夜光虫が嗤う

「  、私の家に遊びに来ない?」
 いつものように俺の家でゲームをしていると、夜光虫が不意にこういった。
「……夜光虫って家あるの?」
「あるよ、当たり前でしょ! 失礼な」
不満そうな顔をする夜光虫に少しおかしくなり、笑いながら答える。
「いかない」
「なぜ?」
「夜光虫、綺麗だから。変な気を起こさないといえない」
冗談のつもりだった。
 けれど、夜光虫はその黒くて丸い目を更に丸くさせて、固まった。その綺麗に整った顔立ちに、驚いて歪んだ唇が惜しいと思える。特に丸く澄んだ色をした闇の目はどこまでも透き通っていて、引き込まれたら最後、もう二度と光の当たる場所には戻れないような、そんな神聖な恐怖さえ感じさせる。
 それでも美しいと思った。嘘偽りなくそう、綺麗だと思ったのだ。
 けれど、それを面と向かって本気で言えるほど、俺は素直でも正直な人間でもない。あくまで、夜光虫をからかうためのものだった。夜光虫は頬を可哀そうなほど赤く染めてプルプルと震えて、涙目になっていた。
「……私のこと、綺麗って思ってくれてるの?」
そうくるとは思わなかった。てっきり、鼻で笑って、冗談はやめてと怒ると思っていた。夜光虫は潤んだ瞳で頬を赤く染めながら、おずおずと聞いてくる。
「ねぇ、答えてよ」
 夜光虫の細い指が、俺の頬を撫でる。吐息がかかりそうなほど、近い彼女の顔を見て、初めて心臓が痛いほど、高鳴った。
 もう今更、冗談でしたなんて言える雰囲気ではなくなって、俺は頭の中が真っ白なった。
「……ふふっ。あははっ、愚かだね。冗談、冗談だよ。  が私をからかってばかりだから、仕返ししただけ。ほんと、バカなんだから……」
「なっ……!」
 言葉を紡ごうとして、俺は口をつぐんだ。夜光虫が、とても哀しそうだったから――。
 彼女の哀しい表情が好きだ。それでも、彼女の哀しい表情は心の中の弱い部分を疼かせる。痛みにも似たその疼きに、俺はいつも耐えられなくて、彼女の頭を優しく撫ぜた。
 頭を触り、息を止めそうになる自分を必死に繕う。夜光虫の頭には角を折ったような硬い突き出た骨があるのだ。聞いたことはない。どんなことがあったのかなんて聞かなくてもわかる。俺なんかとは比べものにならない不幸の匂い。気づかないふりをする。
 それが彼女の望むことだって決めつけていた。

「夜光虫のこと、知ってほしい」
 彼女に黒髪は映える。長い髪は相変わらずで、肌だけがいっそう白くなったように感じた。
「夜光虫のことならよく知ってる。意外と寂しがり屋、勝気、変に感情豊か、素直なような意地っ張りのような、そんで、人前で泣こうとしない。な? よく知ってるだろ?」
 俺がそう言うと、夜光虫は少しだけ赤く頬を火照らせた。
「そ、そんなこというの、  だけだよ。私は、怖いから」
 夜光虫の表情には曇りが見えた。ああ、その表情がすごく好きだ。あの時から何一つ変わらない、憂いた瞳の奥には何があるのだろう? その奥にある感情に触れたくて堪らない。知ってほしいとはこういうことだろうか?
「俺が怖くないとでも?」
 その言葉を言った瞬間、夜光虫の目がこわばった。しまったとさえ思わなかった。夜光虫に対する思いやりなんて俺には皆無に等しいのだ。
「……怖いの?」
 声が震える。澄んだ鈴のような声が。今までさえこんなことはたくさんあった。けれど、夜光虫が泣いたことは一度もなかった。
「怖いけど、友達でいたいと思うから友達でいるんだ。嫌になったらとっくに夜光虫を突き放してる」
「私が怖いから、身の安全のために――」
「俺はそんなことはしない!」
 意外と声が出て自分でも驚いた。プライドのためか、夜光虫のためかは自分でもわからなかった。
 夜光虫は嬉しそうに笑う。優しい笑顔は少しだけ、心を安らかにさせる。
「とにかく、夜光虫は何を知ってほしいんだよ。鬼のくせに幽霊が怖いことだって知ってるぞ、俺」
 言った瞬間、夜光虫は小声で
「なんで知ってるの」と文句を言った。そして咳をして声を整え、大真面目にこういった。
「幽霊と妖怪は違うの。怖いものは怖いの!」
「へぇー。ご飯とお菓子は違うみたいな感じか?」
 俺は何がどう違うのかわからなくて、バカにするみたいな言い方をした。
「バカ!」
 夜光虫は頬を膨らましてすねてみせる。そういうところが普通の女の子みたいでほっとする。微かに感じる人間っぽさに俺は救われているのだ。
「……ぷっ、あははっ」
 怒ってみたはいいけど、おかしくなったのだろうか? 夜光虫は急に笑い出した。
「なんなのよ、バカにするのも……ぷっ、大概にしてよっ、ふふっ」
 屈託もなく笑う夜光虫は嬉しそうで、笑っている顔も嫌いじゃないんだと実感する。
 気が済むまで笑った夜光虫の表情は不意に暗い影を落とした。
「……たくさん、  は知らなきゃいけないことがあるわ」
「なに? 知らなきゃいけないことって」
「夜光虫の全部だよ」
 どこか溝のように暗く嘘をついているような後ろめたさを感じた。そしてそれを聞いて、なんとなくエロい想像をしてしまったのは、中学生の健康的な男子としては当然なことだと思いたい。
 少しばかり頬を染めて夜光虫を直視できずに一言だけ言った。
「その言い方、他の奴にはやめろよ。勘違いする奴が出てくる」
「勘違いしても、誰も私に手なんか出さないよ」
 ふんを鼻息を出し、威張るように夜光虫は言うけど。
「それ、勘違いだから」
「  以外、私と関われないよ」
 そういい、おどける夜光虫に視線を投げかけると珍しく夜光虫が怯えるように押し黙った。
「どうした?」
「……怒ってる?」
 おどおどと機嫌を伺うように怯える夜光虫が不思議だった。
「なんで?」
「――声のトーンが低い、目つきが鋭い」
 言われてみて自分の声が低くなっていることに初めて気がついた。
「言われてみれば」
 その声はすごくそっけなかった。
「……夜光虫はさ、もう少し女の子の自覚をもったほうがいい。男は気が無くても手が出せちゃう生き物なんだよ」
「ふーん」
 夜光虫は少し意外そうに声を上げた。そして俺の座っているベッドの隣りに座り、俺の顔を覗き込んで茶目っ気たっぷりに笑った。
「  もそうなの?」
「俺は無理、潔癖症だもん。知らない女の子となんか、手も繋ぎたくないね」
「私とは?」
 そういわれた瞬間、さっと血の気が引いた。別に夜光虫が嫌いな訳ではない。鬼だから恋愛対象にならないというわけでもない。ただ夜光虫に抱いているこの気持ちが恋愛なのか分からないのに、夜光虫がそういう目で俺を見始めていることにぞっとしたのだ。
「もう、いいよ。ごめん、私が悪かった」
 その表情を見て悟ったのか、夜光虫はベッドから立ち上がった。いつもと違う、隠そうとしない哀しい表情。瞳を潤ませる涙がキラキラと光る、どこまでも奥深い哀しみを秘めた瞳を引き立たせるような白い肌、眉間に寄せられたシワにさえ、魅せられた。ああ、俺はこれが見たかったのだ。この隠そうとしない夜光虫の哀しみに触れたかった。滴るようにあふれるこの感情は、恋にしては分不相応なほど甘くなく、ただ焦燥感のような責め立てられる感情だった。
 咄嗟に夜光虫の手を掴んだ。
 恨めしそうに見つめる夜光虫は手を振り払おうと必死になるが、男女の力の差がはっきり出てくる年頃だろうか、人間の夜光虫には振り払えなかった。
