(誰もいなくなってしまった……)
花緒は再びまじまじと黒蛇の姿を見やる。黒蛇も静かにこちらを見返してきた。黒に金の散りばめられた美しい鱗。けぶる甘い桜の香り。
どうしてだろう。黒蛇を見ていると、とても懐かしい気持ちになるのだ。まるで過去にどこかで出会っていたような――。
刹那、黒蛇が大きく口を開いた。真っ赤な口内と鋭い牙が覗く。
(喰われる……!)
とっさにそう感じた。一気に体の内を恐怖が駆け巡る。あの牙が食い込んだら痛いだろうか。自分の贄の血が傷口から噴き出るのだろうか。それすらも考えている余裕すらないのだろうか。
恐怖の反面、安堵の気持ちもあった。これで自分はあの監禁生活から解放される。黒蛇はもちろん、家族や現世の人々の役にも立てる。
それならば、自分が贄姫として生まれてきた意味があったのではないだろうか。
もしそうだったなら多少は救われる気がした。こんな自分を喰らってくれる黒蛇に感謝しなければいけない気がした。
(どうか私を、黒蛇様のお役に立ててください……!)
黒蛇は花緒を一気に丸呑みした。空気を裂くような勢いで顎を開き、喉の奥へと滑り込ませる。その動きはあまりに速く、誰も息を飲む暇さえなかった。
だからだろうか、鋭い痛みは感じなかった。
黒蛇への感謝の気持ちと共に、花緒の頬を涙がひと筋伝い落ちる。
――視界が暗転した。
黒蛇と花緒が去った後、池の水面にさざめいていた波紋が消える。
辺りは静寂だけが残されていた。
妖魔の住む妖界〝常世〟。人の子の住む人間界〝現世〟とは四方の門を通じてしか行き来ができない。現世と常世は表裏に位置し、その地に大きな違いはない。ただ、そこに暮らす者が人か妖かの差異だけだ。人の世は帝が治め、妖魔の世は妖の王が治める。そうして成り立っているのだ。
「う……」
生温い空気が肌にまとわりつく感覚に、花緒は目を覚ました。途端、視界全体に広がる白い濃霧。上空にはじっとりと黙した闇が広がっている。夜なのだろうか。護摩線香を燃やしたような濃い煙の臭いが鼻を掠め、花緒は顔をひそめた。馴染みのない淀んだ空気が少し息苦しい。
花緒は上体を起こす。
(ここはどこなのかしら……。私はどうなったの?)
状況を整理しようと努めていると、少し離れた箇所から聞き慣れない声がかけられた。
「……目覚めたか?」
「え?」
花緒は驚いてそちらに顔を向ける。自分以外の誰かがいるなど想像もしなかった。何者かは花緒より五つは年上であろう外見で、ふたりの目の前に広がる大池の縁に腰かけていた。黒い着流し姿で、着物と同じく黒い鼻緒の草履を履いていた。その片足を無造作に水面の中に入れている。その態勢が妙に艶めかしかった。男は周囲の闇を吸い込んだかのような黒髪に、金色にきらめく切れ長の瞳をしている。通った鼻筋、薄い唇、細身だけれど引き締まった体――。
ひとたび見かければ忘れられない美丈夫。そしてなにより、男から強い桜の香りが感じられた。よく知っている香りだ。つい先ほどどこかで嗅いだような。
花緒は混乱して言葉を失う。男が怪訝そうに首を傾げた。
「どうした? 具合でも悪いのか」
「あ……いえ、あの……自分の置かれている状況がわからなくて……」
花緒は再びまじまじと黒蛇の姿を見やる。黒蛇も静かにこちらを見返してきた。黒に金の散りばめられた美しい鱗。けぶる甘い桜の香り。
どうしてだろう。黒蛇を見ていると、とても懐かしい気持ちになるのだ。まるで過去にどこかで出会っていたような――。
刹那、黒蛇が大きく口を開いた。真っ赤な口内と鋭い牙が覗く。
(喰われる……!)
とっさにそう感じた。一気に体の内を恐怖が駆け巡る。あの牙が食い込んだら痛いだろうか。自分の贄の血が傷口から噴き出るのだろうか。それすらも考えている余裕すらないのだろうか。
恐怖の反面、安堵の気持ちもあった。これで自分はあの監禁生活から解放される。黒蛇はもちろん、家族や現世の人々の役にも立てる。
それならば、自分が贄姫として生まれてきた意味があったのではないだろうか。
もしそうだったなら多少は救われる気がした。こんな自分を喰らってくれる黒蛇に感謝しなければいけない気がした。
(どうか私を、黒蛇様のお役に立ててください……!)
黒蛇は花緒を一気に丸呑みした。空気を裂くような勢いで顎を開き、喉の奥へと滑り込ませる。その動きはあまりに速く、誰も息を飲む暇さえなかった。
だからだろうか、鋭い痛みは感じなかった。
黒蛇への感謝の気持ちと共に、花緒の頬を涙がひと筋伝い落ちる。
――視界が暗転した。
黒蛇と花緒が去った後、池の水面にさざめいていた波紋が消える。
辺りは静寂だけが残されていた。
妖魔の住む妖界〝常世〟。人の子の住む人間界〝現世〟とは四方の門を通じてしか行き来ができない。現世と常世は表裏に位置し、その地に大きな違いはない。ただ、そこに暮らす者が人か妖かの差異だけだ。人の世は帝が治め、妖魔の世は妖の王が治める。そうして成り立っているのだ。
「う……」
生温い空気が肌にまとわりつく感覚に、花緒は目を覚ました。途端、視界全体に広がる白い濃霧。上空にはじっとりと黙した闇が広がっている。夜なのだろうか。護摩線香を燃やしたような濃い煙の臭いが鼻を掠め、花緒は顔をひそめた。馴染みのない淀んだ空気が少し息苦しい。
花緒は上体を起こす。
(ここはどこなのかしら……。私はどうなったの?)
状況を整理しようと努めていると、少し離れた箇所から聞き慣れない声がかけられた。
「……目覚めたか?」
「え?」
花緒は驚いてそちらに顔を向ける。自分以外の誰かがいるなど想像もしなかった。何者かは花緒より五つは年上であろう外見で、ふたりの目の前に広がる大池の縁に腰かけていた。黒い着流し姿で、着物と同じく黒い鼻緒の草履を履いていた。その片足を無造作に水面の中に入れている。その態勢が妙に艶めかしかった。男は周囲の闇を吸い込んだかのような黒髪に、金色にきらめく切れ長の瞳をしている。通った鼻筋、薄い唇、細身だけれど引き締まった体――。
ひとたび見かければ忘れられない美丈夫。そしてなにより、男から強い桜の香りが感じられた。よく知っている香りだ。つい先ほどどこかで嗅いだような。
花緒は混乱して言葉を失う。男が怪訝そうに首を傾げた。
「どうした? 具合でも悪いのか」
「あ……いえ、あの……自分の置かれている状況がわからなくて……」
