黒蛇様と契りの贄姫

 特訓と息抜きを繰り返す日々が重なり、さらに一週間が過ぎようとしていた。

 花緒は、昼は山吹との修練や個人練習に取り組み、夜は自室で文献を読み込みながら学びを重ねた。努力の日々は確実に、彼女の中の力を育てていった。

***

 夕餉の刻が迫り、暮れゆく陽をぼんやりと眺めながら、桜河は独り回廊を歩いていた。

 庭園の池の水面には茜色の光が揺らめき、冷え込み始めた空気の透明さが肌を撫でる。思わず腕を組み、吐息をひとつ漏らしたその時――前方の部屋の襖の隙間から、かすかな光が漏れているのに気づく。

(あそこは……花緒の部屋か。まだ机に向かっているのか?)

 山吹の話によれば、花緒は妖力操作の要領を着実に掴み始めているという。まだ妖力の顕現には至っていないが、近いうちにきっと成功するだろうと。

 予想以上の上達の早さに舌を巻く一方、本人に自覚がないまま焦りが募っているのが心配だ――そう山吹は言っていた。

 おっとりしているようでいて、実のところ負けず嫌いな性格なのだろう。舞の稽古の折にも、その芯の強さを垣間見た。あのときと同じように今も夜更けまで学びを重ねていることを、屋敷の者たちは皆知っていた。

 かつて彼女に厳しい視線を向けていた蘭之介さえ、最近は何も言わず静かに見守っている。結局のところ、誰もが同じ気持ちなのだ。

 贄姫が真剣に己の使命に向き合っているのは喜ばしい。だが、その真面目さゆえに無理をしていないか――心配はそこに尽きた。

 花緒の部屋の前まで来た桜河は、灯の漏れる隙間から中の様子を覗いた。花緒は机に突っ伏したまま、静かな寝息を立てている。

 連日の修練の疲れがようやく出たのだろう。桜河は音を立てぬよう襖を開け、そっと足を踏み入れた。

 机の周りは、可愛らしい部屋の調度品には不釣り合いなほどの書物の山で埋め尽くされている。それを目にするだけで、彼女がここまで積み重ねてきた努力の重みが伝わった。

 止めなければどこまでも突き進んでしまう花緒のひたむきさに、心配と愛おしさが入り混じり、桜河の口もとが自然と和らぐ。

 彼は静かに自身の羽織を脱ぎ、花緒の肩へそっと掛けた。

「……頑張っているな。どうか、無理だけはしないでくれ」

 耳もとで囁くと、花緒は小さく「ん……」と寝言を漏らして身じろぎをした。

 その無防備な姿に、桜河の胸が微かにざわめく。つい目が離せなくなり、彼は無意識のうちに彼女に顔を近づけてしまった。

 穏やかな寝顔。長い睫毛の先に灯の光が淡く落ち、薄紅の唇がかすかに動く。そのあまりの愛らしさに息をすることさえためらわれた。

 気づけば桜河の指先が、花緒の滑らかな頬に触れていた。ひやりとした自分の指に柔らかな熱が伝わり、その感触に胸の奥が微かに震える。

 その瞬間、花緒のまぶたがわずかに開いた。

「……桜河、さま……?」

 まどろみの中で呟く声は、夢と現の狭間で溶けていくように儚かった。

 桜河は意識が現実に引き戻されながら、穏やかに目を細め、微笑を返す。

「すまない。起こしてしまったか? もう少し休むといい。誰よりも、おまえは努力しているのだから」

 優しい声に包まれるようにして、花緒はほっとした笑みを浮かべた。そのまま再び瞼を下ろし、安らかな寝息を立てはじめる。