「手、繋げてるだろ?」
「……!」
 夜光虫は黙って驚き、口元を押さえた。俺は少し赤くなりながらこういった。
「夜光虫とは手を繋げるよ。だから怒るなよ」
 俯いたまま、手を繋いだまま、ずっと黙っていると夜光虫が俺の顔を両手で持ち上げて上を向かせた。驚いて身をすくめると、夜光虫のはにかんだ笑顔が見えた。
「夜光虫ね、鬼なの」
「知ってるよ」
 吸い寄せられるような瞳を見つめ、ため息を吐くように答えた。
「でも神様でもある。私はね、鬼神なの」
 瞳が光を吸い、暗くなる。そのどこまでも光を吸い込む闇の瞳に、水を奪われた魚みたいに悶えてしまう。夜光虫の哀しみが嬉しいのだ。何故かはわからなかった。哀しい瞳が世界の音を奪う。彼女の美しさに押し黙るしかないように――魅せられた。
「鬼ってね。魂なの」
「魂?」
 その暗い瞳に魅せられながら、俺は夜光虫の話を聞いた。
「そう、魂。人間には魂魄っていうものがあって、死んだら魂が空へ上がって魄が地上に残り、鬼になるって言われているわ。中国ではね。実際のところはわからない。でもね、小夜さんっていう祖先の人はそうだった」
 俺が眉をひそめると、夜光虫はおかしそうに笑った。
「それって……」
「死んだ人と子供を作ったってこと」
 夜光虫は俺に近づいてそっと手を繋いだ。その瞬間、テレビが電波を受け取ったように目の前に映像が映り込んだ。
 人が見える。女の人だ。妙齢の髪の長い、夜光虫そっくりの綺麗な人が床に伏していた。酷く咳き込んで血痰も出ているようだった。隣には手を握って泣きそうな顔をしている一人の男、その人の名前だろうか……、うわ言のように何度も息を吐くように呼び続けている。
「薫子って人。鬼の始祖で、私の祖母に当たる人」
 そういうと夜光虫の手は解かれ、彼女の顔が青白くなった。
 落ち着かないようにそわそわしだす夜光虫の髪が揺れ、ほんのりとシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。光さえ飲み込むような夜光虫の黒髪はさらさらと彼女の肩を滑るように流れた。ふんわりと夜光虫の瞳の色が変わる。濁った月のように。
「……前から思ってたんだけど、夜光虫は――」
「ふふ」
 鬼はニタリと粘つくように笑うと、俺の首筋に尖った爪を滑らせた。
「聞かないで。答えないから」
 そう言って笑う鬼は溺れそうなほど欲深く、白い肌に目立つ赤すぎる唇は血で湿っているように見えた。
「薫子さんが呼んでいたのは手を握っていた男じゃない。あの男の兄の名前」
「えっ?」
 戸惑いの声がもれた。夜光虫は戸惑う俺に合わせるようにまたその話を始めた。
「薫子さんは長男との婚約が決まっていたんだけど、事業に失敗した家が嫡男である長男に力のある家の娘との婚約を、勝手に決めたの。長男は知らぬ間に小夜さんとの婚約を解消させられていたのよ。そのことも相まってか、体の弱かった小夜さんは当時、不治の病とされた結核に侵され、長くはなかった。それでも長男は彼女のために何かできないかと、変わりに次男と婚約させることで彼女の家に治療費を援助していたの。それでも彼女は息を引き取ったけれど……」
 夜光虫の表情を見てなんだか俺は怖くなった。緊張したようにこわばった顔、禁句の話なのではないのだろうか?
「それで、薫子さんは鬼になってどうなったんだ?」
 混乱する頭でどうにか話についていこうと続きをせがむと、夜光虫は大きくため息を吐いて続きを話しだした。
「彼女は死んでからも長男を諦められなかった。長男が欲しくてたまらなかった。それほどまでに愛していたから、彼女はいつの間にか鬼になって響鬼の家の玄関に座っていたの。玄関を開けた瞬間、薫子さんに気づいた長男は思わず、彼女を抱きしめた。彼もきっと彼女を愛していたんだと思う。いまわの際にそばにいなかったことを許してくれと彼は何度も泣きついた。けれど彼女はもうすでに彼女ではなくなっていた」
 珍しく夜光虫に汗が吹き出している。辛いことを思い出すように息も絶えそうなほど震えて。
「……生まれたばかりの鬼には、たまんないのよ。好いた男の心は」
 自分の生唾をゴクリと飲む音が耳に届いた。
「心を食うだけじゃ、死なないって言ってたよな」
 なんだか救いを求めるように言葉にした。それでも夜光虫の震えは止まらないで悔しそうに唇を噛んで言った。
「長男は死んだ」
「……なんでだ?」
 追いつかない思考で俺は疑問を持った。けれど少しだけ心当たることがあった。行く度にも夜光虫が心を喰うためにしてきた恐怖心を引き出すための暴力。
「生まれたての鬼は飢えてるの、心だけじゃない。魂にも。生まれたばかりの鬼は不完全でそのままでは消えてしまう。だから未練になった者の魂を食うの。食わなきゃ消えてなくなるの。だから薫子さんは本能で長男を食った。限度を知らなかったのよ。ただ肉を引き裂いて、骨までしゃぶる程に彼の魂が欲しかったの。でも長男が息絶えたことで我に返って、感情に突き動かされてやった自分のおぞましい行為に耐え切れなくなって――死のうとした。自分が許せずに、首を掻き切った。けれどどんなにしたって死ねなかった。自分を切り裂いても傷はみるみるうちに癒える。その時現れたのは次男だった。そして鬼になった彼女を見て彼は言った。お前を殺すのは俺だって」
 そういう夜光虫に違和感を覚えた。いいや、違和感なら話し始めた時からずっと……。
「なんで見てきたみたいに話すんだ?」
 そう聞くと、彼女はこちらをむいた。充満するような哀しみの匂いがその眼光から感じられた。見られただけでこんなに言葉も出なくなるほど追い詰められたのは初めてだった。責められるような圧迫感。口ごもった俺を見て、夜光虫は哀しく笑い、震える声でこういった。
「記憶は引き継がれるから」
生唾を飲むほど、そういった夜光虫が美しく映った。
夜光虫が人に見えなくなっていた。姿かたちは人そのものなのに。彼女は半分鬼で、半分神なのだ。それを揺るがなくさせるほどの美しさ。赤い唇からもれる吐息すら芳香し、瑞々しい花の匂いで充満する。
華美な見目、白く長い指に、儚ささえ感じる華奢な首筋。何もかもが恐ろしいほどに整っている芸術品のようで、それでいて畏怖の対象になりうる底しれぬ恐怖。
 神々しいものほど恐ろしいとはよく言ったものだ。彼女は神そのものの恐ろしさと美しさを兼ね備えている。
「哀しいな」
「なぜ」
「一人だったんだろう。寂しかったんだろう。神様になったばかりに、夜光虫は孤独にならざるを得なかったんだろう」
 そういった瞬間、あっけにとられた顔で夜光虫は笑った。
「なんで  が泣くのよ」
 思わず泣いてしまったけれど、俺には夜光虫も泣いているように見えた。
 いつものように気味悪く笑っているだけなのに、彼女はとても壊れてしまいそうに見えた。
「私は、母が私を産むときの気持ちを受け継いでいるの。愛してくれたから、だから悲しくないのよ」
 少しだけうつむく夜光虫の頭を撫ぜた。不格好な頭の折られた角が指に当たる。それが無性に愛しく感じた。
 哀れんだら夜光虫は怒るだろうか? 彼女を傷つけるだろうか? そしたらあの表情を見せてくれるだろうか?
