黒蛇様と契りの贄姫

「立て。もうおまえの顔など見たくもない。泉水家の威光に泥を塗りおって」

 定正が腹立たしそうに吐き捨てる。
 華族の地位にある泉水家にとって、贄姫の娘の誕生は恥だった。人にとって、異能を持つ妖魔は畏怖の対象であり、忌み嫌われるもの。その妖の王に献上する生贄が当家に誕生すると、その家の血を汚すのと同義なのだ。妖魔の万病を癒す贄姫の血は、低級の妖魔である魑魅魍魎を惹きつける。家を妖魔に襲撃される危険にさらすため、贄姫の誕生は喜ばれるものではなかった。

 人はなぜ妖魔を恐れるのか――。それは、過去に現世が常世に取り込まれる寸前となった事態を招いたからだった。その昔、人は一度だけ間違いを犯した。誕生した贄姫を妖の王に献上しなかったのだ。両親が愛する娘を手放せなかったためだった。その一度の過ちで、人の住む現世は焦土と化した。贄姫の血の匂いに惹かれた低級の妖魔が現世を跋扈し、手あたり次第に人の子を喰らった。贄姫を献上されなかった妖の王が正気を失って乱心し、常世が無法地帯となったのだ。
 その騒動は、新たな贄姫を妖の王に捧げて許しを請うまで収束しなかった。それ以来、贄姫は人の世に騒乱を起こす災いの種として畏怖の対象となった。人ではなく妖の王への供物として物のごとく扱われた。

 贄姫は、余計な波風を立てぬよう十八歳を迎えるまで人の目から避けられ隔離して育てられる。花緒が離れの部屋に閉じ込められているのは、災いを招く存在に近づきたくないという恐怖の現れなのだ。家族でさえ花緒を畏怖し、忌み嫌う原因だった。

 定正に縄を引かれて花緒がやって来たのは、岩場だらけの森であった。人がかろうじて歩けるくらいの砂利に覆われた細道。その両脇には鬱蒼とした森がそびえている。曇天のためか日の光はない。今にも何か妖魔が飛び出してきそうなほど、薄気味悪い所だった。

(この先に、常世へと続く門があるのかしら……)

 機械的に足を進めながら、花緒はぼんやり考える。
 現世と常世の境界は曖昧だ。現世の東西南北の四方に常世へと続く門がある。それは禁足地になっている山奥や、奥深い森林、神を祀る神社、無人の小島だ。これから花緒が連れて行かれるのは、その内の森林の最奥にある『北の門』だ。
 砂利道は次第に幅が狭くなる。その分、両脇の樹木がせり出してきた。周囲がより鬱蒼と小暗くなってくる。常世の気配が冷気となって肌を突き刺してきた。この世ならざる者の気配が身体にまとわりついてくる。

「……ずいぶんと薄気味悪くなってきましたわね」

 後ろからしぶとく付いてきていた珊瑚が、たまりかねる。贄姫の一行は数人の護衛を付けているため、いざ妖魔に襲われたとしても対処できる。けれども、普通は名家の令嬢が同行するような旅ではない。妖魔に遭遇すれば命の危険があるからだ。花緒は贄姫であるため、ただでさえ魑魅魍魎を惹きつけてしまうのだから。