子供ながらにぼんやりと覚えているのは、マンションの屋上に立って笑っている母の姿。
「おかえり」と何ら変わらない笑顔で手を振っている。だから母が笑顔のまま、その手すりを乗り越えるなんて思わなかった。瞬時に様子がおかしいことを悟り、声を出さなければと体に力が入った。
「おかあ……」
その刹那、母は何のためらいも見せず手すりを飛び越えた。
呆然とする頭の中で、出せなかった声が反響するように鈍く響いた。母の体が反転し、頭が下を向いて、墜落していく。植えてあった木に引っかかり、頭から直撃は免れたけれど、高さがあり、木も命が助かるほどのクッションにはならなかった。
水風船だと思った。
夏に公園で水風船を投げあって遊んだことがある。母は水風船がアスファルトに落ちて砕けた時みたいに、赤い飛沫をあげて砕けた。
砕けたような赤い血と、変に折れ曲がった体が記憶の中にある母と同じだと思えなかった。生きているとすら思えない有様だった。
この突出した白いものは、骨?
それなら、この赤黒いものはなに? かろうじて人の形を保っている母の姿は、それでも壊された人形のように歪で、人体のどこが如何なっているのか、はっきりとわからない。気持ち悪いはずだった。そして何より悲しいはずだった。
それなのに血の気が引くどころか、血圧が上がり、轟々と耳の血流が流れ出す音に戦慄する。細胞の一つ一つが騒ぎ立てて、声を出して喚起するような……。この感覚はなんだ?
「……み……ゃ……、だ……」
母は呻き、吐息を漏らす。
声になりきらない吐息が声だったと自覚した瞬間、何を言ったのか気づいた。「見ちゃだめ」
うなだれるような赤い塊は、痙攣を繰り返し、止まることのない出血とともに命が垂れ流れていく。なんでこんなに激しく痙攣を繰り返しているのに、どうして息は弱まっていくのだろう? 動と静の狭間で命が削り取られていく。
血が染み出て、あふれ出して。これはなんなんだろう。もう人間に見えない。
そのうち、母だったものは乾いた笑いのような声を出し、電池の切れたおもちゃみたいに動かなくなった。
人が死ぬときに出す叫びが断末魔だと聞いたことがある。これがそうか? それにしてはあまりにも弱く、悲痛さは感じない。
それより感じたのは、生きることへの皮肉めいた嗤い。乾いた嘲笑。
血だまりに沈む折れ曲がった腕を見て、痙攣しながら血のあぶくがあふれるのを眺めて、血の気が失せ、土気色に変色する肌を間近で感じながら、血だまりのそれに触れてみる。
またあったかい。
これが命だったものかと冷めた心で向き合った瞬間、鳥肌が立った。
感動したのだ。命に。
あれだけ尊いとのたまわれる命の灯は、高いところに落ちただけで、電車に飛び出しただけで、首を吊っただけで、簡単に費えるのだ。ふぅっと息を吹きかけただけで、簡単に終わってしまう命に向き合って、その最後の瞬間に立ち会えたのだと思えば、体中が震えてしかたなかった。
息が上がる。怖がっているんだ。きっとそうだ。脳が興奮しているのは、手のひらが震えるのは、息が上がって声が少しうわずって呻くのは。
ちゃんと恐怖なんだと言い聞かせた。そうだ、きっとそうなんだ。
夏の木漏れ日の下で、セミの声が遠のいていく。スニーカーのつま先が血で濡れた時、俺は思わず蹲った。
信じられなかった。必死にズボンを隠した。混乱する頭の隅っこで初めての精通がこんなぐちゃぐちゃに壊れてしまった母親であることに、異常な自分を指さして責める正常な自分が、見下したように俺を見ていた。
自身の異常性を自覚した幼い頃のろくでもない記憶。
俺はそこから、人と関われなくなった。幼い頃は活発で誰とでも仲良く遊べた少年だった俺は、そこから塞ぎがちになり、自分以外の人を見るたび、こいつも、こいつも、壊せばみんな母と同じようになるのだと、壊れる瞬間ばかりを想像するようになった。
あの母の遺体の、ぬめった肉の感触だけが忘れられないほど、自身にこびりついていた。それは年を増すほど粘着質にへばりついて離れようもなくなって、一種の呪いのようになっていく。
俺はあの瞬間、どこか壊れてしまっていたのかもしれない。俺を支えきれなくなった父が吐き捨てるように言った言葉がある。
「いっそ、死んでくれたらいいのになぁ」
そういった父を責めるつもりは全くなかった。自分さえ思うのだから、周りが思っても仕方がない。そのはずなのに、父は堰を切ったように泣き出し「ごめん、本当はそんなこと思ってないから」謝った。
ぎゅうぎゅうと締め付けられる、父の体温がうざったく感じた。どうしてそんなに動揺し、声を荒げて泣くのか俺は理解していなかった。
「泣かないでくれ。俺は父親失格なんだ。俺が悪いんだ」
そういわれた時、初めて自覚した。そっと自分の顔を指でなぞってみる。ああ。納得したように漏れた声にぞっとする。俺はにんまり笑ったまま、涙を流していた。
その頃にはもう、自分の後始末のことばかり考えるようになっていた。
壊れてしまった人間の片付け方は、どこか残酷で、誰にとってもハッピーエンドにはなりえない。自身で死を選んだところで、父の傷にはなるだろう、反面、父も楽にもなるかもしれないけれど。
父に殺されるなんて終わり方なら、結末は目も当てられない。誰も本当に救われないのだから。けれど、だからこそ、自分で後始末をつけるのが一番なのかもしれない。
ああ、中途半端に愛されて育つんじゃなかった。最初から狂っていれば、誰も傷つかず終わることができたのに。そんな後悔の言葉だけが、まだ正気の自分から暴力のように投げつけられていく。
どうしてだろう。愛されることは幸せなことのはずなのに、家族を愛することは紛れもなく幸福の要因になるはずなのに。俺の首を絞め続けて後悔まがいの感情を芽生えさせるのは、どうしてなんだろう。
母が死んで、五年が経った中学一年の春。俺はまだ死んでいなかった。
その代わり、中学校でいじめられるようになり、俺は喜んでその立場を受け入れた。いつか自分が追い詰められて、死んでくれることを望んでいたのだ。
夏がしおれて、秋が近づく夕暮れの帰り道。俺はいつものように公園のブランコにのりながら、ハトに餌をやっていた。
赤い夕陽が滲んで絵の具みたいに、グラデーションを作っていく。あの日から、紙芝居の中を生きているような感覚。
空気を吸っても吐いても、リアリティを感じない。冷たいとか、熱いとか、ぬるいとか、美味しいとか。そんな感覚の間にぶよぶよの膜が挟まって痛覚があるのに、どこか遠く偽物のように感じてしまう。
こんな曖昧な感覚が時折、恐ろしく震えてしまうほどに悲しいのだ。
俺はそっとハトに触れようとした。こいつを殺してしまえば、血の赤を見れば、あの頃みたいに感覚が戻ってくるんじゃないか?