「人を好きになったことがあるか?」
 自分でもびっくりするような優しい声だった。
「……あるよ」
 その目を見た瞬間、分かってしまった。けれど夜光虫は言わない。俺も聞かない。
「喰うのか?」
「喰わないし愛さない。私はその人と一緒にいたいから、その人を殺さない」
 俯いた顔を上げた彼女と目があった。情愛に濁ったひどく美しい瞳だった。それは人を愛せない哀しみが映った、黒曜石の瞳だった。
「夜光虫のそばにいるって約束したから、そばにいるよ。ずっと」
 そう言うと、夜光虫は赤く腫れぼったい目元を歪ませて笑って見せた。今まで見てきた夜光虫の中で、一番、人に近い繕った笑顔だった。
黒いインクが純水に落ちたみたいに、心に濁った何かが生まれた。
「あの、ね。私。終わらせたいの」
 消えそうなか細い声が聞こえるか、聞こえないかのところで耳に届いた。
「来て。  に渡したいものがあるの」
 自分が何を考えているのかわからない。ただ、よどんだ感情は云えも知れない悪心を抱いて、頭の中を白濁とさせる。
夜光虫をどんな顔で見つめているんだろう。ただ素直に『はい行きます』とは言えなかった。
「……終わせたいって何を?」
 夜光虫は答えなかった。ただ笑っているだけだった。俺の目さえ見ずに呟いた。
「血が、必要なの。今はそれしか言えない。そのうち……。ちゃんと伝える」
 そう言っていたずらっぽく笑う夜光虫は珍しく愛らしく目に映った。けれど、なんだか胸騒ぎがした。不安を押し殺すように不満を口にする。
「俺の勘が行っちゃいけないって言ってるんだけど」
 夜光虫は黙ったまま、俺の手を握った。
「行こう! 大丈夫。  は夜光虫が死んでも守ってあげる」
 その言葉は、背筋に冷たい汗を流させた。

 桐山という、山中に夜光虫を祭る社はあった。毒々しい赤黒色に塗られた鳥居には、響鬼神社と書かれ、境内には広い神楽を舞うための楽殿が建っていた。砂利の敷かれた境内は、濃い獣の匂いで覆われ、それは生き者だけではなく、死んだ獣まで頼ってきているのだろう、異質なものだった。
「こんな山奥まで来はったんですか? 大変でしたでしょう」
 俺は思わず、軽く会釈した。話しかけてきたのは、緑の袴を着た初老の男性だった。白髪交じりの背筋の伸びた男性は、夜光虫に気づくと見てにっこりと笑った。
「ああ、おかえりですか?」
「ええ。いつもありがとう」
 その瞬間気づく、ああ、この人は生きていないのかと。
「今、客間を掃除してきますね。  くん、今度はごゆるりとしていきなさい」
 そういうと、初老の男性は空気に透けて見えなくなった。
「えっ、ちょっ」
思わず声をかけたのに、返事は返ってこなかった。不思議に思って夜光虫の顔を見ると少しばかり疲れた顔をしていた。
「どうかしたの?」
「ごめん、今のまま入ると厄介そう。何を嗅ぎつけてきたのか、知り合いが、社に入り込んでる」
 夜光虫は思いっきり顔をしかめて、砂利道を走っていく。
「おい、俺を置いてくのかよ……」
 夜光虫の後を追うように社の扉に近づき、はたと気づく。そして俺は口をつぐんだ。夜光虫の家のことを俺は詳しくは何も知らない。その知り合いが鬼じゃないって言い切れるかと言われれば、言い切れない。
 口を閉ざした俺の気持ちに察しが付いたように、夜光虫は目を黄色く輝かせ、こういった。
「死にたくなければ、息をひそめてここで待っていること。あの子は私よりも怖いよ」
 夜光虫は脅しをかけるように俺に凄んで、社の中に消えていった。
 一人残された俺は、本当に息をひそめて待っているのも情けないので、広い境内を歩き回ることにした。落ち葉も綺麗に片づけられ、整えられた境内の中には、小さな子供の声が聞こえている。
「お兄ちゃん、どうしてここにきたの?」
「人間が来るなんて珍しい」
「でも、待って。この人間、名前がないよ」
「じゃ、主様の」
「主様の!」
「主様の?」
「そうだ、やっと出会えたんだ」
「夜光虫様の運命の人」
 そう聞こえた瞬間、はっとした。運命? 名前がない? なんのことだ。不安じみた衝動に駆られてその声の方をたどると、大きな蔵を見つけた。
 近くにはご神木だろうか? 大きな木が多い茂っている。その若葉を見る限りは桜だろうか? 学校に植えられているそれと同じだった。葉桜の影に入ると涼しい風が頬を撫でる、境内を見渡せばその蔵は隔離するように大きな壁で囲ってある。中を覗くことなんかできそうもない。 壁に触ると少しだけ粉が付いた。意外ともろいのかもしれない。木も壁もあの時のまま、なのだろうか?
 あの時のまま……?
