黒蛇様と契りの贄姫

 桜河が広間に足を踏み入れ、花緒に歩み寄る。桜河の質問に花緒は俯いた。

「はい……。泉水家で唯一習っていたお稽古事が舞でした。練習はとてもきついものでしたが、その時に学んだ基礎が今こうして役に立っているので嬉しいです」

「そうか。努力を積んできたのだな」

 感心する桜河。花緒は曖昧に微笑むしかなかった。お蓮の指導を受けたからこそだと改める。泉水家での舞の稽古は虐待に近いものだった。けれどもそれを彼に明かすわけにはいかない。彼が自分を贄姫に選んだから起こってしまったのだと悟られないために。

 桜河が口を噤む。花緒はそんな彼の様子を窺おうと上目遣いに見上げる。彼は耳もとを僅かに赤くしながらそっぽを向いた。

「――さきほどの舞はとても……美しかった。お蓮の言葉ではないが、神楽を舞うおまえから目が離せなかった」

「ありがとう、ございます……。桜河様にお褒めいただけて、なにより嬉しいです。必ず贄姫のお役目を果たして、お屋敷で養っていただいているご恩をお返しします」

 桜河に常世に招いて貰えたこそ、自分は人の尊厳を取り戻せた。今こうして笑えているのは彼のおかげだ。彼の恩義に報いたい。彼の助けになりたい。それが今の自分の原動力だった。

 桜河が後ろ頭を掻く。

「おまえは俺の贄姫だ。生活の保障など当たり前であるというのに。しかし恩義か……。それならば、言葉に甘えてひとつ頼み事を聞いては貰えないか?」

「はい。なんなりと」

「その、この後の予定は空いているだろうか」

 少し勇気を出したふうに、桜河が花緒を真っ直ぐに見つめる。

 たしか今日の午後は本来ならば瓢坊の講義であった。けれども、瓢坊の元に急な客人が見える予定になったらしく休講になったのだ。

 花緒は首を傾げながらも頷く。

「空いております。瓢坊先生の講義が急きょお休みになりまして……。ご用向きでしたらなんでもお申し付けください」

「いや、そうではなく――」

「……?」

「これから、一緒に、町に、出かけないか」