夜光虫が嗤う

 二  魑魅魍魎


 狐の嫁入りという天気を指す言葉がある。晴れているのに、雨が降ることを指す言葉だそうだ。
 俺は晴れの日が少し苦手だ。嫌なことを思い出すから。煌々と照らす太陽が憎らしく、眩むような日差しの遠くにある人の影を見ると今でも不思議に思うことがあるのだ。
 母が死んだ理由について。父にその話題を出したことはない。ただでさえ、俺のことで気を病んでいるのに、これ以上負担はかけられない。
 けれど今でもはっきりと母のことを思い出せる。全てに見放され、諦め切って生気を失ったそんな目をして、あんなひどい有様になってなお、彼女がほっと胸をなでおろすような安堵の表情を浮かべていたことを。
 あの時の母の目が、とても嫌いだ。
 晴れの日は、そんなことを思い出す。全てを投げ出し、見捨てられ、歪んでしまった日のことを。けれど、夜光虫に出会ってから、晴れの日に雨が降ることが多くなった。
 晴天の中に、霧雨のような細かで柔らかな雨が降る。どうしたことか泣きたくなるほど、安堵した。
「  、遊びに来た」
 夜光虫はたまにふらりと俺の前に現れる。そうして二人で駄菓子を食べながら話をするのだ。夕闇が迫る赤と青のグラデーションを見ながら、時には蟻の行列を眺めながら。
 他愛のない何の意味もなさない出来事を話すのだ。
「なぁ、夜光虫。君はどうして鬼なのに、駄菓子を食べられるんだ?」
 憂鬱そうに眺める公園には、子供たち以外誰もいない。水道の蛇口をひねって水遊びをする子供たちの、その透明な飛沫がこちらに飛ぶのではないかと、横目で気にしながらなんとなしに聞いてみる。
 空高く上がる水飛沫がふわりと円を描いて、降りかかれば七色の虹の色彩が浮かび上がった。
空の青い背景に薄い虹ができ、子供たちが感嘆の声を上げると、空が急にどす黒い影を落とし始める。
「人間を食べられるんだもの。駄菓子も食べられるに決まってる」
 夜光虫に薄気味悪く、輪郭を三日月みたいに半円にして微笑んでみた。
「それってわざとなの?」
 俺はそっと夜光虫に手を伸ばす。夜光虫の流れるような緑の黒髪を撫で、小声でバカみたいだと呟いた。
「夜光虫は、まるで怖がられるのを仕向けているみたいに思う。化け物なのは体だけ、本当はとても人間らしいんじゃないか」
 夜光虫は答えない代わりに、沈黙という肯定をしめす。
 深くため息をついてから、静かな沈黙を破る役割を俺が担う。
「夜光虫と俺は、心が反対だったらよかったね」
「……なぜ?」
 切なそうに目を細めた夜光虫の息も凍るような美しい表情に、一瞬目を奪われて鼻で笑う。いつもそうだ、彼女は役割を演じたがる。
 雪のような反射する白の、血の通わない赤味のない肌がそう見せるだけ。凛とした表情、憂う瞳。自分を呪う、孤独に打ちひしがれた、その真っ黒な感情は隠してもわかる。体の震えが、鬼の体に対して、精神が不釣り合いな彼女を哀れませる。
「俺は、心が化け物だから」
 そう、だからわかるのだ。
 彼女が可哀そうになるほど弱く、優しい存在であることを。彼女は目を伏せてから、少しだけ冗談を言った。
「代わってほしいってお願いしたら、代わってくれる?」
「その気もないくせに」
「……なんでわかるの」
 細く折れてしまいそうな華奢な指で、俺の目にかかる前髪を払って目を見つめる彼女に少しだけ胸を高鳴らせながら、その手を掴んだ。
「君が優しいから、俺とは全然違うから。俺が君の苦悩を引き受けたいと言っても、君は嫌がるだろ」
 憐れんだ瞳で彼女が一言。
「可哀そうな子」