 何か思い出せそうで、頭が混沌とした。あの時のままってなんだ? 俺は知っているのか? この蔵を、そして、夜光虫を。この場所を。
「おい」
 まだ声変わりしていない幼い男の高い声が聞こえた。
「おい」
 まただ。でも俺はひたすら気づかないフリをした。この数か月の間、夜光虫と関わるたび思い知ったことだが、気づかなければ襲われない。魑魅魍魎の類は俺の非力な力だけでは追い払うことなんかできない。
「おい、聞こえているんだろ?」
 俺はそっと声のする後ろを振り向いた。なんとなくだけれど、その声色から知っている人のような気がした。そこには、紺の袴と白い着物を着た自分よりも幾分か年下の少年が俺を見下ろしていた。
「……人間か」
 見た瞬間、それが人間だとわかった。
妖怪とか幽霊とか、そういうものはなんとも言えない猛烈な匂いがするのだ。澱んでいるドブ川のような強烈な悪臭。  
 同じように夜光虫のような妖のまがい物もわかる。そういう奴は人間の狡さと妖怪独特の卑しさで、濁った特殊な匂いがするものだ。全部、感覚で判断していることだから、正しいことかはわからない。
 そして、そいつからは夜光虫に近い匂いがしたけれど、なんとなく人間の匂いも強かった。生き者と死者の区別は、はっきりとわかる。生きている人間の匂いだ。どちらかといえば、生き神や神職に近い存在なのかもしれない。夜光虫と同じで半分は神様の匂いがした。
 俺が視線を泳がせるように辺を見渡し、壁から生い茂る木もれ日に視線を移した。緑や黄色の光が風に揺らされるたび、キラキラと揺れる。
「……あなたが  か?」
 無視するように少年から視線をずらしたのに、しつこいなと心の中で悪態をつき、うんざりしながら少年の方を向こうとした、その瞬間だった。
 塀に頭を強く押し付けられる、ぱらぱらと壁が割れて砂になって落ちていく音が耳に届く、骨が軋む音と共に、視界がかすんだ。口元を手で掴みあげられて、窒息させられそうになる。息が出来ないでバタバタと動かす手足がもう既に自分の体じゃなくなったみたいだった。どうなっているんだ? 息苦しいということしかわからない。次第に視界が暗転し、意識がかすんでいく。こんな力業、人間の、しかもこんなひ弱な少年にできっこない。
 やはりこいつは、人間であってそうじゃない。
「あなたにはなんの恨みもない。……けれど、夜光虫の前から――」
 夜光虫の名前が耳に届くと、あまりの衝撃で伏していた目が反射的に開いた。目の前には飢えた獣のような夜光虫と同じ黄色い目の少年が俺の首を絞めていた。片手で壁に押し付けるように締められて、ぶら下がった俺を初めて自覚した。
 その時、俺は何を考えていのだろう? ただ見えたのは夜光虫の姿。夜光虫が誰も愛せないで苦しんでいるその瞳だけだった。
 俺は口を塞ぐ少年の手を思い切りかみついた。むしろ嚙み切ったに近い。さすがに驚いたように少年は怯み、俺を振り払うように投げた。
 壁をずるようにして頭を打ち付けた俺は、それでも悲鳴のような声を上げて立ち上がり、そのままふらふらと走り出し、思い切りその少年を殴っていた。そうだ。このまま、反撃を……。そう思った瞬間、あまりの息苦しさに膝折った。
 何かを吐き出すみたいに咳き込んでいた。ヒューヒューと音がする。どれほどの力で俺の首を絞めてたんだ? 口から入る空気が苦しい。苦しさで反撃できない。
「青志!」
 頭が霞む、苦しいとしか思えない。それでもその声が夜光虫の声だとわかった。そして足音が聞こえ、助かったそう思って、苦しいながら顔を上げると夜光虫が目を濁らせて少年の胸ぐらを掴んでいた。
「やめて!   は……だけど、  だからって……」
 あれ? おかしい。聞き取れない、こんなに近くにいるのに? まぶたが重い、息苦しい、白く、白く視界が霞む。
 夜光虫を見上げようと頭をあげようとした。けれど気づくと頭がガックリ下がってしまう。ダメだ! しっかりしろ! 何度も自分を叱咤して膝を起こし顔を上げると、夜光虫は唇を噛んだ。どろりと赤い血が流れる。そしてその少年に唇を重ねていた。
 足元には赤い血が地面に吸われることなく、転々と落ちていた。飛びつくように少年の懐に入り込む夜光虫の髪がさらりと揺れて、そっと離れると、見開いた少年の瞳と、唇には赤い血が付いているのが目に入った。どうして――?
 俺の記憶はここで一度途切れた。

 目を覚ますと、そこは十畳ほどの広い和室で天井に付いている大きな四角い和紙を張った照明器具が辺を照らしていた。
「起きたか?」
 ぼんやりと照らされるその部屋には髪の短いさっきの少年が恨めしい顔で俺を見ていた。起き上がろうとする気力もわかないから、寝転がったまま問いかける。
「……お前は誰なんだよ、人間か?」
 唸るような苛立つ声が抑えられなかった。首絞められて、夜光虫とキスして、何がなんだかわからない。
「平然としてるんだな。また俺がお前を襲うとは思わないのか?」
「思うわけないだろう? だったら、夜光虫はお前をここには置かない」
 そう言うと気に入らないと少年は舌打ちした。
「青志。夜光虫の従者。知ってるか? 鬼の血を飲んだ人間は鬼の強靭な力がもらえる代わりにその鬼に従わなければならない」
「なんだ、それ」
 俺はうすら笑いした。
「外国のそれとは違うけど、吸血鬼って聞いたことないか?」
「そんなこと聞いてるんじゃない!」
 その怒りに震えるを声を聞いて初めて自分の気持ちに気づいた。俺は怒っている。今まであっただろうか? こんなに怒鳴ったこと。
「……夜光虫とキスしたこと、怒ってるのか?」
 何も答えられなかった。
「夜光虫からだ。俺からじゃない。……けど情けとして言っておく。鬼が従者にいうことをきかせる方法は血を飲ませることだ。俺は認めてなかったから……夜光虫の意思を。虚をつくにはあれが一番いい方法なんじゃないか?」
 俺は急いで起き上がった。首がズキリと痛み出す。それでも構わず問いただした。
「夜光虫の血を……飲んだのか?」
「さっきから言ってるだろう?」