そんなことを考えていると、異臭が鼻をついた。
踏みつぶした虫のような、どぶ川に流れる汚水のような、人の新鮮な血のような……。こんな強烈な匂いは初めてだった。
そのあまりに匂いに思わず鼻を抑えようとした瞬間、俺は後ろから強い衝撃を感じ、前のめりに転んだ。
「あははっ。だっせー」
声が聞こえた方を見ると、女子と男子数名が俺の後ろに突っ立っていた。
「ハトしか友達いないんじゃね?」
そいつらはまるで舞台に立って決められたセリフを順に発するように、顔を見合わせて俺に暴言を吐いていく。
「一人ぼっちなのって、頭おかしいからでしょ?」
「そういえば、こいつの母親。自殺したんだろ、だからそんなに暗いんだろ」
「お前が殺したんじゃねーの」
無神経な言葉が投げつけられるたび、少し悲しくなった。何も心に響いてこないのだ。悪意も暴力ももっと、もっと酷くないと。この鈍った心はちゃんと傷ついてくれないのだ。
それならもっと嫌われなければ、刃物を向けて殺してくれるほど、憎悪、嫌悪を滾らせてもらわないといけない。彼らは悪意の匂いが薄い。普段見慣れているものや、化け物の悪臭と比較すると彼らはどこかしら、優しさすら感じる。
「そうだよって言ったら、お前らどうしてくれるの?」
殺してくれることを望んで聞いた。こんな異常な俺を迫害して、自殺に追い込んでくれることを望んで話した。
「なぁ、俺のことどうしたい? 殺したい? 痛めつけたい? でも今のお前らじゃ、全然足りないんだ」
「お前、何言って」
彼らは動揺したように呟く。俺は構わずに言葉を投げかけた。
「お前ら飛び降り自殺って見たことある? 俺は母さんの飛び降りが初めて見たそれだったよ。人間版水風船っていうのかな? 落ちた瞬間、赤い水と黒い塊が飛び散るんだ。バァン! って。何か知ってる? 内臓とか、血とかが重力に押しつぶされて弾けるんだ」
そう、俺は無意識に過去の話を思い返していた。
「お前らはみたことないだろ。人間ってあそこまで壊れたら、もうだめなんだね。死んでしまうんだ……。生きてるのか、死んでるのかわからない肉の塊がひくついて痙攣する、悲しいよなぁ、寂しいよなぁ、そんなことで簡単に死んでしまうんだよ」
そう悲しく目を伏せた瞬間、クラスメイトの女子が叫んだ。
「もう、やめてよ! 聞きたくない!! そんな話、聞きたくない!!」
そういわれて、少しだけ我に返った。
「なんで? 話を振ってきたのはそっちだろ?」
そういうと、俺は尻の砂を払って立ち上がった。夕暮れは赤色を群青に滲ませて夜を支配していく。
クラスメイト達は黙ったまま、すごい形相で俺を見ている。怯えと蔑みと、哀れみと。複数の感情が混ざった混沌の目。
ああ、そうだった。そういう目をするんだ。普通は。
普通から引きはがされ、怯え歪んでしまった俺は切なくなって俯いた。
「お前、おかしいよ。なに自分の母親が死んだ話をして、へらへら笑ってるんだよ」
背の高い、短髪のリーダー格の男が口にする。言い淀み、息を荒げ、笑わずに言うその神経が俺はわからない。自分らがふった話なのに、俺は会話を膨らませようとしただけだろう?
「そういう話をしたくて、話を振ったんじゃないのか? それとも俺は懇切丁寧に傷ついたふりをした方がいいのか? 俺は傷ついてなんかいないのに?」
「気持ち悪りぃ」
冷静ぶって話した瞬間、そう吐き捨てて俺を貶す短髪の男に殴られた。
「頭おかしいんだよ、お前。異常だ。異常! 吐き気がする」
そう声を上げて何発も何発も顔をグーで殴られる。俺は思わず笑ってしまう。なんだ、お前もそうなんじゃないか。そう思ったら痛いよりも笑いが止まらなかった。
殴っていた手を止め、男が「何がおかしいんだよ」と叫んだ。
「何って。同じなんだなぁって思って」
「何が同じなんだよ!」
男が俺の胸倉を掴んで、唾を飛ばしながら叫んだ。その瞬間、俺は人差し指を男の目に差し込んだ。呻きとも悲鳴ともとれる声を上げ、目を抑えて男は頼りなく叫び続ける。
「何も変わらないじゃないか。お前らは俺の心をへし折りたい。俺はお前らの体から命が抜けるところを見たい。なぁ、何が違って、何が間違っている。歪んでるんだよ。俺も、お前らも。誰かが死ぬところが見たいんだ」
血が出たこめかみをぬぐい血をなめた。血液の、味がした。
「なぁ、何が違うんだ?」
「何も違わない。何も、違わないよ」
その声が俺を肯定した瞬間、白い着物を着た女が俺の前に現れた。いや、今までこんな奴どこにもいなかったはずなのに。どこからこいつは現れた?