 そうつぶやいた瞬間、その場の空気ががらりと変わった。
 蛇口をひねって遊んでいた子供たちがいつの間にかいなくなっていた。あたりに暗雲が立ち込め、光の閉ざされた薄暗闇がその場を支配していく。
 夜光虫に視線を向けると、彼女は苛立ったような表情をして遠くの何かを見つめていた。
「どうしたの?」
「ふふっ」
 夜光虫は笑うだけ。こんな時、夜光虫は人の形をしながら、全く別の存在になり果てている。
「夕方は逢魔ヶ刻だよ。ここらへんは信心深い人が多いからね。その分妖も出やすいの」
 彼女はそう言うと、濁って光るその目を真っ黒な人間の目に戻した。
「私といれば、大丈夫。魑魅魍魎よりは私のほうが断然強いから」
「魑魅魍魎って?」
 日が沈もうとしている。彼女の夕焼けに照らされて焦げ付いたような影が自分の足元に届いた瞬間だった。夜光虫がニヤリと薄気味悪く笑った。
「普通の人間の心よりもおいしいの。だって奴らは人間の肉を喰らっているから、たくさんの人の恨みや恐怖心の塊でもあるの」
 彼女は時折、気味が悪い。どれだけ優しくて、自分がどれほど狂った人間でも、きっと人と鬼。相容れない存在だからなのだろうか? 背中に汗が流れ、頬を撫でる風がやけに生ぬるい。足に釘を打たれたみたいにそこから動けなくなった。
「ねぇ、それって、どんな味がするの?」
 興味本位で聞くべきではない。そう分かっているのに、その言葉が口をついた。人間の心の味。夜光虫はそれがなければ生きていけない。彼女にとってそれはどんな味がするのだろう?
「……熱くて、痛くて、淋しくて、ざらざらしてるよ。私にとってそれはとても、おいしいの」
「そんな感情がおいしいなんて」
 羨ましい――そう言いかけようとして、夜光虫は俺の手を掴んだ。夏の暑い空気にその手は驚くほどひんやりとしていて、とても生き物の手だとは思えなかった。
「ねぇ、あそこに立ってる人見える?」
 彼女が指さした方向に顔を傾けると、ブランコが風に吹かれて揺れている。俺にはただそれだけに見えた。人もいない。ただ異様な匂いが漂って、揺れているだけ。
「……見えない」
 素直にそう答えると、夜光虫は俺の方を見た。その目は濁った月のように輝いて光を放った。――鬼の、狂った色。
「これなら?」
 手を繋いだまま、小夜の輝く月の目に見とれていると彼女が怒ったように声を上げた。しょうがなく、ブランコの方へ向き直ると、俺たちと同じくらいの男の子がブランコを漕いでいた。いいや、漕いでいるというよりも暴れているといった方が正しいかもしれない。体を揺らしてグラグラと不安定に上下するブランコを楽しんでいるようだ。
「さっきまでいなかったのに……」
「いたよ。風が吹くまでいなかったけど」
 夜光虫の綺麗な顔が歪んで笑う。なんとなく、嫌な予感がした。
 ブランコの少年に再び視線を向けると、少年は危なっかしく暴れるように漕いで、そして足を滑らせそのまま倒れるように額を地面に打ち付けた。ブランコだけが乱暴な動きで宙に舞う。
「おい!」
 その光景に声をあげた瞬間、俺は分かってしまった。
 ブランコが、泣きながら起き上がろうとする少年の頭を打ち付けることが。俺は咄嗟に固く目を閉じた。ゴツ、と鈍く当たる音だけが微かに聞こえ、辺りが静まった。
 ゆっくりと開いた目に映る世界が、グラグラと揺れる。目の前が真っ暗になったと思ったら、赤い血を流す少年がもがき苦しむのが見えた。奇声を上げて、血の出る頭を鷲掴むように抑えこみ、痛みをごまかすように体をうねらせる。
 少年が泣く。