 少年の顔を見た。自慢げだった。自分はお前より夜光虫を知ってると思っている顔。
「そうか……お前は夜光虫が好きなのか……」
 その言葉が青志の心をえぐったのか、青志は俺の胸ぐらを掴んだ。俺はただそれを見下ろしているだけだった。
「夜光虫がお前を好きだったらよかったのに……お前なら、夜光虫は壊すことを恐れずに人を愛することができたのに」
 目が熱かった。目から痛みと涙があふれるの止めたいがために、息をやめた。青志は一瞬だけど、とても情けない顔をした。それに既視感を覚えた。青志は俺を振り払うように離すと、押し殺すような声で言う。
「従者になれば、夜光虫と対等に並べる。夜光虫を守れる。……だから、俺はあなたよりマシだ」
 青志はそう言うと襖を開けた。ぼんやりと光る照明のおかげで今が夜だということがわかった。夜の闇に隠れて、現実に置いていかれそうになる自分が情けなくて泣いてしまおうかと思ったが、俺の前でさえ泣かない夜光虫に申し訳なくて、それもできなかった。
「詳しくは夜光虫の命令だから言えないけど、あなたは夜光虫の願いを叶えちゃダメだ。絶対ダメなんだ」
 青志はそう言うと、闇に解けるように暗い廊下をひたひたと歩いて行った。

「  、ごめん。大丈夫?」
 しばらく経ってから夜光虫は顔をいつもより更に青くして襖から顔を出した。
 俺は何も言わず、部屋の入口で突っ立っている夜光虫の手を引いた。何も言えなかった。ぼんやりと照明は光る。夜光虫はつまずきそうになりながら、部屋の中に入った。
 夜光虫の方へ振り向けない。別に恋人じゃない。別に約束していたわけではない。けれど裏切られた気がして何も言えない。
「  」
 不安そうな夜光虫の声が震える。泣きそうな声をしている。机しか置かれていない殺風景なこの部屋の中、夜光虫の方を振り向くのが怖かった。
「ねぇ、  」
 もう一度、夜光虫が呼ぶ。俺は覚悟して夜光虫の方を振り向いた。俺はその光景を知っているような気がした。夜光虫が俺に抱きついた。あまりの気味悪さに払い退けたい気持ちと、ドクドクと血が煮えた熱さを感じた。
「ずっとそばに……いてくれるんだよね?」
 その言葉に心が千切れそうだった。見上げる夜光虫の瞳は、酷く濁っていた。愛と寂しさと透き通るような強い感情に。
 耳の奥で約束の唄の音色が聞こえた。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。この歌を律儀に守る奴なんかいない。けれど、俺にとって約束は何よりも守らなければならない戒めだった。夜光虫にしてあげれる全てだった。 
「……夜光虫」
「嘘でもいいの。今だけでいいの。言葉を――頂戴」
 夜光虫はそう言って切れた唇をそっと俺に近づける。間近に迫った夜光虫の瞳には涙が滲んでいた。夜光虫に怯え震えていた手が感覚を取り戻す。夜光虫のサラサラな髪を撫ぜる。柔らかくなめらかで、そしてそれが自然であるように引き寄せた。何も考えず、本能で。
 その瞬間、夜光虫は我に返ったように俺を突き飛ばした。突き飛ばされた俺自身、何がなんだかわからない。夜光虫は焦るように涙を流した。
「ごめん……ごめん、私、ごめん」
 ただ、夜光虫は泣いた。
「……嫌だったのか?」
 俺が聞くと、否定するように首を振る。
「  、ごめん、私、ごめん」
 謝る夜光虫を見て、夜光虫の言葉を思い出した。
(喰わないし愛さない。私はその人と一緒にいたいから、その人を殺さない)
「ごめん」
 血の気が引いた。夜光虫は俺を喰おうとしたってことなのか?
 夜光虫はただ初めて泣いた。あれほど彼女の哀しむ顔が好きだったのに、心は痛むばかりだった。
「泣かないで、夜光虫。泣くな」
 煩わしく思った。人を愛するのにこんな面倒な感情があることを。
 彼女が泣いても心が喜ぶことはなかった。それを残念に思う自分がいることが何よりも残念だった。
「私を、これで」
 夜光虫は泣きながら小さな妖刀を取り出した。刃が白濁色の、見たこともない妖刀だった。
「これは鬼の肌でも切り裂ける妖刀。これで、私の……」
「殺すのか?」
 妖刀を受け取ると、夜光虫は何も言わなかった。ただいつものように薄気味悪くそれでいて悲しそうに笑う。青志が俺を殺そうとしていたのは、夜光虫が俺に殺されたがっていることを知っていたから? そんなの俺が叶えると思ってるのか? 夜光虫を殺すと思っているのか?
「約束、したよな? ずっと一緒だって。だから俺が死ぬとき、夜光虫をあの世にさらっていくよ。それでもいいか?」
 夜光虫は困ったように笑った。けれど、もう妖刀は俺の手の中にあったから、もうそれでいいと思った。
「俺も、従者になれないか?」
 夜光虫は目を見開いた。
「青志に聞いたの?」
 俺は何も言わず、夜光虫の手を握った。
「  はどこまで聞いたの?」
「どこまでって……?」
 夜光虫が焦るように俺の手をギュッと握って聞いた。
「  は……従者になれないことは聞いた?」
「なんで!」
その言葉を聞いて、つい叫んでしまうと夜光虫はビクリと体を震わせた。
「……  は私にとって特別だから」
「それって告白?」
大真面目に聞くと、夜光虫は顔を少し火照らせてそっぽをむいた。
「そういう意味じゃないけど、どう特別なのかは言えない」
「なんで?」
「それ言うと、またなんでって聞かれるから言わない」
俺が何を聞いても、聞こえない、聞こえないと喚いて、何も言おうとしない夜光虫に俺はため息を吐いた。
「じゃ、これだけは聞かせてよ。俺は夜光虫を守れないし、強くないし、人間だけど、俺の存在はあいつより大きいか?」
 夜光虫は戸惑うことなく見たこともないような眩しい笑顔で答えた。
「うん」
「そうか、じゃ、それでいいや」
残酷だ、俺は。俺たちは愛し合うこともできない。喰う喰われる者同士の甘くない関係。そんな関係なのに、愛し合うことができて、優しく抱きしめてあげられる青志に夜光虫を差し出そうとしない。さっき青志にあんなことを言っておいて、俺は冷たい人間だ。