そんな俺の疑問を差し置いて、女は片目を潰された男の前に立ち、座り込んで男の頬を撫でる。
「自分が異常であることに気づけない人間ほど、頭の悪い存在はいないよ」
その時、初めてまじまじと女の容姿を見た。黒髪は腰のラインに沿って流れるほど長く滑らかで艶があり、濡れ羽の黒髪ってこういうのを言うんだろうな、なんてどうでもいいことが頭を過ぎる。
雪のような白い肌は光を吸い込んで閉じ込めたような眩さ。切れ長の目は憂いを帯びて、黒目が青く滲んで見えるほど独特な色気をまとい、紅を引いたわけでもない唇は赤く不気味に染まっているのに、視線を釘づけにするほどに美しい。
死に装束のような、白無垢のような、その着物は何というのかわからないが、彼女の儚い雰囲気を際立たさせる。白に滲ませて光の中に消えていきそうな、そんな美しい女だった。
女は男の頬に唇を寄せると、男は照れたように顔を真っ赤にした。
「いーけなんだ! いけないんだ。いじめっ子はいけないんだ!」
女がそういった瞬間、男の頬は食いちぎられた。
男の断末魔と一緒にバカにして笑うような声が聞こえた。女の歌うような声に、自分を取り戻し、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
音を立てるさえ怖いのだろう。声ひとつあげずに子供たちは走り去った。
肉を噛む、ぐちゃぐちゃという生々しい音が耳届く。
女の気が自分に向くのが怖くて俺も悲鳴さえあげられなかった。異質、圧倒的な異質な光景、獣でもなければ、人間でもない。この圧倒的な残酷な事象はなんていうんだろ。
「た、たすけ、助けろよ! 助け……あぁ!!!」
ただ目を見開いて突っ立っている俺に男は叫ぶ。それでも動けなかった。男には俺が薄情に映っただろう? 殴られ噛みつかれる度濁った声を上げる男はもがいて逃げようと必死だが、小柄な女には似合わないほど力が強いみたいで、女から逃げることは出来ず、ただ食い尽くされていた。
そして女の背中から見えていた男の手は、そのうちピクリとも動かなくなった。
女は跨っていた男からどいた。電池の切れたおもちゃに興味がなくなったみたいに男の扱いは存外だった。近づいてくる。白魚のような手には男の血だろうか? 赤黒く変色したもので濡れている。
ドクンと自分の心臓の音が耳まで届く。
手のひらが血の気を失っている。顔からさっと血の気が引いていくのがわかる。怖い、怖い。心臓の音は大きくなる。この鼓動以外は他に聞こえない。音が他に聞こえない。何もわからない。
ただ見えるのは女だけ。女がどんな表情をしているかすらわからない。認識できる脳が――動いてくれない。
「なに笑ってるの?」
俺と目線を合わせるようにしてかがみ、顔を覗き込む女は花のような笑顔で笑ってみせた。嗤ってる? そっと自分の顔を確認するように触ると、あの頃と同じように俺はにんまりと笑っていた。
「大丈夫?」
見上げると、女のその顔はもうあの肉食獣みたいに飢えた顔ではなくなっていた。
普通の、いや、年相応のあどけなさの残る女性らしい笑顔になっていた。彼女を初めて見たときは、その独特な雰囲気に圧倒され、自分よりずっと年上の女性だと思っていたけれど、実際は歳の変わらないのかもしれない。
今見ると十六歳ほどの、高校生になりたてという雰囲気の幼さを感じた。実際どうかわからないけれど。
「私は夜光虫」
女は頬に血をつけたまま、可憐に微笑む。その頃にはあの異臭は消え、ただの人間にしか見えなくなっていた。
彼女の陰のある笑顔が、幼さと相まって怪しく見えた。そもそもどうしてそんな名前なのかわからない。
「夜光虫……それって名前なの?」
「うーん、名前ではないかな。私が名乗ってるだけ」
「ふーん」
そういうと女はおかしそうに押し殺した笑い方をした。その白い頬がそれでも赤く染まることはなく、真っ青を通り越して青白いことに、ぞっとした。
「化け物?」
そう聞いたとき、彼女は凍り付いたように表情をくもらせた。
「君も同じようなものでしょう。私が食べた残骸みても、私のこと怖がりもしないで普通に話している」
彼女は化け物と言われたことに腹が立ったようで、その美しい顔を無表情にさせ、凛としたけれど突き放したような声色で話し出した。
「私はね、体の中に鬼が住んでるの」
俺を立たせた女の力は弱く、さっきとは別人のようだった。
「だから皆から嫌われているの。私が人を喰うから」
「鬼……?」
自分のことを散々異常で、狂っていると自覚して生きてきたけれど、実際に本当に社会の歯車から弾き出された化け物が出てきたら、俺はどうしていいかわからない。
急に鬼と言われても、信じる信じない以前の話というか。そもそも、得体のしれないなんかだということしかわからない。
