珊瑚が応じる。両腕を縄で縛られたまま、花緒も顔を上げた。
(キレイ……)
常世への景色を前に、直感的にそう感じた。珊瑚の感想どおり、異様な気配はある。けれどもそれ以上に、大池に映っている水面で揺れるかがり火も、半分朽ちかけている鳥居も、鬱蒼と茂っている仄暗い森も――不思議と自分を落ち着けてくれるものだった。
その時だった。うるさいほどに鳴いていた蛙や虫の声が一斉に止み、辺りが静寂に包まれた。花緒の面前に桜の花びらが一枚舞い落ちる。あ、と感じた途端、大池を取り囲んでいた木々に桜の花が満開に咲き誇ったのだ。
目も眩むような光景。美しい夜桜が花緒たちを包み込む。夜風が場内を吹き抜けた。さあ……と一斉に桜の花びらが舞い踊り、大池の水面に波紋が起きる。桜の優しい香りが鼻をくすぐった。
花びらが竜巻のごとく水面に寄り集まる。花緒たちが呆気に取られていると、その花びらの内から美しくも恐ろしい大蛇が姿を現した。
花緒たちの立つ池の縁に大蛇の陰が落ちるほどの大きさだ。艶めく黒い鱗を持つ巨大な黒蛇。鱗の所々に、妖の王を示す金の鱗が散りばめられている。印象的な見た目だった。
黒蛇から発せられる、常世の毒気を孕んだ臭気が辺りに充満する。臭気と言えども、むせ返るような桜の花の甘い香りだった。その色香に酔いそうになる。頭がぼうっとぐらついた。
(あの恐ろしい大蛇に喰われるの……?)
実際の妖の王を面前にして、今更ながらに恐怖がこみ上げる。足がすくみ、花緒はその場にへたり込んでしまった。
――妖の王〝黒蛇〟。
歴史書物の記録資料でしか想像のできなかった存在。その姿を目の当たりにした花緒たちは、あまりの恐ろしさに言葉を失っていた。
人を易々と丸呑みできそうなほど大きく裂けた口。矮小な人間などひと締めで殺してしまえそうな長い尾は、池の水面でとぐろを巻いている。もたげた頭は、まるで獲物を捕らえるように花緒たちを見下ろしていた。
数人の護衛が尻餅をつきながら後ずさる。
「ひッ、ひいい! お助け!」
「こんなところで死にたくねえよお」
「お、おまえら、勝手に逃げるな!」
定正が眉を吊り上げたが、護衛たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。それを皮切りに、辺りは阿鼻叫喚となる。皆が混乱に陥る中、花緒は死を覚悟してここまで来たからか、逃げ出そうとはしなかった。
(……皆が混乱するのも無理もないわ。こんなにも恐ろしいのだもの)
花緒は地面に膝をついたまま、顔を上げる。かつて現世を壊滅まで追い込んだ常世の王。その名のとおり、身もすくむほどの恐怖が背筋を走る。これが畏怖というものなのかもしれない。
「お父様! わたくしたちも逃げましょう! こんなところにいたら喰われてしまうわ」
「あ、ああ。だが――」
「この化け物をおとりにすればいいのよ! どうせ喰われるのですもの。少しはわたくしたちの役に立って死んだほうがマシでしょう?」
珊瑚は化け物と称した花緒の手首を掴み、背中を力任せに突き飛ばした。つんのめった花緒は、あわや縁から池に落ちそうになる。その身体を、尾の先を翻した黒蛇がそっと押し返した。
(え……?)
はっと花緒は視線を上げる。
(池に落ちないように助けてくれた……?)