夜光虫の幸せよりも自分の幸せしか願ってない。酷く醜い人間だ。だが、それでもいい。夜光虫のそばにいられるならそれでいい。
俺は小さな妖刀を握り、夜光虫に笑いかけた。

その夜は夜光虫の家に泊まった。黒に塗られたようなこんなに純粋な闇を見たのは初めてだった。照明が少ない。ただ足音だけが忙しなく聞こえる。
二人で薄暗闇の中、息をひそめるように寝転がり手だけつないで見つめ合っていた。ただ何を話しても、言いたいことでなくて。言いたいことはないけれど、二人で一緒にいたかったのだ。
 そんなふうに見つめ合っているうちに眠気が襲ってきて、まだ寝たくない俺は大して気にもしていないその足音について聞いた。
「この足音は?」
「式神って知ってる?」
夜光虫は顔に垂れる髪をさらりとどけると、ことの次第を話しだした。
「私はね、薫子さんと違って妖怪じゃない。魂魄の話はしたよね? 普通鬼は魄だけの存在。でも私には真名がある。血も肉もある。真名を与えられ、祭られた鬼神はいろんなことに使えるの。人の知恵があって、妖怪の力があって、鬼神に妬まれたらその人間は来世まで不幸だと言われているわ。それくらい、怖いものなの」
「狙われやすいってこと?」
 俺は夜光虫の頭に触れた。折れた角に……優しく触れた。
「そう、でもこれは違うよ。これは親に折られたの。こんなのあったら生活できないからね」
そう言って夜光虫は角に触る俺の手を掴んだ。
「  は何も心配しなくていいの。もう眠ろう?」
「眠りたくない」
俺は初めて他人に駄々をこねた。物分りがよく、なんに対しても一歩引いて物事を見てきた。
そうすれば誰も俺のことなんか見なかった。構われたくなかった。何もかも、ただ全てのものに冷めていた。夜光虫に対してもそうだった。夜光虫が人を襲い傷つけてもそれが間違っているなんて言ったことなんかない。
俺には善悪の違いなんてわからないんだ。ただ自分が安全に生きられればそれでよかった。
「夜光虫。俺、人を好きになったことがないんだ」
何を口にしているのだろう? それを言って夜光虫になんの答えを求めているのだろう? ただ口は動き続けた。
「夜光虫は家のこと知ってるだろ? 父親しかいない。母親が自殺した。どうしてかわからない。でも、心当たりはあるんだ。俺が、普通とは違うから。人を、家族を、愛せないから」
 夜光虫は黙って聞いていた。瞬きもせず、息を止めるように真剣に聞いている。
「世界で一人きりになった気がした。誰もが違う生き物に見えた。それに対して何の疑問もいきどおりも感じてない。無関心なんだ。父親に対してもいつも仕事でいなくても一人で飯食っても、それが自分の普通だと思えば、他人を羨ましいなんて思いもしなかった。……でも、ひとつだけ寂しく思ったことがある」
「それは何?」
 言葉にするのが怖かった。けれど、そんな自分を見透かされるのも怖くて見栄をはるように自分を繕い、言った。
「そんな何に対しても執着しない自分に、だよ」
言った瞬間、夜光虫がぎゅっと手を握った。
「俺は何をしていても、誰といても、心の中が空っぽで誰かの幸せを祈ったこともない。人の温かみを、優しさを、本当に愛しいと思ったことがない。それが悲しかった。寂しかった。どうすれば優しくなれるのかも、どうしたら人に優しくしてもらえるかもわからない。……でも今は、目を開けていれば夜光虫が見える。目を閉じれば居なくなってしまう。眠れば一人になる気がして、眠るのが怖いんだ。一人ぼっちになりたくない。一人でいると生きているのかわからなくなる。眠ってしまいたくない。なぁ、夜光虫。俺、君が怖いんだ。本当はこの手を振り払ってしまいたいほど、君が怖くてたまらないのに、君を失うのも同じくらい怖いんだ」
華奢で壊れそうな夜光虫の肩にそっと腕を回した。夜光虫は抵抗することもなく、俺に抱きしめられた。生温かな息が俺の首にかかった。生きてる、それが感じられて初めて泣けた。どうしてこんなに悲しいのかわからなかったが、夜光虫も縋るように俺に手を回した。
 その時、初めて生まれたことを後悔した。どうしてこんなに誰か必要としているのだろう? 一人で生きれない惨めさで歯が鳴るほど震えて悲しんだ。
 夜光虫がいたから。孤独に慣れてそれが普通になっていたのに、二人でいることが普通になったから、俺はもう、一人で生きることに耐えれそうにない。
 抱きしめれば、夢の中にでも夜光虫を引き込めるだろうか? そんなことを考えて、人に初めて執着を持った。この気持ちをなんて呼ぶのかも知らずに。
「眠ろう、手を繋いで眠れば一緒の夢を見れるから」
 なだめられるようにそう言われて目をつぶれば、疲れていたのか、暗く霞んだ夢の中に静かに落ちていった。

視界が白くなって、見えてきたのは夜光虫? いや、妖芽だ。凛と咲いた百合のように可憐な妖芽が立っていた。
 その少女はただまっすぐにこちらを見て静かに笑っている。酷く懐かしく感じた。けれど相反するように、心の中の何かが彼女に怯えていた。そしてほんの少しだけ愛おしく感じている。
 恐怖心を感じているせいで、彼女に手を伸ばすことができないのに、距離を縮めることも遠ざかろうとする気持ちもわかず、ただ見つめ合っていた。
 水滴が落ちる音がする。
ピチャ、ピチャ――。
滴るように水音が響く。耳を澄ますと目の前が真っ赤になった。その瞬間、右腕に激痛が走った。どうしてだろう? これは夢なのに、あまりの苦しみで膝を折ってのたうち回った。痛みで意識がかすむ。息が止まりそうになる。その時、気づいた。その水音は俺の血――。腕がない。
 のたうち回っていた俺は、縋るように少女を見つめた。先ほどまで笑っていた少女は、全てを失った廃人のように無表情で、後は涙しか出てこないような、見たこともない哀しい表情をしていた。
涙が滴る。
俺は自分の痛みでそれどころではないはずなのに。――どうしてだろう?彼女の哀しい表情に喜んでいた。
「見るな」
 冷たい指先が目元を覆った瞬間、我に返った。さっきのこれは、夢?