鬼なんて見たことがない。
「鬼……」
俺は素っ頓狂な顔をして、ただオウム返しするだけで思考が固まっていた。こういう時、自分の頭でっかちなところが憎い。
「鬼は鬼だよ。人間じゃないの、私。見たでしょ? 自分よりも体格の大きな男を食ったのを。ほら、そこに残骸も落ちてる」
「これ、どうするの?」
「どうするって? なに? 別に家に持って帰ったりはしないよ。もうおいしいところは食べきったしね」
夜光虫はそう言って筋張った腕の肉を持ち上げた。
「いや、警察とか。いや、鬼だから犯罪者にならないのか? それなら俺が罪を着せられる?」
俺は半ばパニックになっていた。
「さぁ。一応、行方不明扱いにしないと、あとは面倒だから」
夜光虫は、手から青い焔を出すと遺体を燃やす。その焔自体が肉を消す特殊な火のようで消し炭も出さず、きれいに血の跡すら消していった。
そういった彼女は確かに笑っていたはずなのに。その瞳には、深い青色の哀しさが映りこんだ気がした。
誰もいなくなった公園には静けさが立ち込める。音を忘れたように世界が黙る。彼女にその音のない世界はとても映えた。彼女の美しさに黙り込むしかないように、木々のざわめきも辺りの雑踏も消え去る。
長いまつげに真っ黒な髪、光を反射する雪の肌は、美しさを切り取った人形のようだ。何よりも陰りのある憂いた瞳は息することすら忘れさせる。哀しい目だ。
「哀しい目……。夜光虫は人を食べるのが嫌い?」
思ったら口に出していた。
「ふふっ」
彼女は笑った。声を上げて必死に。
「……なんで、笑うの?」
おずおずと言葉が出た。恐ろしさに声を奪われていたはずなのに、どうして声が出るのか、その時の俺にはわからなかった。
「私のこと怖いくせに、どうしてそんなことを気にする?」
「……怖い」
彼女は自分のことを恐ろしがる人間を助けて、何がしたかったんだろう?
今でさえ、そんなに哀しい目をしているのに、助けた相手に怖がられるのは、きっと自身が傷つくに決まっている。それを理解できない訳じゃない。だってそれならこんな目はしない。必死に笑おうとなんてしない。
「本当はどう思ってるの?」
「えっ?」
虚をつかれたのか、彼女は戸惑うように言葉を詰まらせた。
「自分を怖がる人間を助けようなんて、普通しない。そんなの自分が傷つくだけじゃないの? 俺があいつの目を潰したから、君は出てきたんだろう? それって助けるためじゃないの? あの青い焔を出してあいつを消して、何もかも夜光虫が背負うためにやったことじゃないの?」
「……」
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いて、日が完全に落ちてしまったあとの残った紫の光を呆然と見つめてこういった。
「なんでそう思う?」
「だってずっと公園で匂いがしていた。君の匂いだよ。敵意の匂い。君は優しいんじゃないのか? 俺と違って、本当は傷ついているんじゃないのか?」
彼女は一瞬、視線が揺らいだ。青い憂いの影がとぷんと水音を立て彼女を飲み込んでいくようで、目が離せなくなった。
「別に、傷ついたりしないよ。私を怖がらない人間なんていないもの。だから傷ついたりしないの」
彼女は嘘をつくことが怖いぐらいに下手くそで、その瞳はじんわりと潤っている。
彼女の伏せた瞳に映る色、滴り落ちるような感情を表す表情、辛さを噛みしめ耐えるような眉が綺麗だと思った。彼女が悲しんだ顔そのものが、俺の心の中を引っ掻き回す。何故だろ。酷く悲しくそれでいて酷く嬉しく感じるのは。
俺は――彼女の悲しんだ顔が好きなのかもしれない。いいや、好きなんかじゃ追いつかないほどに、悲しいその瞳に、震える赤い頬に、寂しげなその背中に、一瞬にして魅了されてしまった。
「本当は自分を怖がらない存在が欲しいんじゃないの?」
どうしてこんなことを口走っているのだろう? こんな化け物じみた恐ろしい怪物に、何を言っているのだろう? その瞬間、自分自身を押さえることができなくなった。
「いいよ、友達になっても」
そういった言葉は嘘だった。本当は怖い。触りたくない。関わりたくもない。それなのに、何故俺は嘘をついたのだろう?
どうして俺は彼女と友達になろうとしているのだろう?
自分の意志でこんなにも自分を動かせないのは初めてだった。
「望んじゃいけないんだよ。本当の意味での友達なんか。私は人を食べる鬼の子。誰かに怖いって思われなきゃ、生きていけないの。だから、……だから」
「俺はお前を怖がらないよ」
気がついたら口走っていた。なんでこんなことを言うんだ? どうしてこんな気味の悪い少女に優しくしているんだ?
