黒蛇様と契りの贄姫

 その姿を見つめる桜河の胸の内に、言葉にならない感情が溢れていく。

(……最近の俺は、どうかしている)

 理性で抑えきれない衝動の正体が、自分でもわからない。

 彼女は贄姫であり、守るべき存在――それなのに、目の前の安らかな寝顔を見るたび、心が掻き乱されるのだ。

 桜河はそっと彼女の髪を撫で、指先で撫でた感触を確かめるように一度だけ掌を離した。その手に残るぬくもりを惜しみながら、静かに立ち上がる。

 部屋を出て襖を閉める直前、もう一度だけ振り返った。

 月明かりが差し込んだ部屋で眠る花緒の姿は、まるで夢のように美しかった。

 廊下へ出た桜河は、夜気に胸いっぱいの息を吸い込む。

 群青に沈んだ池の水面には、まるで答えを映すように月の鏡が揺れていた。

***

 その日は抜けるような秋空だった。

 山吹との特訓を始めてから早一カ月。今日も今日とて、花緒は山吹と共に霊山の山頂にやって来ていた。ここへ来るのももう慣れたものだ。標高の高さ特有の空気の薄さが、初めの頃は心なしか息苦しかった。

 けれども今は、逆に気合いが入り、集中力を高めてくれるのだ。御山が力を貸してくださっているような、そんな感覚がした。

(今日こそ、上手にいきますように……)

 花緒は穏やかな気持ちで目を閉じる。山間を吹き抜ける風が心地良い。

 目を閉じたまま、穏やかな気持ちで懇願する。その途端だった。暗闇に桜吹雪が巻き起こった。自分の妖力の流れが、凄まじい桜吹雪となって花緒の視界を覆いつくす。

(わ……!)

 花緒は驚きに息を呑み、思わず目を見開いた。その瞬間――目を閉じていたときに心の内で視ていた桜吹雪が、現実の空気の中で花緒を中心に渦を描いていた。

 それは乱気流のように激しく吹き荒れているのに、不思議と恐ろしさはなく、花緒には確信があった。

 この風も光も、すべて自分を守ろうとしてくれている。まるで、花緒の心に寄り添うように桜吹雪が優しく包み込んでくれているのだと。

 山吹が満足げに拍手を送る。

「お見事……まさか本当にこの短期間でここまでできるようになるとは恐れ入ったよ。それにしても、なんて優しい妖力なんだ。花緒ちゃんらしい、あらゆるものを包み込むような桜吹雪だね。桜河が扱う妖力と同じ桜の花びらなところも、なんともいじらしいね」

「……山吹さん。からかわないでください」

 花緒は唇を尖らせる。一度、妖力を具現化させてしまえば正体がわかるというもので、花緒は恐れなく自身の纏う桜吹雪に両手を添えた。舞い上がっている桜の花びらたちは、花緒の手に甘えるように寄り集まって来る。

 この桜吹雪の持つ妖力を自在に操る――それが妖力操作なのだろう。神楽殿でお神楽を舞ったときよりもずっと、自分の力を身近に感じられていた。