黒蛇様と契りの贄姫

 身支度を終え、花緒は姿見から少し離れて立った。

 梅の手で丁寧に結われた髪に、桜河から賜った銀細工の簪を挿す。先端にある小さな神楽鈴と桜の花弁が揺れ、シャラリと音を立てた。これは桜河と町に出かけたあの日、彼から贈られたもの。以来、花緒はこの簪を肌身離さず持ち続け、大切にしていた。手にするたびに、あの時の絆を思いだせるから。

 以前と同じ姿ながら、心は大きく変わっていた。

 卑下は自信に、重圧は誇りに、自分を愛せる強さを手に入れた。

 それもこれも、自分を支えて導いてくれた常世の皆のおかげだ。

 鏡の中の瞳は以前よりずっと力強く、花緒自身を見つめ返していた。その顔にふと笑みを浮かべ、部屋を出ようとした瞬間だった。

 翻った千早が文机の上の本に触れ、はらりと白い和紙が床に落ちる。拾い上げると、それは桜の花弁を包んでいたものだった。

(……ここにあったんだ)

 桜河を救ったあの日、花弁は光を放ちながら消えた。その後、和紙の行方はわからなくなっていた。梅が片付けてくれたのだろうか。胸にしまおうとして、花緒はふと手を止めた。

 静かに和紙を見つめ、引き出しの奥にそっとしまう。

 現世から共に歩んだ友はもういない。けれど、不安はない。多くの人々に支えられ、桜河と共にこの国を守る。どんな困難があっても、必ず乗り越えられる。

 愛する者たちと共に、ここで生きていくと決めたから。

(助けてくれてありがとう。私はもう、大丈夫)

 神楽鈴を手に、足早に部屋を出る。

「行って参ります!」

***

 慶桜(けいおう)百十年十月三十日、午後六時半――黒姫国の民が一様に夜空を見上げていた。

 ある者は仕事を中断し、ある者は家族と共に集まって。

 上空では、満天の星屑が降り注ぐような光の雨が舞い落ちる。

 それは歴代最強の妖の王――黒蛇様の最愛の贄姫が浄化を成し遂げた証、常世を包む優しく温かな光だった。


おわり