どれほどそうしていたのかわからない。夜はいつしか明け、薄闇を押しのけるように、障子越しの光がじわりと部屋を白く染めていった。
花緒は、折り畳んだ和紙を胸もとに忍ばせる。昨日拾った桜の花びらが入ったものだ。旅立つ自分への餞別として持っていくつもりだった。
(これがあれば、ひとりではないと思えるから)
ほどなくして、控えめに戸を叩く音がした。返事を待たぬまま使用人が入ってきて、命じられた手順に沿うように、花緒を離れの部屋から母屋に連れて行った。
数年ぶりに足を踏み入れた母屋に感慨を抱く時間もなく、花緒は小奇麗に整えられた座敷に通された。
そのまま鏡台の前に座らされ、冷えた指先で髪を梳かれ、固く結い上げられ、白粉を刷き込まれ、重みのある打掛が肩にかけられる。やがて、使用人たちから「もうよろしゅうございます」と事務的な声が落ちると、花緒はひとり、部屋の隅に置かれた姿見の前へと促された。花緒にお礼の言葉をかける隙すらも与えず、使用人は顔を逸らしたまま全員退室してしまう。
姿見に映った慣れない打掛姿の自分に、花緒は顔を伏せた。
上質な白の絹糸に細かい青海波柄が施された生地でできたそれには、ほかに一切の装飾は見られない。どこか皮肉めいて、それは贄姫として捧げられる日を寿ぐ白無垢の装いにも見受けられた。
(……綺麗な着物。私にはもったいないくらい)
長年虐げられていた自分にとっては、美しいお仕着せを着せてもらうだけでも僥倖なのだろう。そうでなければ、これから自分に訪れる恐怖に打ち勝てそうもなかった。
人の子の住む現世から、妖魔の住む常世に堕とされる。それが妖の王に捧げられる贄姫の宿命だった。魑魅魍魎が跋扈する常世。そこはおそらく、花緒にとっては地獄のような場所だろう。本来、人の子のいる域ではないのだから。
(常世に堕とされた瞬間、妖の王に食い千切られて命を終えるのかもしれない)
痛みと恐怖に苛まれながら。想像すると身がすくむ。それでも誰からも愛されなかった自分にはふさわしい最期なのかもしれない。
(それさえ耐えれば、この人生から解放されるのだから……)
少しは救われる気持ちになる。
このような特別な待遇を受けているのは、花緒の門出を祝うからではない。やっと化け物が屋敷からいなくなって清々するという嫌がらせだった。「これでおまえの顔を見なくて済む、妖の王に気に入られるよう最後に着飾ってやるから二度と戻って来るな」というのだろう。
十年振りに足を踏み入れた懐かしい母屋も、高価な着物や白粉も虚しいだけだった。
そのとき、不機嫌そうな足音が縁側から近付いてきた。その人物は花緒の部屋の前で足を止めると、無遠慮に障子を開け放った。
やって来たのは三つ下の妹の珊瑚だった。栗色の艶やかな髪を背に流している美少女だ。桃色に白い小花の散らされた着物姿が愛らしい。けれども珊瑚は、その可愛らしい外見にはそぐわず、綺麗な眉を跳ね上げる。
「いつ見ても汚らわしい部屋! まったく、こんなところは本来わたくしが足を運ぶ場所ではありませんのに。お父様ったら人使いが荒いわ」
「…………っ」
花緒は俯く。贄姫の痣が現れるまでは普通に接してくれていた妹。けれども今は、姉の花緒に対してあまりにも冷たい。
花緒は、折り畳んだ和紙を胸もとに忍ばせる。昨日拾った桜の花びらが入ったものだ。旅立つ自分への餞別として持っていくつもりだった。
(これがあれば、ひとりではないと思えるから)
ほどなくして、控えめに戸を叩く音がした。返事を待たぬまま使用人が入ってきて、命じられた手順に沿うように、花緒を離れの部屋から母屋に連れて行った。
数年ぶりに足を踏み入れた母屋に感慨を抱く時間もなく、花緒は小奇麗に整えられた座敷に通された。
そのまま鏡台の前に座らされ、冷えた指先で髪を梳かれ、固く結い上げられ、白粉を刷き込まれ、重みのある打掛が肩にかけられる。やがて、使用人たちから「もうよろしゅうございます」と事務的な声が落ちると、花緒はひとり、部屋の隅に置かれた姿見の前へと促された。花緒にお礼の言葉をかける隙すらも与えず、使用人は顔を逸らしたまま全員退室してしまう。
姿見に映った慣れない打掛姿の自分に、花緒は顔を伏せた。
上質な白の絹糸に細かい青海波柄が施された生地でできたそれには、ほかに一切の装飾は見られない。どこか皮肉めいて、それは贄姫として捧げられる日を寿ぐ白無垢の装いにも見受けられた。
(……綺麗な着物。私にはもったいないくらい)
長年虐げられていた自分にとっては、美しいお仕着せを着せてもらうだけでも僥倖なのだろう。そうでなければ、これから自分に訪れる恐怖に打ち勝てそうもなかった。
人の子の住む現世から、妖魔の住む常世に堕とされる。それが妖の王に捧げられる贄姫の宿命だった。魑魅魍魎が跋扈する常世。そこはおそらく、花緒にとっては地獄のような場所だろう。本来、人の子のいる域ではないのだから。
(常世に堕とされた瞬間、妖の王に食い千切られて命を終えるのかもしれない)
痛みと恐怖に苛まれながら。想像すると身がすくむ。それでも誰からも愛されなかった自分にはふさわしい最期なのかもしれない。
(それさえ耐えれば、この人生から解放されるのだから……)
少しは救われる気持ちになる。
このような特別な待遇を受けているのは、花緒の門出を祝うからではない。やっと化け物が屋敷からいなくなって清々するという嫌がらせだった。「これでおまえの顔を見なくて済む、妖の王に気に入られるよう最後に着飾ってやるから二度と戻って来るな」というのだろう。
十年振りに足を踏み入れた懐かしい母屋も、高価な着物や白粉も虚しいだけだった。
そのとき、不機嫌そうな足音が縁側から近付いてきた。その人物は花緒の部屋の前で足を止めると、無遠慮に障子を開け放った。
やって来たのは三つ下の妹の珊瑚だった。栗色の艶やかな髪を背に流している美少女だ。桃色に白い小花の散らされた着物姿が愛らしい。けれども珊瑚は、その可愛らしい外見にはそぐわず、綺麗な眉を跳ね上げる。
「いつ見ても汚らわしい部屋! まったく、こんなところは本来わたくしが足を運ぶ場所ではありませんのに。お父様ったら人使いが荒いわ」
「…………っ」
花緒は俯く。贄姫の痣が現れるまでは普通に接してくれていた妹。けれども今は、姉の花緒に対してあまりにも冷たい。
