黒蛇様と契りの贄姫

 蘭之介は軽く咳払いをし、照れ隠しのように顔をそらした。

「……蘭之介でいい。様は要らん」

「あ……。蘭之介、さん?」

「それでいい」

 ぽつりと口元に笑みを浮かべ、蘭之介は軽く花緒の肩を叩いた。

「……桜河のこと、頼んだぞ。花緒」

 その声音には、ごく僅かな温かさが混じっていた。

 蘭之介はそう言い残し、朝の光の中を去っていった。

(蘭之介さん、今、初めて私の名を呼んでくださった……?)

 花緒はその背を目で追いながら、微かに笑みを浮かべる。

 彼の最後の言葉が、まるで祝福のように胸の奥で温かく響いていた。

***

 蘭之介とわかれてから――花緒は屋敷の中庭に架かる朱塗りの橋の上に立ち、ゆるやかに流れる池の水面を見つめていた。

 昨夜は、桜河と夜通し語り合い、互いの想いを確かめ合ったばかり。思い返すたびに頬が熱を帯び、胸が痛いほど高鳴った。

 橋の下で鯉が尾を揺らし、朝の光を受けて金の輝きを散らしている。

 夢の続きのような静けさの中で、花緒は小さく息をついた。

(……いけないわ。いつまでも浮かれてはいられない)

 桜河の隣に立つにふさわしい贄姫になるために、やるべきことがまだ山のようにある。まずは改めて浄化の儀を成功させ、桜河を救ったあの力の正体を確かめなければならない。

 そんな決意を胸に刻みながらも、水面を眺めるうちにひとつの疑問が浮かんだ。

(そういえば、結局、桜河様がどうして私を贄姫に選んだのか――聞かずじまいだったな)

 両親を失って以来、誰かを贄にすることを避けてきた彼が、なぜ自分を選んだのか。しかも、自分がまだ八歳であった時に。

 花緒はそっと橋の欄干に手を添え、首を横に振った。

(……今はまだ、知らなくていいのかもしれない。これから先、きっとお話ししてくださる時が来るだろうから)

 池を渡る風が朱塗りの橋を撫で、花緒の髪をやわらかく揺らしていった。