「助けて……助けてよぉっ、痛い、……痛いよぅ」
 見つめた先の異様な存在。おそらくあれは人間ではない、生き物ですらない。でも、生前は人間だったもの……。
「ダメ。あの子は人間じゃない、触っちゃいけない。助けてもいけない」
 夜光虫がそういった時、心が腐った俺の一部がけたたましく笑った。
「それを、君が言うの?」
 口が裂けても言えなかったことを、気が付いたら口にしていた。
「……えっ?」
「夜光虫とは違う」
 彼女は凍りついたように目を見開いていた。その瞳には諦めにも似た寂しさがこびりついて、哀しいを通り越して、見るだけで痛みを感じるほど悲痛だった。
 冷たい感情が心を締め付ける。夜光虫の瞳は肌に痛みが走るほど悲しく美しく、愛らしい。目もそらせない、微動だに出来ない、ただ圧倒されて感動で体がしびれるほどの残酷な世界に打ちのめされている、母と同じ瞳だった。
 俺はそれがもっと見たくて――。
「君の方が人間じゃない」
 その瞬間、彼女は壊れてしまった。泣くわけでも、怒るわけでもなく、俺をただ見ていた。一瞬にして時間が止まった錯覚を起こす。
 夜光虫が動かなくなってしまった。哀しい表情のまま、息もしてないみたいに固まって……しばらくしてから見開いた目がゆっくりと閉じた。それでも微動だにしない。石像のように固まって生きてないみたいに何も言わない。息もしてない。
 赤く腫れた瞳には、笑顔がこぼれていた。触れたら壊れそうな、とても弱い笑顔をしてこういった。
「  は……友達?」
 その時、俺は夜光虫にどれだけひどいことを言ったかわかった。どれだけ彼女の心を傷つけたかわかった。オオカミが傷つかないわけじゃない。彼女は世界で一人きりの肉食獣。ただ、それだけだったのだ。
 最初は本当に、寂しかったんだ。寂しいから、友達にした。その心に嘘はなく、その目には俺は同じ存在として映っていたのに……。
「……ごめん、俺、あてられておかしくなってた」
俺は慌てて言い訳した。何を急に人間ぶって優しい人になろうとしているのだろう。見たかったものはそれなのに、同時に痛む心があったこと、それがまだ自分にもあったことに涙がにじむほど、心が熱くかゆい。
「助けて……。痛いよぉ……、苦しいよ」
 聞こえた少年の声に体がすくむ。
 どちらが危険かなんてわかりきっていたのに、すくんだ体をみて、夜光虫は少し哀しそうに笑うとこういった。
「大丈夫だよ」
霞む視界の端で見た彼女は、優しい微笑みを浮かべて俺の腕を掴んでいる。
「奴らはああやって人にショックを与えて、動きを止めてその隙に人を喰らうの」
 夜光虫の背後には黒いような灰のような、実態のないモヤが煙みたいに空に向かって伸びていた。それ見て俺は身をすくませると、夜光虫は手を離した。するとモヤが薄れぼんやりとしか見えなくなる。どうやら彼女に触れるとこういうものがはっきりと見えるらしい。
「魑魅魍魎ってね、これがそう。普段は心に隙がある人にしか手を出さないの。でも、私と一緒だからか余計に」
 ゴクリ、と唾を飲み込む音が大きく聞こえる。怖い、怖いと心が叫んだ。血のあふれる少年の残像が網膜に焼き付いて離れない。飲み込んだ唾があの流れる血と重なって思え、一瞬吐きそうになった。
「ごめんね」
 不意に発せられたその言葉が、心を軽くした。夜光虫が哀しい顔をしたからだ。その濁った黄色の目にはうっすらと涙が滲んでいる。潤ませた目は鈍くキラキラと輝いて、吸い込まれるような感覚に陥る。彼女の哀しい顔がその瞬間、やっぱり好きだと思った。薄気味悪いのは俺のほうだ。