「もう見てはだめだ」
 目を隠す誰がかもう一度、言った。
 足元が崩れ落ちるような浮遊感に体がすくんだ瞬間、目が覚めた。そこには夜光虫はおらず、が俺を見下ろすように立っていた。
「喰われる夢でもみたか?」
 俺は思い切り、青志を睨んだ。
「お前が、見せたのか?」
青志は肩に乗せた鳥の喉を撫ぜながらこういった。
「俺は他人の記憶を見せることができる。時間が無いから、この記憶を見せろとのことだ」
「時間が無い? 一体何のことだ。それに、あの記憶は一体?」
「俺は夜光虫から見せられた魂の記憶を見せただけ、だからさっきの夢は現実にあったことだとは伝えておこう。……俺はあなたに余計なことまで話すなと釘を刺されているからな」
余計なことって? 口にしようとして、それを聞くのはあまりに馬鹿すぎると言葉を飲み込んだ。青志の表情は相変わらず鋭いまま、殺してやると言わんばかりに俺を睨んでいる。
 青志は俺が夜光虫を殺すとでも思っているのか? こんなに大切に思っている相手を殺すなんて。
 深くためいきをつくと俺はそれを否定してやった。
「夜光虫を殺すわけがないだろう?」
すると、青志の逆鱗に触れたのか、いっそう瞳に映る憎しみの色が濃くなり、一瞬身をすくめた。無意識に小夜からもらった妖刀を手にした。青志が見下すように笑う。
「心配しなくても、俺は殺せないって言っただろ?」
「お前が直接手をくださなくても殺す方法ならなんだって」
 その短い妖刀で勝てる自信なんかなかった。けれど、自分を守らなくてはならなかった。死にたくなかった。
「……夜光虫は例え半身を引き裂かれたとしても死なない。聞かなかったか? 鬼は自分を切り裂いても死なないと」
 俺は黙ったまま、青志を睨みつけた。
「だが、あなたなら殺せる。夜光虫を殺せるたった一人の人間、それがあなたただ一人だ」
「何故俺が? って、聞いたところで答えてはくれないんだったな」
そう言うと、青志は少しだけ微笑んで見せた。蔑むようではなくただ微笑み、そしてこう言った。
「知らなくても、夜光虫の前から消えてくれれば済む話だ。なんせ、彼女にとってあなたは特別な存在なのだから」
青志はそう言うと、ひたひたと部屋から出ようとした。
「おい」
歩く足を止め、振り返る青志から変な匂いがした。いいや、青志からじゃない、その鳥からだ。
「その鳥は妖怪か?」
青志は鳥の喉を撫でながら、無表情でこういった。
「姑獲鳥、それだけいえば調べられるだろう?」
「うぶめ……」
 俺はオウム返しのように呆然と口にした。
「さようなら、あとはあなたと小夜が決めることだ。俺がいつも手を出せるのは、結果が出たあとだけだ」
青志はそう言って部屋を出て行き、部屋に残ったのは俺と妖刀だけだった。
頭を整理しようと小夜の言葉を思い出した。
(血が必要なんだけどね)
「血……誰の?」
その瞬間、ゾクリと背中に寒気を感じた。急いで悪寒のする方へと振り返ると、青志の肩に乗っていた鳥が俺の方へと飛んで来ていた。臭い、けれど妖怪の独特の匂いの中に微かに知っている匂いが混じっていた。けれど、それが何の匂いかわからない。思い出すことができなかった。
俺はそっと部屋を飛び回る鳥に手を伸ばした。鳥はためらうことなく俺の手に乗った。
「……怯えないんだな?」
 声がした。おそらくその鳥の声だと思われる声だった。なぜだろう? 酷く……懐かしい声だ。嬉しんでいるようで、けれど泣いているような悲しい声だ。
「その鳥は花世っていうの」
 いつの間にか、部屋の前まできていた夜光虫が呟いた。
「いつもは青志にべったりなのに、今日は  になついてるのね」
「何処にいたんだ?」
「ご飯、作ってた」
ご機嫌なのか、夜光虫は笑って答える。 
「料理作れるの?」
 俺が眉をひそめて聞くと、不服そうに頬を膨らませた。
「作れるよ!」
「……今日は雪が降るかもな?」
「どういう意味!?」
怒っているのに楽しそうな夜光虫を見て俺はおかしくなって笑った。

飯は意外にもうまかった。式神が徘徊する家はなんとなく落ち着かなかったが、夜光虫は終始、上機嫌で意外と飯作るのうまいのなっと俺がつぶやいただけで自慢げに笑っていた。何かのごっこ遊びみたいで俺は苦笑いしていたのだが……。
 花世と呼ばれた鳥は俺の茶碗についた飯をきれいにつついて食べていた。だし巻き卵を少し分けてやると、喜んでいるみたいに急いでつつき出した。
「この鳥なんだけど、青志に返さなくていいのか?」
 これだけなつかれて情が移らないわけではないのだが、心配する青志が頭に浮かんで小夜に聞くと、小夜は上機嫌のままこう答えた。
「これも縁だから。あの子がいつまでも花世に頼ってちゃこの先、生きていくのは難しいわ。だから  のところに行くのを止めなかったんだと思うよ」
俺は黙ったまま、花世を見つめた。花世は俺にベッタリと身を寄せて離れようとしなかった。
「この鳥、姑獲鳥っていう妖怪なんだろ? 夜光虫、姑獲鳥ってどういう妖怪か知ってる?」
「言ってもいいけど……。あなたは勘がいいから、言わない方が花世も喜ぶんじゃないかな?」
小夜は味噌汁をすすりながら答えた。
「そんなに怖い妖怪なのか?」
「……そういうところは鈍いのね」
夜光虫の口元が震えているのが、妙に引っかかった。罪悪感に押しつぶされそうな、子供がいたずらをして隠しているような、罪を隠す感情の匂いがした。
「教えてくれなきゃ、自分で調べるだけだけど?」
 脅すように答えを促した。すると、夜光虫は深いため息を吐いてヒントをくれる。
「死産した女をそのまま埋葬すると、姑獲鳥って妖怪になるって言われているわ。花世は違うけれど」
ピンとこなかった。けれど、違和感があった。いいや、ずっとこの姑獲鳥の匂いが気になって仕方なかった。
「夜光虫。俺、知ってるんだ。この姑獲鳥の匂い、どこかで……」
「花世は姑獲鳥に近い存在っていうだけで、姑獲鳥ではないから。私が教えられるのはここまで! あとは花世に聞いてね」
夜光虫は花世と呼んだ姑獲鳥を口笛で呼んだ。夜光虫の方へと羽ばたいて、その姑獲鳥は甘えるように身を寄せた。
「人懐っこいなー」
「私には懐いてるわけじゃないのよ。青志のことよろしくって言ってるだけ」
それを聞いてなんだか無性に腹が立った。ムズムズと内蔵がもがくようななんとも言えない感覚がする。イライラする。でもなんとなくわかった。この鳥は――。
「もしかして、青志の母親か?」
「さあね」
夜光虫は素知らぬふりをして、食器を片付け始めた。その態度に何かまだ隠していることがあると直感的に感じてもやもやした。花世は片付けをはじめる夜光虫の邪魔にならないように俺のところへ戻ってきた。

「夜光虫、ゲームの続きするか?」
「嫌! 私どうせ負けちゃうもん」
結局、夜光虫の家で夜光虫の家族を見ることは一度もなかった。けれど、そんなものなのだろうと気にもせず、いつものように夜光虫とだべりながら俺の家までの距離を歩いた。花世も一緒に。
ジリジリと暑い夏の太陽に負けて、駄菓子屋のソーダのアイスが食べたいなーなんて呟くと夜光虫が「うぇー」と気持ち悪そうに舌を出した。
「なんで、そんな顔するんだ?」
俺が問いかけると彼女は顔を曇らせたまま、「数えてないの?」と聞いてきた。