「ほんと……?」
「ああ」
自問自答したところで、答えは出ない。ただ彼女の憂いに染まる暗い瞳。それをいつまでもいつまでも、眺めていたかったから俺は平然と約束できた。彼女の哀しい瞳があれば、俺は他には何もいらないとさえ……思えるほどに。魅せられたのだ。息もつかせない、目も閉じられない、夢中で眺めて時間が過ぎることさえ忘れてしまうほどに、美しい目に。
俺はその日から彼女の友だちになった。
「あなたの名前は?」
「 」
彼女ははっと目を見開いて、静かに瞳を閉じた。
「 か。それなら、 はずっと、一緒にいてくれる?」
そういう彼女は、どこか悲しげで心に刺さるようだった。どうしてか、彼女の悲しい表情に惹かれる、滴り落ちるような彼女のあふれる悲しみが、棘のように奥底に突き刺さって抜けてくれない。
惹かれてやまないのだ。彼女の嬉しそうに笑う姿より、悲しむ姿が見たいと願ってしまうほどに。
「おかえり」と何ら変わらない笑顔で手を振っている。だから母が笑顔のまま、その手すりを乗り越えるなんて思わなかった。瞬時に様子がおかしいことを悟り、声を出さなければと体に力が入った。
「おかあ……」
その刹那、母は何のためらいも見せず手すりを飛び越えた。
呆然とする頭の中で、出せなかった声が反響するように鈍く響いた。母の体が反転し、頭が下を向いて、墜落していく。植えてあった木に引っかかり、頭から直撃は免れたけれど、高さがあり、木も命が助かるほどのクッションにはならなかった。
水風船だと思った。
夏に公園で水風船を投げあって遊んだことがある。母は水風船がアスファルトに落ちて砕けた時みたいに、赤い飛沫をあげて砕けた。
砕けたような赤い血と、変に折れ曲がった体が記憶の中にある母と同じだと思えなかった。生きているとすら思えない有様だった。
この突出した白いものは、骨?
それなら、この赤黒いものはなに? かろうじて人の形を保っている母の姿は、それでも壊された人形のように歪で、人体のどこが如何なっているのか、はっきりとわからない。気持ち悪いはずだった。そして何より悲しいはずだった。
それなのに血の気が引くどころか、血圧が上がり、轟々と耳の血流が流れ出す音に戦慄する。細胞の一つ一つが騒ぎ立てて、声を出して喚起するような……。この感覚はなんだ?
「……み……ゃ……、だ……」
母は呻き、吐息を漏らす。
声になりきらない吐息が声だったと自覚した瞬間、何を言ったのか気づいた。「見ちゃだめ」
うなだれるような赤い塊は、痙攣を繰り返し、止まることのない出血とともに命が垂れ流れていく。なんでこんなに激しく痙攣を繰り返しているのに、どうして息は弱まっていくのだろう? 動と静の狭間で命が削り取られていく。
血が染み出て、あふれ出して。これはなんなんだろう。もう人間に見えない。
そのうち、母だったものは乾いた笑いのような声を出し、電池の切れたおもちゃみたいに動かなくなった。
人が死ぬときに出す叫びが断末魔だと聞いたことがある。これがそうか? それにしてはあまりにも弱く、悲痛さは感じない。
それより感じたのは、生きることへの皮肉めいた嗤い。乾いた嘲笑。
血だまりに沈む折れ曲がった腕を見て、痙攣しながら血のあぶくがあふれるのを眺めて、血の気が失せ、土気色に変色する肌を間近で感じながら、血だまりのそれに触れてみる。
またあったかい。
これが命だったものかと冷めた心で向き合った瞬間、鳥肌が立った。
感動したのだ。命に。
あれだけ尊いとのたまわれる命の灯は、高いところに落ちただけで、電車に飛び出しただけで、首を吊っただけで、簡単に費えるのだ。ふぅっと息を吹きかけただけで、簡単に終わってしまう命に向き合って、その最後の瞬間に立ち会えたのだと思えば、体中が震えてしかたなかった。
息が上がる。怖がっているんだ。きっとそうだ。脳が興奮しているのは、手のひらが震えるのは、息が上がって声が少しうわずって呻くのは。
ちゃんと恐怖なんだと言い聞かせた。そうだ、きっとそうなんだ。
夏の木漏れ日の下で、セミの声が遠のいていく。スニーカーのつま先が血で濡れた時、俺は思わず蹲った。
信じられなかった。必死にズボンを隠した。混乱する頭の隅っこで初めての精通がこんなぐちゃぐちゃに壊れてしまった母親であることに、異常な自分を指さして責める正常な自分が、見下したように俺を見ていた。
自身の異常性を自覚した幼い頃のろくでもない記憶。
俺はそこから、人と関われなくなった。幼い頃は活発で誰とでも仲良く遊べた少年だった俺は、そこから塞ぎがちになり、自分以外の人を見るたび、こいつも、こいつも、壊せばみんな母と同じようになるのだと、壊れる瞬間ばかりを想像するようになった。
あの母の遺体の、ぬめった肉の感触だけが忘れられないほど、自身にこびりついていた。それは年を増すほど粘着質にへばりついて離れようもなくなって、一種の呪いのようになっていく。
俺はあの瞬間、どこか壊れてしまっていたのかもしれない。俺を支えきれなくなった父が吐き捨てるように言った言葉がある。
「いっそ、死んでくれたらいいのになぁ」
そういった父を責めるつもりは全くなかった。自分さえ思うのだから、周りが思っても仕方がない。そのはずなのに、父は堰を切ったように泣き出し「ごめん、本当はそんなこと思ってないから」謝った。
ぎゅうぎゅうと締め付けられる、父の体温がうざったく感じた。どうしてそんなに動揺し、声を荒げて泣くのか俺は理解していなかった。
「泣かないでくれ。俺は父親失格なんだ。俺が悪いんだ」
そういわれた時、初めて自覚した。そっと自分の顔を指でなぞってみる。ああ。納得したように漏れた声にぞっとする。俺はにんまり笑ったまま、涙を流していた。
その頃にはもう、自分の後始末のことばかり考えるようになっていた。
壊れてしまった人間の片付け方は、どこか残酷で、誰にとってもハッピーエンドにはなりえない。自身で死を選んだところで、父の傷にはなるだろう、反面、父も楽にもなるかもしれないけれど。
父に殺されるなんて終わり方なら、結末は目も当てられない。誰も本当に救われないのだから。けれど、だからこそ、自分で後始末をつけるのが一番なのかもしれない。
ああ、中途半端に愛されて育つんじゃなかった。最初から狂っていれば、誰も傷つかず終わることができたのに。そんな後悔の言葉だけが、まだ正気の自分から暴力のように投げつけられていく。
どうしてだろう。愛されることは幸せなことのはずなのに、家族を愛することは紛れもなく幸福の要因になるはずなのに。俺の首を絞め続けて後悔まがいの感情を芽生えさせるのは、どうしてなんだろう。
母が死んで、五年が経った中学一年の春。俺はまだ死んでいなかった。
その代わり、中学校でいじめられるようになり、俺は喜んでその立場を受け入れた。いつか自分が追い詰められて、死んでくれることを望んでいたのだ。
夏がしおれて、秋が近づく夕暮れの帰り道。俺はいつものように公園のブランコにのりながら、ハトに餌をやっていた。
赤い夕陽が滲んで絵の具みたいに、グラデーションを作っていく。あの日から、紙芝居の中を生きているような感覚。
空気を吸っても吐いても、リアリティを感じない。冷たいとか、熱いとか、ぬるいとか、美味しいとか。そんな感覚の間にぶよぶよの膜が挟まって痛覚があるのに、どこか遠く偽物のように感じてしまう。
こんな曖昧な感覚が時折、恐ろしく震えてしまうほどに悲しいのだ。
俺はそっとハトに触れようとした。こいつを殺してしまえば、血の赤を見れば、あの頃みたいに感覚が戻ってくるんじゃないか?