真相はわからない。けれど、こちらを見つめる金の双眸に不思議と敵意は感じられない。
花緒と黒蛇のやり取りに気づいていない珊瑚は、取り乱す。
「さっさと喰われてしまいなさい! 化け物同士、お似合いよ!」
「黒蛇、その娘がおまえの贄姫だ。好きに喰らうがいい!」
定正は吐き捨てると、珊瑚を庇いながらその場を逃げ出した。誰もが退散してしまい、その場にひとりぽつんと残される花緒。
(キレイ……)
常世への景色を前に、直感的にそう感じた。珊瑚の感想どおり、異様な気配はある。けれどもそれ以上に、大池に映っている水面で揺れるかがり火も、半分朽ちかけている鳥居も、鬱蒼と茂っている仄暗い森も――不思議と自分を落ち着けてくれるものだった。
その時だった。うるさいほどに鳴いていた蛙や虫の声が一斉に止み、辺りが静寂に包まれた。花緒の面前に桜の花びらが一枚舞い落ちる。あ、と感じた途端、大池を取り囲んでいた木々に桜の花が満開に咲き誇ったのだ。
目も眩むような光景。美しい夜桜が花緒たちを包み込む。夜風が場内を吹き抜けた。さあ……と一斉に桜の花びらが舞い踊り、大池の水面に波紋が起きる。桜の優しい香りが鼻をくすぐった。
花びらが竜巻のごとく水面に寄り集まる。花緒たちが呆気に取られていると、その花びらの内から美しくも恐ろしい大蛇が姿を現した。
花緒たちの立つ池の縁に大蛇の陰が落ちるほどの大きさだ。艶めく黒い鱗を持つ巨大な黒蛇。鱗の所々に、妖の王を示す金の鱗が散りばめられている。印象的な見た目だった。
黒蛇から発せられる、常世の毒気を孕んだ臭気が辺りに充満する。臭気と言えども、むせ返るような桜の花の甘い香りだった。その色香に酔いそうになる。頭がぼうっとぐらついた。
(あの恐ろしい大蛇に喰われるの……?)
実際の妖の王を面前にして、今更ながらに恐怖がこみ上げる。足がすくみ、花緒はその場にへたり込んでしまった。
――妖の王〝黒蛇〟。
歴史書物の記録資料でしか想像のできなかった存在。その姿を目の当たりにした花緒たちは、あまりの恐ろしさに言葉を失っていた。
人を易々と丸呑みできそうなほど大きく裂けた口。矮小な人間などひと締めで殺してしまえそうな長い尾は、池の水面でとぐろを巻いている。もたげた頭は、まるで獲物を捕らえるように花緒たちを見下ろしていた。
数人の護衛が尻餅をつきながら後ずさる。
「ひッ、ひいい! お助け!」
「こんなところで死にたくねえよお」
「お、おまえら、勝手に逃げるな!」
定正が眉を吊り上げたが、護衛たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。それを皮切りに、辺りは阿鼻叫喚となる。皆が混乱に陥る中、花緒は死を覚悟してここまで来たからか、逃げ出そうとはしなかった。
(……皆が混乱するのも無理もないわ。こんなにも恐ろしいのだもの)
花緒は地面に膝をついたまま、顔を上げる。かつて現世を壊滅まで追い込んだ常世の王。その名のとおり、身もすくむほどの恐怖が背筋を走る。これが畏怖というものなのかもしれない。
「お父様! わたくしたちも逃げましょう! こんなところにいたら喰われてしまうわ」
「あ、ああ。だが――」
「この化け物をおとりにすればいいのよ! どうせ喰われるのですもの。少しはわたくしたちの役に立って死んだほうがマシでしょう?」
珊瑚は化け物と称した花緒の手首を掴み、背中を力任せに突き飛ばした。つんのめった花緒は、あわや縁から池に落ちそうになる。その身体を、尾の先を翻した黒蛇がそっと押し返した。
(え……?)
はっと花緒は視線を上げる。
(池に落ちないように助けてくれた……?)
真相はわからない。けれど、こちらを見つめる金の双眸に不思議と敵意は感じられない。
花緒と黒蛇のやり取りに気づいていない珊瑚は、取り乱す。
「さっさと喰われてしまいなさい! 化け物同士、お似合いよ!」
「黒蛇、その娘がおまえの贄姫だ。好きに喰らうがいい!」
定正は吐き捨てると、珊瑚を庇いながらその場を逃げ出した。誰もが退散してしまい、その場にひとりぽつんと残される花緒。