「今週に入って  が食べたアイスの数、十七個だもん」
「……」
「いくらなんでも、体に悪いわ」
夜光虫は呆れ顔でため息を吐いた。俺は黙ったまま、いつもの反対みたいだと少しだけ笑う。
「なに笑ってるの?」
夜光虫は怒り笑いして俺にじゃれついてきた。突進されて少しよろめきながら、俺はおかしくなって声を上げて笑う。
「一生、続けばいいのに」
「えっ?」
「こんな時間がずっと続けばいいのに」
それは叶わない夢であることを俺は知っている。生まれた時から、死ぬことを目指して生きている。いつかたどり着くそれは、幸せでも不幸でもおしまいなのだ。全てのものとの別れなのだ。
死を想って切なくなった。それは今俺が幸せだからだ。
「続かないよ」
現実の声が聞こえる。夜光虫は、はっきりと告げる。笑わない夜光虫は久しぶりだった。
「  はいつか私を殺すの。それは  が死ぬときじゃないもっと近い未来。私はそれが悲しくて言えなかったけれど……。  は私を殺さなくちゃいけなくなるの」
 振り向いた夜光虫の顔は、濁っていた。悲しさと苦しみと未来が見えている絶望で。鈍く光を放つ瞳に映った色に、俺はぞっと身震いする。
「しない! 俺はそんなこと絶対にしない」
どんなに否定したって、夜光虫は困ったように笑うだけだ。壊れそうに笑うだけだ。
 音を立てれば崩れ落ちそうな薄氷の上に不安定に乗っかっている俺たちは、ただ共にいることだけを願っているのに。
「殺さない」
 もう一度断言すると、初めて彼女の涙を見た。幻覚を見ている気分だった。あまりにも彼女が人間のように見えて——。
息が詰まるほど嬉しそうな顔をしているのに、同時にどうしようもない不幸を背負った表情。こんな表情知らない。彼女にこんな顔、させたかったわけじゃない。
「殺さなかったら、  は後悔するよ。だって私と  は――」
夜光虫が言いかけたその瞬間、耳鳴りがキーンとうるさいぐらいに聞こえ出した。
「――っ!」
 耳鳴りは大きくなって、思わず俺は耳を塞いだ。
その瞬間だ。淡い赤の光がぼんやりと辺りに輝いて、いつの間にか彼女がいなくなっていた。そばにいるのは花世という姑獲鳥だけだ。
「……夜光虫!」
 姑獲鳥は威嚇をするように、俺の周りを飛び回り、口を大きく開いては声を発している。辺りは霧がかかったように霞んで様子がうかがえない。
 そうだ、この泥臭い匂い。これは――妖怪の匂いだ。
 リンリンと鈴の音が、遠くから近づいてくる音が聞こえる。鈴の音は妙に澄んでいて、まだ遠くにいるはずの小さな音のはずなのに、鮮明に聞こえてくる。
 しばらくすると、その鈴に交じってカランカランと下駄が地面を叩く音が交じって聞こえるようになった。
 妖怪が近づいてきている。ふと自分の足を見つめるとみっともなく震えていた。その時初めて俺は怯えていることに気付いた。逃げよう! そう思って動かそうとしても、地面に縫い付けられたみたいに動かない。
 姑獲鳥の花世が鳴いている。みっともなく鳴いて飛び回るその姿は、空を飛んでいるというにはあまりにも滑稽で、気が狂ったかのようだ。
 止まった時の中、息をすることも忘れ、来ない足音の主を待つ。一秒、一秒。時間が過ぎる。……今一体何秒経った?
 一秒過ぎ去るのがあまりに遅すぎて、時間の感覚がわからない。
 額を流れる汗が這うようにして、肌を流れていく。
 まだ遠いのか? それとも近いのか? 逃げるべきなのか? 待つべきなのか? その長い長い時間の中、生唾を飲み込んだその時。
「もらいにきたよ」
 若い男の声が耳元で聞こえた。足音はそんなに近づいてなかったはずなのに、油断していた距離からの声に、体の力が一瞬にしてこわばった。
それが面白いみたいに、妖怪はクスクス笑い、まるでそれが当たり前だとでもいうように「ちょうだい」と屈託もなく言い放ったのだ。
「……な……にを?」
振り向かないままどうにか問いかけると、妖怪はまたクスクスと笑った。生ぬるい息遣いが耳にあたって、気味悪さでゾワリと鳥肌が立つ。
 長い爪が俺の首をつかんで、爪が肌に食い込む。そして顔を近づけているのだろうか、息がどんどん近くなる。息を吸い込む音が聞こえて、一瞬の沈黙があった。
「……あの子だよ、あの子の記憶、あの子の心、あの子の肉、全て」
独り言のように呟いた声は、俺に興味を失ったみたいにそっと離れようとしたのか、一瞬、気配が遠のいたが、ふと思いついたようにその動きが止まった。
「君は知ってるんだろう。彼女はどこ? 美味しい彼女はどこなんだい?」
「彼女って……?」
 俺がそう聞くと、そいつは急に大げさに笑いだした。その笑いはだんだんと激しくなって、だんだんと声色が変わっていく。
 高いのか、それとも低いのかもわからない。不思議な声で、スローで再生しているみたいにゆっくりとこういった。
「君が鬼神にしたんだろう? 彼女らを」
 そいつが言葉を言い終わると、ノイズ音が耳を犯した。だからもうその声は聞こえない。目の前も真っ暗で見えなくなってしまった。俺は呆然としていると、不意に肩を叩かれた。振り向くと、目の前には心配そうにこっちを見ている夜光虫が立っていた。
「……探した! どうしたっていうの? 突然いなくなるなんて……」
「……えっ?」
見渡すと、俺は自分の家の前に立っていた。
「な……んで?」
 夏のジリジリとした太陽が肌を焼く。バタバタともがくように飛ぶ花世が耳障りな鳴き声で騒いでいる。
「なんだったんだ……?」
 これじゃ、まるで白昼夢だ。小夜は呆然とする俺に怪訝な顔をしていた。
「あ……れ?   から変な匂いがする。この匂い、どこかで嗅いだことがあるような」
 俺はそう言って、考え込む夜光虫を見た。
(君が鬼にしたんだろう? 彼女らを)
遺伝する鬼の家系、その長子は必ず女性だったという。彼女ら……それは響鬼家の鬼のことを指しているんだろうか?
それなら、あいつが探していたのは俺じゃなくて夜光虫?
いや、あいつは、あの匂いは。
「覚? あの夢の……?」
 夜光虫が大きく目を見開いて、睨むような鋭い目つきになって俺に言った。
「……  はどこに行ってたの? 誰と会っていたの?」
「わからない。どこなのかわからないし、誰なのかわからない。ただ、そいつは夜光虫を探していたと思う」
 そういうと、夜光虫からピン、と糸が張ったような緊張感が伝わった。彼女は鋭い目つきで「そう」とだけ言うと、「ごめんね」と謝った。何に対しての『ごめん』なのかわからない。  
俺は何も答えられずに夜光虫を見ていることしかできない。彼女は鋭利な妖刀みたいに触れれば、傷ついてしまうほどに俺さえも拒絶しているように見えた。
「今日は帰るね」
 ドロッとした陰気な空気に触れた気がした。それは彼女が人間でないことを伝える異様な匂い。夜光虫は人間ではない。俺は彼女をいつか殺さないといけない。
 したくない。そんなこと。話し合えば、変えられることだってあるかもしれないのに、それでも彼女は一人で抱え込もうとするだろう。俺が人間だから、強くないから。
 花世が遠くへと飛び立っていく羽音だけが、バタバタと響く。
 呆然と自分の手のひらを眺めた。脆弱な人間の手のひらでは何もすることができない。