そんなことを考えていると、異臭が鼻をついた。
踏みつぶした虫のような、どぶ川に流れる汚水のような、人の新鮮な血のような……。こんな強烈な匂いは初めてだった。
そのあまりに匂いに思わず鼻を抑えようとした瞬間、俺は後ろから強い衝撃を感じ、前のめりに転んだ。
「あははっ。だっせー」
声が聞こえた方を見ると、女子と男子数名が俺の後ろに突っ立っていた。
「ハトしか友達いないんじゃね?」
そいつらはまるで舞台に立って決められたセリフを順に発するように、顔を見合わせて俺に暴言を吐いていく。
「一人ぼっちなのって、頭おかしいからでしょ?」
「そういえば、こいつの母親。自殺したんだろ、だからそんなに暗いんだろ」
「お前が殺したんじゃねーの」
無神経な言葉が投げつけられるたび、少し悲しくなった。何も心に響いてこないのだ。悪意も暴力ももっと、もっと酷くないと。この鈍った心はちゃんと傷ついてくれないのだ。
それならもっと嫌われなければ、刃物を向けて殺してくれるほど、憎悪、嫌悪を滾らせてもらわないといけない。彼らは悪意の匂いが薄い。普段見慣れているものや、化け物の悪臭と比較すると彼らはどこかしら、優しさすら感じる。
「そうだよって言ったら、お前らどうしてくれるの?」
殺してくれることを望んで聞いた。こんな異常な俺を迫害して、自殺に追い込んでくれることを望んで話した。
「なぁ、俺のことどうしたい? 殺したい? 痛めつけたい? でも今のお前らじゃ、全然足りないんだ」
「お前、何言って」
彼らは動揺したように呟く。俺は構わずに言葉を投げかけた。
「お前ら飛び降り自殺って見たことある? 俺は母さんの飛び降りが初めて見たそれだったよ。人間版水風船っていうのかな? 落ちた瞬間、赤い水と黒い塊が飛び散るんだ。バァン! って。何か知ってる? 内臓とか、血とかが重力に押しつぶされて弾けるんだ」
そう、俺は無意識に過去の話を思い返していた。
「お前らはみたことないだろ。人間ってあそこまで壊れたら、もうだめなんだね。死んでしまうんだ……。生きてるのか、死んでるのかわからない肉の塊がひくついて痙攣する、悲しいよなぁ、寂しいよなぁ、そんなことで簡単に死んでしまうんだよ」
そう悲しく目を伏せた瞬間、クラスメイトの女子が叫んだ。
「もう、やめてよ! 聞きたくない!! そんな話、聞きたくない!!」
そういわれて、少しだけ我に返った。
「なんで? 話を振ってきたのはそっちだろ?」
そういうと、俺は尻の砂を払って立ち上がった。夕暮れは赤色を群青に滲ませて夜を支配していく。
クラスメイト達は黙ったまま、すごい形相で俺を見ている。怯えと蔑みと、哀れみと。複数の感情が混ざった混沌の目。
ああ、そうだった。そういう目をするんだ。普通は。
普通から引きはがされ、怯え歪んでしまった俺は切なくなって俯いた。
「お前、おかしいよ。なに自分の母親が死んだ話をして、へらへら笑ってるんだよ」
背の高い、短髪のリーダー格の男が口にする。言い淀み、息を荒げ、笑わずに言うその神経が俺はわからない。自分らがふった話なのに、俺は会話を膨らませようとしただけだろう?
「そういう話をしたくて、話を振ったんじゃないのか? それとも俺は懇切丁寧に傷ついたふりをした方がいいのか? 俺は傷ついてなんかいないのに?」
「気持ち悪りぃ」
冷静ぶって話した瞬間、そう吐き捨てて俺を貶す短髪の男に殴られた。
「頭おかしいんだよ、お前。異常だ。異常! 吐き気がする」
そう声を上げて何発も何発も顔をグーで殴られる。俺は思わず笑ってしまう。なんだ、お前もそうなんじゃないか。そう思ったら痛いよりも笑いが止まらなかった。
殴っていた手を止め、男が「何がおかしいんだよ」と叫んだ。
「何って。同じなんだなぁって思って」
「何が同じなんだよ!」
男が俺の胸倉を掴んで、唾を飛ばしながら叫んだ。その瞬間、俺は人差し指を男の目に差し込んだ。呻きとも悲鳴ともとれる声を上げ、目を抑えて男は頼りなく叫び続ける。
「何も変わらないじゃないか。お前らは俺の心をへし折りたい。俺はお前らの体から命が抜けるところを見たい。なぁ、何が違って、何が間違っている。歪んでるんだよ。俺も、お前らも。誰かが死ぬところが見たいんだ」
血が出たこめかみをぬぐい血をなめた。血液の、味がした。
「なぁ、何が違うんだ?」
「何も違わない。何も、違わないよ」
その声が俺を肯定した瞬間、白い着物を着た女が俺の前に現れた。いや、今までこんな奴どこにもいなかったはずなのに。どこからこいつは現れた?
