をたぐり寄せると、妖怪につきつけた。
「ふざけるな! なんでお前なんかと手を組まなきゃならないんだ」
「……どうしてお前には妖怪が見えたと思う?」
 妖刀を突きつけられながら、なんの動揺も見せず、妖怪が聞く。
「今それが関係あるのか?」
 精一杯睨みつけながら、俺が聞くと妖怪はクスクスと薄気味悪く話し始めた。
「大ありさ。お前はお前に生まれる前、魂、名前を奪われた。輪廻を廻ってなお、お前には名前がない。そうだろう、名無し。完全な魂を持つ人間というのは、無意識に妖怪から身を守るための結界を張っている。それによって常人には妖怪が見えない、余計な介入を避けるために見えなくしているんだよ。でも不完全な魂のお前は、妖怪から自分を守るための結界を張れない。だからお前には妖怪が見える」
 そう言って、妖怪は目が飛び出そうなほど大きく見開いてダラダラとよだれが溢れるほど笑い出した。俺の頭上で、口を限界まで開いて笑う妖怪の顎の骨が、カクカクと音を立てている。
 その異様な姿、異様な匂いに吐き気を催した。
「お前、食われたんだよ。お前が生まれる前の前世で。瑠璃って鬼神に神になるための贄として魂の半分をな」
「――っ」
言葉が出なかった。
(……  は私にとって特別だから)
 思い出した夜光虫の言葉と、青志が見せた夢の中にいた夜光虫に似た女を……思い出していた。風になびく黒髪を撫でる女はこちらを見ていたずらっぽく、笑った。凛としたしっかり者の彼女の声がする。それは、確かに俺が知っている彼女の声だった。
(死に方がわからないの――。)
「……瑠璃?」
 涙が、溢れて止まらなくなった。なんだ、これは? 自分の体なのに、自分じゃないみたいに理性が利かない。悲しい気持ちなんか知らないはずなのに、愛しくて愛しくて、悲しかった。いつの間にか、突きつけていた手に力が抜けていた。そんな俺の手を振り払うと、妖怪は跨っていた俺からどいた。
「あーあ、これだから不完全な魂は」
 妖怪はそんな俺の様子を見て呆れたようにため息をつく。
「そんなに悲しいかい? 自分が死んだことも、愛する女に殺されたことも」
「……」
頭が動かなくなった。声は聞こえるのに、反応できない。
「おーい。聞こえてるか?」
「そこまでだ」
聞こえたのは、本物の青志の声。俺はあたりを見渡したが姿が見えない。どこだ? と目を細めて探していると、急に部屋のドアが蹴破って、入ってきたのは青志だった。
青志は夜光虫の姿の妖怪を見下ろしている。
「……吸血鬼か」
 妖怪は両手をあげて降参するようなポーズを取った。
「こいつには勝てないな。またね、  」
 そういうと妖怪は夜光虫の姿から子供の姿に代わり、窓を開けるとそのまま窓から飛び降りた。
 青志はその様子を見届けると、俺の前までやってきて俺の胸ぐらを掴んで、こう聞いた。
「何をされた? 何をされたんだ! 言えよ!!」
 俺は泣きじゃくりながら、青志に言った。
「俺はお前を知ってる……」
 青志はその言葉を聞いて目を見開いた。そして俺を下ろすと、泣きそうな顔をしてこういった。
「あなたの歳は?」
「はっ?」
 俺は聞かれた意味がわからなくて素っ頓狂な声をあげる。
「何歳なんだ?」
 何の意図があるのかはわからないが、青志は迷いもなく聞いてきた。俺は首をかしげながら答える。
「あと一週間で十五だけど」
 青志はそういうと、ため息をついてからこういった。
「あなたにも、選ぶ権利はあるよな」
 そしてそう言うと、意を決したように俺の方へ向き直ってこういった。
「自分が死ぬのと、夜光虫が死ぬのどちらがいい?」
 聞かれた意味がわからなかった。
「……なんでそんなこと」
 そんな俺の様子も構わず、青志は冷徹な表情でこういった。
「あなたは、死んでも夜光虫、いいや、瑠璃を守りたいと思うか?」
 張り詰めた空気の中、動いたら裂けてしまいそうなほど心は震えていた。自分の死と瑠璃を比べるなんて、考えたこともなかった。いいや、考えたくなかったのかもしれない。
じりじりと責められるように問い詰める青志に俺は何も答えられなかった。
「……もうすぐ、その時が来る。決めるのはあなただ」
 そういうと、青志は壊れたドアを引いて部屋から出て行った。
 わけのわからないまま、取り残された俺は呆然とその場に座り込むことしかできなかった。ただ頭には、見知らぬはずの瑠璃の笑顔だけが忘れられずに浮かんでいた。

 わかったことがある。夜光虫と俺は偶然出会ったわけではないということだ。
 その次の日の夕方、俺は夜光虫と初めてあった公園にいった。夜光虫はその日は学校を休んで姿を見せなかったが、なんとなく公園にいる気がした。それは直感などという曖昧なものではなくて、確証とも呼べるほど確かな予感だった。
西日が公園を赤く染め、錆び付いた遊具が一層脆く見えた。西日の眩しさから顔をしかめると、小夜はその光の中でブランコに座りながら歌を歌っていた。

やみに燃えし かがり火は 炎今は 鎮まりて 眠れ安く いこえよと
さそうごとく 消えゆけば 安き御手に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん
夢を見ん――。

「なんの歌?」
 俺は光にかき消されそうな彼女に声をかけた。彼女の肩には花世が乗って、夕日に向かって鳴いていた。小夜が歌うその歌はいつもこの時間に聞いていたその曲だった。逢魔が刻を知らせる、あの名前も知らない歌だった
「家路」
夜光虫はそれだけ言うと、わざと薄気味悪く笑った。笑ったその表情が本当の感情を隠そうとしていることに俺は気づいていた。
どうして笑うんだよと問い詰めたくなる気持ちを隠して、俺はこういった。
「夜光虫、いや。瑠璃の言葉で聞きたいんだ。お前にとって俺はどういう存在か」
 瑠璃はそっとブランコから降りると、おぼろ月のように濁った瞳を輝かせて一言。
「覚えて……いるんでしょう?」
 俺は生唾を飲み込んだ。瑠璃は問いには答えていない。それでもその言葉はギクリと確信をつく、言われたくない言葉だった。
「壱岐は、覚えているんでしょう?」
 だんだんと目の前が暗くなる。目が見えなくなって、ただ微かに覚えている匂いや既視感ばかりが頭を巡った。
(キィー)
 花世の声が響く、そして記憶が少しずつ掘り出されるようにして蘇る。
 頭を抱えた。――壱岐、水底に沈んでいた記憶がふわりふわりと上へと上がる。
「あなたは、壱岐だった頃のこと全部じゃなくても覚えてるでしょう?」
 頭が割れるような激痛の中、俺はそっと膝を折った。
「薫子、俺は……青志もお前も――知ってる?」
(本当は、あなたたちを会わせるつもりなんかなかったのに……)
 頭の中で響く声が誰のものなのか、俺は本能で察した。
「……母さん?」
「ねぇ、壱岐。思い出して。思い出して私のこと」
 瑠璃はそして口を噛み、血のついた唇で俺にキスした。瑠璃の血が口の中に入る。その瞬間、舞い上がる記憶が高速でぶつかるような感覚がして、記憶が蘇ってきた。
 ぶつかるような記憶の衝撃に、霞む意識の中、ただ夢のような過去の自分に舞い戻っていった。