黒蛇様と契りの贄姫

 「……承知いたしました。ま、まずは、この二冊から……始めてみます」

 声が思ったより上ずり、花緒は慌てて咳払いをしてごまかす。

 桜河は一瞬だけまぶたを伏せ、「ああ」と短く返した。その横顔にも、わずかに赤みが差していた。

 花緒は彼から受け取った二冊を大切に胸に抱き、ひそかな鼓動を感じながら微笑む。そうして二人は、ゆっくりと書庫の蔵を後にした。

***

 それから約一週間。花緒は山吹との特訓で、ひたすら妖力を感じ取る練習を続けていた。

 目を閉じて意識を集中すると、暗闇の中を桜の花びらが一片、また一片と舞い始める。修練を重ねるうちに、その花びらはやがて流れを持つ桜吹雪へと形を変えた。

(この桜吹雪の渦……これが、私の妖力の流れなのだと思う)

 山吹は「全体を捉えられるようになったのは大きな進歩だ」と言ってくれたが、次の段階――妖力を外へ現すことは、いまだ成功していなかった。

(感じ取れても、実体化できなければ意味がない。……操作には形が必要なんだ)

 その日も、花緒は山頂で特訓に臨んでいた。目を閉じて内に舞う桜吹雪を思い描き、それを外へと押し出すように両手を広げる。

(――お願い。私の妖力、応えて……!)

 強く祈りながら目を開くと、足もとから風が吹き上がった。けれど、それは桜吹雪ではなく、山間を通り抜けた自然の風に過ぎなかった。

 花緒の耳に、風の音だけが静かに残る。

(やっぱり……また駄目だった)

 うつむいた花緒は、悔しさを押し殺そうと唇を噛みしめた。

(こうしている間にも、桜河様にご負担がかかっているのに)

 思うようにいかない現実に心だけが先走り、焦りと不安が胸の奥でせめぎ合う。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。常世の人々を、そして桜河様を――もう、何一つ失望させたくない。

 花緒は拳を強く握り、肩で息を整えた。

「花緒ちゃん、焦りは禁物だよ」

 少し離れた場所で見守っていた山吹から、穏やかな声が聞こえた。

「君は確実に前に進んでる。妖力操作は簡単に身につくものじゃないんだ。大事なのは、諦めずに続けること」

「……はい。頭ではわかっているのですが、どうしても気が急いてしまって。何が足りないのか、何がいけないのか、考えても答えが出なくて」

「足りないのは時間だけだよ」

 山吹は投げかけるように言い、ぱんと手を叩いた。

「よし、少し休もう。根を詰めすぎても力は伸びないからね。町に下りて甘味でも食べに行こうか。桜河も誘ってさ」

「え、ええ? い、今ですか? そんな余裕は――」

「だから、焦りは禁物だって言ってるだろう」

 にこりと笑った山吹の手を取る間もなく、風がふわりと巻き起こる。花緒の身体が軽く浮き上がり、気づけば空気の流れに乗っていた。

 山吹は当然のように妖力を操っていた。半妖の彼は妖力が強かったと聞いた。おそらくそう簡単に操作できるようになったわけではなく、長い年月をかけて身につけた技なのだろう。

(……たしかに、気分転換をしたほうがいいかもしれない)

 自分を追い込みすぎて、冷静さを欠いていたのかもしれない。いったん肩の力を抜けば、今まで見えなかったものが見える気がした。

 花緒は決意を胸に、山吹とともに屋敷へと戻った。