そんな俺の疑問を差し置いて、女は片目を潰された男の前に立ち、座り込んで男の頬を撫でる。
「自分が異常であることに気づけない人間ほど、頭の悪い存在はいないよ」
その時、初めてまじまじと女の容姿を見た。黒髪は腰のラインに沿って流れるほど長く滑らかで艶があり、濡れ羽の黒髪ってこういうのを言うんだろうな、なんてどうでもいいことが頭を過ぎる。
雪のような白い肌は光を吸い込んで閉じ込めたような眩さ。切れ長の目は憂いを帯びて、黒目が青く滲んで見えるほど独特な色気をまとい、紅を引いたわけでもない唇は赤く不気味に染まっているのに、視線を釘づけにするほどに美しい。
死に装束のような、白無垢のような、その着物は何というのかわからないが、彼女の儚い雰囲気を際立たさせる。白に滲ませて光の中に消えていきそうな、そんな美しい女だった。
女は男の頬に唇を寄せると、男は照れたように顔を真っ赤にした。
「いーけなんだ! いけないんだ。いじめっ子はいけないんだ!」
女がそういった瞬間、男の頬は食いちぎられた。
男の断末魔と一緒にバカにして笑うような声が聞こえた。女の歌うような声に、自分を取り戻し、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
音を立てるさえ怖いのだろう。声ひとつあげずに子供たちは走り去った。
肉を噛む、ぐちゃぐちゃという生々しい音が耳届く。
女の気が自分に向くのが怖くて俺も悲鳴さえあげられなかった。異質、圧倒的な異質な光景、獣でもなければ、人間でもない。この圧倒的な残酷な事象はなんていうんだろ。
「た、たすけ、助けろよ! 助け……あぁ!!!」
ただ目を見開いて突っ立っている俺に男は叫ぶ。それでも動けなかった。男には俺が薄情に映っただろう? 殴られ噛みつかれる度濁った声を上げる男はもがいて逃げようと必死だが、小柄な女には似合わないほど力が強いみたいで、女から逃げることは出来ず、ただ食い尽くされていた。
そして女の背中から見えていた男の手は、そのうちピクリとも動かなくなった。
女は跨っていた男からどいた。電池の切れたおもちゃに興味がなくなったみたいに男の扱いは存外だった。近づいてくる。白魚のような手には男の血だろうか? 赤黒く変色したもので濡れている。
ドクンと自分の心臓の音が耳まで届く。
手のひらが血の気を失っている。顔からさっと血の気が引いていくのがわかる。怖い、怖い。心臓の音は大きくなる。この鼓動以外は他に聞こえない。音が他に聞こえない。何もわからない。
ただ見えるのは女だけ。女がどんな表情をしているかすらわからない。認識できる脳が――動いてくれない。
「なに笑ってるの?」
俺と目線を合わせるようにしてかがみ、顔を覗き込む女は花のような笑顔で笑ってみせた。嗤ってる? そっと自分の顔を確認するように触ると、あの頃と同じように俺はにんまりと笑っていた。
「大丈夫?」
見上げると、女のその顔はもうあの肉食獣みたいに飢えた顔ではなくなっていた。
普通の、いや、年相応のあどけなさの残る女性らしい笑顔になっていた。彼女を初めて見たときは、その独特な雰囲気に圧倒され、自分よりずっと年上の女性だと思っていたけれど、実際は歳の変わらないのかもしれない。
今見ると十六歳ほどの、高校生になりたてという雰囲気の幼さを感じた。実際どうかわからないけれど。
「私は夜光虫」
女は頬に血をつけたまま、可憐に微笑む。その頃にはあの異臭は消え、ただの人間にしか見えなくなっていた。
彼女の陰のある笑顔が、幼さと相まって怪しく見えた。そもそもどうしてそんな名前なのかわからない。
「夜光虫……それって名前なの?」
「うーん、名前ではないかな。私が名乗ってるだけ」
「ふーん」
そういうと女はおかしそうに押し殺した笑い方をした。その白い頬がそれでも赤く染まることはなく、真っ青を通り越して青白いことに、ぞっとした。
「化け物?」
そう聞いたとき、彼女は凍り付いたように表情をくもらせた。
「君も同じようなものでしょう。私が食べた残骸みても、私のこと怖がりもしないで普通に話している」
彼女は化け物と言われたことに腹が立ったようで、その美しい顔を無表情にさせ、凛としたけれど突き放したような声色で話し出した。
「私はね、体の中に鬼が住んでるの」
俺を立たせた女の力は弱く、さっきとは別人のようだった。
「だから皆から嫌われているの。私が人を喰うから」
「鬼……?」
自分のことを散々異常で、狂っていると自覚して生きてきたけれど、実際に本当に社会の歯車から弾き出された化け物が出てきたら、俺はどうしていいかわからない。
急に鬼と言われても、信じる信じない以前の話というか。そもそも、得体のしれないなんかだということしかわからない。
鬼なんて見たことがない。
「鬼……」
俺は素っ頓狂な顔をして、ただオウム返しするだけで思考が固まっていた。こういう時、自分の頭でっかちなところが憎い。
「鬼は鬼だよ。人間じゃないの、私。見たでしょ? 自分よりも体格の大きな男を食ったのを。ほら、そこに残骸も落ちてる」
「これ、どうするの?」
「どうするって? なに? 別に家に持って帰ったりはしないよ。もうおいしいところは食べきったしね」