 モヤは小夜と俺の周りを這い蹲るようにしてぐるぐると回る。彼女は少しだけうんざりしたように声を上げた。
「喰いたいのか? 私を」
 モヤはうねるようにベッタリと地面を這いながら小夜に近づいてくる。
 夜光虫はイラついたように、そしてあざ笑うように笑う。
「やってみるか? 私なら喰えると思ったその甘さ、後悔することになるぞ」
 彼女はもう既に人の形ではなくなっていた。黄色い目がギラリと光った瞬間、走り出していた。走りながらモヤを掴もうと伸ばした手は爪が鋭く尖り、血管が浮き出ている。肌の色は透き通るように白く、化けものじみたその容姿に彼女の小柄な着物があまりにも似合わない。
 長く蛇のように這いつくばっていたモヤは縦に長くなって目を細めてよく見ると、子供や老人、いろいろな人の顔が無数にうごめいている。現実にいる気がしない。悪夢の中にいるみたいだ。
 夜光虫は人間じゃない。それは分かっていた。
 呆然と見つめるしかない俺をあざ笑うように彼女はモヤをその手で引き裂いた。喉を踏みつけ、悲鳴を上げたあの子供が頭に浮かぶ。
 濁った無数の悲鳴が鳴り響く。咄嗟に耳を塞いだ。
 それなのに彼女を目で追うことをやめられない。哀しみにまみれるように彼女は涙を流していた。引き裂かれたモヤは赤く染まる。それでもモヤは小夜を喰らおうともがき、噛み付こうと必死だ。
「痛いよ」
 声がした。
「助けて、ここから出して」
 さっきの少年だと気づいたのは、俺がちゃんと目を開けていたからだ。夜光虫は泣きながらその少年は引き裂いた。悲鳴がとどろく。でもそれが救いだと思った。少年はこの集まった怨念の塊から離れられなくて苦しんでいるから。
 誰かのために初めて祈った。早く眠れるように。
 飛びついて噛み付いたモヤはきっとザラザラして痛くて哀しい味がするのだろう。夜光虫は笑いながら泣いていた。
 彼女に噛み付かれたモヤは少しずつ薄れ、いつしかなくなった。恐る恐る夜光虫の顔を見るととても満足そうに笑っていた。涙が流れた跡はなく、あれは幻覚だったように思える。
 凛として背筋を伸ばして笑う彼女は、俺の手を握った。微かな震えが伝わる。今の戦いが怖かったのではない、だって彼女は笑っているのだから。だからきっと震えているのは、俺の目に自分がどう映ったのか理解したからだ。俺が恐怖で震えていないか、それを確かめるために俺に触れてきたんだ。
「夜光虫は、俺が友達じゃなくなるのが嫌なの?」
 確認するように言うと、彼女またごまかすように哀しく笑った。黒くなった目にその表情はたまらなく映えた。
「居なくならないよ。怖がりもしない」
 嘘八百が口をつく。ああ、怖い、この女が怖い。できることならこの手を振り払って大声を出して逃げ出したい。けれど矛盾する気持ちがあるのも嘘じゃない。遊具は錆び付いて塗装がハゲている。
 どんな思いでも風化することを祈って、恐怖心を消し去って、都合良く彼女の哀しみだけ愛してあげられたら、そうすればきっとちゃんと友達でいられるのに。
 そう思わずにはいられなかった。それが例え、友情ではなく憐憫でも、願わずにはいられなかった。
「ありがとう」
 夜光虫はその言葉を聞いて笑う。疑いもしないのだ。俺が本当は振り払いたいほど怯えていていることを。
「練飴食べようか?」
 嘘ばかりついている。怖いのに。それ以上に彼女の目が好きでたまらなく独占したいと思うほど焦がれていることも、切り離したいほどの恐怖心を抱いていることも、全部隠して、嘘みたいに笑っている。