黒蛇様と契りの贄姫

(この痣が現れてから、もう十年か……)

 ほの暗い畳敷きの粗末な部屋で、花緒はぼんやりと首もとに触れた。
 花緒は今年で十八の歳を迎える。――贄姫として妖の王へ捧げられる、その定めの年だ。この十年は、ただその日を待つだけの苦しみに満ちていた。
 幼い頃は母親も、他の家族も花緒を愛し、慈しんで育ててくれていた。けれども八歳で痣が現れて贄姫となってからは、花緒は冷遇されていた。
 贄姫の血は妖魔にとっては万病を癒す薬だ。けれども人にとっては害を為すのだ。
 花緒に痣が現れはじめてからというもの、屋敷の者たちの視線は徐々に冷えたものへと変わっていった。奇妙な痣は人々に不気味な印象を与え、やがて「不吉」や「禍つ印」と囁かれるようになった。とはいえその頃の扱いは、せいぜい陰口や小さな嫌がらせにとどまっていた。

 そんなある日、まだ痣が出て間もない頃のことだった。花緒はいつものように茶を差し出され、それがわざと過度に熱されていたことに気付く間もなく手を滑らせてしまった。湯呑が床に落ち、甲高い音を立てて割れる。破片で指先をかすり、赤い血が一滴、白い陶片に滲んだ。それを見た使用人は顔をしかめ、舌打ち混じりに破片を拾い上げた。ところが、花緒の血に触れた瞬間、使用人の顔色が失われ、苦しげに喉を押さえながらその場に崩れ落ちた。全身に深い紫色の内出血痕が浮かび、静かに息が絶えた。

 ――そんな、私のせいで……。

 当時まだ八歳だった花緒にとって、その光景は心に深い傷を作ることとなった。
 この出来事を境に、屋敷の空気は一変した。誰も花緒に近づこうとせず、彼女が通れば遠巻きに避けるようになった。人々はもう「不吉な娘」ではなく、「人を殺す化け物」として彼女を恐れたのだ。
 やがて、花緒が〝贄姫〟として生まれついた存在であることが明らかになると、屋敷の者たちはその名をもって彼女を遠ざけるようになった。恐怖の対象としての〝化け物〟から、役目を負わされた〝忌まわしい者〟へと、花緒への扱いは姿を変えていった。

 それ以来、八歳になるまでは母屋で何不自由なく暮らしていた花緒だったが、今では離れの粗末な部屋に閉じ込められ、ひっそりと暮らしている。自分はここで、ただ妖の王に喰われる刻を待つだけなのだ。

「明日で、全部終わる……」

 花緒はつぶやきながら、冷えた畳の上で夜空を仰いだ。
 村の灯りはすでに落ち、外には虫の声すらない。けれど月だけは、いつも変わらずに空から花緒を見守ってくれていた。
 月を見上げるこの時間だけが、花緒にとって日課であり安らぎの時間だった。

 そのとき、さぁ……と夜風が吹き抜けた。風に乗って桜の花びらが舞う。

「桜……?」

 薄闇の中、花緒は驚いて明かり取りの窓を見上げる。連日のように屋根を叩いた雨音がぱたりと止み、長引いた黴雨(ばいう)の終わりを感じる初夏の季節だ。何処かで季節外れの桜が咲いているのだろうか……。
 小窓は自分の頭よりもうんと上にある。確かめようにも、窓の外を見ることさえ許されない。
 この檻のような生活では満足に日の光が浴びられず、花緒の肌は病的に青白かった。さらに贄の痣が現れてからというもの、元々は黒だった髪も日に日に色を失い、雪のように白くなっている。花緒は、今にも消えてしまいそうなほど全身真っ白なのだ。贄として儚く命を散らす運命を表すかのように。

 明かり取りの格子の隙間から先ほどと同じ白い花びらが舞い込んできた。花弁を傷つけないよう、そっと手に取る。

「間違いない。桜の花びらだ」

 花緒はそれに柔らかく微笑みかける。

「ありがとう。まるで励ましに来てくれたみたいね」

 これから妖の王の贄として命を捧げる自分を弔ってくれるかのように。
 花緒は胸もとから和紙の切れ端を取り出すと、そっと桜の花びらを包み込む。

(この花びらを持ってゆこう。お守り代わりに)

 和紙にくるんだ桜の花びらを胸に、花緒は床につく。
 妖の王の贄として捧げられる儀式の日――。
 あっという間だったような、やっとその日がやって来たような。
 花緒はただ、月の光に身を委ねるように目を閉じた。

 夜は、音もなく深まっていった。