夜光虫はそう言って筋張った腕の肉を持ち上げた。
「いや、警察とか。いや、鬼だから犯罪者にならないのか? それなら俺が罪を着せられる?」
俺は半ばパニックになっていた。
「さぁ。一応、行方不明扱いにしないと、あとは面倒だから」
夜光虫は、手から青い焔を出すと遺体を燃やす。その焔自体が肉を消す特殊な火のようで消し炭も出さず、きれいに血の跡すら消していった。
そういった彼女は確かに笑っていたはずなのに。その瞳には、深い青色の哀しさが映りこんだ気がした。
誰もいなくなった公園には静けさが立ち込める。音を忘れたように世界が黙る。彼女にその音のない世界はとても映えた。彼女の美しさに黙り込むしかないように、木々のざわめきも辺りの雑踏も消え去る。
長いまつげに真っ黒な髪、光を反射する雪の肌は、美しさを切り取った人形のようだ。何よりも陰りのある憂いた瞳は息することすら忘れさせる。哀しい目だ。
「哀しい目……。夜光虫は人を食べるのが嫌い?」
思ったら口に出していた。
「ふふっ」
彼女は笑った。声を上げて必死に。
「……なんで、笑うの?」
おずおずと言葉が出た。恐ろしさに声を奪われていたはずなのに、どうして声が出るのか、その時の俺にはわからなかった。
「私のこと怖いくせに、どうしてそんなことを気にする?」
「……怖い」
彼女は自分のことを恐ろしがる人間を助けて、何がしたかったんだろう?
今でさえ、そんなに哀しい目をしているのに、助けた相手に怖がられるのは、きっと自身が傷つくに決まっている。それを理解できない訳じゃない。だってそれならこんな目はしない。必死に笑おうとなんてしない。
「本当はどう思ってるの?」
「えっ?」
虚をつかれたのか、彼女は戸惑うように言葉を詰まらせた。
「自分を怖がる人間を助けようなんて、普通しない。そんなの自分が傷つくだけじゃないの? 俺があいつの目を潰したから、君は出てきたんだろう? それって助けるためじゃないの? あの青い焔を出してあいつを消して、何もかも夜光虫が背負うためにやったことじゃないの?」
「……」
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いて、日が完全に落ちてしまったあとの残った紫の光を呆然と見つめてこういった。
「なんでそう思う?」
「だってずっと公園で匂いがしていた。君の匂いだよ。敵意の匂い。君は優しいんじゃないのか? 俺と違って、本当は傷ついているんじゃないのか?」
彼女は一瞬、視線が揺らいだ。青い憂いの影がとぷんと水音を立て彼女を飲み込んでいくようで、目が離せなくなった。
「別に、傷ついたりしないよ。私を怖がらない人間なんていないもの。だから傷ついたりしないの」
彼女は嘘をつくことが怖いぐらいに下手くそで、その瞳はじんわりと潤っている。
彼女の伏せた瞳に映る色、滴り落ちるような感情を表す表情、辛さを噛みしめ耐えるような眉が綺麗だと思った。彼女が悲しんだ顔そのものが、俺の心の中を引っ掻き回す。何故だろ。酷く悲しくそれでいて酷く嬉しく感じるのは。
俺は――彼女の悲しんだ顔が好きなのかもしれない。いいや、好きなんかじゃ追いつかないほどに、悲しいその瞳に、震える赤い頬に、寂しげなその背中に、一瞬にして魅了されてしまった。
「本当は自分を怖がらない存在が欲しいんじゃないの?」
どうしてこんなことを口走っているのだろう? こんな化け物じみた恐ろしい怪物に、何を言っているのだろう? その瞬間、自分自身を押さえることができなくなった。
「いいよ、友達になっても」
そういった言葉は嘘だった。本当は怖い。触りたくない。関わりたくもない。それなのに、何故俺は嘘をついたのだろう?
どうして俺は彼女と友達になろうとしているのだろう?
自分の意志でこんなにも自分を動かせないのは初めてだった。
「望んじゃいけないんだよ。本当の意味での友達なんか。私は人を食べる鬼の子。誰かに怖いって思われなきゃ、生きていけないの。だから、……だから」
「俺はお前を怖がらないよ」
気がついたら口走っていた。なんでこんなことを言うんだ? どうしてこんな気味の悪い少女に優しくしているんだ?
「ほんと……?」
「ああ」
自問自答したところで、答えは出ない。ただ彼女の憂いに染まる暗い瞳。それをいつまでもいつまでも、眺めていたかったから俺は平然と約束できた。彼女の哀しい瞳があれば、俺は他には何もいらないとさえ……思えるほどに。魅せられたのだ。息もつかせない、目も閉じられない、夢中で眺めて時間が過ぎることさえ忘れてしまうほどに、美しい目に。
俺はその日から彼女の友だちになった。
「あなたの名前は?」
「 」
彼女ははっと目を見開いて、静かに瞳を閉じた。
「 か。それなら、 はずっと、一緒にいてくれる?」
そういう彼女は、どこか悲しげで心に刺さるようだった。どうしてか、彼女の悲しい表情に惹かれる、滴り落ちるような彼女のあふれる悲しみが、棘のように奥底に突き刺さって抜けてくれない。
惹かれてやまないのだ。彼女の嬉しそうに笑う姿より、悲しむ姿が見たいと願ってしまうほどに。

